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八幡神社(西本地町)

本地別けの古い社

読み方はちまん-じんじゃ(にしほんじちょう)
所在地瀬戸市西本地町2丁目158 地図
創建年不明(1185年?)
旧社格・等級等十二等級・旧指定村社
祭神応神天皇(オウジンテンノウ)
アクセス名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約30分
名鉄バス「本地」から徒歩約6分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事瀬戸市西本地町の八幡神社

本地別け

 江戸時代の本地村の氏神だったのがこの八幡神社だ。
 神社があるのは瀬戸市西本地町で、少し西に尾張旭市東本地ヶ原があるので、ちょっとややこしい。
 西本地町の東には東本地町があり、東本地ヶ原町の西には西本地ヶ原町がある。
 どちらが本来の”本地”だったかといえば、尾張旭の本地ヶ原の方だと思う。
 本地ヶ原神社のところでも書いたのだけど、かつて白山林(はくさんばやし)と呼ばれた場所が”本地”で、それはつまり本拠地、あるいは根拠地を意味していたはずだ。
 本地の北、矢田川北にある一之御前神社は”一”の”御前”、白山に祀られる神の御前という意味だとすると、白山林=本地という推測は間違っていないのではないかと思う。
 ただ、一之御前神社のページでは一御前を伊弉諾尊(イザナギ)ではないかとしたのだけど、”御前”ということからして伊弉冉尊(イザナミ)の方がふさわしい気もする。
 実際、本地の白山社では菊理媛(キクリヒメ)ではなくイザナミを祀っていた(白山社を復活させた本地ヶ原神社の祭神もそうなっている)のだから、その可能性は高い。
 日本が男系の社会になったのは中世の後半以降で、古い時代は女系の社会だったことからしても、本地でイザナミを祀ることは不自然ではない。

 ではどうして尾張旭側だけでなく瀬戸側にも本地があるかだ。
 八幡神社の南東440メートルほどのところにある本地大塚古墳(地図)の被葬者は誉牟治別命(ホムチワケ)という伝承がある。
 誉牟治別命は尾張にゆかりの深い人物なので後ほどあらためて見ることにして、本地の地名はこの誉牟治別命から来ているという説がある。
 しかしこれは逆で、瀬戸の本地は本地を”別け”たのでこの地は”本地別け”であり、そこの主も本地別け=誉牟治別と呼ばれたと考えた方が自然だ。
 もっと古い時代でいえば、尾張旭の本地も瀬戸の本地も一帯で、矢田川の北も含めて一つの地区だっただろうと思う。
 神社を考えるときもそのように考えないといけない。

1185年に宇佐から勧請?

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建については明らかではない。明治5年7月28日村社に列格する。
大正10年5月24日供進指定をうけた。

 ここでは創建は明かではないとする。
 しかし、wikiの西本地町のページにはこうある。

八幡社: 本地八幡社といわれる。宇佐八幡宮の御分社であるとされ、創建は1185年(文治元年)、1748年(寛延元年)に洪水により現在地へ社殿を移設したと伝えられている。1631年(寛永8年)銘の常夜灯がある。

 出典として『角川日本地名大辞典23 愛知県』(角川書店 1989年)を挙げているのでそこに書かれているのだろうけど、この話は私はまったく信じない(昭和48年に建てられた改築記念碑の石碑にも同じようなことが書かれている)。
 あるとすれば、もともとあった本地村の氏神に八幡を勧請して八幡社としたということだろうけど、それにしても1185年というのはちょっと考えにくい。

