アメノカグヤマ《天香山命》

2020年4月27日

アメノカグヤマ《天香山命》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 天香山
別名 天香久山神、天香児山神、天香山神、天香語山命、高倉下命と同一とも(『先代旧事本紀』)
祭神名 天香山命・他
系譜 (父)天火明命(『日本書紀』)
(母)天道日女(尾張氏系図)
(義母兄弟)宇摩志摩治命
(妃)穂屋姫、大屋津姫(ともに海部氏・尾張氏系図)
(子)天村雲命高倉下(ともに海部氏・尾張氏系図)
属性 尾張氏の遠祖
後裔 尾張氏、海部氏、他
祀られている神社(全国) 彌彦神社(web)、高倉神社、田村神社(web)、他
祀られている神社(名古屋) 尾張戸神社(守山区)

尾張氏の二代目というだけではない

 尾張氏一族とされる海部氏の系図では、祖神の彦天火明命(アメノホアカリ)の子とされるので、尾張氏二代ということになる。
 ただ、それだけではないややこしさがあってよく分からない部分も多い。
 天香山(カグヤマ)と天香語山(カゴヤマ)は同一なのか?
 天香山命=高倉下(タカクラジ)というのは本当なのか?
 越後の彌彦神社(web)祭神の弥彦神が天香山命というのを信じていいのか?
 いくつかのキーワードが絡み合って複雑な様相を呈している。これを紐解くのは容易ではない。

『日本書紀』の一書にちらっと出てくるだけ

『日本書紀』で唯一天香山が出てくるのは第九段一書第六で、天忍穗根尊(アメノオシホネ/オシホミミのこと)が高皇産霊尊(タカミムスビ)の子の栲幡千千姫萬幡姫命(タクハタチヂヒメヨロズハタヒメ)、または火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)の子の千千姫命(チヂヒメ)をめとって生まれたのが天火明命(アメノホノアカリ)と天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギ)で、天火明の子の天香山(アメノカグヤマ)は尾張連らの遠祖と書いている。
 しかし、第九段の本文や『古事記』では瓊瓊杵(ニニギ)と鹿葦津姫(カシツヒメ/木花咲耶姫)との間に火闌降命(ホノスソリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、火明命(ホノアカリ)の三兄弟が生まれたとしており、まずここで混乱が見られる。天火明が瓊瓊杵の兄か子かでは話がずいぶん違ってくる。

『先代旧事本紀』はどこまで本当のことを書いているのか

 更に混乱を招く要因となっているのが『先代旧事本紀』の天孫本紀だ。
 物部氏側から書かれたとされるこの書では、物部の祖とされる饒速日尊(ニギハヤヒ)の名を天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒ)として、饒速日と天火明を同一としている。
 饒速日と天道日女命(アメノミチヒメ)の子の天香語山命(アメノカゴヤマ)は饒速日とともに天降った32人のうちのひとりで、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市あたり)に住み、別名を手栗彦命(タクリヒコ)または高倉下命といったと書く。
 天香山=天香語山=高倉下というのは本当なのか? そうだとすると話がずいぶんややこしくなる。
 高倉下は『古事記』、『日本書紀』ともに熊野の人だといっている。後に神武天皇として即位する神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)が大和を目指す途中、熊野で一行がピンチに陥ると、高天原の天照大神と高木神(高皇産霊尊)は建御雷神/武甕雷神(タケミカヅチ)に救いに行くように命じる。すると武甕雷は、自分が行かなくても国譲りに使った剣(横刀)を降ろせば事足りるでしょうということで、高倉下を通じて神倭伊波礼毘古に届けると一行は目を覚まし、敵はおのずから倒れたと記紀は伝える。
 この剣(刀)を『古事記』は佐士布都神(サジフツ)、または甕布都神(ミカフツ)、または布都御魂(フツノミタマ)といい、『日本書紀』は韴霊(フツノミタマ)とし、『古事記』は石上神宮(web)にあると書く。
 韴霊剣は神武天皇即位以降、宮中で祀られていたのが、第10代崇神天皇7年に勅命によって物部氏の伊香色雄命(イカガシコオ)が大和の山辺郡石上郷(奈良県天理市)に移して祀ったのが石上神宮の始まりと社伝はいう。
 この伊香色雄命は崇神天皇時代に疫病が流行った際、大物主神の子の大田田根子を祭主として三輪山に大物主を祀ったときの責任者でもある。
『古事記』、『日本書紀』は高倉下が天香山命だとは書いていない。ただ、高倉下と武甕雷、尾張には何らかの関わりありそうだ。
 伊弉冉尊(イザナミ)が火の神・迦具土神(カグツチ)を生んだときに女陰にやけどを負って死んでしまい、怒った伊弉諾尊(イザナギ)が迦具土を斬り殺す時に使った十束剣を『古事記』は天之尾羽張神(アメノオハバリ)または伊都之尾羽張(イツノオハバリ)と書いており、尾張との関連が推測できる。『日本書紀』ではこれを稜威雄走神(イツノオハシリ)といっていて、『古事記』は建御雷神は天之尾羽張神の子としている。
 これらの符合が単なる偶然といえるだろうか?
 個人的には天香山命と高倉下は別人ではないかと考えているのだけど確信があるわけではない。
 高倉下について記紀は熊野の人と書いているけど、現在の和歌山県に高倉下関係の神社は少なく、天香山命を祀る神社もほとんどないことからして、高倉下はそもそも熊野の人ではないのではないかとも思う。天香山命ももちろん熊野の人ではない。
 天香語山と天香山が別人とも考えられる。兄弟かもしれないし親子かもしれない。一字違いの兄弟、親子は昔も今もいくらでもいるから、名前が似ているというだけで同一と考えるわけにはいかない。

