地図上では西宮神社となっているのでそのつもりで出向いたら金刀比羅社だったので最初戸惑った。西宮神社は末社の扱いになっていて、本体は金刀比羅社のようだ。 このときは気づかなかったのだけど、西宮神社の社号標も脇に建っていたようだ。 先にあったのは西宮神社の方らしく、そのあたりの経緯がちょっとややこしい。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「社伝に正応三年(1290年)四月、鎌倉将軍北条貞時、弘安の役後諸国航行の整備を行う。愛知郡那古野荘広井の里に航行の安全を願って建立するという」 文章が分かりづらくて何を言いたいのか不明だ。創建は鎌倉時代後期の1290年ということなのか違うのか。 そもそも北条貞時は鎌倉幕府第9代の執権(政務の担当)であって将軍ではない(このときの将軍は宮将軍の惟康親王)。 元寇と呼ばれる二度の蒙古襲来の一度目が1274年(文永の役)、二度目が弘安の役で1281年で、それは貞時の父・時宗のときだった。 貞時は父の時宗が早死にしたため、1284年に14歳で執権に就いた。 当初は平頼綱が実権を握っていて、その平頼綱を滅ぼして貞時が実権を握るのが1293年のことだ。 1290年というと、貞時は20歳。政治を行っている平頼綱が存命のときに、貞時が「諸国航行の整備を行う」ことができたかどうかは疑問だ。弘安の役からは9年経っているし、モンゴルは国内での反乱などもあり、日本に攻め込んでいる場合ではなかったという事情もある。そうこうしているうちにフビライは1294年に死去して日本侵攻の話は立ち消えになった。 モンゴル襲来と諸国の航行整備と神社創建は結びつかない気がするのだけどどうなんだろう。 「愛知郡那古野荘広井の里に航行の安全を願って建立」というのであれば、それはやはり金毘羅だっただろうか。 江戸時代の広井村は名古屋駅の東、現在の西区那古野1丁目、中村区名駅5丁目、名駅南1丁目あたりをいうのだけど、『愛知縣神社名鑑』がいうところの「那古野荘広井の里」が広井村のことを指しているのかどうかは分からない。江戸時代以前、堀川が掘削されるまでは堀川の東も広井村だったという話もある。
西宮神社の創建については500年ほど前だったという話がある。1500年代前半といえば戦国時代だ。 月島一帯の守護神として天照大神荒魂(あまてらすおおかみのあらたま)を祀っていたという。 ただ、今昔マップを見ると明治中頃(1888-1898年)ですらこのあたりは田んぼと中川以外に何もないところで、月島という地名が戦国時代にあったとも思えない。村の集落からも遠く離れている。月島一帯の守護神としてアマテラスの荒魂を祀ったという話もそのまま信じることはできない。 西宮神社というと、兵庫県西宮市の西宮神社(web)がよく知られている。えびす神を祀る神社の総本社とされている。 イザナギとイザナミの間に生まれた最初の子である蛭子(ヒルコ)は不具だったため船に乗せて海に流され、流れ着いた摂津国で拾われ、夷三郎と名付けられて育てられ、後に祀ったのが西宮神社とされる。 月島の西宮神社で祀られているのがアマテラスの荒魂というであれば、それは廣田神社(web)から勧請したという可能性がある。廣田神社も兵庫県西宮市にあり祭神は天照大神荒魂 /撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)とされている。 西宮の西宮神社はもともと廣田神社の境外摂社だった。
更に別の話として、ここは古くから「いぼ神様」と呼ばれ、願いを杓子(しゃくし)に書いて奉納するという風習があったという。 今でも拝殿には大きなシャモジがかかっており、願掛けにシャモジを奉納するということが続いている。 この「シャグジ信仰」という民間信仰は名古屋各地にも残っており、社宮司、石神、斎宮神、三狐神などと表記されるものの多くはその系統だといわれている。諏訪方面の古い信仰が元になっているという説があるも定かではない。 西宮もそのひとつで、もしかするとこれもシャグジがシャグウ、サイグウとなり、西宮という字が当てられたのかもしれない。 アマテラス荒魂云々というのは廣田神社にあやかった後付けという可能性もある。
1610年の名古屋城築城の際、月島のこのあたりに石垣の石切場があったという伝承が残っている。 この時代の中川(上流は笈瀬川と呼ばれた)は、頓ケ島と呼ばれるあたりから下流は川幅が広くて船が行き来しており、頓ケ島に船溜まりがあったという。現在の小栗橋(地図)のあたりだ。 尾張、美濃、三河を始め、全国各地から運んできた石垣用の石をここで陸揚げして加工していたという。 通説では各地で加工した石を熱田の湊まで船で運んで、そこから陸路で木橇(きぞり/修羅)に載せて運んだとされているのだけど、笈瀬川経由で運んだものもあったということだろう。 堀川で石垣の石を運んだということはない。城の土木工事が先に始まり、堀川の掘削はそれに遅れて同時進行で行われ、石垣の方が先に完成している。堀川は1610年から始まって完成は翌1611年だから、堀川は使えなかった。
金刀比羅社、西宮神社、イボ神様、この他にもうひとつこの神社の呼び名がある。運河神社上宮がそれだ。 これは、中川運河ができたことにより、運河の総鎮守とされたことによる。 中川運河は自然河川の中川(笈瀬川)を運河化したもので、大正15年に工事が始まって昭和5年に完成した。 上宮というからには下宮もあって、港区中川本町に金比羅大権言社(運河神社/地図)がある。そちらは昭和9年に創建された新しい神社だ。
以上のように、この神社はいくつかの顔を持っていて、どこが本体なのか分かりづらい。 古い時代に広井村に建てられたのは金毘羅なのか西宮神社なのか。合併する形になったのはいつなのか。 『愛知縣神社名鑑』は昭和16年に現在地に移したと書いている。そのときここにはすでに西宮社があったのかなかったのか。金毘羅と西宮社は広井村の時点で合併していたのか。 江戸時代の『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)ではこの神社に相当するようなものは見つけられなかった。 民間信仰のシャグジ神と金毘羅が渾然一体となっているのがこの神社という理解でいいだろうか。
毎年8月には、ふたつの運河神社で運河まつりが行われる。 かつては花火が打ち上げられたり、運河を船で行き来したりといったこともあったようだけど、近年は出店が出て盆踊りが行われるといった町内会の夏まつりのようになっているらしい。 祭りを楽しみにやってくるちびっこたちにとっては、その神社の神がシャグジ神だろうと金毘羅さんだろうと、そんなことはどうでもいい。おそらく、多くの大人にとっても。
作成日 2017.7.20(最終更新日 2019.6.22)
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