 1185年といえば、壇ノ浦の戦いで源氏が平家を打ち破り、源頼朝が全国に守護地頭を置く権利を朝廷に認めさせた年だ。
 壇ノ浦の戦いが3月で、守護地頭権(文治勅許)が11月のことだ。
 かつて鎌倉幕府成立は1192年とされていたのだけど、文治勅許をもって事実上の幕府成立とする考えに変わっている(イイハコ作ろう鎌倉幕府)。
 尾張では源氏の山田重忠が山田荘の地頭職に任命されている。
 その山田重忠が八幡を勧請した可能性はあるだろうけど、11月に任命されて年内に神社が建つかといえば、いくら小さな祠程度だったとしてもそれは難しい。
 山田一族は古くから尾張氏本家を守護する役割の一族と聞いている(近藤も)。
 山田重忠も尾張氏の娘を娶ったという話があるから、尾張氏の婿養子でもあったのだろう。
 地頭に命じられたといっても他の土地から来たわけではなく、山田氏は古くから土着していた一族だ。
 尾張旭市から長久手市、瀬戸市、日進市、東郷町あたりは古い時代に尾張氏が開拓した土地で、一般に考えられているよりも早い時期から人が暮らしてきたところだ。
 上に出てきた本地大塚古墳は5世末から6世紀初頭に築造されたとされる前方後円墳だけど、それよりもずっと時代は遡る(そもそも大事な古墳や遺跡は隠されて表沙汰になっていない)。
 そんな古くからある集落に神社がなかったはずがなく、1185年に初めて八幡社が創建されたというのはさすがにあり得ないということだ。
 頼朝は熱田神社(熱田神宮)大宮司の藤原季範の娘(由良御前)の子だから、当然尾張の古い歴史を聞いて知っていただろう。
 地頭職に山田一族の長だった山田重忠がふさわしいと考えたのもうなずける。

 1185年に八幡社を創建したという話のもう一つの違和感は、宇佐八幡宮の分社という点だ。
 宇佐神宮(公式サイト)は八幡社の総本社とされる古い神社(571年創建とも)には違いないのだけど、中世は宇佐八幡宮弥勒寺といって仏教色の強い神仏習合の神社だった。
 名古屋でいうと、泥江縣神社が859年に宇佐から勧請したという話があるから、まったくないことではないのだろうけど、1185年とすれば山田重忠が関わっている可能性が高く、山田氏と宇佐というのはちょっとつながらない感じがする。
 鎌倉の鶴岡八幡宮(公式サイト)は、1063年に源頼義が前九年の役の戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮護国寺(公式サイト)から若宮を勧請したのが始まりとされ(壺井八幡宮/公式サイトからという説もある)、頼朝が1180年に今の場所に移して鎌倉幕府の中心に据えて現在に至っている。
 1185年なら鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請してもよかったし、京都の石清水八幡宮からでもよかった。
 実際に宇佐八幡宮弥勒寺から勧請したとすれば何か理由があったのだろうけど、今一つピンとこない。
 このあたりはいろいろ話に食い違いがあるような気がする。

江戸時代の本地村

 最初に書いたように、この八幡神社は江戸時代は本地村の氏神だった。
 江戸時代の書で当寺の本地村の様子を見てみよう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

山田之庄 本地村

家数 四拾弐軒
人数 弐百四拾三人
馬 拾九疋

禅宗 赤津村内 白坂雲興寺末寺 仏法山宝生寺 寺内 四畝歩 前々除

社 四ヶ所 内 八幡 斎宮神 山神弐社 瀬戸村祢宜 市大夫持分 社内 壱反壱畝歩

古城跡 壱ヶ所 先年松原平内居城之由、今ハ畑ニ成ル。

 家数が42軒で、村人が243人なので、あまり大きな村ではない。
 赤津村の雲興寺末寺の宝生寺(地図)があり、神社は八幡の他、斎宮司と山神2社があったことが分かる。
 除地とは書いていないのだけど、おそらく前々除だったはずで、そうだとすると、少なくとも江戸時代以前からあったことになる。
 4社はいずれも瀬戸村の祢宜が管理していたようだ。
 宝生寺と古城跡については後回しにしたい。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。

宝生寺 府志曰、曹洞宗、属白坂雲興寺
覚書ニ、仏法山宝生寺境内四畝前々除
当寺書上ニ、境内六反此内三畝御除地、七畝村除、松山五反年貢地、此寺ハ寛永九申年白坂雲興寺十五世興南和尚創建シ、其後年ヲ経テ平僧にナリシカ、宝暦十辰年雲興寺二十五世紹道和尚法地ニ再興セリ
此寺昔は同村ノ内八丁寺ト云所ニアリシカ、享保子年今ノ地ヘ移ス、旧址ハ三畝御除地ナリ

社四区、覚書ニ、此内八幡・斎宮神・山神二社境内一反一畝
祠官二宮三太夫書上ニ、若宮八幡宇佐八幡相殿境内薮一反前々除、此祠草創ハ不知、往古ヨリ鎮座ノ由、山神社内松林十歩 叉山神社内松林十歩共ニ前々除、社宮司森今ハ社ナシ、松林八歩前々ナリ

