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一之御前神社

一の御前とは誰のことか?

読み方いちのごぜん-じんじゃ
所在地尾張旭市稲葉町3丁目164番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十二等級
祭神大山祇命(オオヤマツミ)
誉田別命(ホムタワケ)
御年神(ミトシ)
保食神(ウケモチ)
菊理姫命(キクリヒメ)
天照皇大御神(アマテラス)
伊弉那美命(イザナミ)
アクセス名鉄瀬戸線「尾張旭駅」から徒歩約30分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日(変更している可能性あり)
神紋
オススメ度
ブログ記事尾張旭市の一之御前神社を再訪する

ここも676年の斎忌絡み

 江戸時代は稲葉村の氏神だった。
 ここも澁川神社直会神社と同じように、天武天皇白鳳5年(676年)の新嘗の斎忌絡みの伝承が残っている。
 その話はとりあえず後回しにして、江戸時代の稲葉村がどうだったかをまずは見ておくことにしよう。

江戸時代の稲葉村

『寛文村々覚書』(1670年頃)の稲葉村の項はこうなっている。

家数 五拾壱軒
人数 参百拾七人
馬 弐拾六疋

社九ヶ所 内 白山 西之宮神 山神弐ヶ所 洲原大明神 八幡 県神 神明 氏神市之御前

『寛文村々覚書』

 家数51軒に対して村人が317人なので、平均するとと一軒6人家族になる。
 少し少ないような気もするけど、印場村の家数41軒に対して村人413人というのが多いだけかもしれない。
 社が9社と多いのが特徴といえる。顔ぶれを見ると、新しいものと古いものが混在しているので、集落自体が古いかもしれない。
 氏神は一之御前ではなく”市之御前”となっている。
 ”一”と”市”の違いが気になるところだ。

『尾張徇行記』(1822年)はこんなことを書いている。

社九区、覚書ニ白山、西宮神、山神二社、洲原大明神、八幡、縣神、神明、氏神一ノ御前除地ノコトヲ不記

印場村渋川社人浅見直彦書上ニ、氏神一ノ御前熊野社境内東西十五間南北十間前々除、勧請ノ年暦は不知、寛文三年氏子再建ス、

白山社御野林内七段五畝歩此社モ勧請年暦ハ不知、寛文五巳年貞松院殿御再建アリ、
其後修造ハ御林方役所ヨリ掌之、白山社内ニ山神アリ、同村ノ内山神社内二段歩、神子ヶ盛りノ内縣神社内五畝歩、八幡社内二畝歩、石神社内一畝歩共ニ前々除

府志曰、一御前祠、在稲葉村、社伝曰、祀国常立尊、謹按、愛智郡熱田神社有一御前社、祀大伴建日命也、盖移祭此神者歟
摂社 縣祠、八幡社、三狐神祠、山神祠

『尾張徇行記』

 なかなか興味深い内容だ。
 一之御前については”一ノ御前”という書き方をしている。
 ”印場村渋川社人浅見直彦”というのは印場村の澁川神社の社家で、その家の記録によると、一ノ御前と熊野社の創建年は不明ながら前々除で、寛文3年(1663年)に氏子が再建したということだ。
 前々除は、1607年の備前検地のときすでに除地だったということで、江戸時代より以前に創建された古い神社ということが分かる。

 それから、”府志曰”は、尾張藩最初の地誌『張州府志』(1752年)のことで、それには熱田社にある一御前社から移して祀ったのではないかと書かれているということだ。
 現在の熱田神宮web)では一之御前社を”いちのみさきしゃ”と読ませて熱田大神または天照大神の荒霊(あらみたま)を祀るとしている。
 しかし、江戸時代までは大伴武日命(大伴建日命)を祀るとしていた。
 大伴武日は『日本書紀』の中で、日本武尊(ヤマトタケル)東征のときに、吉備武彦(キビノタケヒコ)とともに従者に任じられたとして出てくる。
 ただ、一之御前の社伝では国常立尊(クニノトコタチ)を祀るとするということも書いている。
 現在の祭神の中に国常立尊は入っておらず(神社の由緒碑には国常立尊とある)、突飛な話のようにも思えるけど、御前=国常立は更にイコールで伊弉冉尊(イザナミ)ともつながることを考えると、まったくない話ではないと思える。

『尾張志』(1844年)も同じようなことを書いている。

「一ノ御前社 稻葉村にあり社傳に國常立尊を祀れりといへり 愛智郡熱田神ノ社に一御前といふありて大伴建日命を祀れり此社も此神を移し祭れるものか
末社に縣社 八幡社 三狐神社 日神社あり
白山社 洲原社 神明社 熊野社 以上稻葉むらにあり」

『尾張志』

 江戸時代の前期まではそれぞれ独立してあった9つの白山、西宮神、山神二社、洲原大明神、八幡、縣神、神明、一ノ御前のうち、江戸時代後期には縣社、八幡社、三狐神社、日神社が氏神の摂社(末社)の扱いになったようだ。
 三狐神社は元の西宮神のことで、ミシャクジ信仰の社だったろうか。
 やはり気になるのは国常立尊のことだ。国常立尊は祭神から消えているのかいないのか。

