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大目神社

”おおめ”か”おおま”か?

読み方おおめ(おおま)-じんじゃ
所在地瀬戸市巡間町1番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等十二等級・旧指定村社 延喜式内(論社)
祭神天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)
天之菩日命神(アメノホヒ)
天津日子根命(アマツヒコネ)
活津日子根命(イクツヒコネ)
熊野久須毘命(クマノクスヒ)
多紀理姫命(タギリヒメ)
市杵島姫命(イチキシマヒメ)
多岐都姫命(タギツヒメ)
アクセス名鉄バス「八王子停留所」から徒歩約15分
駐車場あり?(境内)
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日に近い日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

”おおめ”か”おおま”か

 大目神社の読み方は、”おおめ”と”おおま”があって、どちらともはっきりしない。
『愛知縣神社名鑑』にはフリガナがなく、公式サイトもないので何とも言えないのだけど、地元では”おおま”と呼んでいるようだ。
 ただ、登録名としては”おおめ”なのかもしれない。
 とりあえず、ここでは”おおめ”ということで進めたい。

お守り塚から来ている(らしい)

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

元赤津村の氏神にて古くは八王子社と呼ばれ、鎮座地を大目森又御守塚といった。
「延喜式神名帳」に山田郡 大目ノ神社とある。「本国神名帳」 に従三位大目天神と記るす。
「尾張府志」に由緒を詳 しく述べておる。明治五年村社に列格し、同四十年十 月二十六日供進指定を受けた。
昭和五十年十月、拝殿 を改築する。
天保十一年(一八四〇)十月、神宝調の際、本殿に尾張国神名帳古写一巻あり奥書に奉納大目八王子宮”と記るし、祈祷札に大目八王子大明神御神前、天和三癸亥(一六八三)正月二十二日祭主敬白”と記るされたことにより式内社大目神社に比定さ れた。

 情報が多いので一つずつ確認していくことにする。

 まず、神社は江戸時代まで赤津村(あかづ)と呼ばれた村の氏神で、八王子と呼ばれていた。
 これは祭神問題をあわせて後ほど考えることにしたい。

 それから、神社がある場所を”大目森”または”御守塚”と呼んでいたという。
 ここでの読みは”おおまもり”だったようで、”大御守(おおおまもり)”が”おおまもり”に縮まったというのは充分考えられることだ。
 おおまもりに大目森の字を当てて、それが神社名として大目神社になったという流れも理解できる。
 ただ、ここで”目”という字を当てるというのが自然かというとちょっと違和感がある。
 ”守”る”塚”なら、そのまま大守神社でもよかった気がする。
 そこにあえて”目”という字を当てたということは何か意味があったのではないか。
 文字通り何かの目だったのかもしれない。
 守っていた塚というのは古墳のことだろうと思う。
 本殿の裏に10メートルほどの円墳があり、7世紀頃の築造と考えられている。
 しかし、これはダミーの匂いがする。
 本当に守るべき大事な塚、あるいは”目”は他にあったのではないだろうか。

『尾張国内神名帳』の「国府宮威徳院蔵本」では大目天神に”ヲホモク”というフリガナを付けている。
 後世に付けられた中世風の読みかもしれないのだけど、もともと”オオマ”ではなく”ヲホモク(オオモク)”の呼び名が先だった可能性がなくはない。
 ”お守り”が後付けで”目”が先だったということだ。

 八王子社と呼ばれていた神社がどうして『延喜式』神名帳(927年)の大目神社とされるようになったのかについては『尾張志』が詳しく書いているのでそちらを読んでみることにする。

100%信じていいのか?

『尾張志』(1844年)はこう書く。

大目ノ神社
赤津村の氏神にて今八王子社と稱すその地を大目森(オホマモリ)といひ今は御守塚とも呼り
天保十一年十月故ありて常社を開扉し神寶等を改めしに内陣上段の中央に御神体御正印の御箱ありて布にて覆い赤地の錦の御褥をしき安置し奉り左右に古き八王子の神像又御船形(御船は中古のものと見へてさまて古からす)あり上段は生絹の壁代幅三巾長九尺はかりなるにて帳のごとく張たて覆へり御正印の箱の脇に古き獅子頭一具本國帳の古寫巻物一巻あり其奥書に奉納大目八王子宮と記せり永祿元龜の頃のうつしとおほしきもの也又祈禱札とおほしきものありて玉躰御繁榮太守御繁昌尾陽亞相御繁昌所民子息災延命富貴繁昌牛馬蹄仁至迄安鎮守護大目八王子大明神御神前天和三年癸亥正月廿二日祭主敬白と見えたり
ここにおいてはしめて延喜神名式に載たる山田ノ郡大目ノ神社又本園神名帳の従三位大目天神とあるはこの社なる事をさとれり
さて又當社ひかし祠官ありて中島とよひしもいつしか絶家して今は應永の頃中島善太夫がすみし地にて中島ノ切といふ名のみ残り
且社の方に神事池といふ溜池又雷神と稱する用水池もありて舊社によしある事とも甚多し彼是を合せ考ふへし又西杉村の大日の森を大目の誤字より傳へ誤りてかく大日と呼へならひたりといふ説もありて此社なるへしといふ考へもあれどいかかあらん

