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神明社(米野木)

米の木とは?

読み方しんめい-しゃ(こめのき)
所在地日進市米野木町小馬場39 地図
創建年不明
旧社格・等級等十一等級・旧指定村社
祭神天照皇大神(アマテラス)
豊受大神(トヨウケ)
素盞鳴命(スサノオ)
アクセス名鉄バス「宮西」より徒歩約2分
駐車場あり
webサイトwebサイト(白山宮公式サイト内)
例祭・その他例祭 10月第2日曜日(旧10月17日)
神紋
オススメ度
ブログ記事

米野木とは

 かつての米野木村(こめのきむら)の氏神。
 米野木とは何かというのがやはり気になるところだ。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』でこんなふうに書いている。

米之木(こめのき)村 支村一 三本木(サンホンき)

 正字小梅の木の約る也支村の名は俗語にして正字なり
【近藤利昌日】山口村より三本木までの山連列を三ヶ嶺(サカみね)といふその滴水束は堺川へ落西北は矢田川へおち西南は天白川へ落る也

 米の木は”小梅の木”の略というのが津田正生の考えだけど、本当だろうか。
 確かに日進には梅森など梅の付く地名があり、梅が鍵を握っているらしいのは確かなのだけど、小梅の木から米野木に転じたというのはちょっと信じがたい。
 かといって、”お米”の米から来ているとも思えない。
 ”コメ”の音が何かを表しているのだろうけど、何か思いつくわけではない。

神明ファミリー?

 祭神は天照皇大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケ)、素盞鳴命(スサノオ)になっている。
 この組み合わせはありそうでありそうで意外とない。
 そもそも、天照大神と豊受神を一緒に祀っているところも少ないし、そこに素戔嗚尊が入るとなると、かなり珍しいと思う。
 最初からそうだったのか、途中でそうなったのかは分からない。
 江戸時代に入って創建された新しい神明ではないので、時代とともに変化していった可能性が高そうだ。
 もともと神明として創建されたものではないかもしれない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は明らかでない。明治五年、村社に列し、同四十年十月二十六日、供進指定社となる。
大正三年七月二十三日に合祀の天満社は寛政八年(一七九六)当村の武田要右ヱ門が三州岩津天満宮の分霊を受く
他に境内社として九社を合祀した。

 白山宮の公式サイト内にある米野木神明社の由緒はもう少し詳しい。

創建は明らかではないが、慶長12年(1608)の社殿再興の棟札があり是よりかなり古い時代の創建であると考えられる。
境外社に洲原社(米野木駅北)、御嶽社があり、
合祀の天満社は寛政8年氏子の山田要右エ門が岡崎の岩津天神の御分霊を請けてきた来たものである。
明治5年、村社に列し、同四十年十月二十六日、共進指定社となる。
猿投警護祭りの際、近郷の行列の集合場所、「合宿」として江戸時代より有名で、先頭争いで度々諍いが起こったと記録に有る。
この様な歴史も有り、日進市で唯一近年、馬塔(オマント)が復活し保存会に依り馬具が大切に保存されている。

『日進町誌』はこんなことを書いている。

村内の天白川北岸に芦の生い茂った柳が淵という沼地があって、その岸に榎宮という小祠があり、ここが当社の旧地であると『村誌』は記しているが信憑性は薄い。
慶長十二年十一月、社殿再建の棟札があると、やはり『村誌』は記しているが、現在、見当たらない。
『寛文覚書』には「神明」と見え、「当村長大夫昌林寺持分」と見える。
長大夫は山田氏、昌林寺は本亮院の旧称である。
現在、延宝五年以降の棟札が残されているが、それらには、祢宜・神主としての山田長大夫の名のみで、昌林寺(本亮院)住職の名は全く見えない。
明治五年、村社に列せられ、同四十年、神饌幣帛料供進神社に指定された。

『村誌』というのは『日進村誌』のことだろうけど(鶴舞図書館にあるものの貸出禁止になっていて確認できていない)、それには柳が淵という沼のほとりに榎宮という小祠があって、それが米野木神明の旧地と書かれているけど、信憑性は低いと『日進町誌』の編集者はいっている。
 しかし、私はあり得る話だと思う。柳が淵というのがどこなのかは分からないのだけど、榎宮という呼び名からして榎の木があったのだろう。柳が淵からすると柳もあったかもしれない。
 水神といえば龍神を連想するし、柳は”りゅう”とも読む。
 龍神祠が発展したものが後の時代に神明となったとしても不思議はなく、少なくとも可能性として頭に入れておいてもいいのではないか。

江戸時代の地誌に見る米野木

 江戸時代の地誌で米野木村と神社がどう書かれているかを順番に見ていく(寺と城は後回し)。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