『日本書紀』に書かれた気になる符合

 符合ということでいうと、『日本書紀』に気になる記述がある。
 熊野でピンチを脱した神倭伊波礼毘古は頭八咫烏(ヤタノカラス)の導きで菟田穿邑(うだのうがちのむら)にたどり着く。
 そこで神倭伊波礼毘古は”高倉山”の嶺に上って国見をする。すると、国見丘の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)がいた。
 そのとき神倭伊波礼毘古の夢に天神が現れて、”天香山”の社の土(はに)を取って天平瓮(あまのひらか)八十枚と嚴瓮(いつへ)を造り、天津神と国津神を祀って強い呪いをかければ敵軍はおのずと従うだろうと告げた。
 ここで高倉山と天香山が出てくるのは意味深だ。天香山は天香久山、天香具山とも書き、畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる古くからの霊山だ。
 ”天香山の社の土”といっているから、神倭伊波礼毘古が大和に来る以前から天香山に何らかの神を祀っていたということだ。名前が同じことからして天香山の社は天香山命ではないのか? 天香山命が祀られていたのか、もしくは天香山命が何らかの神を祀ったのか。
 神倭伊波礼毘古以前の大和は、天津神の邇藝速日命/饒速日命(ニギハヤヒ)と豪族の那賀須泥毘古/長髄彦が治める土地だった。大和に饒速日がいることは神倭伊波礼毘古は東征以前から知っていたという前提になっている。
 饒速日は那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(三炊屋媛)を妻として宇摩志麻遅命(ウマシマジ)が生まれていた。物部氏はこの宇摩志麻遅命を祖としている。
 神倭伊波礼毘古は苦労の末にようやく那賀須泥毘古に勝って、饒速日は神倭伊波礼毘古に従ったというのが記紀の大まかな流れだ。
『先代旧事本紀』は、饒速日尊の天孫降臨に従った32人のうちのひとりとして天香語山命の名を挙げていることを前にも書いたけど、それってどういうこと? と思ってしまう。饒速日=天火明、天香語山=高倉下で、天香語山は饒速日に従って天降り、天香語山は熊野の高倉下のことで、饒速日の子供に宇摩志麻遅がいるとなると、話の辻褄は合うのだろうか。頭がこんがらがってしまう。