 簡単に要約すると、天保11年(1840年)に社殿を開けて神宝を確認したところ、本國帳を写した古い巻物一巻が出てきて、その奥書に「奉納大目八王子宮」と記されていたことから、当時八王子社と呼ばれていたこの神社が『延喜式』神名帳に載っている山田郡大目神社だということが分かったということだ。
 1840年というと、『尾張志』の編纂作業が始まるか始まらないかといったタイミングで、早速その新情報を『尾張志』は採用したことになる。
 これ以前の『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)では八王子としていて大目神社とはいっていない。
『尾張名所図会』も上巻7巻の発刊は1844年で、序に天保十二年(1841年)とあるので、この発見を受けて大目神社とし、「同村(赤津村)にあり 今八王子と稱す」と書いている。

 ”本国帳”は『尾張国内神名帳』のことで、オリジナルは平安時代末あたりに作られたとされる。
 少し気になったのは、このとき発見された写しが「永祿元龜の頃のうつしとおほしきもの」といっている点だ。
 永禄元年は1558年で元亀の終わりが1573年なので、ちょうど信長が活躍していた時代だ。つまり、写し自体はそれほど古いものではない。
 1840年から見れば1550年代は300年近く前の大昔だけど、『寛文村々覚書』がまとめられた1670年代からすれば100年くらい前のことでしかない。
 古い創建の由緒が失われてしまうことはよくあることだけど、『延喜式』に載っている神社かどうかくらいは神社でも村でも伝わっていておかしくない。
 延喜式内社かどうかは神社の格を決定づけるという意味でも重要だったはずで、それがわずか100年で完全に失われてしまうかなと考えると少し疑問だ。

 続けて『尾張志』は、神社の近くに神事池や雷神池などもあって、古そうな感じだからそうなのだろうとしつつ、西杉村の大日の森は大目の森の誤りという伝承があることも付け加えている。
 西杉村(杉村)にも八王子があって、名古屋城築城の際に志水に移された。今の八王子神社春日神社がそうだ。
 これは勘ぐりすぎといわれそうだけど、西杉村にある(あった)大日の森が本来は大目の森で、そこに八王子があったとすると、この大目八王子に奉納された『尾張国内神名帳』の写しが何らかの理由で瀬戸赤津の八王子に移ったという可能性はないだろうか。
 いや、やはりそれは考えすぎか。

『尾張国内神名帳』の記載順が位置関係を示しているかどうかはこれまで何度か問題にしてきたのだけど、あらためてここで並び順を確認してみると、「熱田座主如法院蔵本」で山田郡は以下のような並びになっている。

(従三位上) 羊天神 坂庭天神 澁河天神 大檐天神 金天神 尾張戸天神 深河天神 大井天神 大目天神 石作天神 桁幡天神 尾張田天神 大江天神 和田天神 片山天神 河嶋天神 和示天神 小口天神 (三位) 川原天神 夜檐天神 伊奴天神 牟久杜天神 山口天神 實々天神

 北区(辻村)から始まって東に向かい、守山区、尾張旭市、瀬戸市、長久手市といった並びになっていて、大目天神は大井天神と石作天神の間に入っている。
 大井天神が今のどの神社に当たるのかという問題があるのだけど、金天神(瀬戸市水野)、深川天神(瀬戸市瀬戸村)に続くというのは自然な順に思える。
 もし西杉村の八王子だとすると、羊天神の前後か、ぐるっと時計回りしてきた片山天神の前後あたりになりそうな気がする。

 で、結局のところ、瀬戸市赤津の元八王子は大目神社なのかどうかだけど、個人的には半々くらいの感じでいる。
 間違いないと決めつけるのは危ういし、たぶん違うだろうなという感触もない。
 たぶんそうなんだろうけど、何か引っ掛かるというのが正直なところだ。 

