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白山神社(狩宿)

狩宿は何を意味するのか

読み方はくさん-じんじゃ(かりじゅく)
所在地尾張旭市仮宿町3-143番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十三等級
祭神菊理姫命(キクリヒメ)
大山津見命(オオヤマツミ)
アクセス名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約30分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日(変更している可能性あり)
神紋
オススメ度
ブログ記事愛知県尾張旭市狩宿の白山神社

たぶん重要神社

 尾張旭市エリアの白山というと、かつて稲葉村の白山林(はくさんばやし)で祀っていた白山社が重要な社だった。
 その地区が”本地”(ほんじ)と呼ばれていることからしても、その地を治めていた一族の拠点だったろうし、白山を祀っていたことは重要な意味を持っている。
 稲葉の白山は神亀年間(724-729年)に創建されたという伝承を持つ古い神社だ。実際はもっと遡ると思う。
 その白山は明治の末に一之御前神社に合祀されていったん姿を消すのだけど、昭和になって本地ヶ原神社として復活した。そのあたりの詳しい経緯については本地ヶ原神社のところで書くことにする。

 稲葉の白山と狩宿の白山はおそらく何らかの関係がある。稲葉の白山から移したものかもしれないし、姉妹社のようなものかもしれない。逆に狩宿の白山の方が古い可能性もなくはない。
 狩宿の白山社について分かっていることは少ないのだけど、個人的にはかなり重要な神社のような気がしている。

まずは情報を整理してみる

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

「創建は明かではないが、天正2甲戌年(1574)8月に当村の城主林紋介源為社傳を造営し、寛文12壬子年(1672)8月18日と延享2乙丑年(1745)12月、再建の棟札がある。
 明治5年、村社に列格する。同43年9月15日、字前田の山神社を本社に合祀した。
 昭和34年9月、伊勢湾台風により本殿大破倒木多数あれど御修理、境内林の造林計画を実施、同36年10月、拝殿を改築、同41年11月、社務所を改修、同49年10月、拝殿を修造瑞垣を整備、同52年4月、祭器庫を建設、同57年、本殿を改築、多年の計画を完了造林も成功する。」

『愛知縣神社名鑑』

 瀬戸川を越えた西の瀬戸川村や井田村の神社が南北朝時代の終わりの創建という言い伝えがあるのに対して、こちらは不明となっているということは、かなり古い可能性が高い。
 ここから分かるのは、戦国時代の天正2年(1574年)に狩宿村の城主だった林紋介源為という人物が社殿を造営したことと、江戸時代の寛文12年(1672年)と延享2年(1745年)に再建した棟札があるということだ。

 続いて江戸時代の書を見てみる。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の狩宿村の項はこうなっている。

家 拾三軒
人数 六拾五人
馬 四疋

社三ヶ所 内 白山 山神 県神
瀬戸村祢宜 市太夫持分

社内三反四畝六歩 前々除

『寛文村々覚書』

 家が13軒で村人が65人なので、村の規模としては小さい。
 山神は明治43年(1910年)に白山社に合祀されたと『愛知縣神社名鑑』にあるのだけど、県神(あがたがみ)もあったようだ。
 これは瀬戸川村にあった”あがたぎ”(縣木の森)との関連が考えられる。
 狩宿村に祢宜はいなかったのか、瀬戸村祢宜の市太夫持分になっている。
 すべて”前々除”(まえまえよけ)になっているので、3社ともに1607年の備前検地以前からあったということだ。

『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しく書いている。

社三区白山・山神・縣神社内三段四畝六歩前々除
瀬戸村祠官二宮治部太夫書上ニ、氏神白山社内三段一畝歩前々除、山神社内一畝歩前々除今社ナシ、荒子社内二十歩前々除今社ナシ、縣神社内二十歩前々除今社ナシ

『尾張徇行記』

 これによると、1822年までに山神と荒子と縣神は境内地だけあって社はなかったようだ。
 荒子社というのは『寛文村々覚書』にはないものの前々除となっているので江戸時代以前からあったのだろう。

 村の様子についてはこんなふうに書いている。

「村立アシク小百姓ハカリ也、農業ヲ以テ専ラ生産トス、農隙ニハ草鞋ヲ多クツクリテ名古屋ヘ売出セリ、又片草村白岩村品野村アタリヘ薪ヲウケニユキ、是モ名古屋ヘウリ出シ生産ノ助トス」

『尾張徇行記』

 村立が悪いというのはどういう状況だったのかよく分からないのだけど、瀬戸川村が矢田川と合流する手前の三角地帯ということで、農業にはあまり向かない砂地だったのかもしれない。
 農閑期には草鞋(わらじ)を作ったり、瀬戸まで行って薪をもらうなり買うなりして名古屋まで売りにいっていたようだ。
 しかし、ここから名古屋城下までは直線距離でも15キロくらいあるから、歩くと片道4、5時間かかる。馬なら2時間くらいだろうけど、それにしても大変だ。