本地城 府志曰、土人曰、松原平内居之、其地今為民家及陸田
覚書松平作松原

此村ハ民戸山口川ノホトリニアリテ、明和四亥年洪水以来砂入地多クナレリ、村東ニテ山口川瀬戸川落合ヘリ、民戸処々ニ散在シ九ヶ所ホトニ分ル、上田・中切・坂上・坂下・五斬島・寺下・井山・原山神殿・八町ナトイヘリ、此村ハ砂入地高五百石ホトアリテ耕耘ノ地少キ故、農業ハカリニテハ渡世ナリカタキニヨリ、瀬戸物炭薪ヲ荷ヒウリアルキ、叉ハ桐ノ木ヲ買ヒ出シ、叉ハ古カネ類モ買ヒッルキ、専ラ小商ヲシテ渡世ノ助トナセリ、スヘテ小百姓ハカリニテ貧村ナリ

 ここには興味深いことがいくつか書かれている。
 順番に読んでみよう。

 まず、面白いのが、”若宮八幡宇佐八幡相殿”といっている点だ。
 若宮八幡と宇佐八幡を相殿(あいどの)で祀っていたようだけど、古い時代からそうだったのか、江戸時代に入ってからそうなったのかは分からない。
 若宮八幡に関しても、どこからの勧請かは不明だ。鶴岡八幡宮なのか、石清水八幡宮なのか、名古屋城下の名古屋総鎮守とされた若宮八幡の可能性もある。
 ただ、宇佐八幡を祀るということは、宇佐から勧請したという話はまるっきりない話ではないということだ。

 もう一つ重要な証言は”此祠草創ハ不知、往古ヨリ鎮座ノ由”だ。
 草創(創建)は不明で”往古”から鎮座しているといっている。
 江戸時代の人から見て往古というのは中世とかではなく古代のことで、感覚的に大化の改新(645年)より前を意識していたかもしれないくらい古くからあったということだ。
 とにかく大昔からあったものだからいつ建てられたかなど分かるはずもないというニュアンスだ。
 近くにある本地大塚古墳が5世紀末から6世紀初頭ということは、その周辺に集落があったはずで、集落があれば必ずカミマツリは行われるから、社という形式を持たなくても創祀はそれ以前に遡るということになる。
 このことからしても、1185年の創建という話はやはり信じられない。

 村の様子についてはちょっと気の毒な書かれ方をしている。
 江戸時代中期の1767年(明和4年)に、大雨で庄内川や矢田川などが大氾濫を起こして流域が大きな被害を受けた。
 後に明和の大洪水と呼ばれるのだけど、瀬戸から名古屋城下あたりまで水浸しになり、矢田川は川筋が変わって川北にあった長母寺(地図)が川南になってしまったりもした。
 南部では天白川も氾濫して鳴海一帯も水に浸った。
 山口川と矢田川の合流地点の南に位置する本地村も大きな被害を受けて、それを機に集落は分散することになっただけでなく、田んぼに砂が入って(砂入地)そこでは農作ができなくなって収穫量が激減、村人たちは農業一本で食べていくことができなくなって、瀬戸で薪を拾ってきて売ったり、小商いをしたりして生計を立てざるを得なくなったのだった。
 ”スヘテ小百姓ハカリニテ貧村ナリ”というのはちょっと切ない。

