山神か山口か
読み方 | やまがみ-しゃ(?)(とうごうちょう) |
所在地 | 瀬戸市東郷町11番 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧無格社・十五等級 |
祭神 | 大山祇神(オオヤマツミ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約23分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 11月15日に近い日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
山口神社なのか?
『愛知縣神社名鑑』では山神社となっているのに、Googleマップなどの地図では山口神社となっていて、どっちなんだろうと思いつつ現地を訪れてみると、社号標は「山口神社」となっている。
『愛知縣神社名鑑』に山神社とあるので、神社庁へ登録したときは山神社だったのだろうと思う。
しかしながら、立派な社号標にしっかり山口神社とあることからすると、神社側の認識では山口神社なのだろうか。
山神社の読み方もよく分からなくて、Setopediaは「さんじんじゃ」といっているのだけど、山口神社というなら”やまぐち”だろうから、ここでは一応、”やまがみ-しゃ”としておく。
もしくは、”やま-じんじゃ”かもしれない。
違っていたら訂正したい。
別のネット情報では通称「山神社(さんじんしゃ)」とあるので、関係者や地元の人たちは”さんじんじゃ”と呼んでいるのかもしれない。
山口神社というと、かつての菱野、今の山口(八幡町)に八幡社があって、山口八幡と呼んでいる。
あちらの山口八幡との関係も少し考えたのだけど、同じ瀬戸市内とはいえ距離的にかなり離れているので関係はないと見るべきか。
関係性ということでいうと、360メートルほど西南にある石神社(地図)との関係が気になるところだ。
深川神社が焼ける前の旧地(東屋敷)が現在地よりも東だったとすると、深川神社を頂点に石神社と山神社が三角形を形成している。
石神社と山神社はどちらも丘陵地の中腹に位置していたという共通点もある。
けっこう古そう
『愛知縣神社名鑑』は祭神を大山祇神(オオヤマツミ)として、こう書いている。
創建については明かではない。古くより産土神として鎮座。
明治6年、据置公許となる。
「創建については明かではない」ではどこもたいていそうなので手掛かりにならないのだけど、「古くより産土神として鎮座」という部分は注目に値する。
産土神(うぶすながみ)は土地や地域の神ということで特定の氏族の氏神ではない。
氏神から発して産土神になる例もあるものの、この神社に関してはやはり産土神、山神だったのだろうと思う。
いつ誰がどういう目的で祀ったのが始まりなのかを推測するのは難しい。
ただ、上にも書いたように、深川神社、石神とセットだったとすると、それなりの古さはありそうだ。
現実的にいえば鎌倉時代あたりかもしれないし、最大限遡れば弥生時代というのもあり得なくはない。
このあたりの集落がいつできたかによる。
祭神を大山祇としたのは明治時代以降なのか、それとも江戸時代の人たちにも意識としてはあったのか。
江戸時代の人たちが『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々をどの程度認識していたのがよく分からない。
江戸時代の書では
江戸時代の書からわずかな情報を拾ってみる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の瀬戸村の神社は以下のようになっている。
社四ヶ所 内 山神 社宮神 八王子 権現
社内壱町弐反七畝拾八歩前々除 右同人持分
順番に意味はないのかもしれないけど、山神が先頭に来ている。
この山神が今の山神社(山口神社)のはずだ。
社宮神が石神社、八王子が深川神社のことで、権現は熊野町の熊野神社だろう。
すべて前々除(まえまえよけ)なので、1608年の備前検地以前からあった神社ということだ。
「右同人持分」は「当村祢宜 市太夫」のことで、深川神社の社家だった二宮氏のことをいっている。
『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しい。
社四区覚書ニ山神・三狐子・八王子・権現社内一町二段七畝十八歩前々除
当村内熊野権現社内松林二段歩前々除、石神社内松林九畝十九歩前々除、山神社内薮五畝二十歩前々除、
諏訪明神社内松林五畝二十歩前々除、今社廃ス、何レモ勧請ノ年曆ハ不伝卜也
社宮神がここでは”三狐子”になっていて、それとは別に石神があったのが気になるところなのだけど、今ある山神とは別の山神があって、それは江戸時代後期には社が廃されて社地だけが残っていたことが分かる。
それ以外にめぼしい情報は得られない。
『尾張志』(1844年)は深川神社以外の瀬戸村の神社がなく(私が見つけられないだけかも)、手掛かりはない。
宝泉寺との関係は?
