MENU

本地ヶ原神社

白山社が昭和に復活

読み方ほんじがはら-じんじゃ
所在地尾張旭市南新町中畑237 地図
創建年昭和45年(1970年)
旧社格・等級等
祭神伊弉那美命(イザナミ)
アクセス市営地下鉄「藤が丘駅」から徒歩約60分
名鉄バス「本地ヶ原」から徒歩約5分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他秋祭り(10月第2日曜日)
神紋
オススメ度
ブログ記事尾張旭市の本地ヶ原神社再訪

元白山という自負

 ”本地”(ほんじ)と聞いてどこを思い浮かべるかは地元民でも違いがあると思う。
 私は市営本地荘があるあたりが真っ先に浮かぶから名古屋市守山区と思うのだけど、本地荘や本地丘小学校があるあたりだけが飛び地のように名古屋市に組み込まれていて、本地地区としては尾張旭市に属している。
 本地荘のエリアは南の四軒家や白山地区とは道一本で細くつながっている。
 市営本地荘を建てたのが名古屋市だったからというのもあるのだろうけど、それだけではない事情があったのかもしれない。だとすればそれはこの土地の歴史が関係している。

 本地という地名は本地荘以外にもあちこちに残っている。尾張旭市側は本地ヶ原という地名が多く、小学校は本地原小学校となっている。
 ここで紹介するのも本地ヶ原神社だ。
 本地以外に”白山”という地名が多く、なんで白山なんだろうと思っている人もいるかもしれない。
 それはかつてここに白山神社があったからなのだけど、それよりもこの地域全体が古くから白山と呼ばれていたからかもしれない。
 本地あたりに住んでいる人がうちは元白山なんだという自負を持っているかどうかは分からない。ただ、ある時代までは、この土地は白山だという認識があったのではないかと思う。白山であり本地でもあった。
 白山は”しらやま”だったかもしれないし、本地は”ほんち”だったかもしれない。

元白山神社ができるまで

 本地ヶ原神社が創建されたのは昭和45年(1970年)のことだ。
 なんだ、そんな新しいんだとがっかりするのは早い。
 この神社は元白山神社であり、その白山は奈良時代前期に創建されたという伝承を持つ古い神社だからだ。

 それではまず、元の白山神社ができるまでの歴史をざっと振り返ってみることにしよう。

 本地ヶ原神社があるあたりは、長坂丘陵と呼ばれている丘陵地帯だ。
 東は長坂遺跡公園(地図)、西は本地荘や本地丘小学校があるあたりまでの東西約1.5キロ、南北約0.5キロの低い丘陵で、丘陵上は幅100メートルから200メートルの平坦地で、江戸時代は”平山”や”白山林”(はくさんばやし)などと呼んでいた。
 昭和の宅地開発でかつての面影は消え失せてしまったのだけど、四軒家交差点から本地に向かっては上り坂で、本地荘は急勾配を上っていかないといけないので、ある程度地形は残っている。

 昭和45年(1971年)に長坂遺跡の発掘調査が行われ、弥生時代後期の住居跡が17軒、奈良時代の住居跡が3軒見つかった他、弥生時代後期の土器や須恵器、石鏃(せきぞく)や銅鏃なども出土した。
 弥生時代と奈良時代の間の遺跡や遺物が見つかっていないのは、この地に住んでいた人たちが他へ移ったためと考えられている。
 人が暮らしたのは2世紀前半で、その後、4世紀に丘陵上に古墳を築かれた(白山古墳)。
 その後も引き続き長坂古墳群と呼ばれる6基の古墳や、横穴式石室を持つ天狗岩古墳が造られることになる。
 天狗岩古墳は7世紀の築造と考えられるため、その間はこの場所は人が暮らす土地ではなく神聖な場所と考えられていたのだろう。
 そこへ奈良時代になるとまた人が住むようになる。
 こうした歴史を踏まえると、元の白山神社が神亀年間(724-729年)創建という伝承は正しいかもしれない。
 ただ、神社の起源はもっとずっと古いように思う。

江戸時代の稲葉村

 本地ヶ原神社があるあたりは江戸時代は稲葉村の村域だった。
 集落の中心は矢田川の北で、一之御前神社地図)あたりだ。
 一之御前神社が稲葉村の氏神だった。
 稲葉村はけっこう広くて、そこ以外にも集落は点在していたようだ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代の稲葉村の様子がなんとなく分かる。
 矢田川南の等高線が狭くなっているエリアが長坂丘陵に当たる。
 長坂丘陵と矢田川の間の土地を田んぼとして活用していたのも分かる。今の吉岡町から大塚町にかけて田んぼが広がっている。
 白山神社の鳥居マークが書かれていないのでどこにあったのかはこの地図では確認できない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)は稲葉村についてこう書いている。

