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山神社(瀬戸川)

瀬戸川村の神社だけど氏神じゃない

読み方やまのかみ-しゃ(せとがわ)
所在地尾張旭市瀬戸川町1-44番地 地図
創建年(伝)明徳2年(1391年)
旧社格・等級等旧無格社・十四等級
祭神大山祇命(オオヤマツミ)
天之御中主神(アメノミナカヌシ)
アクセス名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約20分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日(変更している可能性あり)
神紋
オススメ度
ブログ記事

瀬戸川村にあって氏神ではい

 江戸時代の瀬戸川村(せとがわむら)にあった神社なのだけど、氏神ではなかった。
 瀬戸川村の氏神は隣村の井田村八幡社だったようだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

「創建は明徳2年(1391)2月7日に城主浅井氏が尊敬の余りで祀ったと伝える。
 古くより自然石(高さ五尺五寸)に御嶽神社と彫った大石あり。
 明治45年6月21日、許可を得て、大正元年8月20日、境内社天道社を本社に合祀す。
 社蔵の棟札に正徳4年(1714)11月26日、山神社再興、建立とあり、寛文3年(1663)8月、八幡社建立とある。
 又寛文12年(1672年)10月、天道社、普請とあり、昭和47年10月、山神社拝殿を改築、同55年10月、社務所を造営境内の整備を行う。」

『愛知縣神社名鑑』

 創建を明徳2年(1391年)とするのが妥当かどうか判断がつかないのだけど、2月7日という日にちまで伝わっているということは何か記録がある(あった)のかもしれない。
 この明徳年間というのは、隣村の井田城や氏神の八幡創建と同時期ということになる。時代区分としては南北朝時代の終わりだ。
 ”城主浅井氏”というのは井田城主の浅井玄蕃允の弟の浅井源四郎のことで、瀬戸川城のこととされる。
 城は今の三郷小学校の南西にあって、小学校の横に石碑と案内板が置かれている。
 昭和52年(1977年)の調査で土塁や堀が確認されている。
 城と山神の位置関係としては、城の北東、鬼門の方角に山神を祀っていたことになる。

 井田村と瀬戸川村の城や神社についてまとめるとこうなる。
 南北朝時代終わりの明徳年間(1390-1394年)に、浅井玄蕃允が井田城を築城するとともに八幡を勧請し、同時期に弟の浅井源四郎が瀬戸川城を築城して山神を祀った。
 井田城と瀬戸川城は直線で600メートルほどの距離にある。
『寛文村々覚書』(1670年)は井田村に一つ城があって浅井与太郎が居城していたと書いているのだけど、この城がどこにあったかは不明。

 辻褄は合っているのだけど、少し腑に落ちない部分もある。
 井田城と瀬戸川城ができる以前に井田村と瀬戸川村がすでにあったかどうかが分からないという点が一つ。
 もう一つは、これほど近い距離で兄弟城主だったのなら、どうして二つの小村は合併しなかったのかということだ。

 南北朝時代に浅井氏の一族がどこか別のところからやってきて何もなかったところに城を築いたというのはちょっと考えづらい。
 ここは瀬戸川と矢田川の合流地点の平地で、もっと古くから開拓されていた土地だったのではないかと思う。
 もしそうだとすれば、集落ができたときに何らかの社があったはずで、井田城にしろ瀬戸川城にしろ、同時に初めて社を祀ったという話は信じがたい。
 井田村と瀬戸川村の関係に関しては、戦国時代までに井田城は織田信長家臣の林三郎兵衛正俊の居城になっていたというから、どこかの時点で浅井氏は林氏に追われた可能性がある。
 しかしながら、井田村と瀬戸川村は江戸時代を通じて独立した小村で、合併するのは明治になってからのことだ(明治11年(1878年)に井田村と瀬戸川村と瀬戸川を越えた狩宿村が合併して三郷村になった)。
 江戸時代は井田村の八幡を井田村と瀬戸川村が共通の氏神としていたようなので、関係は良好だったのだろう。

 以上のように、あれこれ考え出すとなんとなくすっきりしない感じが残る。

江戸時代の書では

 ここで江戸時代の書を確認しておくことにしよう。
 1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』の瀬戸川村の項はこうなっている。

家数 六軒
人数 弐拾五人 男拾五人 女拾人
馬 三疋

山神 社内五畝歩 前々除 新居村祢宜 与太夫持分

『寛文村々覚書』

 家数はわずか6軒で、村人は25人の小村だったことが分かる。
 平均4人家族だから、これでは働き手不足なのではないかと思うのだけどどうだったのだろう。
 馬が3頭なのも、労働力として考えると少ない。
 神社は山神のみで、新居村の祢宜の持分となっている。