米之野木村 鳴海之庄

家数 五拾六軒
人数 六百拾七人
馬 三拾六疋

社 四ヶ所 内 神明 権現 山之神弐社
 当村長大夫昌林寺持分

 家数が56軒で村人が617人というのはけっこう大きな村だ。
 地域差はあっただろうけど、全国平均では一村400人くらいだったとされる。
 馬が36疋(頭)と多いのは、近くの鳴海宿や朝鮮人が来た際に馬を出していたからだ。

 神社は神明、権現、山神2社で、神明が米野木神明社で、権現は現在の洲原社のようだ。
 山神は合祀されて残っていない。

続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。

社四ヶ所 覚書ニ神明・権現・山神二社、当村長太夫昌林寺持分トアリ
祠官山田長太夫書上ニ、氏神神明祠・御鍛神祠・境内一町八反外ニ田七畝共ニ前々除
山神二社、境内一ツハ東西三十四間南北廿二間、一ツハ東西二十四間南北三十二間、共ニ前々除
春日明神祠境内二反五畝十八歩、三狐子祠境内一畝、八幡祠境内十八歩、イツレモ村除

此村ハ藤枝村ヨリツツキ伊奈街道筋ニアリ、小百姓ハカリニテ貧村ナリ、四瀬戸ニ分ル、西ウラ組中組町組河原組ト云、一村ツツキ也、此村農事ヲ専ラ渡世トス、又街道ノ傍ニ小原ト云所アリ、是中組ノ中ヨリ引移民戸少シアリ、本郷ヨリ十町ホトヘタテリ、又支邑三本木新田ハ、本郷ヨリ二十町ホト隔街道筋ニアリ、民戸余程アリ、三本木ヨリ三州御境目マテ十二三町ホトアリ、御境ラヒロクテト云

 山田長太夫は棟札にも名前が見られる米野木村の社人で、その家の書上には神明の他に御鍛神祠が載っていたようだ。
 これは洲原社のことなのか、別の社(祠)なのか。
 その他、春日明神祠、三狐子祠、八幡祠もあったようで、前々除ではなく村除になっているので江戸時代に入ってから祀られたものかもしれない。

 村は西ウラ組、中組、町組、河原組の4つに分かれていたことと、三本木はもともと三本木新田で、米野木村の支邑(邑)の扱いだったことが分かる。
「中組ノ中ヨリ引移民戸少シアリ、本郷ヨリ十町ホトヘタテリ」は今の柿ノ木島のあたりだろうか。もしくは、仲大原のあたりか。

 最後に『尾張志』(1844年)も見ておく。

 神明ノ社 境内に鍬ノ神ノ社あり是を村の氏神とす
 春日ノ社 八幡ノ社 直會(ナホラヒ)といふ地にあり 山ノ神ノ社三所 社宮司ノ社

 以上ともに米の木村にあり

『尾張徇行記』にある御鍛神祠はここでいうと、神明境内社の鍬神社のことかもしれない。
 八幡は直會という場所にあるというのが気になるところで、春日社、山神が3社、社宮司もあると書いている。
 社宮司は三狐子祠のことだろうから、山神以外の顔ぶれは『尾張徇行記』と変わらない。

今昔マップで見る米野木

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、米野木集落の様子が見て取れる。
 本郷に当たるのは現在の米野木交差点の西側で、榎坪、仲田、福成のあたりだ。今もここに家が固まって建っている。
 神明があったのは北の瀬戸の更に外れの北側だ。北に広がる丘陵地の麓から少し上がったあたりに鎮座する。
 集落の南を東から西へ天白川が流れ、川の南は手つかずの丘陵地だった。
 集落の中を通っていた伊那街道(飯田街道)は、県道58号名古屋豊田線として残っている。
 名鉄豊田線の米野木駅があるあたりはまったくの未開の地で、米野木村の村域だったのかどうか。
 愛知用水の調整池である愛知池(東郷調整池)ができたのは昭和36年(1961年)なので、当然ながらこのときはまだ描かれていない。
 その後の米野木集落周辺の発展はゆるやかで、現在も多くの田んぼが残り、町中といった風景ではない。
 昭和54年(1979年)の名鉄豊田線開通を機に、天白川南の丘陵地が宅地化されて団地や住宅がたくさん建てられ発展していった。

米野木の寺と城

 神明社の少し東に本亮院(ほんりょういん/地図)が、その南に薬師寺(地図)という寺がある。いずれも曹洞宗の寺院だ。

『寛文村々覚書』にはこうある。

禅宗 愛知郡藤嶋村龍谷寺末寺 久巖山昌林寺
 寺内壱反歩 前々除

薬師堂壱宇 右龍谷寺末寺 義悅坊
 寺内弐畝拾歩 前々除

阿弥陀堂壱宇 右義悦坊持分
 寺内三畝拾歩 前々除

 久巖山昌林寺が後の本亮院で、薬師堂ともに前々除となっているので江戸時代以前からあったことが分かる。
 阿弥陀堂は今の米野木にはないようなので、廃寺になったか他へ移ったかしただろうか。

