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八剱社(浅田)

入り交じってる

読み方はちけん-しゃ(あさだ)
所在地名古屋市浅田町平池29 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・八等級
祭神日本武尊(ヤマトタケル)
アクセス名古屋市地下鉄鶴舞線「赤池駅」より徒歩約23分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日
神紋十六葉菊紋
オススメ度
ブログ記事

けっこう変わってる

 一見すると、ありふれた町中の神社でしかないのだけど、歴史を知ったり神社の様子を細かく見ていくと、なかなか捉えがたいユニークな神社ということが分かってくる。
 この八剱社、思っているより面白いかもしれない。

 現地へ赴くと気づくのだけど、八剱社なのに社殿が神明造になっている。鳥居も神明鳥居だ。
 更にちょっとびっくりするのが、十六葉菊紋が神紋になっているのだ。
 一体これはどういうことなのかと混乱する。
 歴史的に見ると、途中まで八幡だったのに、いつの間にか八劔になって八幡が跡形もなく消えてしまった。
 これもなかなか不思議というか珍しいパターンだ。
 延喜式内社のような古い神社が中世に流行った八幡になり、その後、元の社名に戻すことはよくあるのだけど、ここはそういうのとは違う。
 そもそもここは何神社だったのか。

情報を整理する

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

創建については明かではないが、宝永7年の棟札あり。
明治5年7月村社に列格する。
昭和9年、同56年に社殿を改築する。

 宝永7年は江戸時代中期の1710年に当たる。
 ただ、これだけでは何も分からないので、江戸時代の地誌を見ていくことにする。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の浅田村の項は以下のようになっている。

家数 弐拾五軒
人数 百拾八人
馬 九疋

社弐ヶ所 内 山之神 八幡内ニ観音堂有

 名古屋建中寺支配 古伯持分

 社内壱町九反壱畝弐拾歩 前々除

 家数25軒に対して村人118人となると、一家平均は5人以下なので、これはちょっと少ない。
 全国的な傾向は知らないのだけど、尾張の村でいうと一家に6人くらいのところが多い。
 馬の9頭は村の規模にしては多い方だ。

 神社については山神と八幡があると書いている。
 この八幡が今の八剱社だ。
 1670年時点では八幡だったことが分かる。
 面白いのは村の祢宜でも村中でもなく建中寺支配になっていることだ。
 これもかなり珍しい。
 建中寺は尾張藩2代藩主の光友が父であり初代藩主の義直の菩提を弔うために建てた寺で(1651年)、尾張藩主代々の菩提寺だった。
 名古屋城下にあったその建中寺が遠く離れた浅田村の八幡(八剱)を支配していたというのはどういう事情だったのだろう。
 古伯というがどういう人物か分からないけど、この人物と何か関わりがあったのか。
 社内は壱町九反というから、5,700坪以上の広大な社地を有していたということだ。
 この神社、これだけでも只者じゃないだろうと思う。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。
 寺や城は後回しにしてまずは神社を。

社二ヶ所、覚書ニ、山神・八幡(内観音堂アリ)
社内一町九反一畝廿歩前々除、名古屋建中支配、古伯持分トアリ

庄屋書上ニ、八剣大明神祠境内五反八畝三歩、山神境内六畝廿歩、外ニ田畑松林イツレモ御除地
府志曰、八幡祠八剣祠俱在浅田村

 面白いのは、『張州府志』(1752年)の時点では八幡祠と八剣祠があるといっているのに、『尾張徇行記』では庄屋書上として八剣大明神となっている点だ。
 ネット情報から補足すると、延享二年(1745年)以降の棟札はすべて八剱明神となっているそうだ。
『寛文村々覚書』(1670年頃)では八幡となっているから江戸時代前期までは八幡だったのは間違いなく、途中で八剣が勧請されて、江戸時代中期以降に八剣になったという流れなのだろう。
『尾張志』(1844年)も、「八劔社 山ノ神ノ社二所 この三社浅田村にあり」と書いており、八幡の社名は見られない。
 八剣は熱田の八剣宮から勧請されたはずだけど、そこにどんな事情があったのだろう。
 熱田社(熱田神宮)は明治になって神宮号を得て、明治26年(1893年)に尾張造から神明造に建て替えたのだけど、浅田の八剣はそれに倣ったのか、それ以前からなのか。
 どうして神紋は八幡の三つ巴もしくは二つ巴でも、熱田の五七桐でもなく、十六葉菊紋なのか。
 謎は深まる。