『尾張徇行記』(1822年)は瀬戸川村の神社について『寛文村々覚書』を引用しつつ、次のように書いている。

「新居村社人谷口仁太夫書上ニ、社内五畝歩前々除、勧請ノ年紀ハ不知、再建ハ寛文三癸卯年ニアリ
 天道社、仁太夫書上ニ、境内三畝歩年貢地、勧請ノ年紀ハ不知、再建ハ同上」

『寛文村々覚書』

 山神の創建年は不明ながら”前々除”となっているので、1607年の備前検地以前から除地だったということで、江戸時代より以前からあったことが分かる。
 再建の寛文3年は1663年に当たる。
『寛文村々覚書』にはない天道社が増えている。
 これも創建年については分からないものの年貢地になっていることから、江戸時代以降に祀られたものだろう。
 再建は同上とあり、これが寛文3年(1663年)だとすると、祀られたのは江戸時代初期で、『寛文村々覚書』の頃にはすでにあったように思うのだけどどうだろう。

『尾張志』(1844年)を見ると、「天道社 瀬戸川村にあり」とあり、山神は書かれていない。
 どうしてこういう書き方をしたのか、ちょっと分からない。

『愛知縣神社名鑑』をあらためて見てみると、少し食い違いがある。
 神社が所蔵する棟札には、寛文3年(1663年)に八幡社建立とあると書いている。
 山神を再建する際にあらたに八幡も勧請したということか。
 これは井田村の八幡を分祀したという話もある。
 天道社については寛文12年(1672年)に普請とあるので、『寛文村々覚書』が作られたときにはぎりぎり間に合わなかったか。
 その天道社は”境内社”となっているので、江戸時代末が明治時代のどこかで山神の境内に移したと考えられる。

 現在の山神社の入り口に建つ社号標を見ると、”山ノ神社”、”八幡神社”、”天道神社”が横並びで彫られている。
『愛知縣神社名鑑』は”やまのかみ”とフリガナをしているので、”やま-じんじゃ”ではなく”やまのかみ-しゃ”が正式名なのだろう。
 それにしても祭神は大山祇命(オオヤマツミ)と天之御中主神(アメノミナカヌシ)となっており、八幡の神が消えている。登録上のことなのか、『愛知縣神社名鑑』の記載漏れなのかは分からない。
 興味深いのは天道社の祭神は天之御中主神としていることだ。おそらく明治以降にそうしたのだろうけど、天照大御神(アマテラス)ではなく天之御中主神としたのは何らかの根拠があるはずだ。
 そもそも山神というのも、中世の山岳信仰の山神ではなく尾張本家筋の山祇を祀ったのが始まりかもしれず、だとすればそれは天之御中主神にも通じるし、この土地、もしくは住民は古いルーツを持った人たちだったのかもしれないと思えてくる。
 ”御嶽神社”と彫られた大きな自然石があったというのもそれを暗に示している。
 この”御嶽”は近世の御嶽教よりずっと古い信仰だろうと思う。

瀬戸川の”あがたぎ”伝説

 山神社の片隅に”縣ノ神”と彫られた石碑があり、その横にはこんな説明文がある。

 あがたぎの森

「あがたぎの森には、「あがたぬし」という人が降りてきて、村の先祖になったという伝承がありました。
森の木を切るとできものができてしまうといわれており、村の人は、森の木を大事にしました。
また、村の子供におできができたときには、あがたぎにお参りすると、すぐに治してもらえました。
村の人は大変ありがたく思って、森の木をずっと大切にしました。」

 ひらがなで書くと分かりづらいのだけど、漢字で書くと”縣木の森”ということだ。
 ”縣”というのはいくつかの意味があって、国になる前の地方の単位だとか、平安時代の国司の任国だとか、単に地方のこととかというのだけど、村よりはもう少し大きな単位の土地のことで、縣主(あがたぬし)というとそこの主のことをいう。
 それが発展したのが”縣神”なのだろうけど、それほど単純ではないようにも感じている。
 具体的な首長というだけでなく、祖先や始祖のことを縣主と呼んで祀ったのかもしれない。

 この縣木の森というのが三郷小学校の南東100メートルほどのところにあった。
 その場所というのは、本地の山から降りてきた縣主が村の祖になったところだという。
 本地は矢田川を越えた南西で、かつてそこは白山林(はくさんばやし)と呼ばれていた。
 一之御前神社のところでも書いたのだけど、一之御前神社の”御前”は白山林の主のことと何か関係があるような気がする。
 その白山の主であり御前と呼ばれた人間、もしくは一族がここでいう縣主なのではないか。
 縣主と関わりの深い森を神聖視して不可侵としたと考えれば納得がいく。

 昭和に入ってこのあたりも宅地化が進み、縣木の森も取り壊すことになった。
 昭和52年(1977年)のことで、祟りを畏れた住人や工事関係者によって縣の神を石碑として残して山神社に移したという経緯のようだ。
 工事の際に縣木の森の調査が行われている。
 土地が盛り上がっている部分は古墳ではないかという話だったのだけど、調査した結果、自然の地形と判明した。
 ただ、その調査結果が公表されたのが23年後の2000年だったというところに何やら胡散臭さを感じる。
 祭祀に使用されたと思われる陶磁器片なども見つかったというから、何らかのカミマツリを行っていたのだろう。
 いろんな意味でそこは触れてはいけない場所だったということだ。