『尾張志』(1844年)は「白山社 狩宿村にあり」と書くだけで、山神や縣神、荒子神については触れていない。

狩宿城について

 狩宿村の誕生と白山の勧請はおそらく同時期だったのではないかと推測する。
 あるいは、白山ではなかったかもしれないけど、集落に何らかの社はあったはずだ。
 郷から離れた山の上に社を祀ることはあっても、ここはそういう土地ではないから、誰もいない場所に社だけを祀ったとは考えづらい。
 そんな中で一つ鍵を握るのが狩宿城の存在だ。

『愛知縣神社名鑑』は、「天正2甲戌年(1574)8月に当村の城主林紋介源為社傳を造営」といっていて、これを信じるなら戦国時代末の狩宿城主は林紋介源為だったことになる。
 この人物については調べたけど情報が得られなかった。
 瀬戸川を越えた西にあった井田城は、『寛文村々覚書』に”林三郎兵衛居城之由”とあり、戦国時代の城主として菱野城の林正俊がいたとされる。
 この林正俊は織田信長の家臣だったので、井田城や狩宿城も信長の支配下にあって林氏が治めていたと考えてよさそうだ。
 ただ、井田城は南北朝時代終わりの明徳年間(1390-1394年)には浅井玄蕃允だ城主で、井田村にあったもう一つの城も浅井氏の城だったようなので、それ以前は浅井氏がこの地を治めていたのだろう。
 瀬戸川城は発掘調査で鎌倉時代の13世紀(1200年代)に築城されたことが分かっていて、そのあたりの関係性はよく分からない。

 狩宿城について『寛文村々覚書』は、「先年、林弥助居城之由、今ハ百姓屋敷ニ成ル」と書いており、『尾張徇行記』は、「塩尻ニ、狩宿村古城ハ、林弥助ト云人居住ノ由、是田幡城主越智右馬允信高ノ子ナリト云々、或曰佐渡守信勝ハ弥助カ子也ト云伝フ」といっている。
 ”塩尻”というのは、尾張藩士で国学者でもあった天野信景(あまのさだかげ)が1697年(元禄10年)ごろから1733年(享保18年)に執筆した随筆のことを指す。
 ”田幡城主越智右馬允信高”の田幡城はかつての尾張国春日井郡田幡村(名古屋市北区金城)にあった城のことで、その城主だった越智右馬允信高の子が狩宿城主の林弥助だったということだ。
 この林弥助の子が”佐渡守信勝”というのだけど、これは信長家臣の筆頭家老だった林秀貞(はやしひでさだ)のことをいっている。
 別の説として、この”信勝”は林羅山のことだという話もある。林羅山といえばよく知られる儒学者だ。
 林つながりでそんな伝承が生まれたのか、実際にそうだったのかはなんともいえない。
 ただ、この地にいた林家はそんな話が出てくるくらいの家柄だったということだろう。

 では狩宿城は戦国時代に築城された城かといえばそうとも限らない。
 言い伝えとして、鎌倉時代末の正中年間(1324-1326年)に築城されたという説もある。
 場所は白山神社の140メートルほど南西(地図)で、狩宿第2ちびっ子広場に案内板がある。
 昭和63年(1988年)行われた発掘調査では江戸時代の遺物が多く発掘されたものの、城の遺構は見つからず詳しいことは分かっていない。

 林氏についてもう少し書いておくと、林氏は美濃国と関わりがあるとされ、稲葉氏とも関係が深いとされる。
 尾張旭には稲葉村もあることから、何かつながりがあるのではないかと思った。
 稲葉というと戦国武将の稲葉一鉄が有名だけど、個人的には稲葉正成が気になっている。
 この稲葉正成は林政秀の子で、稲葉重通の婿養子となった後、春日局と結婚した人物だ。
 稲葉正成に興味があって調べてブログに書いたことがある。

 稲葉正成年表(個人調べ)

 林氏と稲葉氏と稲葉村を結びつけるのは強引すぎるだろうけど、巡りめぐってどこかでつながっているような気もする。

もう一つの手がかり 

 城方面から狩宿村について探るのは行き詰まったけど、もう一つ手がかりが残されている。
 それは”狩宿”という地名だ。
 多くの人が連想するのは、”狩り”と”宿”だろう。実際、そうだとする説もある。
 津田正生は『尾張國地名考』の中で以下のように書いている。