諸説アリ

 上に書いた1840年の”発見”以前、延喜式内の大目神社はどこの神社なのか分からなくなっていた。
 津田正生が『尾張神名帳集訂考』(『尾張国神社考』)を完成させたのは1850年なのだけど、この時点でも津田正生の認識としては瀬戸赤津の八王子を大目神社とは思っていなかったようで、以下のように書いている。

従三位 大目神社天神 【野部茂富曰】 下大留村(しもおほどめ)天神是なるべし

 津田正生は当然『尾張志』を読んでいただろうけど(編纂にも間接的に関わっていたかもしれない)、気づかなかったかスルーしたのか、信じなかったのか。
 野部茂富というのがどういう人物だったのかよく分からないのだけど、『尾張国地名考』の中でも出てくるので津田正生の仲間だったのだろう。
 下大留村は今の春日井市大留町で、ここが山田郡だったかという問題はあるものの、大留が”大の目”から来ているという説は一考する価値がある。
 コトバンクの「上大富村・下大富村 かみおおどめむら・しもおおどめむら」の項を以下に引用してみよう。

神領(じんりよう)村の東隣、庄内川に沿う。「尾張国地名考」に「野部茂富曰、大留はもと大の目の転声なるべし」とあり、「徇行記」にも村名の表記は上大留・下大留となっているが、内々(うつつ)神社の宝物、湯立神楽の釜には上大富村・下大富村と記される。
古文書(「高蔵寺町誌」所収)に乎止江村とあり、尾張氏の祖乎止与命(小豊命)にちなむ名と考えられる。
文明九年(一四七七)から天文年間(一五三二―五五)にかけての寄進の様子を伝える円福寺寄進田帳(円福寺蔵)に「大留田嶋彦四郎母寄進」とある。

 とても興味深い内容だ。
 大留が大の目から転じたということだけではなく、乎止江村と表記した例もあって、乎止与命(オトヨ)との関連を指摘している点が見逃せない。
 春日井市の内々神社は、日本武尊(ヤマトタケル)とともに東征に従った尾張氏の建稲種(タケイナダネ)の死の知らせを日本武尊が聞いた地という伝承があり、尾張氏とのゆかりが深い。
 建稲種は乎止与の子とされている。
 大富村という表記は『尾張志』でもそうなので、留よりも好字の富を当てることもあったということだろう。

 下大富村がかつて山田郡であり得たかという点については、あり得ると個人的には思っている。
 古い時代の山田郡と春部郡との境界は曖昧で、飛び地があったと考えないと辻褄が合わない神社がいくつもある。
 小牧市にある尾張神社などもそうで、あそこが山田郡なら現在の春日井市の一部が山田郡だったとしてもおかしくはない。

 ”下大富村の天神”というのがどこの神社のことをいっているのかについてはよく分からない。
『尾張徇行記』(1822年)では下大富村の神社は神明社2社で、『尾張志』(1844年)では加えて天白神社が載っている。
 この天白神社が怪しいけど、何とも言えない。
 もともとの大目神社は江戸時代にはすでに失われていた可能性もある。

赤津は開かず?

 この神社は江戸時代まで赤津村と呼ばれた場所にあるというのは上に書いた。 
 興味深いというか、何かありそうなのが、赤津が”あかづ”と濁る点だ。
 津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。

赤津村 あかづ 豆濁音
支村三 山路(やまち) 白阪(しらさか) 北竃(きたがま)
【松平君山曰】いにしへ□津とも書有
【正生考】地名未考或赤土の下略に出る歟

 赤津は普通に読めば”あかつ”と濁らないはずだ。
 津は船の集積地(湊)を意味する言葉で、三重県の津や滋賀県の大津、会津、木津などがよく知られている。
 会津も木津も濁るから赤津が濁っても不思議はないのだけど、赤津村というのは山間の谷間の村で船の集積地のようなところではない。
 津田正生は由来が思いつかず、赤土から転じたのかと推測しているけど自信はなさげだ。
 私は”開かず”を連想する。開かずの間とかの”あかず”だ。
 何かを隠して”開かず”としたのではないか。
 だとすれば、八王子社(大目神社)にも何か裏がありそうに思えてくる。

