
本地村の寄せ集め的小社
読み方 | しょう-しゃ(にしほんじ) |
所在地 | 瀬戸市西本地1丁目 地図 |
創建年 | 不明(昭和54年?) |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明 |
アクセス | せとコミュニティバス「西本地」より徒歩約3分 名鉄バス「本地」より徒歩約4分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
寄せ集め?
本地城跡地の近くにあるある小社。
入り口に「松原平内公本地城址」と彫られた立派な石碑が建っており、敷地内に祠や石碑などがある。
もともとこの場所に祀られていたものではなくて、本地村内のあちこちで祀っていたものを明治か昭和にここに持ってきたのではないかと思う。
「津島神社」と書かれた御札が入っている祠が2つ並んでいるのもそれを物語っている。
自然石を使った社標には「辯財天 白□竜神」とあるのだけど、白と竜の間の字が読めない。にんべんは分かるけど、作りは何だろう。

ネットにも情報がなかったのだけど、判明したら追記します。
この隣にも祠があるのだけど、それはまったく分からない。
更に隣に仏像らしきものが彫られた石造の祠もある。
今は枯れてしまったという井戸もあって、竜神はそれ絡みらしいのだけど、詳細は不明。
本地城について
かつて本地城があったのは社が置かれている場所ではなく、道を挟んで東側だったらしい。
入り口に説明板があって、そこには推測図も載っている。
文面は以下の通り。
本地城跡
西本地町地内の中央寄りに位置し、山口川と本地川の作り出した舌状の台地の端に立地し、『尾張志』に「東西三十五間(63m)、南北二十四間(43m) ばかり」とある。城主は松原平内と言われ、今村城主松原広長の叔父とも弟とも伝えられる。松原広長は、文明14 (1482)年、品野の桑下城主長江利景(永井民部)との戦いで敗れ戦死、 平内も参戦し、安戸坂(やすどざか)で討ち死にしたと伝えられている。城域の西隣に『松原平内公本地城址』の石碑が建ち、弁財天が祀られている。
これを読むと、ここの小社は辯才天がメインのようだ。だとすると、もともと辯才天と竜神がここに祀られていて、そこに天王祠などを持ってきたのかもしれない。
本地城については八幡神社(西本地町)にも書いたのだけど、もう少し詳しく書いておきたい。
瀬戸ペディアは以下のように書いている。
旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
松原平内については、今村城主松原広長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで広長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。
今村城は現在の八王子神社(共栄通5)が建っている場所にあったとされ、今村城から見て本地城は約1.8キロ南西に位置している。
今村城については八王子神社(共栄通5)にわりと詳しく書いたので、そちらをお読みください。
時代としては信長たちが活躍する100年ほど前、応仁の乱(1467-1477年)が始まる少し前だ。
いくつかの説というか話があってはっきりしたことは分からないのだけど、松原広長の父の松原下総守一学(吉之亟)が三河国から尾張国の赤津あたりに移ってきたことに始まるとされる。
松原広長が今村城を築き、松原一学の弟の松原平内が本地城を築城したということのようだ。
ある程度はっきりしているのは、桑下城(上品野)城主の長江利景と松原広長との間で戦になり、松原広長と松原平内はともに命を落としたということだ。
1482年(文明14年)に起きたこの戦を、安戸坂・大慎山の戦いと呼んでいる。
これを機に、今村城も本地城も廃城となったようだ。
城と神社と古墳の関係
江戸時代の本地村の神社についてまとめておく。
『寛文村々覚書』(1670年頃)
社 四ヶ所 内 八幡 斎宮神 山神弐社 瀬戸村祢宜 市大夫持分 社内 壱反壱畝歩
古城跡 壱ヶ所 先年松原平内居城之由、今ハ畑ニ成ル
『尾張徇行記』(1822年)
社四区、覚書ニ、此内八幡・斎宮神・山神二社境内一反一畝
祠官二宮三太夫書上ニ、若宮八幡宇佐八幡相殿境内薮一反前々除、此祠草創ハ不知、往古ヨリ鎮座ノ由、山神社内松林十歩 叉山神社内松林十歩共ニ前々除、社宮司森今ハ社ナシ、松林八歩前々ナリ本地城 府志曰、土人曰、松原平内居之、其地今為民家及陸田
覚書松平作松原
『尾張志』(1844年)
八幡ノ社 仲哀天皇應神天皇神功皇后玉依姫ノ命を祭れり
山ノ神ノ社 二所
社宮司ノ社ノ廢址
この四社本地村にあり
ここにある八幡は西本地町の八幡神社なのだけど、斎宮神(社宮司)は江戸時代後期にはすでに廃社になっていたようで、山神は明治か昭和に八幡神社に移されたのではないかと思う。
辯才天や竜神、天王についての情報はない。
八幡については非常に古い神社ではないかと個人的に考えている。
ひとつには、ここが”本地”という地名であり、本地城のすぐ東に本地大塚古墳があることもその理由だ。
本地大塚古墳についても、八幡神社(西本地町)のページに書いたので、ここでは繰り返さない。
被葬者は誉牟治別(ホムチワケ)という伝承があり、ホムチから本地の地名が発祥した可能性は充分にある。あるいは逆か。
しかし、ホムチ”ワケ”ということを考えると元になったホムチ(本地)があったということで、それはおそらく尾張旭の本地だっただろうと思う。
そのあたりについては尾張旭市の本地ヶ原神社のページに書いた。
本地大塚古墳は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたと考えられている全長約30メートルの前方後円墳で、知られている中では瀬戸市唯一の前方後円墳とされる。
その他、本地地区では駒前第1号墳から3号憤(円墳)なども知られている。
古墳は必ずしも集落エリア内に作られたわけではないようだけど、少なくとも古墳時代にはこのあたりに人がいたのは間違いない。
古墳から神社に発展した例も少ないことからしても、八幡はもともと八幡ではなかったかもしれないし、本地にはもっと古い神社があったのではないかと思う。
古窯跡も見つかっており、まだ知られていない遺跡もあるに違いない。
小さな拠り所として
古い小さな祠などもういらないだろうと廃社にしてしまうのはたやすい。
時代がそういう方向に進んでいるのも現実としてある。
もっと大きな規模の神社でも氏子の高齢化などで支えきれなくなって取り潰してしまうことが近年急増している。
今年2025年は戦後80年に当たる。
一方で、失われた祭りを復活させようといった動きもある。
神社というのは地域をつなぐ拠り所でもあって、地区の結びつきが希薄になった現在において、その価値は逆に上がっているという見方もできる。
神社は神様に願い事をするためだけのものではないということだ。
歴史のタイムカプセルでもあり、神社がなくなれば歴史が埋もれて消えてしまう。
たとえ小さな祠であっても、そこには意味があり、無駄ではない。
頑張って存続させてほしいというのは無関係な人間の無責任な願いでしかないのだけど、ここまで続いてきたのは人の思いがつながったからで、その積み重ねてきた思いを簡単になくしてはいけない。
作成日 2025.3.10