家数 五拾壱軒
人数 参百拾七人
馬 弐拾六疋

社九ヶ所 内 白山 西之宮神 山神弐ヶ所 洲原大明神 八幡 県神 神明 氏神市之御前

『寛文村々覚書』

 家が51軒で村人が317人なので平均6人家族のわりと大きめの村だったようだ。
 特徴としては村の規模に対して神社が9社と多いことが挙げられる。
 この中で残ったのは氏神の市之御前(一之御前神社)だけだった。他は明治の終わりにすべて一之御前神社に移されて残っていない。
 ちょっと笑ってしまったのが次の一文だ。

白山林ニ松茸はえ候時分、印場村内庄中と当村立合 番之者出ス

『寛文村々覚書』

 白山林に松茸が生える時期は隣の印場村の出郷だった庄内の人間と稲葉村の人間が共同で番をしていたというのだ。
 もちろんそれは、松茸を盗まれないためだ。江戸時代にもやっぱり松茸泥棒がいたんだと思うとちょっと可笑しい。
 このあたりでも松茸が採れたのも驚きだけど、やはり江戸時代の人にとっても松茸は秋の楽しみだったのだろう。
 江戸時代の大森村あたりでも年間に何人か狼に殺されたという記録もあるくらいだから、江戸時代の人たち暮らしは我々が思う以上に自然とともにあったということだ。

『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。

社九区、覚書ニ白山、西宮神、山神二社、洲原大明神、八幡、縣神、神明、氏神一ノ御前除地ノコトヲ不記

印場村渋川社人浅見直彦書上ニ、氏神一ノ御前熊野社境内東西十五間南北十間前々除、勧請ノ年暦は不知、寛文三年氏子再建ス、白山社御野林内七段五畝歩此社モ勧請年暦ハ不知、寛文五巳年貞松院殿御再建アリ、其後修造ハ御林方役所ヨリ掌之、白山社内ニ山神アリ、同村ノ内山神社内二段歩、神子ヶ盛ノ内縣神社内五畝歩、
八幡社内二畝歩、石神社内一畝歩共ニ前々除

『尾張徇行記』

『寛文村々覚書』に神社が除地になっているのを書いていないことを指摘している。
 白山社については勧請の年は不明で、「寛文五巳年貞松院殿御再建アリ」といっている。
 寛文五年は1665年で、貞松院は尾張藩初代藩主で家康九男の徳川義直の側室を指している。その貞松院が1665年に白山社を再建したということだ。
 この話は意外というか唐突というかどういうことだろうという疑問を抱く。
 尾張徳川家藩主の側室が神社を再建したなどというのは、名古屋の神社では出てこない話だ。
 興味を持ったので少し順を追って確認してみたい。

 名古屋城主で初代尾張藩藩主は本来であれば家康の四男で清洲藩主の松平忠吉(まつだいらただよし)だったかもしれない。しかし、若くして病気で亡くなってしまったため、九男の義直が後を継ぐことになった。
 そのあたりの経緯については富部神社のとこで書いた。
 義直の正室は紀州藩主だった浅野幸長(あさのよしなが)の娘の春姫(高原院)で、婚姻が成ったのが1615年のことだ。
 しかし、春姫に子供ができなかったことから幕府の勧めで側室を置くこととなり、そこで選ばれたのが貞松院(佐井)だった。
 この貞松院は津田信益(つだのぶます)の娘で、後水尾天皇の中宮の東福門院(徳川秀忠の娘)に仕えており、津田信益は尾張犬山城主であった織田信清(おだのぶきよ)の子に当たる(織田信長の従甥)。
 貞松院が側室になったのが1624年(寛永元年)で、2年後の1626年(寛永3年)にお京(普峯院)という女の子が生まれている(後に男子も出産)。
 その後、1635年(寛永12年)に義直正室の春姫が36歳で亡くなると、貞松院が継室になったようだ。
 それから15年後の1650年(慶安3年)に義直が死去。遺言で瀬戸の定光寺に葬られた。
 貞松院は1684年(貞享元年)まで生きるのだけど、白山社を創建した1665年というのは、すでに義直も亡くなった後ということになる。
 2代藩主の光友は自分の子ではないものの、光友から見れば先代で父の義直の正室(継室)ということで地位も権力もお金もあったと推測できる。
 それにしても、名古屋城下から遠く離れた田舎村の神社を再建したというのはどういうことだったのだろう。
 尾張徳川家と関係があったとは思えないし、貞松院と稲葉村や白山の接点は見えない。
『寛文村々覚書』が作られたのは1670年の前後数年間で、1665年といえばつい最近の出来事だ。遠い昔の伝承でもないので間違えようがないし、嘘を書く理由もない。
 再建といってもお金を出しただけかもしれないけど、それにしてもこうやって名前が出てくるということは何らかの形で関わったには違いない。
 たまたま稲葉村の白山の関係者と近しい間柄だったといったことかもしれないけど、何か別の事情があっただろうか。
 織田家と白山はあまり表沙汰になっていない深い関係があったので、そのあたりの何かつながりがあったのかもしれない。