江戸時代の赤津村について

『寛文村々覚書』(1670年頃)から赤津村についての情報を拾ってみる。

山田庄 赤津村

家数 百七拾軒
人数 六百七拾五人
馬 拾弐疋

禅宗 越前国永平寺末寺 大龍山雲興寺
寺内壱町五反歩
松山六拾町
田畑四反三畝歩
安藤対馬守証文除

外二毘沙門林壱町弐反歩

高田宗 勢州一身田末寺 関尾山万徳寺
 寺内三反歩 前々除
 外ニ松山拾町八反歩 松平下総守広長証文除

観音堂地内壱反步 前々除 当村山伏 永宝院持分

社拾ヶ所
 内 八王子 八幡両社 明神 白山 赤堂子 山神四ヶ所
 社内九町四反四畝拾五步 前々除
 当村祢宜 善太夫持分

古城跡壱ヶ所 先年熊沢藤三郎居城之由、今ハ畑ニ成

 まず、家数170軒で村人が675人というのは、尾張では大きい村になる。
 これは焼き物の産地だったことも関係ありそうだ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、山間にぽっかり空いた谷間に田んぼがあって丘陵地の麓に民家が並んでいた様子が見て取れる。
 赤津川が山地を削ってできた地形で、このあたりには古くから人が暮らしていたことが分かっている(後述)。

 主要な寺は雲興寺と万徳寺で、神社は10社あった。
 いずれも前々除(まえまえよけ)なので、1608年の備前検地以前からあったということだ。
 八王子が今の大目神社で、他は残っていないので明治以降に合祀されたか廃社になったのだろう。
 古城跡についても後ほどということにしたい。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。
 まずは神社関連から。

社十区覚書ニ、八王子・八幡二社・明神・白山・赤童子・山神四社
境内九町四段四十五歩前々除、当村祢宜善太夫持分
庄屋書上二八王子社内東西一町南北二町
神明社内東西二町半南北二町、白山社内東西一町南北二町、
八幡社内東西一町南北三十間、赤童子社内東西 二十五間南北十五間、
山神社内東西十五間南北八間、 又山神社内十間四方社ナシ、
何レモ御除地
善声院書上ニ、当村ノ内中島山神社内東西十間南北十二間、白坂山神社内東西十五間南北十二間共ニ御除地

『寛文村々覚書』の内容を補足したもので、それぞれの神社の広さを知れる以外は特に目新しい情報はない。
 1町は109メートルなので、どの神社もさほど広くない。
 江戸時代前期から顔ぶれは変わっていなかったようだ。

 続いて寺について詳しく書いているので一部を引用しておく。

雲興寺、府志曰、在赤津村白坂、号大龍山、属三淵正眼寺、応永七庚辰年、曹洞永平寺伝天鷹祖祐和尚創建之、初祐住下津正眼寺、日有肥遁之志、遂尋泉石幽僻、相攸白坂以東高松山毘沙門堂之古霊場、開創一草堂、
名毘沙門山高松寺、明年辛巳為野火焼、因易地移白坂洞中、盖以旧地湫隘不便容衆、且以瀬戸赤津村民頻相延請也、祐開法之日、大龍興雲、満山雨瑞、故山号大龍寺、扁雲興
(後略)

万徳寺、府志曰、在赤津村、号関尾山、高田宗、属一身田専修寺
塔頭宝如坊善知坊覚書ニ寺内三段歩前々除、外二松山十町八段歩松原下総守広長証文除
寺内三段山三町四方御除地
寺記ニ抑尾張国春日井郡赤津村高田宗関尾山万徳寺者、人皇九十一代伏見院御宇正応元年親鸞聖人御弟子海円上人草創ノ地ナリ、然ルニ 海円上人此年武州荒木ヨリ今此尾州赤津村ニ来リ、万徳寺ヲ開基シテ弥陀本願ノ正意ヲ弘メ、凡夫往 生ノ直入ヲ教ユ、
(攻略)

 それぞれ長々と書いているので後略とした。
 三淵の正眼寺は1394年(応永元年)に後小松天皇を開基として中島郡下津村(一宮市丹陽町)に創建された寺で(現在は小牧市に移転)、雲興寺を創建したのは永平寺(公式サイト)の天鷹祖祐 (てんようそゆう)という。
 だとすれば、創建は室町時代ということになる。
 万徳寺が属していた一身田専修寺(公式サイト)は三重県津市にある真宗高田派本山で、万徳寺の創建は正応元年(1288年)、親鸞聖人の弟子の海円上人といっている。
 どこまで事実なのかは分からないけど、なかなか格式の高い古刹ということがいえそうだ。
 万徳寺は聖徳太子の木像や伝記などを寺宝として持っていたようで、太子町という町名があるくらいなので、そのあたりは事実として伝わっているのだろう。
 その他、善声院や観音堂、庚申堂や毘沙門峯などについても書かれている。

