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八幡社(八幡町)

山口の山は何か

読み方はちまん-しゃ(はちまんちょう)
所在地瀬戸市八幡町3 地図
創建年不明(伝・1223年)
旧社格・等級等九等級・旧郷社
祭神品陀和気命(ホムタワケ)
神功皇后(ジングウコウゴウ)
田寸津比売命(タギツヒメ)
多紀理比売命(タギリヒメ)
市杵島比売命(イチキシマヒメ)
アクセス愛知環状鉄道「山口駅」から徒歩約7分
駐車場あり
webサイト公式サイト
例祭・その他例祭 10月の第二日曜日
神紋
オススメ度**
ブログ記事

山口八幡は本当に小口神社なのか?

 江戸時代の山口村、今の八幡町にある八幡社で、山口八幡社、または山口神社とも呼ばれる。
 山口町の町名も残り、最寄り駅は山口駅からも分かるように、このあたりは瀬戸の山口として認知されている。
 この八幡社は『延喜式』神名帳(927年)の尾張国山田郡小口神社とされているのだけど、本当だろうか?
 なかなか悩ましい神社で、個人的にもモヤモヤしているのだけど、できるだけ史料や情報を提示しつつ、少しずつ紐解いていくことにしよう。

山口の由来

 奈良の平城宮から出土した木簡に「山田郡山口郷」とあり、平安時代中期の『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)にも山田郡山口とあることからも、古くからこの地が山口と呼ばれていたことは確かなようだ。
 猿投山の入り口に当たるので山口と名づけられたというのが通説として語られる。
 しかし、個人的にはこの説を疑っている。
 確かに猿投山の入り口には違いないのだけど、猿投山の入り口はここに限ったものではない。ここだけが山口と呼ばれることに違和感がある。
 猿投山とは関係なく、むしろ山田郡との関係で考えるべきではないのか。
 山田の山はマウンテンの山ではない。
 山田はこのあたり一帯の地名ではあるけど、それより山田氏の方が先だ。
 山田氏は尾張氏を守る一族というのは何度も書いてきた。近藤もそうだという。
 山田の山は大山祇(オオヤマツミ)のヤマといった方が近いかもしれない。
 これは尾張側ということだ。
 三河側は大海祇(オオワタツミ)なので、あちらはワタ(海または綿)になる。
 山口の東には海上の森(かいしょのもり)があり、この海上もワタと関係している。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で山口についてこんなふうに書いている。

山口村 久濁音 中島郡に同名あり
支村六 海所 一に海上とも 四澤(よつさわ) 塚原 今林 篠田洞(しのたほら) 吉田洞(よしたほら)
【山中寛紀曰】三河の國猿投山(さなげやま)に入る其口なり此邊の村々何れも山添ながらわきて此村の東は直に高山にて南と北は尾通り細長く西へ張出し西一方平地なりよりて山口村と號くなるべし
支村海上はいまだ考へず吉田洞は葮田洞なるべしあとおのおの正字なり
【尾張本國帳】山田の郡従三位山口天神
【天野信景曰】今は愛知郡山口村八幡の社是なるべし此邊舊は山田の郡に属有いまも山田の庄と呼
【松平君山曰】村民八幡と稱は山口天神なるべしされども今社傳を失ひぬ叉當社には菼馬(あしげうま)を忌玉ふといひ傳ふ按に津の國有馬の神の忌ところと類せり叉菱野山口の地より石を産出其品津の國影山(かげやま)の石に似たり此故に叉御影石とも呼とぞ」

 山中寛紀(やまなかひろのり)というのは、江戸時代中期から後期の尾張藩士で本草学者だったのだけど、なかなか博識だったようで津田正生とも交流があったのだろう。
 海上の由来については思いつかなかったらしい。
 小口神社と山口天神と山口八幡の関係についてはこの後として、山口の地名の起源についてはいったん保留として先に進むことにする。

小口は山口の間違い?

 ここであらためて山口八幡が延喜式内の小口神社かどうかについて考えてみることにしたい。
『尾張志』(1844年)は以下のように書いている。

山口ノ神社

山口村にまして今は八幡と申す延喜神名帳に山田ノ郡山口ノ神社 今本山を小に誤る 本國帳に山田郡従三位山口ノ天神とある是なり
郷は和名抄に山田ノ郡山口とあり今當郡につけり 社説に應神天王を祭るといふは八幡と稱せるより出たるなるへし
攝社に天王社あり社人を丹羽喜太夫と云

 続けて『尾張名所図会』(1844年)を見てみる。

山口神社(やまぐちのかみのやしろ)
山口村にあり、【延喜式】に山田郡小口神社(こぐちじんじゃ)とあり。小口は山口の誤字。
【本国帳】に従三位山口天神としるされる、今八幡宮と稱し、應神天皇を祭神とす。
摂社多度祠・山神祠あり。