 以上を踏まえた上で『愛知縣神社名鑑』がどう書いているか読んでみよう。

『愛知縣神社名鑑』が書いていること

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

「往昔は今の社地より西方一里余の県の宮と言う。
 天武天皇の白鳳5年(676年)丙子秋九月に大嘗祭に奉献の稲穂を作る際に社地を移し社殿を建立し村名も稲庭村と改めたのが現在の稲葉町に変わった。
 明治5年5月、村社に列し、同44年7月10日南山2-855番白山社。(神亀、宝亀年中の棟札のあった古社)、字六反田1-416番、八幡社。字六反田1-440番、山神社。字南山2-822番、洲原社。字市道925番、石神社。字南山2-857番、山神社。字六反田1-558番、神明社。字間口2-588番、山神社。字森前850番、県神社。の九社を合祀した。
 社蔵の棟札は元文5年(1740)宝暦(1758)明和元年(1764)文化9年(1812)天明6年(1786)天保2年(1831)がある。昭和34年9月伊勢湾台風により拝殿倒壊。本殿瑞垣大破す。翌年拝殿復旧、同53年10月玉垣造作、境内を整備した。」

『愛知縣神社名鑑』

 この情報の出所が神社側なのかどうかは分からないのだけど、1里西ということは4キロ西で、江戸時代でいうところの大森村があったところだ。
 斎田で収穫した稲をそこで選別して社を建てたという話が斎穂社に伝わっているので、それは本当なのかもしれない。
 ただ、明治から大正にかけて作られた『神社明細帳』には少し違う話が書かれている。
 それによると、天武天皇白鳳5年(676年)の大嘗祭のとき、縣宮の旧地とされる五町西北の地から現地に遷座したというのだ。
 五町北西は550メートルほど北西ということだから、稲葉村の村内から移したということになる。
 1キロと500メートルではだいぶ事情が違うけど、どちらが本当なのだろう。

 しかし、直会神社のところでも書いたように、『日本書紀』を信じるなら新嘗の斎忌に決まったのが9月21日で、新嘗が11月1日なので、準備期間は1ヶ月ほどしかないから、社を移したりしてる時間的な余裕はなったのではないか。
 このあたりの事情がよく分からず、モヤモヤする。

 別の話として、斎忌の斎場が当初、50メートルほど北西にあった縣宮に指定されたものの、その後一之御前に変更になったという伝承があるというのをネット情報で拾った。
 これは出所不明の情報なのでなんともいえない。

 共通する点でいうと、白鳳5年の天武天皇新嘗の斎忌で稲を奉納することにまつわる社という伝承があることだ。
 何気なく読んでいたけど、この話が本当であれば、飛鳥時代の676年にすでに一之御前神社はあったということで、かなりの古社ということだ。
 しかし、『延喜式神名帳』神名帳(927年)や『尾張國内神名帳』には該当するような神社は載っていない。
 斎忌云々と一之御前神社創建については、切り離して考える必要がありそうだ。

あらためて御前について考えてみる

 御前は”ごぜん”だけでなく、”おまえ”とも読めるし、”おんまえ”とも解することができる。
 ”御前様”を”ごぜんさま”というと、高貴な身分の奥方をそう呼んだし、”おまえさま”も近代では偉い人に対する呼び方だったりした。
 耳慣れた言葉としては、映画『男はつらいよ』の中で、柴又帝釈天の住職を演じた笠智衆が”御前さま”と呼ばれていた(実際の日蓮宗題経寺でもそう呼ぶそうだ)。
 御前試合(ごぜんしあい)というと、天皇を前に行う試合という意味なので、御前は天皇のことという理解もできる。
 上で御前は伊弉諾尊のことだと書いた。熱田神宮の一之御前神社の本来は伊弉諾尊と聞いていて、だとすれば尾張旭市の一之御前神社もそうなのではないかと個人的には考えている。
 これは祭神を国常立尊とすることと矛盾しない。国常立尊は文字通り国を立てたということで国作りをした伊弉諾尊のことをいっていいからだ。
 一の御前というのはすなわち最初の御前様ということで、やはり伊弉諾尊が相応しい。
 では、誰が稲葉に伊弉諾尊を祀る神社を建てたかということだ。

尾張氏が関わっている

 おそらくの神社の創建には尾張氏が関わっている。
 稲葉の村名由来を『愛知縣神社名鑑』は”稲庭”としているけど、なんにしても”いなば”には違いない。
 ”いなば”というと”因幡の白兎”が思い浮かぶ。あの因幡ももともとは”稲葉”と表記した。
『古事記』では”稲羽”としている。
 他にも稲葉という地名は各地にあり、”印葉”や”印播”なども根っこは同じだ。
 印場村の印場もそうだ。
 これは大嘗祭の齋場(いんば)から来ているのではなく、もっと古い。むしろ逆で、稲葉なり印場なりが先にあって、大嘗祭などの齋場はそこから来ていると考えるのが自然だ。
『古事記』では稻羽之素菟を大国主神が助けたことになっているのだけど、あれはもともと尾張で起きた話が元になっていると聞いている。
 だとすると、稲葉や印場も何か関係があるかもしれない。