『尾張名所図会』(1844年)に書かれることはなく、『尾張志』(1844年)にはこうある。

八幡ノ社 仲哀天皇應神天皇神功皇后玉依姫ノ命を祭れり
山ノ神ノ社 二所
社宮司ノ社ノ廢址
この四社本地村にあり

 ここで新たな証言が出てきて、何ですって? と思う。
 中でも一番の驚きは仲哀天皇が入っていることだ。
 仲哀天皇は応神天皇の父とされるので八幡神ファミリーではあるのだけど、主要な八幡社で仲哀天皇を祀っているところはあまりない。
 宇佐神宮も、石清水八幡宮も、鶴岡八幡宮も、仲哀天皇は主祭神に入っていない。まるでわざと仲間はずれにしているみたいに。
 若宮系では応神天皇の子とされる仁徳天皇を祀るところが多いのだけど、ここでは入っていない。
『尾張徇行記』は祭神について書いていないものの、若宮八幡と宇佐八幡の相殿といっているから、仁徳天皇でもおかしくはない。
『尾張徇行記』から『尾張志』までのわずか20年程度で祭神が入れ替わるとは考えにくい。
 ちょっとした謎が残った感じだ。
 あるいは、この祭神問題は秘められた歴史と何か関係があるのかもしれない。
 尾張の歴史の中で応神天皇は裏切り者とされ、仲哀天皇(仲哀王子)は尾張と敵対したという話が伝わっている。
 八幡社というのは一般に考えられているような単純な神社ではないし、武家の守護神というだけではない古い歴史を持っている。
 古い八幡は”ハチマン”ではなく”ヤハタ”だ。”ヤワタ”と言う方がいいかもしれない。
 ”八”の”ハタ”が何を意味しているのか。
 秦氏(ハタ)は列島外からの渡来人ではないし、”ヤハウェ”も”ヤハタ”から来ている(逆ではない)。

本地大塚古墳と誉牟治別

 本地大塚古墳は上にも書いたように5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたと考えられている。
 全長約30メートルの前方後円墳で、知られている中では瀬戸市唯一の前方後円墳とされる。
 山口川と矢田川の合流地点から見て500メートルほど南西に位置している。
 川筋や合流地点は時代によって変わっているだろうけど、南に広がる丘陵地の先端部分という立地は造られた当時から変わっていないのではないかと思う。
 瀬戸市全体の遺跡分布を見ると、品野や赤津といった奥地ほど古い痕跡が濃厚で、時代が下るとともに人々が南へ広がっていった様子が見て取れる。
 本地あたりは古墳が密集している地区で、本地大塚古墳の近くには駒前第1号墳から3号憤までの円墳も知られている。
 おそらくもっと多くの遺跡や古墳があったはずだけど、大部分は人知れず潰されたか隠されたかしてしまった。

 誉牟治別(ホムチワケ)は第11代垂仁天皇の皇子として『古事記』、『日本書紀』に登場する。
 古墳の築造が5世紀末では被葬者として全然年代が合わないのだけど、こういう伝承が生まれた背景には必ず何らかの事実がある。
 もともと誉牟治別の墓か祀る社があったところに、後の時代に古墳を造った可能性もある。
『古事記』と『日本書紀』では話が少し違っているのだけど、共通するのは垂仁天皇皇后の狭穂毘売(サホヒメ)の兄である狭穂彦(サホヒコ)が反乱を起こしたこと、狭穂毘売がそれで自殺してしまったこと、誉牟治別が火の中から生まれたこと(あるいは火中から救い出された)、誉牟治別が大きくなっても口がきけずに泣いてばかりいたこと、鵠(くぐい)を見たことがきっかけで話せるようになったことなどがある。
『日本書紀』は出雲の話として描いているけど、『古事記』は尾張の話としている。証言が食い違っているときは『日本書紀』を疑えというのが原則なので、これは尾張の話と考えていい。
『釈日本紀』に引用された『尾張国風土記』(逸文)によると、多具の国津神の阿麻乃彌加都比女(アマノミカツヒメ)が皇后の夢枕に立ち、自分を祀れば皇子は口をきけるようになるだろうというので日置部の祖の建岡君にこの神がどこにいるか占わせたところ美濃国の花鹿山と出たので、そこの榊を折って鬘(かずら)を作り、誓約(うけひ)をして投げると尾張国丹羽郡に落ちたのでそこに祀ったという。
 のちにそこが阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったという伝承が一宮市の阿豆良神社にも伝わっている。