狩宿村 加利去聲

地名詳ならず或は後世鹿狩の時ここに假舎を立て遂に民居(むらさと)と成たるにや
三河國播津(はづ)の郡に苅宿村あり

『尾張國地名考』

 鹿狩りをするときに仮の宿舎を建てたことから村に発展して村名になったのかもしれないと推測している。
 ただ、根拠があるわけではなく推測の域を出ない。
 三河國播津は幡豆郡のことだろうけど、苅宿村というのがどこにあったのかは調べがつかなかった。

 別の話として、室町時代に拳母(ころも/豊田市)の若林から狩宿姓の一族が移り住んだというのがある。
 挙母というのは三河の重要拠点の一つなので、この伝承は無視できない。
 尾張の尾は”しかばね”に”毛”で、挙母の挙は”光”に”手”で鏡あわせの関係になっている。
 トヨタ自動車の豊田一族が挙母市に拠点を置いたのも、もちろん偶然などではない(豊田市はもともと挙母市だった)。
 狩宿という苗字の人はかなり少なく、薩摩(鹿児島県)と美濃(岐阜県)に集中しているようだ。
 ここでも美濃が出てくるというのも、ちょっと引っかかりを感じる。

 全国に狩宿や苅宿といった地名はいくつかあるようで、狩宿でいうと静岡県富士宮市や大分県杵築市などにある。
 読み方は主に2種類、”かりじゅく”か”かりやど”で、尾張旭は”かりじゅく”の方だ。
 それで、気になるのはどうして”しゅく”ではなく”じゅく”と濁るのかだ。
『尾張國地名考』は”かりジク”としているので、江戸時代にはすでに濁っていたことが分かる。
 江戸時代の宿場町は”何々じゅく”と濁っていたから別に不思議はないのだけど、狩宿村がもともと”かりじゅく”だったとは思えない。個人的な感覚では”かりしゅく”の方がしっくりくる。

 では、”かりしゅく”とは何かということだけど、これはもう分からないとしかいいようがない。手がかりには違いないのだけど分からない。
 もし、”かりしゅく”の意味や由来が分かれば、狩宿村の成立も、白山社の創建も全部つながっていていろいろなことが明らかになるのだと思う。
 本地の白山が本拠で、狩宿村の白山もそちらと関係があるとすれば、本地の白山同様、狩宿の白山も古いかもしれない。
 ”かりしゅく”の”かり”は”狩り”ではなく”仮”だとすると、仮地や仮場といった意味合いを含んでいるとも考えられる。

村絵図と今昔マップに見る狩宿村

 狩宿村の絵図は寛政5年(1793年)のものと天保12年(1841年)のものが残されている。
 時間差は50年ほどあるのだけどほとんど変わっていない。
 村の中央あたりに白山があり、集落はその西側にかまっていたようだ。
 現住所でいうと、狩宿町3丁目が村の中心だったことになる。
 白山の少し南に”古城跡”が書かれている。これが狩宿城だ。
 村の南西の外れに”アガタ神”があり、その南に”荒王子”と”山神”が書かれている。
 1822年の『尾張徇行記』には山神も荒子社も縣神も”前々除”で、”今社ナシ”と書かれているので、この頃までにはすでに社はなくて社地だけが残されていたのかもしれない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く村の様子がある程度想像できる。
 白山社の東が広く空白になっていて、これが神社の境内だったとするとかなり広かったようだ。
 家はかなり増えている。
 今の三郷橋はすでに架かっているものの、南の208号線や狩宿橋はまだない。
 東北にある大きな集落はかつての今村で、今は瀬戸市になっている。
 瀬戸川を越えた狩宿村を尾張旭市に取り込んだ事情はよく分からないのだけど、尾張旭市側から見ると今の狩宿町1丁目から4丁目は出っ張った格好になっている。
 狩宿村は明治11年(1878年)に井田村と瀬戸川村と合併して三郷村になった。その流れが今も続いている。
 尾張旭市の南側、本地荘や本地小学校がある地区は、逆に名古屋市守山区が食い込んできている。
 こういった複雑な市境は行政の都合というだけでなく歴史も関わっていて、その理由は意外と深かったりする。

よく分からないのだけど

 結局、狩宿の白山の経緯も、狩宿の由来もよく分からないというのが現状での結論ということになる。
 狩宿城がいつ築城されたのかについても、推測するのが難しい。
 室町時代に三河の挙母から狩宿を名乗る一族が移ってきたという話には興味を引かれる。これは事実に近いのではないか。
 縣神が祀られていたり、荒王子があったというのも気になるところだ。

 市外編はここまで尾張旭市エリアの神社を順番に見てきたけど、引き続き東の瀬戸地区をあわせて見ていくことで何か気づくことが出てくるのではないかと思っている。
 もっと広く俯瞰して、かつての山田郡を一帯として見る必要もありそうだ。
 だとすると、長久手市、日進市、東郷町あたりまで範囲を広げないといけない。

作成日 2024.4.26


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