縣宮について

 縣神や縣宮というのが何かというのは気になるところだ。
 尾張旭でいうと、狩宿村(かりじゅく)でも縣神を祀っていた。
 縣(あがた)の定義ははっきりしていないのだけど、国になる以前の小国家という説がある。
 縣主(あがたぬし)というと、その土地の主ということだ。
 ただ、縣神となると、少し性質が違うのかもしれない。
 別の言葉でいうと、地主神といったところだろうか。

 犬山市にある尾張国二宮の大縣神社(おおあがたじんじゃ/公式サイト)や、それと対の関係とされる小牧市の田縣神社(たがたじんじゃ/公式サイト)などが縣神の社だし、名古屋にも泥江縣神社(ひじえあがたじんじゃ)がある。
 江戸時代の書にも縣神はよく載っているので、村の守り神というような存在だったのではないかと思う。
 元を辿ればこれも尾張氏に行き着くような気がするのだけど、二宮が大縣神社ということからすると、タカミムスヒ=物部氏系の可能性も考えられる。

村の神社は全部一之御前神社に

『愛知縣神社名鑑』によると、明治44年(1911年)に、稲葉村にあった白山社、八幡社、山神社3社、洲原社、石神社、神明社、県神社をまとめて一之御前神社に移して合祀している。
 これは明治政府の神社合祀政策によるもので、それに素直に従った結果だ(京都のように従わなかった地方もある)。
 この政策によって古くからあった多くの神社が消滅することになった。
 この中でいうと、白山社は神亀年中(724年から729年)の棟札を所蔵する古社だったので、これが失われたのはもったいなかった(後に本地ヶ原神社として復活)。
 縣神も洲原も古社だったのではないかと思う。

江戸時代の稲葉村

 江戸時代後期の天保12年(1841年)に描かれた稲葉村の絵図を見てみる。
 村の中央付近を東から西へ蛇行ながら矢田川が流れており、その少し北に氏神とあり、これが一之御前神社のことだ。
 氏神の少し東に神明と八幡があり、南西に洲原、白山、山神が並んでいる。
 縣神は北西の端あたりで、東北にも山神がある。
 氏神の西に少林寺があり、その北に本郷とあるので、そのあたりが稲葉村の中心地だったのだろう。

 天保の絵図よりも古い、寛政5年(1793年)ともされる絵図もある。
 しかし、この絵図はもっと古いのではないかと思う。
 というのも、少林寺が描かれていないからだ。
 天保12年の絵図で少林寺がある場所には小さな祠の”さいぐじ”が描かれている。これは西之宮神(三狐神)のことだ。
 少林寺は寛文十二年(1672年)に現在地に移されたという話なので、この絵図は寛政5年ではなく寛文5年(1665年)のものかもしれない。
 あるいは、1670年頃に完成した『寛文村々覚書』には「水野村定光寺末 龍雲山少林寺」とあるので、移ってきたのはもう少し前の可能性もある。
 この絵図を見ると、矢田川の南はほぼ未開の平山で、中央に畑と南西に白山宮があるくらいだ。
 本江とある場所に民家がたくさんあるので、これが本郷と分かる。
 その少し北の新居村との村境にも民家がかたまっている。

明治以降の稲葉村
 

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、絵図と実際とでは位置関係がだいぶ違っていることが分かる。
 明治の頃は江戸時代から集落の様子などはほとんど変わってない。
 文明開化といってもそれは中央のことで、地方の農村は明治、大正、昭和初期まで、それほど大きな変化はなかった。
 それでいうと、氏神(一之御前神社)と少林寺は東西ではなく南北の位置関係で、本郷の集落は氏神の北東だ。
 それ以外は田んぼと南の山地が広がっている。
 このあたりが区画整理されて住宅地になっていくのは1970年代以降のことだ。
 それでも田んぼは今も残っていて、一之御前神社の前なども秋の収穫期になると刈った稲を天日干ししている光景を見ることができる。

稲葉村は古そう

 全体的な印象として稲葉村はかなり古いように思う。
 村内の矢田川南岸にある長坂遺跡(地図)では弥生時代から奈良時代にかけての集落跡が見つかっているし、その南の本地(ほんじ)という地名は文字通り本拠地といった意味合いから来ているのだろう。
 その本地に祀っていた白山は相当古いのではないか。少なくとも中世の修験の白山信仰などよりもずっと古いものだろう。
 本来の白山信仰は、山の白山を神聖視するといった単純なものではない。
 その白山と矢田川を挟んで北東にある一之御前神社の関係性を考えたとき、これは”一”の”おん前”の社と捉えるべきなのではないかと思えてくる。
 つまり、白山の神を祀るための、いわば遙拝所のようなものが発展したのが一之御前神社なのかもしれないということだ。
 白山の神であり、一の神が何者かといえば、やはり伊弉諾尊がふさわしいように思うけどどうだろう。
 黄泉の国で喧嘩別れになった伊弉諾尊と伊弉冉尊の仲介的な役割を果たした菊理姫命を白山の神として祀るというのも、そのあたりのことが関係しているのかもしれない。


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