 赤津村についてはこんなことも書いている。

此村落ハ、上赤津下赤津ト分レ、又上赤津ノ内白坂町島中畑横町島西カマ島北カマ島ト六区ニナリ、又下赤津ノ内ソラ島上中島中島コネ島紺坂島ト五区ニナレ リ、高ニ準シテ大郷ナリ、
(中略)

明和四亥年洪水以来田畝多ク砂礫ノ為ニツブレ、今ニテハ田畝凡ソ過半毛減耗セシカ、戸口多ク且馬ヲ多ク飼立、耕耘ニ力ヲ竭シ踏糞ヲ以テ培養ヨクユキトトケリ、又農隙ニハ山カセキ駄賃著ヲモシテ生産ノ援トセリ、一体此村ハ山林モ広大ナル故ニ、採薪ノカセキモヨク足レリ、村間ニ柿数株アリテ果物ヲモ多ク売出セリ

瀬戸村ハ元赤津村ノ支邑ニテ、陶工ノ根元ハ赤津村ノ由、サレハ加藤唐四郎宅址ハ此村ノゼンケ島ト云所ニアリ、二代目加藤藤九郎宅址ハ百目洞ト云所ニアリ

 江戸時代でも”大郷”という認識だったようなのだけど、明和4年(1767年)の大洪水で田んぼがかなり被害に遭ったらしい。
 馬をたくさん飼っていて肥料を作ったり、山で薪を拾って売ったり、柿などの果物も販売していたようだ。
 瀬戸村が赤津村の支村(支邑)だったというのは意外で、陶工として名高い加藤唐四郎や加藤藤九郎も赤津村出身だそうだ。

赤津村の神社の補足

『尾張志』(1844年)は赤津村の神社についてこう書いている。

神明社 赤童子社 この二社赤津村にあり
八幡社 赤津の枝むら白坂にあり
八幡社 赤津の枝村山路にあり

 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)では八王子、八幡2社、明神、白山、赤堂子、山神4社の計10社あったはずが、江戸時代後期には大目神社(八王子社)を含めて5社になっていたということか。
 神明社がかつての明神だとして、白山が消えてしまったのが気になるところではある。
 八幡社2社は、支村の白坂と山路にあるといっているけど、現在そのあたりに神社はないので、明治以降に廃社になったか大目神社に合祀されたかしたのだろう。
 赤堂子(赤童子)がどんな神社だったのかも気になる。
 そもそも赤津の”赤”は何を示しているのだろう。
 ”あかづ”という音が先だったとしても、”赤”には何か意味があるはずだ。

瀬戸市の地形と遺跡の分布

 赤津地区は縄文から古代、中世にかけて途切れなく人の痕跡が見つかっているところで、古くから人が暮らす土地だった。
 現代人からすると、縄文人はどうして不便な山奥で暮らしていたんだろうと不思議に思うのだけど、縄文の人たちにとっては山地の方が食料や水が手に入りやすくて暮らすのに都合が良かったのだろう。
 ただ、米作が主になってくると山地では耕作地が足りなくなって、仕方なく下流域に移っていったと推測できる。
 瀬戸市の遺跡分布を見るとそれがよく分かる。

 ここで『瀬戸市史 資料編3  原始・古代・中世』を参考に、瀬戸市で見つかった遺跡の変遷をまとめることにしたい。
 神社というのは、飛鳥時代や奈良時代に突然発明されて誕生したものではなくて、縄文時代から続くカミマツリの延長線上にあるものだ。なので、神社を理解する上で縄文、弥生から続く人の痕跡を把握しておくことが重要となる。

 瀬戸市は大部分が標高100-600メートルの丘陵地帯で、北東部の標高が高く、南西部が低い東高西低の地形をしている。
 市街地となっている南西部は標高100-200mの低丘陵地帯で、その大部分は赤津川や水野川、矢田川などが山を削ってできた沖積地(扇状地)だ。そこに集落ができていった。
 遺跡は沖積地と低丘陵地に広く分布し、多数の古窯跡も見つかっている。