『古事記』、『日本書紀』は同じ話を時代を変え、人を変え、視点を変えて繰り返し描いている。
 この話もそうで、どこかで聞いたようなことがいくつも重なっている。
 火中から生まれたというのは木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)が火照命(火明命)・火須勢理命・火遠理命を生んだという話を思わせるし、髭が胸まで伸びても赤子のように泣いてばかりいたというのは素戔嗚尊(スサノオ)そのものだ。
 鵠(くぐい)を見て話せるようになったという鵠は白鳥のことで、白鳥といえば日本武尊(ヤマトタケル)を連想する。
 自分を祀れといった阿麻乃彌加都比女は天甕津日女という表記で『出雲国風土記』に阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)の妻として出てくる。
 その中で阿遅鉏高日子根もまた、大人になっても子供のように泣いてばかりいたといっている。
 阿麻乃彌加都比女が美濃にいて、そこに阿遅鉏高日子根が関わってくるとなれば、天若日子/天稚彦(アメノワカヒコ)の話を思い出す。
 天稚彦が高木神の放った返し矢で命を落としたので阿遅鉏高日子根が見舞いに行くと、遺族から稚彦”そっくり”といわれて間違われたことに怒り、喪屋を蹴飛ばして落ちたのが美濃の藍見だったというあの話だ。
 尾張の伝承では、若彦(稚彦)の子の天香語山(アメノカゴヤマ)はアジスキに殺されたとされている。アジスキは若彦を殺して地位や土地などを奪ったのだという。
 アジスキが殺したワカヒコの”仮面”を被ったので”そっくり”とされ、これが両面宿儺(りょうめんすくな)の伝承になったとも。
 阿麻乃彌加都比女の別表記の天甕津日女は、天香香背男(アメノカカセオ)こと天津甕星(アマツミカホシ)とよく似ている。天香香背男は若彦こと天香語山のことだと尾張の伝承はいう。
 ホムチワケも誉牟治別以外に本牟智和気や品牟津和気という表記もあり、『尾張国風土記』(逸文)では品津別皇子となっている。
 これは応神天皇こと品陀和氣(誉田別)とも似すぎていて無関係とは思えない。

 以上のようなことを考え合わせると、誉牟治別は若彦こと天香語山のことではないかと思えてくる。
 本地大塚古墳の被葬者が天香語山かといえばそうではないだろうけど、少なくとも尾張氏の一族が関わっているのは間違いない。
 ホムチワケのホムが”品”とすると、瀬戸の品野(しなの)も何か関係がありそうだ。
 品地別が転じて本地別になったとするのは飛躍しすぎだろうか。

本地城について

 かつて本地村に本地城という中世の城があった。
 現在の西本地町1丁目のこのあたり(地図)で、築城されたのは室町時代中期の1470年代初めと考えられている。
 それに先立つ寛政年間(1460-1466年)に、三河国今村城主だった松原吉之丞一学が瀬戸の横山村に移って城を築いたことに始まる。
 後に松原城や今村城と呼ばれるその城があったのは、現在の共栄通5丁目、八王子神社(地図)があるあたりとされる。
 1460年代といえば1467年に始まる応仁の乱の前夜ということになる。信長は1534年生まれなので、その前の時代ということだ。
 応仁の乱で突然戦国時代が始まったわけではなく、それ以前から各地で小競り合いがたくさん起きていた。

 松原一族がどういう理由で三河国の今村から瀬戸に移ったのかは分からない。
 三河国の今村城は現在の安城市今本町1丁目の白山比売神社(地図)があるあたりと伝わる。
 直線距離にして25キロも離れた地に移るということは何らかのツテがあったはずで、何の当てもなくフラッとやってきたとは考えられない。
 一学の子の松原広長が城主の時代に勢力を広げ、上品野の桑下城(地図)主だった長江利景と対立することになった。
 そんな状況で築城されたのが本地城で、城主は一学の弟の松原平内と伝わる。
『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』も松原平内居といっている。
 おそらく、本地城は今村城の支城だったのだろう(距離は1.5キロほど)。
 そんな中、1482年(文明14年)に松原広長と長江利景との間で戦が起きる。
 安戸坂・大慎山の戦いと呼ばれるその戦で、松原広長は敗れて自刃し、平内も命を落とし、本地城は廃城となったという。
 ただ、松原一族の変遷や戦いについては別の説もあるようで、そのあたりは八王子神社(共栄通5)のところであらためて見ていくことにしたい。

今昔マップに見る本地村の変遷

 江戸時代の本地村の絵図も残っていると思うのだけど見る機会がなく(名古屋の図書館では貸し出し不可になっている)、当時の様子を絵図で確認することはできないのだけど、今昔マップを見れば、江戸時代から続く村の感じがだいたい想像できる。
 明治維新といっても日本中が急激に変わったわけではなくて、明治から大正にかけての地方は江戸時代とさほど変わらなかっただろうと思う。
 特に集落とか田んぼとかは大きな変化がなく、本当に変わるのは昭和の戦後以降のことだ。

