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春日社(傍示本村)

神明から春日へ

読み方かすが-しゃ(ほうじもとむら)
所在地愛知郡東郷町大字春木字白土1番 地図
創建年1421年(?)
旧社格・等級等旧指定村社・十三等級
祭神建御雷命(タケミカヅチ)
齋主命(イワイヌシ/經津主神?)
天児屋根命(アメノコヤネ)
姫大神(ヒメオオカミ)
アクセス名鉄バス「傍示本」より徒歩約1分
東郷町コミュニティバス「中屋敷」より徒歩約1分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他10月19日(要確認)
神紋
オススメ度**
ブログ記事

好きなものは好きは神社も同じ

 あ、この神社好きだ、と直感的に思った。
 それは好みのタイプのようなもので、言葉で説明するのは難しいのだけど、何の根拠もなくそんなことを思うわけはないので、何か理由はあるのだろう。
 東郷町を代表する神社は裕福寺の富士浅間神社だったとしても、個人的には傍示本の春日社が一番好きだ。
 どこがと訊かれても答えられない。

傍示本村について

 春日社は傍示本村の氏神だったのは間違いないのだけど、元は神明で、どこかで春日社になったらしく、そのあたりの経緯がはっきり伝わっていない。
 まずは傍示本村について、その由来などをあわせて見ていくことにする。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で傍示本村についてこう書いている。

傍示本村 ハウジもと

傍は榜(ハウ)の誤なり榜示は漢語にして疆をしらせるの札をいふとぞ
【成人日】
後世鎌倉の末後醍醐天皇の頃民部省より國々の□帳をあらたむるとて榜示を建たるより其俗稱の遺れるなるべし
【附言】武蔵國賀美の郡本庄宿の東に榜示堂村あり上毛野國芭樂郡に榜示塚村あり 館林の近邊也
おのおの國堺なり本國榜示本も三河堺にあり

 傍示本村の”傍”は”榜”の間違いで、国境を示す榜示が立てられたのが村名の由来というのが津田正生の主張というか推理だ。
 榜示(牓示/牓爾)というのは後の時代の高札、つまり掲示板のようなもので、木簡は平城宮跡などから見つかっていることから、律令制と関係があると考えられる。
 ただし、ここでは鎌倉時代末の後醍醐天皇時代に立てられたということをいっている。
 それにしても、傍示本の”傍”を”榜示”の”榜”の間違いと決めつけるのはどうかと思う。
 ”傍”は文字通りであれば、”そば”とか”かたわら”といった意味の字だ。
 他国にも榜示堂村や榜示塚村があるということを根拠としているけど、いずれも”榜”であって”傍”ではない。
 榜示なんてものはわりと数があったはずで、それが村名になるというのはちょっと可能性としては低い気がする。
 ”本村”というからには本郷とか元郷といった意味もありそうだし、榜示とは関係ないのではないかと個人的には思う。
 ”ほうじ”という音からすると、むしろ”法事”の方がありそうだ。
 傍示本村と南の部田村との間にある裕福寺村は、もともと傍示本村の村域で、そこにあった裕福寺の寺領が独立して村になったという経緯もあり、この裕福寺とも関係があるのかもしれない。

 尾張の地誌を古い順に見ていく。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

傍尓本村

家数 三拾七軒
人数 三百弐拾人
馬 弐拾弐疋

浄土宗 祐福寺末寺 松京山円城寺
 寺内七畝歩 備前検除

社 弐ヶ所 内 明神 山之神 当所祢宜 三郎右衛門持分
 社内壱町九反步 但、松林共 前々除

薬師堂 一宇 地内年貢地 右之 円城寺持分

申庚堂 一宇 地内壱反七畝歩 前々除

古城跡壱ヶ所 先年丹羽右近居城之由、今ハ畑二成ル

御上洛・朝鮮人来朝之時、人馬出ス。

 村名の字についても触れておくと、『寛文村々覚書』と『尾張徇行記』はいずれも”傍尓本村”としており、『尾張志』では”傍爾本村”となっている。
 尓/爾は二人称代名詞の”なんじ/おまえ”という意味の字で、”それ/これ”といった指示代名詞でもある。その他、”しかり/その通り”といった意味もある。
 なので、傍示本村の”示”は間違いというか、後年に変化してしまった字のようだ。
 ”傍尓本村”をそのままの意味として取るなら、本郷のそばの村といった意味とも取れる。

 この当時の神社は明神と山神の2社で、明神が今の春日社のことなのだろうけど、古くは神明だったという話があってちょっと混乱する。
 そのあたりについて『尾張徇行記』(1822年)は以下のように書いている。