遺物散布地 91
集落跡 15
古墳 123
城館後 27
窯跡 813
その他 8

 この内、品野の上品野遺跡、赤津の惣作・鐘場遺跡、山路遺跡の3ヶ所が旧石器時代の遺跡で、ナイフ形石器や尖塔器などが出土した。
 赤津は瀬戸市内でも最も歴史が古い土地という言い方ができそうだ。
 縄文時代の遺跡としては、早期が赤津の八王子遺跡、長谷口、白坂雲興寺、品野の岩屋堂、針原、品野西などで、住居跡や土器などが見つかっている。
 中期は品野の鳥原縄文遺跡、落合橋南、品野西、赤津の針原、惣作・鐘場、雲興寺、幡山の吉野など、後期は水野の内田町、幡山の大坪などが加わり、晩期は品野の上品野蟹川、幡山の大六などが知られている。
 弥生時代の遺跡としては、上品野蟹川遺跡、幡山の吉野遺跡、赤津の長谷口遺跡などがある。
 水野の内田町遺跡で方形周溝墓の一部が見つかった他、赤津、水野、品野、幡山に集落があったことが分かっている。
 古墳時代になると庄内川、矢田川、水野川流域に多数の古墳が作られ、集落が形成された。

 こうした遺跡の分布と変遷を経て、瀬戸市の神社はあるということだ。
 それらの古い神社が尾張氏色が濃いということは、早い時期から尾張氏の一族が瀬戸市一帯を開発していったということだ。
 ただし、いつも書くように、こうして表に出ている遺跡の重要度は低いものがほとんどで、A級、特A級の遺跡は隠して守っているので、知られているものだけで判断してはいけない。

 古窯について言うと、これは逆に西から東の流れがあった。
 名古屋市の東山丘陵地帯で5世紀後半に須恵器の生産が始まり、時代を経るごとに東へ南へと移っていった。
 瀬戸といえば瀬戸物と呼ばれるほど陶器の産地として知られているものの、本格的に陶器の生産が始まったのは意外に遅く、12世紀頃とされている。
 猿投窯(さなげよう)と総称される陶器生産地の範囲は広く、豊田市や大府市、刈谷市まで広がっている。
 美濃焼や常滑焼などもこの流れの延長線上にある。
 ずっと時代を遡ると、120万年ほど前まで古東海湖という巨大な湖があった。
 少なくとも650万年前にはあったと考えられており、最盛期の500-300万年前は現在の伊勢湾から濃尾平野にかけて琵琶湖の6倍ほどの巨大湖だったと考えられている。
 その古東海湖の底に堆積した粘土が陶器作りに適していたため、この地が陶器の産地になったというわけだ。
 当時の陶器作りに必要だったのは、陶器を焼くための横穴を掘るのに適した斜面と、火の燃料としての木、そして水で、それらが不可欠だった。
 産地が移っていったのは、材料となる土を掘り尽くしたというよりも、燃料となる木がなくなったためだったかもしれない。燃やすと高温になる松の木が特に重宝されたようだ。
 それらの陶工集団が何らかのカミマツリをしていなかったとは考えにくく、それが後の神社につながった例もあるのではないかと思う。

赤津城について

『寛文村々覚書』に「古城跡壱ヶ所 先年熊沢藤三郎居城之由、今ハ畑ニ成」とあるのは、赤津城のことだ。
「飽津城」とも表記したようだけど、これが赤津の古い表記とは限らない。表記はいろいろあるのが普通で、時代によって変化もするし、古いものに戻ったりもする。
 城は大目神社から見て赤津川を挟んだ西300メートルほどのところにあったとされる。
 現地を訪れてみると今も畑で、ぼんやり城址が感じられるようだ。
 城址のある町名の小空町というのは小洒落ている。もともとこのあたりは小空と呼ばれていたのだけど、どういう由来なのかちょっと気になった。
 近くには城畑や城前といった地名も残っており、赤津城の存在感を物語っている。

 赤津城について詳しいことは不明で、江戸時代の絵図に「平家カハラ城址」とあり、天正年間(1573-1592年)の「古城主覚記」に熊沢藤三郎居城ノ由、「織田信雄分限帳」に熊沢善左衛門が載っているそうだ(史料は未確認)。
 ”平家カハラ城”の”平家”は源氏・平氏のあの平家のことなのか。
 熊沢という一族は馴染みがない。自称熊沢天皇くらいしか思い浮かばない。
 熊は”雲”に通じるから、尾張氏系の後裔一族かもしれない。