 共通するのは、『延喜式』神名帳に載っている小口神社(ヲクチ/コグチ)は”小”と”山”を間違えたのだろうということと、『尾張国内神名帳』に載っている山口天神は山口八幡のことという点だ。
 この説の根拠がよく分からないのだけど、個人的にはまったく納得がいかない。
『延喜式』は国の公式の”式”で、誤字がそうそうあるとは思えないし、もし間違っていたら関係者が見ればすぐに分かるから訂正しただろう。
 写したときに間違えた可能性はあるものの、”山”の字を崩しても”小”と間違えるのはちょっと考えにくい。
 それにこの説には重大な矛盾もある。
 というのも、『尾張国内神名帳』には”小口天神”と”山口天神”の両方が載っているのだ。
 この山口天神が山口の八幡のことを指しているとすると、小口天神は何なのかということになる。
 あと、並び順も気になる。
『尾張国内神名帳』は写本によって内容が少し違っているのだけど、たとえば「国府宮威徳院蔵本」では、羊天神、坂庭天神、澁河天神、大檐天神、金天神、尾張戸天神、大目天神、大井天神、深河天神、石作天神、析幡天神、尾張田天神、大江天神、和田天神、片山天神、河嶋天神、和尓天神、小口天神、川原天神、夜檐天神、伊奴天神、羊(牟)久杜天神、山口天神、實々天神と、西から東へぐるっと時計回りのような順番になっている。
 現在論社とされている神社が必ずしもそういう位置関係ではないものの、小口神社は和尓天神と川原天神に挟まれており、山口天神は最後から二番目に位置していて違和感がある。
 山口天神が今の山口八幡だとすると、尾張戸天神と大目天神の間くらいに入っているのが自然だ。
 小口神社については小牧市野口惣門の八幡社や小牧市野口神尾前の白山社も論社とされており、小口神社イコール山口八幡とするのは少し無理があるように思う。
 山口天神も山口八幡と決めつけるわけにはいかない。
 山口天神の前後の牟久杜天神と實々天神は『延喜式』神名帳に相当する神社が載っていないことからすると、『延喜式』編纂の後に新たに建てられた神社という可能性が考えられるだろうか。
『延喜式』の編纂自体は905年から始まっていて、『尾張国内神名帳』は平安時代末に作られたとされるので、1180年代まで270年以上間がある。
 その間に新設された神社が100年、200年経って神祇官社になったとしてもおかしくはない。
 ちなみに、『尾張国内神名帳』のオリジナルかそれに近いと思われる「熱田座主如法院蔵本」でも、羊天神、坂庭天神、澁河天神、大檐天神、金天神、尾張戸天神、深河天神、大井天神、大目天神、石作天神、桁幡天神、尾張田天神、大江天神、和田天神、片山天神、河嶋天神、和示天神、小口天神、川原天神、夜檐天神、伊奴天神、牟久杜天神、山口天神、實々天神と、一部並び順が違うだけで同じ顔ぶれになっている。

『延喜式』神名帳の小口神社は山口八幡ではないと決めつけることはできないものの、個人的な感触としては違うような気がしている。
 では、山口の八幡は平安時代以降の新しい神社かといえばそうではないと思う。
 一つの根拠として、ここが古墳密集地帯だということだ。 

古墳は神社になりがち

 山口八幡社や隣の本泉寺一帯は古墳密集地となっている。
 境内社の稲荷社は山口八幡1号墳と呼ばれる円墳の石室の中に祀られる格好になっており、他にも裏山には20メートルほどの2号憤や、その上に10メートルほどの3号憤があり、いずれも6世紀末の円墳と考えられている。
 また、本泉寺境内でも本泉寺古墳と呼ばれる円墳が見つかっている。
 これらはほぼ間違いなくこの地を開拓した尾張氏かその後裔一族のもので、山口八幡があるあたり一帯をそういう土地としていたということだ。
 古墳は必ずしも集落の近くにあるわけではなく、集落と古墳エリアは別だっただろうと思う。
 古墳は墓というだけでなくマツリの場所でもあり、もともとあった小さな祠が後の時代に神社に発展した例は多い。
 おそらくこの山口八幡もそういう種類の神社だろうというのが私の考えだ。
 尾張氏の祖を祀っていたかもしれないし、もっと広い意味での八幡神(やはた)や大国主を祀っていたかもしれない。
 そうだとすると、古いには古いけど神祇官が管轄する官社ではないということになる。
 だから私は、『延喜式』神名帳の小口神社は山口八幡のことではないと思っている。
 更に言えば、『尾張国内神名帳』の山口天神が山口八幡のこととする考えも疑っている。
 古墳築造以前にここで何らかのカミマツリが行われていたとすれば、神社の起源は更に遡ることになる。弥生時代や縄文時代に端を発していたとしても驚かない。

神社の見解は

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建については明かではないが「本国帳」に山田郡従三位山口天神と記るす。
元禄11年(1698)発刊の「尾張風土記」にも載る古社である。
明治5年5月、郷社に列格する。
大正元年12月12日字海上344番地の多度社と字南山60番地の神明社の両社を合祀した。
昔当社の側らに沼池ありしが、山田五左衛門というもの、菼馬(あしげうま)にのりながら此池に落ちて溺死せし故、当村にあしげ馬を飼うことをいむと「風土記残編」に記るす。