 最初の方で瀬戸川城は井田城主の浅井玄蕃充の弟の浅井源四郎が居城したという言い伝えがあることを書いた。
 井田城の築城は南北朝時代終わりの明徳年間(1390-1393年)とされるので同時期と推測でき、山神社もそのときではないかというのが通説となっている。
 しかし、昭和52年の調査は瀬戸川城跡でも行われて、城は13世紀の鎌倉時代のものとされた。
 1200年代といえば、浅井氏よりも200年近く前ということになる。
 発掘調査が常に正しいわけではないにしても、瀬戸川城や瀬戸川村は鎌倉時代に遡る可能性があるということは言えるのではないか。
 縣主の伝承を考えると、もっともっと古い時代から集落があったかもしれない。

江戸時代の絵図と今昔マップから見えてくること

 瀬戸川村の絵図は江戸時代後期の天保12年(1841年)のものが伝わっている。
 集落は中央部に集まっている。今の瀬戸川町1丁目がそうだ。
 山神は集落の東で、集落の西に天道社がある。
 ということは、山神と天道はもともとは別の場所にあったということだ。
 縣木の森は描かれていないものの、山神の南に”森前”とあるのがそうだろうか。
 その森前の南に川が描かれているのだけど、これは瀬戸川ではなく、今はなくなってしまった川だと思う。
 古老の話で縣木の森の南に小川があったというから、その川だろう。
 その小川と瀬戸川に挟まれた瀬戸川沿いに、森と別の”山神”が書かれている。今の狩宿新町2丁目のどこかだ。
 この山神は江戸時代の書にはなく、その後どうなってしまったかは分からない。
 小川と瀬戸川村の合流地点に”古城趾”とあるのだけど、これが瀬戸川城のことだとすると、発掘地と伝承地に少しズレがある。
 絵図からすると瀬戸川町2丁目の土井下公園の南あたりということになる。
 土井下公園の北には四門公園もあり、城に関係ありそうな地名が残っている。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、瀬戸川集落にも民家が増えて西隣の井田村とほぼ合体している。
 明治11年(1878年)に井田村、瀬戸川村、狩宿村が合併して三郷村になっているので、このときはもう三郷と書かれている。
 明治22年には八白村の大字となり、その後、旭村、旭町、尾張旭市のそれぞれ大字となった。
 ここを”八白”と名づけたということはかなり重要な意味を持っている。”八”であり”白”であることはそれだけ重要な土地だったということだ。
 神社については、山神の鳥居しか確認できない。
 山神の南、田んぼの中に丸に横棒の地図記号が書かれているのだけど、これが縣木の森だろうか。

 途中の地図がないので詳しい経緯は分からないのだけど、村北の瀬戸電気鉄道と三郷駅周辺から民家が増え始め、南の田んぼは昭和になっても消えずに残っていた。
 田んぼが潰されて区画整理されたのは1980年代以降のようだ。
 山神社のすぐ南にある三郷小学校は1982年(昭和57年)に東栄小学校の分校として開校した。
 このあたりも今やすっかり住宅地となって、かつての田園風景を想像するのは難しい。

ひょっとすると

 瀬戸川集落はもしかするとすごく古くて重要な場所だったかもしれない。
 そんなことを言っても尾張旭市民はピンとこないだろうし、瀬戸川町の住民でさえ信じないだろうけど、いろいろ考え合わせると、なくはないという個人的な感触を抱いている。
 どこまで遡るかということでいえば、最大縄文時代まで遡る可能性がある。ほとんどの人はそんな馬鹿なと思うだろうけど、たとえ集落が一時的に消滅したとしても伝承というのは消えないもので、その一つが縣木の森の主のことではないだろうか。

 少し視点を広げてみるといろいろ見えてくるものもある。
 ここはなんといっても瀬戸川と矢田川の合流点だ。古代の人間がここに目を付けなかったはずがない。
 瀬戸川の北には小川も流れていて、生活用水にも農業用水にも困らなかったはずだ。瀬戸川村近辺には小さなため池が一つあっただけなので、水に不自由しなかったということだ。
 矢田川南岸の東側にも”本地”があり、”御嶽”があり、”八幡”があり、”八王子”がある。
 これはもう完全に尾張の主や一族がいたという証拠といっていい。
 古代人の土地勘や地形認識能力は現代の我々とはまったく違うもので、地図も飛行機もないまま地形を把握していた。
 社を祀る場所についても、当然ながら計算や理屈があって、適当な場所に祀ったわけではない。
 山神のルーツがものすごく古かったとしても、やっぱりなと思うだけで驚きはしない。


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