 赤津城の南200メートルほどに御戸偈城(おとげじょう)があったとされ、現地には「松原下総守飽津御戸偈城址」と彫られた石碑が建っている。
 松原下総守は松原下総守一学(吉之亟)のことで、三河国碧海部今村(安城市)にいた松原一学が一族を連れて三河国西加茂郡の今村(豊田市)に移り、更に尾張国春日井郡に移って居城を構えたのが御戸偈城だという。
 それが1445年頃というから、織田信長などが生きた100年くらい前のことだ(応仁の乱は1467-1477年)。
 一学の子の松原広長の代に勢力を広げ、広長は現在城屋敷町の八王子社がある場所に移って今村と改名して今村城を建てたという。
 その松原広長は1482年(文明14年)に桑下城主の長江利景との戦いで討死したと伝わる(大槇山の戦い)。
 ただ、このあたりの話はいろいろ混乱や不明な点が多く、あまり信用できない。
 いくら戦国時代のこととはいえ、国を超えてやってきた人間がいきなり縁もゆかりもない土地で城を建てたり勢力を広げたりというのはちょっと考えづらい。
 戦国時代というのは後世の人間の認識で、当時の人たちにとっては室町幕府があって自分たちがいるわけで、何をやっても許される無法国家状態などではない。
 赤津城の熊沢氏と御戸偈城の松原氏との関係についてはまったく不明だ。 

今昔マップに見る赤津村の様子と変遷

 今昔マップであらためて赤津村の様子を確認してみよう。
 明治中頃(1888-1898年)は江戸時代から続く村の姿がそのまま残っていると思っていい。
 ただし、『尾張徇行記』にもあったように、明和4年(1767年)の大洪水で村は大被害を受けて、それ以前とは集落の場所や状況がだいぶ違っていると考えられる。
 そのあたりについて「此村落ハ、上赤津下赤津ト分レ、又上赤津ノ内白坂町島中畑横町島西カマ島北カマ島ト六区ニナリ、又下赤津ノ内ソラ島上中島中島コネ島紺坂島ト五区ニナレ リ」と書いている。
 それ以前はもっと赤津川に近いところに分散していたのではないかと思う。
 その後、民家は川から離れた丘陵地の縁にへばりつくように建ち並ぶようになったようだ。
 民家の場所は今もそのまま変わらず続いている。

 大目神社があるのは集落から見て赤津川を隔てた東の丘陵地の突端部分だ。
 こちら側に民家は描かれていないので、人が住む場所ではないということだったのだろう。
 万徳寺は集落の南端近くで、雲興寺は集落の中心からはなり離れた東、支村の白坂にある。
 このあたりの寺社の位置関係が何を示しているのかはよく分からない。

 途中の地図は飛んで、次は1968-1973年(昭和43-48年)になるのだけど、この頃までに現在の赤津の町並みはほぼ出来上がっている。
 瀬戸村に続く東西の道は、かつて丘陵地を通る細い道だったのが、212号線としてしっかりした道になった。
 その道沿いにも民家が建っていった。今の東拝戸町、西拝戸町がそれに当たる。
 この地域に最も大きな変化をもたらしたのは東海環状自動車道の開通だ。
 豊田市から美濃関市を通って四日市までぐるっとつなぐ環状道路で、計画自体は1980年代からあったものが、2005年の愛知万博にあわせて豊田市と美濃市の間が開通した。
 大目神社のすぐ東に、せと赤津インターチェンジができて、このあたりの風景は激変した。
 ただ、大目神社に遠慮してギリギリ避けた感じになっている。
 大目神社移転の話が出たのかどうかは知らないけど、出たとしても移転は実現しなかっただろうと思う。
 道路工事の最中にこのあたりで遺跡が見つかってるはずだけど、黙って工事を進めたか、上から黙っているように言われたかしたのではないかと推測する。
 赤津は縄文時代やそれ以前から人が暮らしていた土地だから、掘れば建物跡や遺物がゴロゴロ出てくるはずだ。