 創建は不明としつつ、ここでも『本国帳』(『尾張国内神名帳』)に載る山口天神を山口八幡のことといっている。

 では、神社側はどう主張しているかを見てみよう。
 公式サイトでは以下のように言っている。

創建は1223年で、承久の乱で後鳥羽上皇方で戦った尾張の国の守護山田次郎重忠が建立した記録が残り、神功皇后、応神天皇、田寸津比売命、市寸島比売命、多紀理毘売命等が祭神です。

 ここで初めて”山田重忠”の名前が出てくるのだけど、けっこう大胆な説をさらりと言っている。
 ”建立した記録が残り”と言っているので何らかの記録を持っているということだろうか。
 ただ問題は、創建した年を”1223年”としている点だ。
 通説として山田重忠は1221年に起きた承久の乱で朝廷側の武将として鎌倉幕府軍と戦って敗れ、京都嵯峨野で自刃したということになっている。
 このとき56歳だったという。
 しかしながら、この話は『承久記』によるところが大きく、必ずしも史実というわけではない。
『承久記』は鎌倉時代に書かれた合戦物で、読み物というほど砕けてはいないものの、公式の歴史書ではない。創作もかなり入っていると見るべきだろう。
 作者は不詳で、異本も多い。
 鎌倉幕府の公式書である『吾妻鏡』では、皆が敗走する中、独りとどまって戦い、”逐電した”とだけ書かれている。
『承久記』の中でも古いとされる「慈光寺本」でも嵯峨野般若寺に落ちたとだけある。
 別の本ではここで自刃したとあるけど、それは後の付け足しでしかない。
 つまり、山田重忠は承久の乱のとき死んでいない可能性が充分あるということだ。
 実際、本泉寺にはずっと後年の没年の山田重忠の位牌が伝わっており、晩年の重忠は瀬戸の上菱野(後の山口)あたりで過ごしていたのかもしれない。
 ただ、表向きは山田一族は山田庄の地頭職を取り上げられて領地も没収されたことになっている。
 一緒に戦に参加した嫡子の重継は鎌倉方によって殺され、孫の兼継はまだ若かったため越後に流されて出家したとというのは事実だろう。
 もし、山田重忠が生き延びていたなら鎌倉幕府が知らなかったはずはないのだけど、そのへんは目こぼしされたのだろうか。
 ここは尾張氏の土地であることは鎌倉ももちろん知っているし、後に重忠のひ孫に当たる泰親・親氏の兄弟が菱野庄の地頭に任じられたのも、こういうつながりで考えると納得がいく。

 以上からして、承久の乱のほとぼりも冷めたであろう1223年に生き延びた山田重忠がこの山口八幡を建てたというのはなくはない話だとは思う。
 ただ問題は、そのとき祀ったのが八幡神だったかどうかだ。

山田次郎重忠というアイコン

 山田重忠については名古屋市編でずいぶん書いたので付け加えることはあまりないのだけど、瀬戸市編では菱野にゆかりの人物ということでもう少しだけ書いておきたい。
 その中でもやはり一番問題となるのは、山口の八幡を”創建”したのが本当に山田重忠だったのかだ。

 重忠は神仏への崇敬の念が強い人だったようで、多くの神社や寺に伝承を残している。
 亡き父と母、それに兄のために長父寺、長母寺、長兄寺(長慶寺)を建てたなどいうのは事実そのものではないだろうけど、話としては面白い。
 神社でいうと、東区矢田の六所社や、守山区市場の白山神社などで名前が出てくる他、何故か南区星崎あたりでも重忠の伝承が伝わっている。
 星﨑の市杵島社(辯才天社)も重忠創建という話がある。
 山田氏の本拠がどこだったのかは定かではないものの、北区の金神社がかつての重忠屋敷にあったといい、そのあたりにあったのではないかというのが通説となっている。
 承久の乱の後、生き延びて菱野あたりで暮らしていたとすれば何らかのツテがあったのだろうけど、そのあたりの事情はよく分からない。

 話を戻すと、山口八幡を重忠が創建したという話を私はあまり信じていない。
 というのも、重忠と八幡との関わりが感じられないのだ。
 重忠は清和源氏の一族とされているから、源氏イコール八幡だろうと思うかもしれないのだけど、少なくとも名古屋では重忠が八幡神を祀ったという話は出てこない。
 少なくとも源氏が祀るのは八幡という決めつけはしない方がいい。
 問題は1223年当時、すでに前身となる神社があったかどうかということでもある。
 仮にそれが山口天神だったとすれば、少なくとも平安時代にはあったということで、そこへあらたに別の神を勧請してきて作り替えるようなことが必要だったかというとそれも疑問だ。
 このとき、まだ本泉寺は建っていない。