山神社の150メートルほど東に宝泉寺(地図)という曹洞宗の寺がある。
『尾張徇行記』はこの寺についてこう書いている。
宝泉寺府志ニナシ
覚書ニ赤津村雲興寺ノ末寺大昌山 ト号ス、寺内五畝歩備前検除、外ニ二段五畝歩前々除
当寺書上ニ、境内二畝四歩年貢地、外ニ寺附山東西二十五間南北五十間前々除、此寺ハ正保年中白坂雲興寺十五代興南和尚創建ス、元来法地ナリシカ、同三丙戌年没後年久シク法系中絶セシカ、安永七戌年村人願ニ依テ雲興寺二十九代層雲和尚ヲ中興開山トシ、法地ヲ再興セリ
正保年は江戸時代前期の1644年から1648年で、そのとき赤津の雲興寺の興南和尚が創建したといっているのだけど、これはちょっと信じられない。
寺内が”備前検除”だったということは、1608年の備前検地のときに除地になったということで、そのときにはすでにあったということだし、他に前々除の土地も持っていたことからしても、創建はもっと古いはずだ。
興南和尚が再興したということならあり得る話で、興南和尚の没後は荒れてしまっていのを村人の願いで安永7年(1778年)に復興させたというのは事実だろうと思う。
Setopediaはだいぶ違うことを書いている。
本尊は釈迦牟尼佛、脇佛に地蔵菩薩、薬師如来が祀られているが、この薬師如来像は行基の作になるものとして名高く、約720年前に創立された当初の本尊であった。
16世紀末天正年間に戦火によって消失したがその数十年後に雲興寺の興南によって堂が建立され延命地蔵尊を本尊として、大昌峰宝泉寺となった。
天明年間には三殿堂を建立、その100年後には諸堂が一新されたと言う記録が残っている。
行基作の薬師如来像を本尊として、約720年前に創立といっている。
これが本当だとすると、創建は鎌倉時代末の1300年頃ということになる。
行基は飛鳥時代後期の668年に生まれ、奈良時代中期の749年に没したと伝わる高僧で、伝説や伝承は各地にあってどこまで事実かは分からない。
行基作と伝わる薬師如来像も、実際は行基が彫ったものではないかもしれない。
天正年間(1573-1593年)に戦火で焼けて正保年間に雲興寺の興南和尚が再興したというのは充分あり得る。
だとすると、宝泉寺としての創建がこのときで、それ以前は違う名前の寺だったということになるだろうか。
別のネット情報で、おっと思ったのが、
「寺伝では、建長4年(1252年)、霊水山神宮寺(神宮寺=神社を管理する寺)として創建とされていますが、江戸時代に再興されるまでの歴史は不詳です。」
というものだ。
神宮寺ということは神社があったということで、それが山神社のことという可能性があるのかないのか。
『尾張徇行記』が今は社地なしとしている熊野権現や諏訪明神あたりということも考えられる。
それが鎌倉時代前中期の1252年(慶長4年)というのは、なんだかリアリティがある。
承久の乱が1221年なので、その約30年後だ。
尾張山田荘の地頭で尾張源氏の山田重忠が承久の乱で死去したので(生き延びて菱野で暮らしていたという話もある)、いったんは鎌倉方の地頭がこの地に入った。
重忠のひ孫に当たる山田泰親・親氏兄弟が上下菱野の地頭に任じられたのもこの頃のことだけど、距離が遠いのでそちらとは関係がないか。
宝泉寺と山神との関係はよく分からないのだけど、宝泉寺の存在は気になるところだ。
今昔マップその他で辿る瀬戸村
山神社があるところは東郷町だ。
石神社がある西郷町は「にしごうちょう」なので、東郷町は「ひがしごうちょう」かと思ったら「とうごうちょう」だった。だったら西郷町は「さいごうちょう」でよかったんじゃないのか。