 話を戻そう。
『尾張志』(1844年)は、一ノ御前社の他に、「白山社、洲原社、神明社、熊野社、以上稻葉むらにあり」と簡単に書いている。

村絵図と今昔マップで辿る稲葉村

 稲葉村の絵図は天保12年(1841年)のものと年代不明のものが残されている(不明の方は寛政5年(1793年)ともいう)。
 白山は矢田川の南、高い木に囲まれて”白山宮”と書かれている。
 近くに山神と洲原がある。
 集落の中心は矢田川の北、一之御前神社があるあたりや、その他にもいくつかの集落があったようだ。

 今昔マップの1888-1898年のものは、江戸時代の絵図から50年後くらいなので、大きくは変わっていないと考えてよさそうだ。
 明治維新といっても大きく変化したのは江戸とか大都市のことで、田舎の村はそれほど急激な変化はなかったはずだ。
 1905年(明治38年)に瀬戸電気鉄道が開業したものの、稲葉村のだいぶ北だったので稲葉村や白山林のあたりはほとんど影響を受けていない。
 地図を見て気づくのは、東の中央通りと西の長坂通りの道筋が今とはずいぶん違っていることだ。
 途中の地図がないので詳しい経緯は分からないのだけど、1968-1973年の地図では白山林の南が区画整理されており、1976-1980年の地図では白山林だったところも宅地化されて家が建ち始めている。
 地図の推移から見て、このあたりは1970年代に激変したのが分かる。
 1960年代から1970年代は団地ブームで、市営本地荘が作られたのも1971年(昭和46年)だった(1973年まで)。
 本地ヶ原神社が創建された昭和45年(1970年)というのも、こういった時代背景や街の移り変わりと無縁ではない。

明治から平成にかけての白山林と白山社

 白山社の経緯について、ここであらためて整理しておくことにする。
 もともとの白山社は長坂丘陵(白山林)の東にあった。現在の長坂遺跡公園の北東あたりだったという。
 なので、現在本地ヶ原神社が建っているあたりではないということだ。
 明治44年(1911年)に、国の神社合祀政策を受けて一之御前神社に合祀された。
 このとき、村にあった八幡社、山神社(3社)、洲原社、石神社、神明社、県神社の9社も同じように一之御前神社に移されている。
 白山社の跡地は陸軍に接収され、陸軍の演習地となった。
 それが昭和の戦中まで続き、戦後になって演習地の跡地が宅地化され、白山社も祠だけで復活させたようだ。
 昭和40年代になって本地ヶ原一帯が住宅地となり、住民も増えたことで神社が必要だということになったのだろう。
 新しく建てるにしても、もともとここには白山社があったのだから白山社を復活させようという話になったのもうなずける。
 一之御前神社に合祀されていた白山社を復祀という形で移して建てたのが本地ヶ原神社だった。
 それでいうと、本地ヶ原神社は新白山社といっていいと思う。
 最初のサブタイトル、”元白山としての自負”というのはそういうことだ。

 平成元年(1989年)に行われた発掘調査で思いがけないものが土中から見つかった。
 現在の本地ヶ原神社の片隅に建っている「元白山神社」と彫られた石柱がそれだ。
 その場所は長坂遺跡の北東で、白山第3号古墳があると考えられていたところだ。
 石碑は明治44年(1911年)に白山神社が一之御前神社に合祀された際に跡地に置かれたもので、その後、陸軍の演習場になったときに邪魔になって埋めたのではないかと考えられている。