 一つ言えるのは、山田重忠というのは一種のシンボルであり、アイコンのような存在だったということだ。
 山田は苗字というよりは山田という土地を指していて、山田の重忠、あるいは山田の二郎という通称だっただろう。
 山田太郎、二郎、三郎とかもいてややこしいのだけど、それは代々受け継がれた屋号のようなものでもあったと思う。
 重忠が承久の乱で活躍したという話もどこまで事実かは分からない。
 ただ、実在したことは間違いなくて、同時代や近い時代の人たちはよく知る有名人だったはずだ。
 山田氏一族の後裔の誰かが創建したり再建したりした寺社も、いつしか山田の重忠がやったことになった例は少なくないんじゃないだろうか。
 その方が箔が付く。
 そういう意味でいうと、菱野の山口八幡は泰親が菱野の地頭になって、本泉寺を建てた1283年以降に八幡に作り替えた可能性があると思う。
 鎌倉時代に八幡を祀るということは、ある意味では鎌倉幕府に対する忠誠を示すということでもあっただろう。泰親の立場であればなおさらだ。
 ただ、神社の社伝では重忠が1223年に建立したという記録があるといっているので、それは無視できない。事実そのものでないとしても伝承には何らかの根拠があるものだ。
 それにしても、なんかはっきりしないなという印象を抱く。
 引っ掛かったのは、『尾張国神社考』の次の一文だ。

「いま社傳をうしなひぬ。」

社伝が見つかった?

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国神社考』の中で、この神社についてこう書いている。

従三位山口天神(やまぐち)
【集説云】山田庄山口村(やまぐち)八幡。社家丹羽氏。
【松平君山曰】山口村はもとは山田郡也。今ハ愛智郡に更(あらた)まる、實に八まんの社地成べし。いま社傳をうしなひぬ。

 松平君山(1697-1783年)は尾張藩士で儒学者でもあった人で、『張州府志』の責任編集者の一人としても知られている。
 その松平君山は、山口八幡が『尾張国内神名帳』の山口天神なのだけど、今は社伝を失ったといっている。
 今というのは江戸時代中期のことで、当然ながら関係者への聞き取り調査もしただろうから、その時点で社伝は失われていたということになる。
 にもかかわらず、公式サイトでは1223年に山田重忠が創建したといっている。
 江戸時代以降に社伝が見つかるなんてことはめったにないと思うのだけど、どこかに記録が残っていたのだろうか。
 ただ、江戸時代の史料にはどこにも山田重忠の名は出てこないし、創建もすべて不明となっているので、やはり公式サイトの話はちょっと疑ってかかるべきだろう。

 続いて江戸時代の書には山口村がどんなふうに書かれているか見ていこう。

江戸時代の山口村

『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。

家数 五拾弐軒
人数 四百三拾五人
馬 三拾三疋

高田宗 勢州一身田末寺 教春山本泉寺
 寺内壱町五反歩 松林共ニ 前々除

社 九ヶ所 内 八幡 神明 多度権現 富士浅間 八劔宮 山之神四ヶ所
 社内六町九反歩 前々除 村中より支配

薬師堂壱宇 地内弐反四瀬歩 前々除 右同断

観音堂壱宇 地内七畝歩 前々除 右同断

古城跡壱ヶ所 先年、甲斐ノ信玄家来、番替ニ居申由 今ハ山之内

 山口村の村域がどこからどこまでだったのかを把握できていないのだけど、かなり広い範囲だったようで、今の山口駅周辺だけではなく、東の海上の森や、南の上之山町一帯まですべて山口村の村域だったと思う。
 西は今林あたりが菱野村との境界に当たるだろうか。
 ただ、多くが丘陵地で、住める平地は限られていた。矢田川沿い周辺が主な集落地だったはずだ。
 それでも家数52軒に村人435人なので、それなりの規模の村だ。
 神社が9社と多いのも特徴といえる。
 このうち、神明や八劔宮、山神などは残っていない。
 すべて前々除(まえまえよけ)になっているので江戸時代以前からあったもので、祢宜ではなく村が管理していたようだ。これもちょっと珍しい気がする。
 寺社その他については後ほどとする。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見るのだけど、『寛文村々覚書』と重複していたり長かったりするので一部だけ紹介するとこんなことが書かれている。

山口神祠 府志曰、在山口村、祀應神天皇、神名式山口神社本国帳従三位天神是也、今失社伝、号八幡
摂社多度山神、(後略)

神明祠在同村 摂社八剣浅間山神
祠官丹羽喜太夫書上ニ、八幡祠境内松林三町、神明祠境内松林三町七反五畝、多度祠境内松林六反九畝
(中略)
草創年暦ハ古記録焼失シテ知レザル由

 ここでの重要証言は”古記録焼失シテ知レザル由”の部分だ。
 ただ失っただけではなく焼けてしまって草創年は分からないといっている。
 何があったのか?
 瀬戸のあたりも戦国時代に戦があって、そのときに城や神社が焼かれたというのもあったのだろうけど、別の可能性も考えられる。
 それは何者かの命で古記録を焼かれた可能性だ。
 個人的にはそちらの方がありそうに思えるのだけど、そういった話を具体的に聞き知っているわけではないので、あくまでも私の勝手な想像でしかない。
 それにしても、なんとなくこの神社はきな臭いような感じがする。
 何かが隠されている。
 都合が悪いから隠したのか、守るために隠したのか。