浅田の地名由来と浅井氏

 浅田村の浅田の地名由来について、津田正生は『尾張国地名考』の中でこんなふうに書いている。

淺田村 多□

【山中寬紀日】極めての薄地にて近邊第一の卑損所なればいふなるべし

 ”卑損所”というのは見慣れない言葉で正確な意味は分からないのだけど、良い意味ではないことは確かだろう。
 卑(いや)しく損(そこ)なわれている土地とはどんな土地をいうのか。
 ”極めての薄地”というのもよく分からない。
 文字通り浅い田から来ているとか、麻がとれたからといった説があるようだけど、これらの説は当たってないだろう。地名というのはそんなふうには付かない。
 ”あさだ”という音から来ているのかもしれない。
 もともとは阿佐田かもしれないし、朝田とか麻田とかかもしれない。
 文字を地名と結びつけるとあさっての方にいってしまいがちなので気をつけたい。
 特に古くからある地名は地形からは来ていない。

 浅田には浅井姓の人が多いという話がある。
 戦国武将の浅井長政(あざいながまさ)の子孫を称しているという話もあるようだけど、本拠地は一宮市の浅井(あざい)ではないかと思う。
 浅井は”あさい”ではなく”あざい”と濁ることが多い。
 長久手市の岩作(やざこ)は一宮の浅井から浅井姓の数家族が弥生時代に移り住んだのが始まりという話がある。
 一宮の浅井は古墳密集地区で、延喜式内の石刀神社(いわとじんじゃ)や浅井神社(あざいじんじゃ)もある。
 長久手の石作神社(いしつくりじんじゃ)も延喜式内社とされる。
 日進浅田の浅井姓も、この一族と何か関係があるのではないか。
 ちなみに、浅井長政の家系は物部守屋(もののべのもりや)を祖とするともいわれ、物部は石神なので、そのあたりも何かつながりがあるかもしれない。

寺院と浅田城について

 日進浅田の寺は2つ。ひとつは浄土宗の阿弥陀寺、もうひとつは真宗大谷派の性海寺で、今も現存している。
『寛文村々覚書』に寺の記述はなく、『尾張徇行記』は以下のように書いている。

性海寺 懸所書上ニ、境内六反五畝年貢地、此内四畝五歩ハ清久寺ノ歩数、六反廿五歩ハ添地ナリ、
此寺旧名古屋南寺町修験頭清寿院ニ、真言宗医王山清久寺トイヘル廃寺ノ号ヲアツカリシヲ、延享五辰年願ヨッテ其寺号ヲユツリ受ヶ、浄土真宗ニ改メ、照高山性海寺ト号シ懸所支配寺二創建セリ
後園仮山ヲ築キ藤架従横回縈シ佳園ナリ

 懸所(かけしょ)というのは、滋賀県守山市金森町にある善立寺(ぜんりゅうじ)のことで、その書上(調査報告書)によると、名古屋南町の修験頭の清寿院で真言宗の医王山清久寺という寺号を預かっていて、それを延享5年(1748年)に譲り受けて浄土真宗に改宗した上で、照高山性海寺と号したということらしい。
 名古屋南町というのは名古屋城下防衛たのために作られた寺町のひとつで、南寺町と呼ばれた。今の白川公園から大須のエリアがそれに当たる(西と東にもそれぞれ寺町があった)。
 清寿院は那古野山古墳にあった修験の寺で、明治に廃寺になった(その後名古屋初の浪越公園に)。
 大須商店街にある「清寿院の柳下水」を見たことがある人もいるだろうか。
 かつて名古屋三名水と呼ばれた井戸水で、位置されて保存されている(あとの二つは亀尾志水、と蒲焼町の扇風呂の井水)。

 阿弥陀寺についてはこう書いている。

阿弥陀堂一宇、堂守順正書上ニ、境内四畝三歩村除、是ハ安永七戌年傍爾本村ヨリ薬師堂ヲユヅリウケ、当村源四郎ト云者創建シ、天明六午年願ヨッテ阿弥陀堂ト改号シ、寛政四子年名古屋南寺町阿弥陀寺ノ控ニナレリ

 安永7年は1778年で、傍爾本村(ほうじもとむら)は今の東郷町春木にあった村だ。
 そこから薬師堂を譲ってもらって浅田村の源四郎という人間が創建し、天明6年(1786年)に阿弥陀堂を改号し、寛政4年(1792年)に名古屋南寺町の阿弥陀寺の控えになったといっている。

 性海寺も、阿弥陀寺も江戸時代中期創建といっているけど、それまで浅田村に寺はなかったのだろうか。そんなことはないと思うのだけど。

 浅田城について『寛文村々覚書』は「古城跡壱ヶ所 先年、庭伝左衛門居城之、今ハ畑ニ成ル」、『尾張徇行記』は『張州府志』を引用して「浅田城 府志曰、土人曰、丹羽伝左衛門居之、今為民家陸田」と書いている。
 あったのは八剱社の南あたりで、遺構は残っていない。
 丹羽伝左衛門は岩崎城主・丹羽氏勝の弟という話もあるけど、はっきりしたことは伝わっていない。
 飯田街道沿いに築かれた砦の一つといった位置づけの城だっただろうか。 

浅田の変遷を辿る


(つづく)

作成日 2025.4.17


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