稲葉村の毛受さん

 戦国時代の武将に毛受勝照(めんじゅかつてる)という人がいる(毛受勝助家照とも)。
 一般的な知名度はほとんどないと思うのだけど、尾張旭市の人なら知っているだろうか。
 尾張旭市文化会館の前に建っている銅像の人が毛受勝照だ。
 その毛受勝照は稲葉村の出身と伝わっている。

『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

人物志曰、毛受茂左衛門利正、春日井郡稲葉村人、仕柴田勝家、其先中嶋郡毛受村之産地、故為氏
又曰、毛受勝助家照(或家利)春日井郡稲葉村人而茂左衛門之弟也、
共仕勝家而死之、按天正十一年癸未四月二十一日也

太閤記曰、毛受勝介ハ、尾州春日井郡稲葉村ノ人也、柴田修理勝家ニ十二歳ノ頃ヨリ事ヘ、後ハ小姓頭ニ任シ、
一万石ヲ領ス、素性信篤ク古風ヲ事トシ母ニ孝アリ、勝家敗北ノ折節、舎兄茂左衛門尉モロトモ忠死ヲ決シ、其名尤カウハシト云

『尾張徇行記』

 毛受茂左衛門利正または毛受勝助家照(或家利)としていて、他にもいくつか名前があったようなのだけど、柴田勝家に仕える武将だった。
 柴田勝家は上社村(名東区上社)の出身とされるので、距離的には遠くない。
 12歳から小姓として仕え、のちに小姓頭になっている。
 この毛受勝照は新居城主の水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父の代に稲葉村に移って開墾して、姓を”毛受”と改めたという話がある。
 しかし、『尾張徇行記』は、先祖が中嶋郡毛受村の出身だったので毛受を名乗ったと書いている。
 尾張旭市内に新居城、渋川城、印場城、井田城、井田東城、瀬戸川城、狩宿城があったことは知られているものの、稲葉村に城はなかったようだ。
 これらの城のほとんどは信長の勢力下に入っていたようなのだけど、勝照の父の毛受照昌は城主の家柄ではなかったのか、水野家がすでに力を失っていただろうか。

 毛受勝照は勝家に従って天正2年(1574年)の伊勢長島攻めで武功を挙げたことが伝わっている。
 賤ヶ岳の戦いでは勝家を逃がすために身代わりとなって兄の茂左衛門とともに戦死した。25歳だった。
 その話を聞いた秀吉は忠義を褒め、毛受兄弟の首を母の元に送ったという。
 江戸時代になって毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治に姓を水野に戻したそうだ。

『尾張徇行記』も、「素性信篤ク古風ヲ事トシ母ニ孝アリ」と書いているから、そういう人物だったという話が伝わったのだろう。

稲葉村と白山林の戦い

 白山林の戦いというと、戦国好きなら小牧長久手の戦いの一つというのを知っているかもしれない。
 この白山林は、元の白山社があった白山林(長坂丘陵)のことをいっている。
 白山林の戦いについて書こうと思ったのだけど、尾張旭市のページに詳しく書かれているので、そちらに任せてしまおう。興味がある方はそちらを読んでみてください。
 簡単に書いておくと、そもそも小牧長久手の戦いは、信長が本能寺の変(1582年)で討たれた後の後継者争いから怒った戦で、秀吉と家康の唯一の直接対決といういわれ方をするのだけど、始まりは信長の次男の信雄と秀吉の争いだった。分が悪かった信雄が家康に助けを求めたことで、秀吉と家康の戦いになっていく。
 家康にとってみれば秀吉を叩くチャンスと見たのだろうけど、最終的には信雄が勝手に秀吉を和睦してしまったため、引き分けに終わった。
 信長の長男の信忠は出来がよかったようなので、本能寺の変のときに命を落としていなかったら、そのまま織田政権が続いていた可能性が高い。
 対して次男の信雄はすこぶる評判が悪かった。
「信雄様のすることよ」
 家臣たちはいつもそう言っていたという話が伝わっている。