『尾張志』(1844年)はこうだ。

多度ノ社 神明社(境内の末社に鍬ノ神ノ社あり) 八劔社ノ廢址(ミロクといふ處にあり) 冨士ノ社(富士ノ嶺にあり) 山ノ神ノ社 山ノ神ノ社廢址(三所)

以上並山口村にあり

 八劔は江戸時代後期にはすでに廃社になっていたことが分かるのだけど、”ミロク”というところにあるというのが気になった。
 4社あった山神もこの頃までに3社が廃社になっていたようだ。

『尾張名所図会』(1844年)もだいたい同じことを書いている。
『延喜式』神名帳の小口神社は山口神社の誤りということや、『尾張国内神名帳』の山口天神は山口村の八幡のことといったことだ。
 社伝は焼失したというのも共通している。

 山口村の様子について『尾張徇行記』が詳しい。

比村ハ中央赤津村白坂雲興寺方ヨリ流レ来ル旧ハチサキ渓流ナリシカ、明和四亥年猿投山決壊ノ後洪水ニテ大川トナリ、今ニ於テ両岸砂入多シ、其時ヨリ民戸山ノ麓へ引移レリ、五瀬戸ホトニ分レリ、今林屋形島北山島(本郷ナリ)屋頭島南嶋ト云、南島ハ即川南ニアリ、此村ハ農隙ニ薪ヲ伐採、名古屋へ売出シ、又瀬戸焼二番モノヲ知多辺ヘ売出セリ、小百姓ハカリ也、又支邑ヲ海上洞ト云、是海上洞御林ノ麓ニアリ、本郷ヨリ十八町ホト隔山奥ニアリ、倭屋十三四戸アリ、叉蒙原四沢ト云所ニモ二戸ホトツツアリ、是ハ共ニ見取所ナリ

 ここ山口村も明和4年(1767年)の洪水で大被害を受けて、集落は山地の方に移って5つのシマに分かれたようだ。
 今林、屋形島、北山島、屋頭島、南嶋の5シマで、このうち北山島を本郷といっている。
 今の町名のどこがどこに当たるのかがよく分からないのだけど、南嶋が矢田川の南といっているので北山島は矢田川の北、今の山口町あたりだろうか。
 海上洞(今の海上の森地区)を支邑(支村)としつつ、そちらにも15軒ほど民家があるといっている。
 多度権現はこの海上の神社だ。
 洪水から50年以上だっても砂入り地が多くて収穫量が足りず、薪や瀬戸物を売ったりして生活の足しにしていたことを知ることができる。

菼馬とは何の象徴か?

 ここまでずっと気になりつつ後回しにしてきたことがある。江戸時代の書で必ず出てくる”菼馬”の話だ。

 菼馬(あしげうま)の”あしげ”は現在では”葦毛”と表記するのが一般的だ。
 葦毛馬というのは、黒っぽい肌に灰色がかかった毛の馬のことをいう。毛は年を取るとだんだん白くなるという特徴もある。
 競馬ファンならすぐにオグリキャップを連想するんじゃないだろうか。
 他にもメジロマックイーンやビワハヤヒデなども葦毛だった。
 葦毛馬を愛馬にしていた武将も少なくない。
 その菼馬がどうしたかというと、『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

当村忌菼馬、相伝当祠西畔古泥沼也、山田左衛門騎菼馬陥死沼中、故至今忌之、風土記残編載古歌云

 最初の方に載せた『愛知縣神社名鑑』にも書かれている。

昔当社の側らに沼池ありしが、山田五左衛門というもの、菼馬(あしげうま)にのりながら此池に落ちて溺死せし故、当村にあしげ馬を飼うことをいむと「風土記残編」に記るす。

 要するに、山田五左衛門が菼馬で山口八幡近くの沼に落ちて死んだので村では菼馬を飼うことを禁止したということだ。
「風土記残編」というのは尾張国の風土記の逸文なのだろうけど、これが奈良時代の古風土記なのか、新しい時代に書かれたものなのかは分からない。
 とにかくこの話はよく知られていたようで、『尾張志』も『尾張名所図会』も書いている。
『尾張名所図会』は「風土記残編」に載っている歌を紹介している(一部読み取れず)。

□より人は 今ぞより来る長(なが)はまのあしげの駒(こま)に 手綱(たづな)ふりかけ□といへるを、彼(かの)五左衛門が亡霊巫(みこ)に託して唱(とな)へさせしよし、所のものいひ傳へたり