天香山の人間関係

 天香山命の系譜について整理しておきたい。
 海部氏勘注系図(籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記)は、海部氏初代は彦天火明命(アメノホアカリ)で、天火明が高天原にいるとき天道日女(アメノミチヒメ)をめとって生まれたのが天香語山命としている。
 この天道日女は大己貴神(オオナムチ)の娘というからまたやっかいだ。別名として屋乎止女命、神屋楯比売、多岐津姫、屋乎止女命、瀬織津姫などとも呼ばれる天道日女はキーパーソンのひとりに違いなく、この系図が本当であれば、天火明・天香語山は物部氏や出雲、大和、宗像三女神ともつながることになる。
 天香語山=天香山としていいのかどうかという問題もあるけど、いったん保留する。
 天香語山がめとったのが穂屋姫(ホヤヒメ)で、これは天火明と佐手依姫命との間の子というから、天香山にとっては母違いの妹に当たる。
 佐手依姫の別名が市杵嶋姫命、息津島姫命、日子郎女神というから、混乱は深まるばかりでもはや文章だけでは説明できない。
『古事記』、『日本書紀』では宗像三女神は天照大神と素盞男命(スサノオ)との誓約(うけひ)で生まれたとしているのだけど、海部氏の系図ではまったく別の婚姻関係を伝えているということになる。それゆえ、海部氏勘注系図は長く秘されて表に出ることがなかった。
 勘注系図では母違いの弟として可美眞手命(ウマシマデ)を記している。これは『古事記』、『日本書紀』の宇摩志麻遅命/可美真手命(ウマシマジ)のことだろう。記紀では邇芸速日が那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(三炊屋媛/鳥見屋媛/長髄媛)をめとって生まれた子となっているから、そうなるとやはり邇芸速日は天火明のこととしないと辻褄が合わなくなる。ただ、それでもいろいろ矛盾はある。
 天香語山と穂屋姫との間に生まれたのが尾張氏三代とされる天村雲命(アメノムラクモ)だ。
 ここで”アメノムラクモ”が出てくる。アメノムラクモといえば、日本武尊命(ヤマトタケル)を通じて尾張氏にもたらされた草薙剣の別名、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を連想させる。
 それはいったん置いていて、更に混乱を呼ぶのが天村雲命の弟として熊野高倉下を載せていることだ。
 高倉下といえば『先代旧事本紀』では天香語山の別名となっているのに、ここでは天香山の子供になっている。それも本流ではなく別流で、母は大屋津姫とする。
 大屋津姫といえば、『日本書紀』一書では素戔嗚尊の子で、五十猛命の妹として出てくる。
 もはや何が本当で何が本当ではないのか分からなくなってくる。
 ただひとつ注意しなければならないのは、海部氏というのは尾張氏の本家ではないという点だ。籠神社(web)の海部家はうちこそ本流と主張するかもしれないけど、尾張氏はやはり尾張氏で、熱田社(熱田神宮/web)の社家を務めた尾張氏(のちの田島家など)も尾張氏の本流ではない。尾張氏本家には本家としての系図があるはずだ。そしてそれはおそらく表には出ていない。
 尾張氏から分かれた家としては、伊福部氏、六人部氏、津守氏などがある。