 白山林の戦いは小牧長久手の戦いへとつながる局地戦だった。
 小牧山城に陣を構えた家康・信雄と、犬山城から楽田城に入った秀吉とのにらみ合いが続く中、先に動いたのは秀吉側だった。
 家康が留守の岡崎城を落としてしまえば戦局が有利に働くと踏んで別働隊として池田恒興、森長可、堀秀政を岡崎へ向わせた。秀吉方の大将だった三好信吉(羽柴秀次)もそれに続く。
 先発の池田恒興隊が岩崎城を攻めていた頃、しんがりだった三好信吉は白山林に陣取って朝早い朝食を食べていた。
 旧暦4月9日の朝4時半頃だったというから、夜明け前の暗い時間帯だ。
 そこへ背後から水野忠重、丹羽氏次、大須賀康高らが、側面から榊原康政らが襲いかかってきたからたまらない。
 完全に不意打ちを食らって三好信吉隊は壊滅。生き残った者はちりぢりに逃げ出した。
 三好信吉も自身の馬を失ってさまよっている中、たまたま通りかかった家臣の可児才蔵(かにさいぞう)に馬を貸すように命じるも拒否されてしまう。
 才蔵は「雨の日の傘に候」と言ったなどという話も伝わっている。
 続いて出会ったのが木下勘解由利匡(きのしたかげゆとしさだ)だった。木下という名前からも分かるようにが木下勘解由は秀吉(木下藤吉郎)の身内だったこともあり断り切れずに馬を貸して、結果として徳川勢と戦って討ち死にしてしまう。

 どうにか生き延びた三好信吉は後に秀吉の養子となり、羽柴秀次と名を改めて、秀吉から関白の位を受け継ぐことになった。
 しかし、晩年の秀吉に実子の秀頼が生まれたことで風向きが怪しくなる。
 1595年、突然謀反の疑いをかけられた。
 いろいろあって最終的に切腹を命じられて命を落とすことになるのだけど、それだけにとどまらず、秀次の妻子や側室、侍女や乳母まで、39人が斬首という悲惨なことになってしまった。
 どんな理由があったにせよ、このときの秀吉は正気ではなかったのではないか。
 歴史にもしはないとはよく言われることだけど、もし秀次(三好信吉)が白山林の戦いで戦死していたら秀次の命だけで済んだのにと思ってしまう。
 白山林の戦いの1584年から1595年までの11年間が無意味だったとはいわないけど。

現在の本地ヶ原神社

 現在の本地ヶ原神社には本社の他に、兜神社、北野天満社、黒石大明神の三社が境内社として祀られている。
 兜神社は小牧長久手の戦いの戦死者を弔うためのものという。
 北野天満宮は本地ヶ原神社創建の際(昭和45年)に京都の北野天満宮(公式サイト)から勧請したものだ。
 境内にある牛像は平成15年(2003年)に奉納されたものだそうだ。
 黒石大明神に関しては情報がなくてよく分からないのだけど、たぶんこれはこの土地の重要な神を祀っている。
 もしかすると縣神の代わりかもしれない。
 神社の南に黒石という地名が残っていて、これは”雲石”が転じたものと聞いている。
 中心の雲から八方向に伸ばして八雲を作り、そこから出ると出雲になる。
 その境界に石を置いて雲石と呼び、後にそれが黒石という地名に転じたのだとか。
 ”雲”は”熊”にも転じていて、熊野社はもともと”雲の社”だった。
 長久手市に残る前熊といった地名も、雲の前だったことから前雲と呼ばれて前熊に転じたと考えられる。

 社殿が新しいのは平成15年(2003年)に再建したためだ。
 古い写真を見ると、それ以前はもっとこぢんまりとした社殿だったようだ。
 今になってみると、昭和の本地ヶ原神社も見ておきたかったところだけど、20年以上前となると、その当時の私は神社になどほとんど興味がなかった。
 平成15年なら最近のようなものだし、昭和の写真はたくさん残っているだろうから、どなたかネットにアップしてもらえるとありがたいのだけど。

ここが”本地”であるということ

 境内に「天狗のかかと岩」の話が書かれた案内板がある。
 そこにはこんなことが書かれている。

 むかしむかし、この本地ヶ原一帯はうっそうと茂った「白山」と呼ばれる森でした。この白山には一人の天狗が住んでいて、くる日も、くる日も、山の上から村の方を見下ろしては、「なまけ者はいないか、泣き虫の子はいないか」とさがしていました。雨の日には、天狗の火で山が青白く光って見えたりしました。村の人たちは、泣いてばかりいる子や、ひどいいたずら坊主に「そんな子は、天狗がさらっていくぞ」と言ったものでした。

 ある日、白山の天狗は猿投山に住む仲間の天狗に急用があって、出かけることになりました。ひとっとびに飛んで行くには、すこしばかり遠いのかで、がけの上にあった石を踏み台にして「えいっ!」とばかりに飛んでいきました。ところが、いつもより強くふんだので、石の上に足のかかとがめりこんで、あとが残ってしまったということです。