 ちょっとよく分からないのだけど、五左衛門が巫女の口を借りて出てきて語ったことでこの話が知られるようになったということだろうか。
 ただ、具体的に五左衛門が祟ったとか、村に災いが起きたということではないようで、それがちょっと不思議ではある。
 というよりも、そもそもこの話はちょっと変だ。
 変というか、何かの言い伝えを別の話に仕立てているような気がする。
 五左衛門と菼馬は何かの象徴で、実際にこうした出来事があったわけではないだろう。
 菼馬はどんな意味で、村人はどうしてそれを禁忌としたのか、ということだ。
 山口村の支村である海上洞には加治田甚五郎(梶田甚五郎)の祟りの話も伝わっており、山田五左衛門とは”五”でつながっている。
 ”五”はいつもいうように尾張を意味している。
 山田五左衛門は山田という姓からも、この土地の主だったと考えられる。
 その村長の山田五左衛門が菼馬に乗って沼に落ちて死んだのは単なる事故ではなかったとすれば、”菼馬”によって殺されたことになる。
 やはり、”菼=あしげ”がこの話の鍵を握っている。
 日本昔話はソフトに描かれているけど、あれはだいたい残酷な出来事が元になっている。
 それと同じように、山口村に言い伝えられた菼馬の話はたぶん、恐ろしい出来事が隠されている。
 山口八幡とも何らかの関わりがあると考えられる。

山口城と武田信玄

 海上の森と武田信玄というと、ほとんどの人は何の話? と思うだろうけど、一部の人はあれだよねと分かる。
 海上の森へ行くと武田信玄の墓だとか聖徳太子の墓だとか、だいぶおかしいというか怪しげなことが書かれた看板が立っている(今はないかもしれない)。
 当然のように大部分の人はなんかおかしなことを書いている人がいるんだなくらいにしか思わず無視してしまうのだけど、あの話はまんざらデタラメではないし、ある意味では核心を突いているともいえる。
 私が別のところで聞いている話とつき合わせてもあり得ることだと思っている。
 武田信玄の武田家は山田庄や山田氏と何らかの関わりがある可能性が高い。
 武田信玄は海上の森で死んだという伝承があり、かつて海上洞では山田守信玄として供養していたという話もある。
 一般的には、信玄は三河攻めの最中に体調を崩して甲斐へ戻る途中に亡くなったとされる。
 自分の死を三年秘すように遺言を残したというのはよく知られる話だ。
 死を隠すということは場所も隠すということで、表立って言われていることは正しくないという見方もできる。
 東菱野町の熊野社のところで書いたけど、どうして菱野は”菱”なのか、武田家はどうして武田菱を家紋としたのかといったあたりを考え合わせてもつながりが見える。
 武田は武田と表記するから気づきにくいけど、字を変えれば竹田となり、”竹”が隠されている。
 松竹梅はそれぞれの一族の象徴で、松は三河の松平で、竹は尾張のイサナキ系一族の象徴だ。梅は菅原家などが梅鉢紋として採用している。
 そこからしても武田家は竹の一族と考えられ、だとすれば信玄も当然ながら尾張の隠された歴史を聞き知っていたことになる。
 この話は私の空想だとか絵空事とかではなく、江戸時代の書にもこの関係のことが書かれている。
『寛文村々覚書』にはこうある。

古城跡壱ヶ所 先年、甲斐ノ信玄家来、番替ニ居申由 今ハ山之内

 古城というのは、現在の本泉寺がある場所にあった上菱野城(かみひしのじょう)のことで、山口城ともいった。
 山田重忠のひ孫に当たる山田泰親が子の重元に地頭職を譲って隠居するために建てたとされるのだけど、そんなはずはない。少なくとも元になる城はもっとずっと古い時代からあった。
 1283年に泰親が本泉寺を建立したときに廃城になったというのも怪しくて、実際は戦国時代まであったのではないかと思う。
『寛文村々覚書』も武田信玄の家臣がこの城に居たといっているのだから、やはり鎌倉時代に廃城になったというのは正しくないのではないか。
 ”番替ニ居”ということは、二人または二家が交替で守っていたということだろうか。

『尾張徇行記』は以下のように書いている。

山口城 府志日、土人日、武田信玄置戌之地、今按武田信玄取尾州地無所見、信玄賞与織田信長有隙、進兵侵東濃抜数城、恐是此時置斥候之地也

海上洞 府志日、在山口村東、又名海上林、山勢峻巍 岩石甚多、山腹有民家、然山径嶮岨、少人往来、林中多栗樹、常禁斧斤、其東高嶺日観物嶺、土人曰、是武田信玄置戌之古塁也

 読解力不足で意味が読み取れないのだけど、武田信玄と織田信長の名前が出ていることからして、信玄が信長を見張るために見張りを置いていたということだろうか。
 海上の森には物見山(ものみやま)という山があり、名前の通り、ここに物見(見張り)を置いていたという言い伝えがある。
 この物見山が信玄の墓ともいう。
 菱野・山口は尾張と三河の境であり、海上の森(かいしょのもり)は会所の森だった。
 山口というのは猿投山の入り口というのが一般的な認識だけど、山祇(ヤマツミ)=尾張の出口であり、三河から見れば山祇の入り口なので山口と呼ばれたとも考えられる。