『新撰姓氏録』には天香山命(天賀吾山命)の後裔として、左京尾張連、山城国尾張連、大和国尾張連、大和国伊福部宿禰、河内国次田連(吹田連)、和泉国丹比連、和泉国石作連、和泉国津守連、和泉国網津守連、和泉国椋連、和泉国綺連を挙げている。

彌彦神社の祭神として

 越後一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ/web)の祭神は天香山命となっている。
 尾張氏二代のはずが、どうして越国(こしのくに)で祀られるようになったかというと、神武天皇即位4年に勅命によって越国平定を命じられ、地元の民に漁業や稲作、製塩、酒造などを伝えたため、のちに弥彦山に祀られて伊夜比古神と呼ばれたというのだ。
 ここでいう天香山命が神倭伊波礼毘古に布都御魂剣を届けた高倉下のこととするなら、話の流れとしては不自然ではないのだけど、天香山命が尾張氏二代だとすると、尾張の開拓を放り出して越国あたりで開発に勤しむというのはどうなんだろうとも思う。
 石見国一宮の物部神社(web)の社伝は興味深い内容を伝えている。
 それによると、神武天皇が大和を平定したあと、宇摩志麻遅命(ウマシマジ)は神武天皇の命を受けて天香具山命と共に物部の一族を卒いて尾張、美濃、越国を平定し、天香具山命は越国に残り、宇摩志麻遅は播磨、丹波を経て石見国に入り、都留夫、忍原、於爾、曽保里を平定してそこで没したというのだ。
 海部氏勘注系図では、天香語山命(天香具山命)と可美眞手命(宇摩志麻遅)は母違いの兄と弟となっているから、兄弟で日本各地を平定したということになるだろうか。
 勘注系図は、高天原にいるとき天火明=饒速日の子として天香語山が生まれ、大和で可美眞手が生まれたといっている。そこへ神倭伊波礼毘古がやって来て饒速日(天火明)は国譲りをした。その流れでいうと、大和を開拓したのは天火明=饒速日ということになる。それ以前の”高天原”にいるとき天香語山が生まれ、天火明と天香語山(天香山)は尾張氏の祖だという。だとすれば、高天原は尾張国のことということにならないだろうか? それはちょっと飛躍し過ぎだろうか。
 しかし、神倭伊波礼毘古、天火明、天香山、宇摩志麻遅のダイナミックな動きを見ると、彼らの行った開拓や国造りというものは相当広い範囲のことで、我々が思うような県単位のものではなく、大まかに地方という概念はあったにせよ日本列島全体をひとつの”クニ”と見ていたと考えるべきだろう。彼らの頭の中には当然ながら国境(くにざかい)といったものはない。
 より現実的な視点で考えると、神武天皇が大和で即位したあと、地方に勢力を広げるために中央から派遣された人物がいたのだろう。それが天香山や宇摩志麻遅だったかもしれないし、その関係一族だったかもしれない。あるいはその子孫だっただろうか。
 それぞれの聖地にそれらの人物を祖神として祀ったという話に無理はない。弥彦山は古くから聖山として信仰の対象になっていてもともとは別の神が祀られていたという話があるけど、それもまた十分ありえることだ。
『万葉集』にも弥彦山や弥彦神について詠まれている。
「弥彦 おのれ神さび 青雲の たなびく日すら 小雨そほ降る」作者不詳
 宇摩志麻遅命は石見国の八百山に葬られたと伝わる。八百山もまた神体山とされた霊山だ。
 彌彦神社や物部神社の社伝はまったく作り話ではないはずだ。石上神宮、物部神社、彌彦神社が、宮中祭祀として行われる鎮魂祭を行っていることからもそれはうかがえる。