それはともかく、このあたりはかつて郷地区と呼ばれていて、その西と東なので西郷、東郷の町名がついたそうだ。
『尾張徇行記』は瀬戸村についてこんなことを書いている。
一体小高ノ村ユヱ、高ニ準シテハ戸口多ク、陶土ヲ以テ第一生産トス、殊二明和四亥年以来ハ砂入前々引等多ク、稍高三ケ一ホトニナリ、漸々ニ農夫ハ少クナリ、且近来ハ陶器製作ニ工ヲ尽シ、品々ノ物ヲ焼出シ、他邦ヨリモ拘へ来、陶家繁昌セリ、竈元ハ四ヶ所ニ分レリ、北島南島郷島洞島ト云、
(中略)
近村ニテハ陶器駄賃著ヲ以テ生産ノ助トス
丘陵地で米の生産量が少ない割に村人が多いのだけど、米作よりも陶土を採掘して村が成り立っているといっている。
陶器制作で繁昌しているというから、米を作るより窯業の方が儲かったのだろう。
一つの理由として明和四年(1767年)の砂入を挙げている。
この年に起きた大水害で瀬戸一帯は大打撃を受けたようで、この話はどこでも出てくる。瀬戸川沿いにある瀬戸村も例外ではなかっただろう。
砂入というのは田んぼに川の水が注ぎ込んで米作ができなくなった農地のことをいう(税は免除)。
これを機に川沿いにあった集落は高台の丘の方に移っていった。
結果として4つの集落に分散して、北島、南島、郷島、洞島となったということだ。
このうち、石神社や山神社があるところが郷島に当たる。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると江戸時代から続く瀬戸村の様子が分かる。
現在の名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」があるのは村の西の外れの田んぼだった場所だ。
集落の中心は駅から見てだいぶ東の方だった。
山神社はどこに位置していたかというと、集落の南の外れの丘の中腹だったことを知ることができる。
確かにあのあたりに行くには坂道を登っていかないといけないので、もともとは何もない丘陵地だったといわれれば納得する。
1920年(大正7年)の地図を見ると、すでに激変していて驚く。
これは瀬戸線の前身の瀬戸自動鉄道が1905年(明治38年)に開業したためだ。
主に瀬戸で生産された陶器を名古屋方面に運ぶために作られた鉄道だったのだけど、それまで田んぼだった場所の大部分に家が建っている。
その後の地図がないので詳しい変遷は分からないのだけど、このあたりは空襲の被害を受けていないので、昭和に入っても区画整理が行われず、古い時代の町並みがそのまま続いていった。
1968-1973年(昭和43-48年)以降の地図を辿っていくと、山神社の周囲がだんだん住宅に侵食されていく様子が見て取れる。
それでもかたくなに山神社をこの場所で守り続けたというところに、ある種の強い意志を見る。
廃社にもならず、深川神社に移されることもなかったのは、この神社がこの場所にあることが必要だったということだ。
現地の様子
神社は現在、まあまあ荒れている。
入り口前がゴミの収集所になっていて、けっこうなゴミが散乱していたりする。
境内には子供が遊ぶためのブランコや滑り台があって、半ば公園と一体化している。
ただ、子供が遊んでいる様子はなく、雑草は生え放題のワイルドな状況ではある。
まあでも、これはこれで地域密着型の神社といえないことはなくて、そんなに悪い印象は受けなかった。
ここにこうして在ることが大事だからだ。
それにしても、なんで山口神社を名乗っているのだろうという疑問が最後まで消えずに残った。
作成日 2024.10.23