山口の祭りと猿投

 山口の八幡社でも本地や菱野と同様に、警固祭り(オマント)が行われている(10月の第二日曜日)。
 飾り馬を神社へ奉納し、警固の鉄砲隊が火縄銃を撃ったり、棒の手の奉納が行われたりする。
 この祭りの起源は古く、かつては大々的に猿投神社へ奉納するものだった。
 江戸時代にもまだ名残があったようで、『尾張名所図会』にもその様子が書かれている。長いので要約するとこうだ。
 毎年9月9日に祭礼が行われ、山口、菱野、本地、狩宿などの7村を山口合宿と呼び、米野木、藤枝、北熊、岩作など18村を6村とあわせて米野木合宿といった。
 合宿(あいやど)の組合ができたのは元禄の頃(元禄は1688年から1704年)。
 猿投神社へ馬を献じる神事で、もともとは雨乞いのためだった。
 本来は、熱田社の小碓命に献じるものを、兄の大碓命がいる猿投に献じたと里人はいっている。
 祭りの前日に馬を走らせたり、川に入って身を清め、9日の未明に出発して昼頃猿投に到着する。
 馬を飾り、参加者は武装して、道中、異口同音に「ヤサ、ヤサ、ヤサ」とかけ声をあげ、鉄砲などをうち鳴らす。中にはおどける者もある。
「實(げ)に武威(ぶい)第一の神祭(しんさい)とやいふべきからん」

 これを読むと、神輿を担いでワッショイと陽気なお祭り騒ぎというよりも、やや物々しい雰囲気が感じられる。
 江戸時代よりも以前は規模がもっと大きかったようで、周辺の村々が一堂に会するようなものだったらしい。
 やはり猿投山には何か特別な意味があったと見るべきだ。
 この地区の中心というだけでなく、もっと広い意味で根源的な何かだ。
 そこに深く関わっているのが景行天皇であり、大碓命であるということは、記紀神話が伝える話は本当ではないということになりそうだ。
 興味を惹かれるのは里人の話で、もともとは熱田の小碓命に馬を献じるものだったのが猿投の大碓命に献じるようになったというものだ。
 これは何か裏があるというか理由があることで、何らかの対立や争いの匂いがする。
 それにしても、どうして猿投がそこまで重視されたのかが気になるところだ。
 この祭りは尾張側から三河側へ出向くということで、逆ではない。
 熱田社が尾張の三宮で猿投神社が三河の三宮というのも、たまたまではなさそうだ。
 尾張側からの威嚇めいたものなのか、それとも平和の象徴的な祭りだったのか。

スルーしてしまった祭神問題

 ここまで長々と書いてきてそろそろ締めくくりというところなのだけど、スルーしてしまったというか見落としていたことがあることに気づいた。
 それは祭神問題だ。
 あらためて山口八幡社の公式サイトの文章を読んでみる。

創建は1223年で、承久の乱で後鳥羽上皇方で戦った尾張の国の守護山田次郎重忠が建立した記録が残り、神功皇后、応神天皇、田寸津比売命、市寸島比売命、多紀理毘売命等が祭神です。

 素通りしてはいけないところを素通りしてしまっていた。
 まず、祭神の筆頭が応神天皇ではなく神功皇后になっている点が一つ、もう一つは田寸津比売命、市寸島比売命、多紀理毘売命のいわゆる宗像三女神が祭神に名を連ねている点だ。
 八幡社の総社とされる宇佐神宮(公式サイト)や京都の石清水八幡宮(公式サイト)、鎌倉の鶴岡八幡宮(公式サイト)などでは、応神天皇・比売神・神功皇后をセットで祀っていて、比売神は宗像三女神という解釈もあるので、それにならったともいえるのだけど、だとしても比売神とせず三女神をバラしたところにどんな意味があるのか気になるところだ。
 ただ、これは神社が公式サイトでいっている次の文によって、なるほどそこからかということになる。
 境内に”山口天神の牛石”というものがあって、これが元の山口神社だといい、次のように書いている。

山口天神の牛石(やまぐちてんじんのうしいし)
祭神 五男三女神
山口八幡社が山口神社と呼ばれていた奈良時代には天照大神の御子である五男三女の八柱の神が祀られていたと思われます
山口神社は鎌倉時代初期に創建された八幡社に合祀されました

 もともとの山口天神は五男三女神、いわゆる八王子を祀っていたというのだ。
 ”思われます”という表現が微妙なのだけど、これは充分あり得ることだ。
 というのも、瀬戸は八王子の土地だからだ。
 瀬戸市内には八王子系の神社が3社現存しており、瀬戸を代表する神社の一つである深川神社や延喜式内社とされる大目神社もかつては八王子社と称していた。
 八王子というのはこれまでも書いてきたように、8人の王子という意味ではなく”八”の子のことをいう。
 ”五”が尾張で”三”が三河で、足すと”八”になる。
 瀬戸は古い時代に尾張氏が開拓した土地なので、その祖というべき八王子を祀ることに違和感はない。
 ここでいう八王子は尾張と三河をあわせた象徴のようなもので、具体的には天火明だったり天香語山だったりしたかもしれない。
 ただ、三女神が残っているということは、三河側の方が強いとも考えられる。
 現在の祭神には尾張側の五男神は入っていない。
 かつて山口村にあった八劔社は完全に尾張側の神社だけど、それもどこかに消えてしまった。
『愛知縣神社名鑑』は大正元年に村内の多度社と神明社を合祀したと書いているけど、それらの祭神も見当たらない。