社二区、覚書ニ明神山神社内一町九反前々除
庄屋書上ニ、神明祠境内二町六反六畝二十歩御除地、応永二十八丁丑年沙門宥賢ト云者勧請スル由棟札ニアリ、当社ノ界内ニ春日大明神愛宕大権現ノ二社アリ、春日祠ハ万治三年勧請ノ由棟札ニアリ、山神二社、此内一社ハ一反、一社ハ一反二畝御除地、役行者堂境内十五歩、弁才天祠境内一畝、熊野権現祠境内二畝、牛頭天王祠境内一畝十歩、秋葉祠境内一反、金毘羅祠右ノ境内ニアリ、イツレモ御除地ナリ

 庄屋の書上に、神明祠は応永28年(1421年)に沙門の宥賢という人間が勧請したという棟札があるといっている。
 1421年は室町時代中期で、応仁の乱(1467-1477年)の前だ。
 こんな時代に神明を勧請した例はあまり多くないと思うのだけど、それをしたのが沙門(しゃもん)というから、それまた珍しいのではないか。
 沙門というのは寺に属する僧侶ではなく、いわば個人的な修行者といった人間で、それが伊勢の神宮から勧請することができたのだろうかという疑問も抱く。
 棟札にあるのならできたのだろうけど、何か特別な人物だっただろうか。
 この神明の境内には春日大明神と愛宕大権現があって、春日祠は万治3年(1660年)勧請の棟札があるとも書いている。
 どこかで神明と春日が入れ替わるようなことになったと考えられるのだけど、それはいつだったのか。
『寛文村々覚書』がまとめられたのが1670年より少し前で、1660年に春日神を勧請して祀ったことで春日社となった可能性もある。だから、”明神”としているのかもしれない。神明を明神とは呼ばないだろうし。
 そうなると『尾張徇行記』にある庄屋書上がいつ書かれたものかということになるのだけど、ここではしっかり”神明祠”といっているので、江戸時代に入っても神明時代があったのは間違いなさそうだ。
『尾張志』(1844年)はこの棟札の内容を書いている。

春日社
 傍爾本村にあり當村の氏神とす境内に神明社及愛宕ノ社あり神明ノ社の棟札あり如左

 大願主沙門宥賢
泰造立御社一宇應永廿八年辛丑極月十九日
 大工叉次□

山ノ神ノ社 氏神より西の方にあり
熊野社 氏神より東の方にあり
山ノ神ノ社 氏神より南の方にあり
知立社
秋葉社

この五社も同村にあり

 ここでは春日社を當村(傍示本村)の氏神としており、境内社として神明と愛宕があるといっているので、神明と春日が入れ替わったらしいことを示している。
 神明を勧請したのは”大願主沙門宥賢”となっており、これは間違いなさそうだ。

 春日社以外にも、山神2社、役行者堂、弁才天祠、熊野権現祠、牛頭天王祠、秋葉祠、金毘羅祠があって、すべて除地といっている。
『尾張志』にある知立元の元の金毘羅祠かもしれない。
 祠や堂の多さや顔ぶれからして、傍示本村が古い歴史を持つことが感じられる。室町時代あたりにできた新興の村ではないだろう。
 神明を勧請したのが1421年だったとしても、それ以前にすでに何らかの社があったのではないかと思う。

傍示本村を古いとする根拠はあるのか

 東郷町内で縄文、弥生の遺跡は見つかっていない。
 ただ、知られていないからといってないとは限らない。
 古墳についても、北部の諸輪エリアで5基ほど知られているものの、きちんと調査されたわけではないので詳しいことは分かっていない。
 飛鳥時代から奈良時代の須恵器を焼いたとされる古窯址が諸輪を中心に30以上見つかっていることから、遅くともその頃までにはこのあたりで人が暮らしていたのは間違いない。
 傍示本村や部田村の村域でも古窯址が見つかった。

 以上からして、傍示本村の前身といえる集落は奈良時代にはできていたのではないかと推測できる。
 ただし、それがずっと続いたとは限らない。途中で途切れて、また復活したかもしれない。
 神明の前身があったのではないかという私の推測はあながち間違いではないと思うけどどうだろう。

 傍示本村の春日社について『東郷町誌』はこんなふうに書いている。

鎮座年歴は詳かではないが、御正体懸仏の裏面に永享第二曆十二月 日又は永享辛亥三月十五日とあることから、永享年間に関連があり、棟札に応永二十八丁己十二月十九日沙門宥隕僧之勧請とあるから、初めて勧請鎮座したのは応永永享の頃か又はそれ以前と推定できる。
この棟札の応永二十八年は五百三十六年前である。
懸仏は四面あって、この懸仏は神明社の御正体で仏像は大日彌陀の両仏であり裏面に
奉献大神宮
永享第二曆
大顺主 近藤
十二月朔日
とあり。

 永享年間は応永年間に続く1429年から1441年までで、応永28年(1421年)に神明が勧請され、そこに奉納するためだったのだろう、永享年に懸仏が作られたといい、そのうちの4面は今も残っている。

(つづく)

作成日 2025.6.30


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