『尾張徇行記』は以下の通り。

本亮院 曹洞宗号竹渡山、藤島村龍谷寺ノ末寺也、当寺書上ニ、昔時久厳山昌林寺ト号シ、境内一反御除地、開山満嶺和尚寛永十五丁丑年遷化ス、此寺へ渡辺半蔵室本亮院ノ庇恩アルニ因テ、乃寺号ヲ本亮院下改ム、是天明三卯年ナリ

当寺控洲原祠境内三反燈明田五畝共ニ御除地ナリ

薬師寺 府志曰、曹洞宗、属藤島龍谷寺、界内有天王祠
当寺書上ニ境内二畝前々除、草創ノ年曆不知
覚書ニハ薬師堂一宇龍谷寺末寺、義悅坊寺内二畝十歩前々除トアリ、寛文年ノ後薬師寺ト改
当寺控、天王子安神位守神三社

薬師寺控、阿陀堂境内三畝十歩前々除
覚書ニハ、此堂義悅坊持分トアリ、除地上ニ同シ

 本亮院の開山を寛永15年(1638年)としているけど、前々除になっているのでそれは違うのではないか。
 洲原祠は本亮院の持分だっただろうか。
 薬師寺の中に天王祠の他、子安神と位守神の祠があると書いている。

 城については米野木城があったという伝承だけで、詳しいことは伝わっていない。
『尾張徇行記』は「古城跡一区、熊野薮ト云所ニアリ、城主不詳、其墟上畠四畝十九歩アリ」と書いている。
 熊野藪というのが引っ掛かるというか気になるところで、熊野神に関係がある土地とすれば古いかもしれない。
『尾張志』はこう書く。
「市場といふ地の民家の西のはてに属たる地にて此處の字を熊野藪といふなり東西十六間南北十四間はかりあり南の方に竹藪二間幅東西十六間に直れり是を熊野藪といふ故しらす此外は皆畠なり城主知かたし地方覺書に其墟上畠四畝十九歩ありといへり」
 どうして熊野藪と呼ぶか分からないし、城主についても伝わっていないとしつつも、そこに城があったらしいとはいっている。

『日進町誌』は『日進村誌』を引用しつつ次のように書いている。

『村誌』はこれらについて次のように述べている(典拠不明)。

一説に熊野大権現を祀りて殷盛を極め、市など立ちしと。故に市場、直来等の地名あり。中世、此権現は他へ移れりとなり。又熊野権右エ門之に居れりと言う。尚、一説に武田勝頼の男武田五郎(幼名)の来りて住せしとも云う。

なお、『丹羽軍功録』には砦としている。その址地は、字仲田の町立東部保育園の東半であると言われている。

 東部保育園の東あたりが伝承地で、東部福祉会館の敷地内(地図)に石碑が建っている。
 この場所は集落の西の街道沿いで、戦国時代ここに城を築いたというのは違和感がある。あったとすれば、城と呼べるような規模のものではなく、街道沿いの見張りと守りを兼ねた砦程度のものだっただろうか。
 熊野権現を祀っていたというのは見逃せない情報で、これも充分あり得る話だ。
 武田勝頼の子云々というのは突飛すぎて信じがたいのだけど、そういう話があるということは何らかの根拠があるということで、まったく無視していいわけではない。
 尾張と武田は一般的に考えられているよりも縁がある。

小さな情報

 現代までに伝わっている歴史は全体の中の数パーセントかそれ以下でしかない。
 こうしてひとつの神社について集められるだけ情報を集めてもたかが数百字程度にしかならない。
 あらためて言うまでもなく、実際の情報はその数百、数千、数万倍ある。
 言い方を変えればほとんど何も分からないということだ。
 だからこそ、ほんの小さな情報でも大事にしなければと思っている。
 地誌の中に何気なく書かれた言葉だったり、地名だったり、誰かの想像だったりといったものだ。
 出典も定かではなく根拠が薄いという理由で切り捨ててしまっていいわけではない。
 今回でいうと、柳が淵のほとりにあった榎宮が神明の元地だとか、熊野藪に熊野権現が祀られていたとか、八幡があったのが直會という土地だったといったような部分だ。
 これらは重要な手掛かりになり得る情報だ。
 わずかな情報の点と点をつないで勝手なストーリーを描くことは間違いかもしれないけど、想像し、推測し、検討することは無駄ではない。
 そんなささいな情報を提供することが当サイト、名古屋神社ガイドの役割だと思っている。
 私が何かの答えを持っているわけではない。ただ、ヒントとなり得る情報を集めて並べているだけだ。
 このサイトがいつまでネット上に存在するかは分からないけど、後に続く人たちが更に追求し、真相に迫ってくれることを希望する。

作成日 2025.6.10


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