 以上のことからも、やはりこの神社にはどこかモヤモヤ感がつきまとう。
 元からあった古い山口天神を山田重忠が八幡に変えてしまったという話も、やはり納得がいかない。
 もし事実だとしたら、山田重忠はなにゆえに神功皇后を祀ったのか?
 神功皇后というのは表向きで、別の誰か—おそらく尾張に関係する女性–を祀ったのだとすれば、そのあたりにもこの神社の本質があるといえそうだ。

山口村の変遷

 山口村はもともとは上菱野村と呼ばれていて、それがいつからか山口村になった。
 中世は山田郡に属していて、戦国時代に分割されて北は春日井郡に、南は愛知郡の所属となった。
 瀬戸市でいうと、本地村、美濃池村、菱野村、山口村が愛知郡で、それ以外は春日井郡となった。
 江戸時代は尾張藩領で、水野代官所の支配だった。
 明治39年(1906年)に幡野村と合併して幡山村となり、昭和30年(1955年)に瀬戸市に編入された。
 その後、山口町の町名は残ったものの、昭和60年(1985年)に瀬戸市大字山口という地名は消滅した。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く村の様子が見て取れる。
『尾張徇行記』が書いているように、明和4年(1767年)の洪水で大被害を受けて集落は今林、屋形島、北山島、屋頭島、南嶋の5つのシマに分散した。
 この中で明治時代の地図に書かれているのは今林と欠下で他は分からないのだけど、今林は今林町として今も地名が残っている。
 欠下がどのシマに当たるのかは不明ながら、今は掛下町と字を変えて続いている。
 北山島が本郷だったというので、これが今の山口駅の北、若宮町1丁目、2丁目あたりの集落だだろうか。
 田んぼは矢田川周辺に広がっている。
『尾張徇行記』は洪水の影響で砂入り地が多くなって農業だけではやっていけず副業をしていると書いているけど、そのわりには耕作地は広いように思える。江戸時代後期から明治半ばにかけて回復したか、更に農地を広げただろうか。
 後に開通する愛知環状鉄道は北の丘陵地沿いを通ることになる。
 八幡社は集落から少し外れた丘陵地の麓近くにある。
 1920年(大正9年)はまだ大きな変化はないものの、村の南北を貫く道が通っている。今の155号線だ。
 これは尾張旭と豊田を結ぶ道で、後に重要な役割を果たすことになる。
 途中の地図がないのでその間の経緯はよく分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)を見ると、田んぼエリアが区画整理されている。
 このあたりで最も大きな変化は昭和42年(1967年)に始まった菱野団地の建設だ。
 八幡台という地名が団地以前からあったのか以降のものかは知らないのだけど、この丘陵地を切り開いて巨大団地が建った。
 戸数7,000、住人3万人という大規模団地で、これが後の愛知環状鉄道(岡多・瀬戸線)につながるのだけど、開通までは紆余曲折があった。
 その後、愛知環状鉄道沿いに民家は増えていったものの、南の南山口町や上之山町あたりは宅地化されていない丘陵地がそのまま残っている。
 海上の森は2005年の愛知万博で破壊されかけてなんとか助かった。

由緒とは何か

 この神社に関しては終始釈然としない感じがつきまとう。
 これは個人的な感覚なのかもしれないけど、どうもはっきりしない。
 江戸時代の書がいうように、中世あたりに古記録が焼失してしまったのか、何か表に出せないことがあって隠しているのか。
 公式サイトが書いている由緒を全面的に信じることはできないのだけど、だからといっても全部が嘘というわけではない。
 山田重忠が承久の乱で生き延びて菱野あたりにいたかどうかはともかくとして、鎌倉時代に重忠のひ孫の泰親が地頭をしていたというのは事実だろう。
 本泉寺についてもう少し詳しく調べていくと何か見えてくるものがあるかもしれない。
 山口八幡に関してはこれで書き切れたという気が全然しないので、継続調査ということにしたい。

 それにしても今回ようやく山口八幡を訪ねることができた。
 海上の森はそれこそ50回以上は行ってるし、山口八幡の近くや前までは行くのにどうして参拝することができなかった。
 意識的に避けたということではなくて、なんとなく行けなかった。
 もっと理解が深まってから来いという神社側からのメッセージだっただろうか。
 やっと行けた感想としては、やっぱりよく分からないというものだった。
 この神社はよく分からない。”よく分からない感”みたいなものが強い神社というのはあって、ここもその中の一つだ。
 すごく立派だとか、古い歴史を感じるとかいうこともなく、何か捉えどころがない。
 そういう意味でオススメ度を星2つとしたけど、興味を持った方は一度訪ねて自分の感覚で確かめてみてください。
 訪れた際は、左手上にある天神社の参拝もお忘れなく。

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