持統天皇の隠されたメッセージとは

『万葉集』の天香具山に関する歌で気になるものがある。持統天皇が詠んだとされる次の歌だ。
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」
 ここでいう天香具山は大和三山の天香具山で、その天香具山に白い衣が干してある晩春の風景を詠ったものというのが表面的な解釈なのだけど、もちろんそんなはずはない。そんな他愛のない歌を持統天皇が詠むはずもないし、『万葉集』が採用するわけもない。ここには二重、三重の意味が込められている。当時の人たちはこれを聞いて、なるほど上手いこというと感心したに違いない。
 そもそも天香具山は聖なる山でむやみに人が立ち入れる場所ではなかったはずで、そこに洗濯物を干すなんてことはありえない。ひとつには、羽衣伝説を意識して詠ったものには違いない。
 羽衣伝説は三保の松原など、日本各地に伝わる伝承で、天から降ってきた天女が水浴び中に羽衣を盗まれてしまって、返してもらうために盗っていった男の妻になり、子供を生むものの、羽衣を見つけて天に戻っていくというのが大まかな筋だ。
 ただ、丹後国に伝わる羽衣伝説は少しパターンが違う。
『丹後国風土記』逸文に奈具社の由緒として天の羽衣伝説についての記事がある。
 ここでは天女の羽衣を隠したのは子供のない老夫婦で、天女は仕方なくその老夫婦の家で暮らすことになり、万病に効く酒を作っていたのだけど、やがて老夫婦に追い出されてしまい、たどり着いた奈具村で亡くなってしまう。この天女こそ豊受姫(トヨウケヒメ)で、奈具社に祀られたというのだ。
 ここからがまた話がややこしくなるので、整理しながら書いていきたい。
 丹後の国一の宮といえば、海部氏系図の海部氏が往古から現在に至るまで社家(丹波国造家/祝部)を務めている籠神社(このじんじゃ)だ。
 籠神社の由緒によると、現在奥宮の眞名井神社がある場所は眞名井原と呼ばれ、そこに匏宮/与佐宮/吉左宮/与謝宮(よさのみや)と称して豊受大神を祀ったのが始まりという。
 第10代崇神天皇のときに疫病が流行り、宮中で祀っていた天照大神(鏡)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)が大和国笠縫邑に移して祀り、その後、匏宮に移して4年間、豊受大神と天照大神を一緒に祀っていたと社伝は伝える。
 天照大神は第11代崇神天皇のときに皇女の倭姫が伊勢に移し、豊受大神は第21代雄略天皇のときに伊勢の山田原に移され、養老3年(719年)に匏宮を現在地に移して籠宮と名を改め、彦火明命を祀り、奥宮として眞名井神社で引き続き豊受大神を祀ったという(豊受大御神が移されたあと匏宮では彦火火出見尊を祀っていたらしい)。
 こういった経緯から籠神社は豊受大神と天照大神両方の元伊勢を称している。それだけなら特に問題はないのだけど、ここに天火明と天香山が絡んでくるから事情は複雑になる。
 そもそも最初に眞名井原に豊受大神を祀ったのが彦火明命だという話がある。
 一方で勘注系図は、彦火明命の命を受けた息子の天香語山が豊受大神を祀る場所を探して丹波国の凡海息津嶋(若狭湾に浮かぶ冠島に比定)から眞名井原に至り、この地に匏宮を建てて豊受大神を祀ったとしている。
 これらの話を信じるのなら、海部氏・尾張氏の祖である天火明(彦火明)と天香山(天香語山)が祀っていたのは豊受大神ということになる。その豊受大神こそが海部氏・尾張氏の本来の祖神という言い方ができることになる。
 では、豊受大神とは何者かということになるのだけど、この正体がはっきりしない。『古事記』では火の神軻遇突智(カグツチ)を産んで女陰に火傷をして苦しんでいるときに尿(ゆまり)から水の神・弥都波能売神(ミズハノメ)が生まれ、次に和久産巣日神(ワクムスビ)が生まれ、豊宇気毘売神(トヨウケビメ)は和久産巣日神の子で、外宮の度相(わたらい)に鎮座していると書く。
『日本書紀』は豊受大神について一切記していない。『日本書紀』が編纂された奈良時代初期は当然ながらすでに豊受大神は伊勢で天照大神とともに祀られており、天皇家にとっても重要な神となっていたはずなのに、その神について一切口をつぐんでいるというのはどう考えても不自然だ。そこには必ず理由がある。
 豊受大神を伊勢で祀るようになった経緯についても『日本書紀』は何も語らない。それについて書いているのは外宮の由緒について記した『止由気宮儀式帳』で、雄略天皇の夢に天照大神が現れて、自分ひとりでは食事もままらないので丹波国の比治の眞奈井にいる御饌神(みけつがみ)の等由気太神(トヨケオオカミ)を近くに呼んでほしいというのでそうしたとある。
 この話を『日本書紀』に書かれたものと思い込んでいる人も少なくないのではないかと思うけどそうではない。『日本書紀』は豊受大神に関しては完全に黙秘している。
 豊受大神の正体を推測するのは難しいのだけど、海部氏・尾張氏が祀っていたというのであれば、それは重要な鍵を握る人物ということになる。よく知られている神の別名とも考えられるけど、隠された神ともいえる。
 豊受大神は豊宇気毘売神とあることからも女神だ。丹後の羽衣伝説では天女とされていることからもそれはうかがえる。たぶんそこにひとつ大きなヒントがある。おそらく何らかの形で宗像三女神も関わってくるはずだ。
 雄略天皇はそれまでの地方豪族が割拠する時代から天皇中心の中央集権制へと強烈に推し進めた天皇とされる。天皇候補の皇子たちを次々に暗殺して即位した天皇でもあり、様々な面で強権を発揮した。地方豪族にいうことを聞かせるために彼らの神を奪った可能性は充分にある。
 天火明が天孫瓊々杵と兄弟というのが本当であれば、饒速日=天火明一族と瓊々杵=天皇家一族との融合がここで図られたという見方もできるかもしれない。
 饒速日・天火明・海部氏/尾張氏はもうひとつの天皇家だったという見方でもできるのではないかと思う。
 この流れは第40代天武天皇・第41代持統天皇まで続き、そこで『古事記』、『日本書紀』が編纂され、それまでの歴史が大きく書き換えられることになる。
 ここまで見てきて、もう一度、持統天皇が詠んだ歌を読んでみてほしい。
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」
 非常に意味深だと思わないだろうか。
 衣が象徴しているのが天女の羽衣で、天香具山は天香山だとすると、春が過ぎて夏が来るというのは何をいわんとしているのだろうか。あたなは持統天皇が仕込んだメッセージを読み解くことができるだろうか。