社家についての補足

『尾張志』の記事の中で少し気になったのは次の部分だ。 

「當社ひかし祠官ありて中島とよひしもいつしか絶家して今は應永の頃中島善太夫がすみし地にて中島ノ切といふ名のみ残り」

 古くからの社家(祠官)が途絶えて応永の頃(1394-1428年)から中島善太夫が住むようになって後を継いだということのようだ。
 中島という地名が残ったというからもともと中島なのか、別の氏族なのか。
 中の島(本家)の家系が途絶えたので分家が継いだということかもしれない。
 だとすると、中島を名乗るこの一族が何者だったのかということだ。
 それと問題は、社家が途絶えると縁起や古記録が失われがちだということもある。
 神社の記録を持ち逃げするという冗談みたいな話もあるし、どこからか古記録を”発見”するなんてこともある。
 昔から延喜式論争といったものがあって、名古屋でいうと片山神社片山八幡神社のどちらが延喜式内の片山神社かで長らくモメていた。
 片山八幡が折れる形で決着が着いたのだけど、片山八幡が本当は式内社だという人もいたし、私も実はそうじゃないかと疑っている。
 こういった経緯もあって、赤津の八王子社で1840年に突然、大目神社を示す”証拠”が出てきたことにちょっと引っ掛かっているのだ。
 上にも書いてきたように赤津は非常に古い歴史がある土地で、古社は必ずあるし、八王子社が古い神社なのは間違いないと思う。
 ただ、古いことと延喜式内というのは別の話で、神祇官社であることが古社の絶対的な条件というわけでもない。
 

どうして大目なのか?

 上の方で書いたように、大目神社の大目(おおま/おおめ)は御守(り)塚の”おまもり”から”おおめ(もり)”に転じたという話があって、一応筋は通っているように思える。
 しかし、赤津と八王子と大目を並べたとき、なんとなく共通項が見つからないというか、つながりが感じられない気がしてしまう。
『延喜式』神名帳がまとめられたのは平安時代中期の927年だけど、ここに載っている神社の多くは遅くとも奈良時代、大部分は飛鳥時代にはすでにあったと考えられる。
『出雲国風土記』(733年)には神祇官に登録されている神社が184社載っており、『延喜式』神名帳では187社なので、約200年の間に3社しか増えていない。
『出雲国風土記』の時点で、神祇官の管轄外の神社は215社載っている。
 すべての国が出雲国と同じではなかっただろうけど、傾向として参考になる。
 尾張国の延喜式内社は121社で、この当時少なくとも倍以上、もしかしたら3倍以上の神社があっただろうと思う。
 神祇官に属するというのはいうなれば国立の神社ということで、それ以外の私立の神社もたくさんあったということだ。
 だから古い神社イコール延喜式内社というわけではない。
 どういう基準で神祇官所属とそうでない神社を分けたのか、その基準はよく分からない。

 分からないといえば神社の名前の付け方だ。
 現在のように神明社や八幡社、稲荷社といったチェーン店的な神社はなく、大部分は独立した神社だった。
 名付けの法則については本当によく分からない。
 祀った氏族にちなむのか、地形や地名から来ているのか、もっと別の付け方をしていたのか。
 大目神社の名前がよく分からないというのはそういうことだ。
 たとえば、大目を於保女と訓べしと書いているものがあるのだけど、大目は大女から来ている可能性もある。
 佐渡には大目郷があり、佐渡国二宮の大目神社は大宮売神(オオミヤメ)を祭神としている。
 あるいは、物部目連(もののべのめのむらじ)や、その後裔の大真連(おおまのむらじ)が関わっているのではないかという説もある。
 物部目は雄略天皇時代に大連(おおむらじ)になった人物で、大目の名前の由来としてあり得えない話ではない。

 ただ、祭礼のときに撮られた写真を見ると、掛かっている幕に”丸八”が染め抜かれているように見える。
 写真が小さくてはっきりしないのだけど、実際に丸八が神紋だとすると、これは山田氏の本家筋のものの可能性がある。
 山田氏は尾張の源氏であり、尾張氏一族でもあるので、神社は物部氏とは関係ないかもしれない。
 もしくは、尾張氏と物部氏がどこかで融合したということもあるだろうか。

現地での感触

 実際に大目神社を訪ねて境内に立ってみると、なんとも微妙な感じがした。
 立派だし古さもあるのだけど、グッとくるものがない。
 官社には官社らしい風格のようなものがあったりするのだけど、それもないように思えた。
 本殿裏には古墳もあるし、八王子というからには尾張氏の関係一族が祀ったものであろうことは間違いなさそうだけど、この神社が実際のところ延喜式内の大目神社かというと確信が持てない。
 なんでも鑑定団に登場したお宝が本物か偽物か区別がつかないときのような感じだ。
 本物といわれれば本物に見えるし、偽物といわれれば偽物に思える。
 八王子・大目神社問題はとりあえず保留とするしかない。

 作成日 2024.10.1(最終更新日 2024.10.3)

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