 ではまず、明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 一見して村の中心がどこだったのかは分かりづらい。
 これは『尾張徇行記』にも書かれているように、1767年(明和4年)に起きた大洪水で大きな被害を受けて集落を分散せざるを得なかったせいだ。
 一番多く家が集まっているところは、宝生寺の周辺ということになる。
 宝生寺の前を東西に道が通っていて、この道沿いに民家が並んでいる。
 田んぼあるのは村の北で、矢田川流域だ。
 南を流れる本地川沿いの狭い土地も耕作地にしていたようだ。
 集落の南は丘陵地が広がっていて、当時は民家はなかっただろうと思う。
 八幡社があるのは集落から離れた北西で、北から流れてきた瀬戸川と東からの矢田川が合流する少し南に当たる。
 もともとこの場所に神社があったとは考えにくいので、どこか別の場所から移されたのではないかと思う。

 途中の地図がないので昭和前期の変遷は分からないのだけど、1968-1973年の地図を見ると、この頃までに363号線も通って、現在の町並みの基本形が出来上がっているのが分かる。
 田んぼは区画整理され、南丘陵地の西側が宅地化されて民家が建ち始めている。
 今の坂上町がそうだ。
 それがだんだん東にも広がって、坊金町が誕生している。
 村の西に愛知用水が通り、丘陵地には工場が増えていった。

 愛知用水は水不足に悩まされていた知多半島を救うためのもので、岐阜県加茂郡八百津町から知多半島南端の愛知県知多郡南知多町に至る112キロの人工の水路だ。
 かなり大がかりな工事で、昭和57年(1982年)に着工して、昭和61年(1986)に完成した。

 363号線沿いに店舗が増えていったのはそれほど昔ではなくて、ここ数十年のことだ。
 いい道路のわりに店が少ないなと思っていたのだけど、気づいたらいつの間にかたくさんの店が並んでいた。
 この道を真っ直ぐ西へ進むと名古屋城にぶつかり、東へ進むと名鉄瀬戸線の終点駅である尾張瀬戸駅に行き着く。
 道筋は今とは少し違っているものの、この道はすでに江戸時代には通っていた。
 瀬戸の陶磁器などを名古屋城下に運ぶために整備したのだろうけど、元になる道はもっとずっと古くからあったに違いない。

本地の警固祭り

 毎年10月の第二日曜日に警固祭りが行われている(かつては10月15日だった)。
 もともと秋祭りに八幡社に飾り馬を奉納する献馬行事(オマント)があり、その後、鉄砲を持った警固隊が付いたり、棒の手の奉納が行われるようになっていった。
 江戸時代は本地村の各シマから飾り馬を一頭ずつ出して八幡社の鳥居から境内まで馬を走らせる駆け馬が行われていたそうだ。
 戦後になって飾り馬一頭を奉納する今の形になった。

 これはかなり古い行事で、猿投山が深く関わっている。
 そのへんの話もどこかで書けるといいのだけど、ここではやめておく。

少し補足

『寛文村々覚書』は、本地村の神社として八幡の他に斎宮神と山神2社を挙げている。
『尾張徇行記』には「社宮司森今ハ社ナシ」とあり、『尾張志』も「社宮司ノ社ノ廢址」と書いているので、江戸時代の中期以降に斎宮司(社宮司)の社は廃れて跡地だけが残ったようだ。
 それがどこだったのかは調べがつかなかった。
 山神2社についても情報が得られなかったのだけど、おそらく明治になって八幡神社に合祀されたか移されたかしたのだと思う。
 現在の神社にある末社は、大神宮、山神社、御嶽社、津島社、琴平宮、忠霊社となっている。

整っている

 この神社を訪ねると、どこかと似ている印象を受ける。
 雰囲気なのか、空気感なのか、社殿や境内の様子からなのか。
 八幡らしい八幡という言い方もできる。
 一言で言うと、非常に整っている感じがする。境内の気が落ち着いていて、ザワザワしたところがない。
 幹線道路から少し入り込んでいったところにあって、どこかへの行き帰りに目に入ってついでに参っていくかということはなくて、意思を持って向かわないと行かない神社だと思う。
 いまだに残る田んぼの中にあって鎮守の森の雰囲気も残している。
 実は私も、363号線は何十回か百回以上通っているのに神社を参拝したのは今回が初めてだった。
 古社感といったものは全然ないのだけど、なかなかいい神社だなと思った。

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