 多くの人は荒唐無稽な昔話として深く考えないだろうけど、この手の昔話には必ず元ネタとでもいうべき事実があって無視できないものだ。誰かが頭の中で考えた空想物語ではない。
 境内には穴の空いた大きな岩が置かれていて、これがその岩などという。
 もちろん、天狗が踏んでできた穴だといいたいのではない。
 この岩は7世紀に築造された天狗岩古墳の天井石と考えられている。
 もともとは白山林の山頂付近に置かれていた。
 同じように穴の空いた岩が猿投山にもあるそうなのだけど、私は確認していない。
 問題は猿投山が出てくることで、この話は本地の歴史を紐解く上で重大な鍵を握っている。

 猿投山(さなげやま/629m)は、本地の白山から見てほぼ真西、12キロほどのところに位置している。
 この猿投山には大碓命(オオウス)と第12代景行天皇の伝承が残されている。
 麓には大碓命を祀る猿投神社(豊田市)があり、三河国三宮だった。
 山の上には猿投神社の奥宮と大碓命の墓もある。
 これは宮内庁も治定(じじょう)していることなので、まったくの作り話ではない。
 猿投山の名前の由来として、景行天皇が可愛がっていた猿がいたずらばかりするので怒って伊勢の海に投げたら、猿は泳いで陸に上がって山に逃げ込み、それ以来、その山は猿投山と呼ばれるようになったという話がある。
 これも何らかの事実を反映している。
 大碓命は景行天皇の王子であり、日本武尊(ヤマトタケル)の兄とされる人物だ(『日本書紀』は双子としている)。
 この猿投山の天狗と本地白山の天狗が仲間だった、というのがこの話のツボだ。
 本地白山は尾張側で、猿投山は三河側ということになる。

 山神社(瀬戸川)のページに”あがたぎ”の話を書いた。
 あがたぎの森の木は伐っていけない神聖な場所で、昔そこに本地の山から降りてきた人が村の祖先になったという話だ。
 本地の山というのが白山林(長坂丘陵)のことだとすると、井田や瀬戸川、狩宿といったあたりを開拓したのはこの一族だったということになる。
 それはまず間違いなく尾張氏の一族だ。
 尾張旭市一帯で祀られた縣神というのは、その一族の祖である可能性が高い。
 時期としては長坂遺跡から人の痕跡が消える2世紀後半から3世紀というのが考えられる。
 稲葉村の一之御前神社は本地の神に対する遙拝所だったのではないかという推測をしたけど、”一の御前”という名前からしても、本地の神とは関係が深いに違いない。
 ”本地”というのはつまり、その一族の本拠地、あるいは元地だったと考えていいと思う。
 だとすれば、白山社の起源もその時代まで遡れるのではないか。
 白山は”はくさん”ではなく”しらやま”で考えるべきで、どうして”白”なのかを説明すると長くなるのでやめるけど、中心の雲を卵の黄身にたとえると、この地は白身に当たるということだ。
 上に書いたように雲石があった場所でもある。

 尾張旭市というと名古屋のベッドタウンで新しい街というイメージが強いけど、実は古い歴史を持つ土地だ。
 たいした遺跡や古墳もないと思っているだろうけど、それは隠されていて知らされていないだけだ。
 今上天皇が即位後初の地方公務で、尾張旭市の森林公園で植樹をしたのは何故だったのか?
 たまたま全国植樹祭のスケジュールでそうなったなどと考えてはいけない。天皇の行動はすべて意味があって、たまたまなんてことはない。
 植樹した木が檜(ヒノキ)と棈(アベマキ)だったのも、もちろん意図したものだ。そこには隠されたメッセージがある。
 モリコロパークにジブリパークができたのも、『君たちはどう生きるか』の主人公の名前が牧眞人なのも、全部つながっている。
 天皇は稲沢にも行っているけど、公表されていない場所も回ったと聞いている。
 尾張と三河の一木、二木、三木にも挨拶にいったそうだ。
 天皇は御代理様だから。

 本地ヶ原神社なんて昭和にできた新しい神社だからたいした価値はないなどと思うのは間違いだ。
 歴史のある土地にある歴史のある神社を前身としているというだけでも価値は高い。
 特に本地の人たちには本地ヶ原神社をこれからも大事にしていってほしいと思う。

作成日 2024.5.6


HOME 尾張旭市