尾張国における天火明・天香山親子の痕跡

 天火明は尾張氏初代、天香山は尾張氏二代とされながら、尾張国に天火明・天香山親子の痕跡はあまり残っていない。
 尾張国一宮の真清田神社(web)は天火明命を祀っているものの、明治以前は別の神(国常立尊や大己貴命など)を祀っていたともされる。
 尾張国二宮の大縣神社(web)の祭神は大縣大神としていてはっきりしない。この地を開拓した尾張一族ともいう。
 尾張国三宮が熱田神宮で、祀っているのは草薙剣に宿る天照大神としている。古くは日本武尊命を祀ったともいうも、ここもはっきりしない。
 通常、一宮制度といえば律令時代に派遣された国司が参拝するために定められた制度とされているのだけど、尾張国の場合は例外かもしれない。尾張一の格式を持つ神社である熱田神宮が三宮というのはやはり不自然だ。
 初代の天火明が一宮で、三宮で祀られる草薙剣こと天叢雲剣(アメノムラクモ)が尾張氏三代の天村雲命(アメノムラクモ)を象徴しているとすれば、二宮の祭神を天香山命とすれば辻褄が合う。辻褄が合うからといってそれが事実とは限らないのだけど、そんな推測も成り立つ。
 その他、名古屋で天香語山命を祀る神社としては、名古屋最高峰の東谷山山頂に鎮座する尾張戸神社がある。ここでは天火明と建稲種命も一緒に祀られており、宮簀媛(ミヤズヒメ)が創祀したという伝承がある。
 個人的な印象でいうと、天香山は尾張国では暮らしていなかったんじゃないかと思う。足跡らしいものがまったくといっていいほど残っていない。生まれたのは高天原=尾張国だったとしても、早くに大和に移ったとも考えられる。越国を開拓したという話は案外事実なのではないか。その子の天村雲は九州に多くの伝承を残している。

”カグ”とは何か

 最後に天香山の名前について考えてみる。
 何故、香山は”カヤマ”ではなく”カグヤマ”なのか?
『日本書紀』の神武東征のところで、天香山の社の土で天平瓮を作って天津神・国津神を祀ったという話が出てくると書いた。その部分で「香山は介遇夜摩(カグヤマ)と読みます」とわざわざ注を入れている。だから、大和三山の天香山は”かぐやま”といっていたことが分かる。天香山命もやはり”カグヤマ”で間違いないのか。
 しかしそれならどうして天香山と天香語山が混在しているのか。”カグ”と”カゴ”では意味がぜんぜん違ってくる。
 ”カグ”で思い浮かぶのが火之迦具土神の”カグ”ツチだ。ツチは霊者という意味で、この場合の”カグ”は”赫く”とする解釈が一般的だ。赤いとか輝かしいといった意味だ。
 それでいうと、父の天火明には”火”が入り、その子の天香山には”赫”が入り、どちらも日や輝き、太陽といったイメージができる。天火明が饒速日のことだとすると、天照国照で、天と国を照らすという名を持つ。
 これが”カゴ”となるとまた事情が変わってくる。”カゴ”の意味はよく分からないのだけど、漢字で書くと”籠”となる、そうなると籠神社(このじんじゃ)につながる。
 籠は山幸こと火遠理命/彦火火出見尊(ホホデミ)がなくした兄の釣り針を探すために綿津見神の宮に行くときに乗ったもので、塩土老翁(シオツチノオジ)が無目籠(まなしかたま)を作って火出見を乗せたと『日本書紀』にある。
 籠目紋(かごめもん)といえば六つ目編みなどの模様で、イスラエルの国旗にも描かれる六芒星のことだ。
 籠は古くから竹で編むことが多かった。竹といえば竹取物語の「かぐや姫」も”カグヤ”だ。
 天香山は”カグ-ヤマ”ではなく”カグヤ-マ”かもしれない。
 大和三山の天香山が霊山だったのは、神武東征の場面だけではなく天照大神の天岩戸隠れのところでも出てくることから知ることができる。
 天照大神に出てきてもらうために天児屋(アメノコヤネ)と太玉(フトダマ)は天香山から真榊(五百箇の眞坂樹)を掘り出してきて、そこに八坂瓊の五百箇御統と八咫鏡、青和幣と白和幣を掛けて祈ったと『日本書紀』はいう。
 天香山について『伊予国風土記』逸文は、天から山がふたつに分かれて落ちてきてひとつが伊予国(愛媛県)の天山(あめやま)になり、もうひとつが大和国の天加具山になったと書いている。
 よく似た話が『阿波国風土記』逸文にもあり、そこではアマノモト山という大きな山が阿波国(徳島県)に落ちてきて、それが砕けて大和に降ったのが天香具山といっている。
 天から降ってきたのは山ではなく人と考えるのが自然だ。だとすると、天香山という山名と人名の一致が単なる偶然とは思えない。
 山にせよ人にせよ天香山は固有名詞ではなくもっと普遍的な意味を持つ名称だったかもしれない。
 山名と人名とどちらが先にせよ、天香山命というのは我々が考える以上に重要な人物だったのではないだろうかという思いを今強くしている。
 上で書いてきたことは時代を超えてすべてつながっている。私たちが知っていることはほんの一部にすぎない。それらも多くは知っているつもりでいるだけだ。

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