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ヒルコ《蛭子》

ヒルコ《蛭子》

『古事記』表記 水蛭子
『日本書紀』表記 蛭子/蛭兒
別名 蛭子神、蛭子命、夷三郎、恵比寿神
祭神名 蛭子神、蛭子命、他
系譜 (親)伊弉諾神伊弉冉神
(兄弟)天照大神月読尊素戔嗚尊
属性 来訪神、福の神
後裔 不明
祀られている神社(全国) 西宮神社(兵庫県西宮市)、蛭子神社(兵庫県神戸市)、須部神社(福井県三方上中郡)、など
祀られている神社(名古屋) 六所神社(比良)(西区)をはじめとする六所社、大乃伎神社(西区)、別小江神社(北区)

その正体は?

 蛭子とは一体何だったのか、という疑問を以前から抱いていた。
 イザナギ・イザナミの子として生まれながら不具という理由で流されてしまったかわいそうな子供というのが一般的なイメージだろう。
 でも、本当にそれだけなんだろうか?

 蛭(ひる)といえばあの血を吸う蛭を連想する。
 蛭に血を吸われたことがあるというのは中高年以上の世代だろうけど、絶滅したわけではないので今もそこらにいるのだと思う。
 田んぼによくいたチスイビルの他、ヌマビル、ヤマビル、ハナビルなど、いろいろな蛭がいる。
 蛭子の表記は『日本書紀』のもので、『古事記』では水蛭子となっている。これも”ひるこ”と読ませているのだけど、あえて水を付けていることに何か意味がありそうだ。
 当て字が多い『古事記』が蛭という字を使っているので、やはり蛭という文字が鍵を握っている。
 ただし、蛭神ではなく蛭子になっている点に注目しなければいけない。
 つまり、蛭子は蛭の子で、蛭はイザナギ・イザナミを指しているのかもしれないということだ。

 

『古事記』を読んで気づくこと

 まずは『古事記』、『日本書紀』がどう書いているかを読んでいくことにしよう。その後、他の史料や伝承なども当たりたい。
『古事記』の国生みは伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が天神に命じられて渡された天沼矛(あめのぬほこ)を使って地上をかき回し、淤能碁呂島(おのごろしま)ができたというところから始まる。
 島に降り立った二人はそれぞれ左右から天御柱(あめのみはしら)を回って行き会い、互いに声を掛け合い、夫婦の寝床を作って交わって生まれたのが水蛭子だった。
 原文は「久美度邇(此四字以音)興而生子水蛭子」となっており、そのまま読むと久美度邇(くみどに)興して生んだ子が水蛭子ということになる。久美度邇というのは寝床を組むといった解釈がされている。
 ここで大事なのは、伊邪那岐命と伊邪那美命の間に最初に生まれたのが水蛭子ということだ。
 しかし、交わる前に女性の伊邪那美命から先になんていい男(阿那邇夜志愛袁登古袁)と言ったのがよくなかったと伊邪那岐命は言っている。
 水蛭子を葦船に入れて流してしまう。
 続いて生んだ淡島(アハシマ)も子には入れなかったといっている。
 その理由について『古事記』は書いていない。
 よくなかった理由は何かを訊ねるために伊邪那岐命と伊邪那美命は天神のもとを訪れ、天神が占うとやはり女性から先に話したのがいけなかったと分かり、あらためて地に降りて交わってできたのが淡道之穂之狭別島(あはじのほのさわけしま)で、次に伊予之二名島(いよのふたなしま)だったという。
 あれ? とここで気づくのだけど、水蛭子は神生みではなく国生みの最初だったのだ。
 この後も続けて国生みが行われ、最終的には大八島国として完成したのが日本ということになっている。
 それぞれの島や国は何かの象徴には違いないのだけど、最初の水蛭子と淡島は国(島)のうちに入らなかったということを伝えているのだろう。
 大八島国の中には壱岐島を思わせる伊伎島や、津島(対馬)、佐渡島が入っている一方、北海道や琉球(沖縄)は入っていない。
 候補としては済州島や台湾島まで入る可能性はあった。
 国を生むということは、それらの土地に自分たちの勢力を送って新たな国作りをしたことを意味しているのではないか。
 水蛭子と淡島はそれに失敗したことを暗示しているのだろうか。

 

『日本書紀』も一書で同じことを書いている

『日本書紀』は第四段に国生みについて書いているのだけど、一書第一が『古事記』とほぼ同じ内容なので、元ネタが同じということが分かる。いくつかあった伝承の中で『古事記』はこれを採用したといういい方もできる。
 対する本文はけっこう違っている。
 天之瓊矛(あめのぬほこ)でかき混ぜてできた磤馭慮嶋(おのころしま)に降り立ち、国中之柱を回って交わった結果生まれたのが淡路洲だったのだけど、「先以淡路洲爲胞 意所不快 故名之曰淡路洲」と書いている。
 淡路洲が胞(え)だったため不快に思うところがあって淡路(あはじ=吾恥)と名づけたとは一体どういうことなのか?
 この部分についてはいくつかの解釈が提出されているのだけど、それよりも問題は蛭子が出てこないことだ。
『日本書紀』は本文において蛭子の存在をまったく無視してしまっている。流される以前に最初からいなかったことになっている。何故そんなことをしたのかはよく分からない。
 一書においてもちゃんと書いているのは一書第一だけで、第十に淡路洲の後に蛭兒が生まれたとだけ書く。
 ここでは蛭子ではなく蛭兒になっている。
 蛭子って三歳になるまで足が立たなかったから流されたんじゃなかったっけ? と思う人もいるだろうけど(私もそうだった)、蛭子は天照大神月読尊素戔嗚尊のところでもう一度出てくる。
 国生みの最初のところで出てきた”蛭子”と神生みの三貴神のところで出てくる”蛭兒”が同じなのか違うのかという問題もある。

 

蛭子と蛭兒

 いわゆる神生みについては次の第五段で語られる。その本文に三貴神の兄弟として蛭兒が出てくる。
 伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)はともに大八洲国と山川草木の神を生み、次にそれを治める神を生むことにした。
 そのとき最初に生まれたのが太陽神の大日孁貴(オオヒルメノムチ)で(一書いわくとして天照大神、天照大日孁尊ともいうと記す)、次に月神(一書いわく月弓尊または月夜見尊または月読尊)、続いて蛭兒が生まれたものの、三歳になるまで脚が立たなかったので天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて風に流してしまったという。
 次が素戔鳴尊(一書いわく神素戔鳴尊または速素戔鳴尊)なので、三貴神はもともとは四兄弟だったということだ。
 この部分でいくつか気になることがある。
 まず、天照大神の本来の名は大日孁貴だったということだ。ヒルメとヒルコはよく似ている。ここでは”日”を”ヒル”と読ませているので、蛭兒も日を使えば”日兒”となり、日の子の神だったとも考えられる。”孁”(メ)は女性を意味するので、日子と日孁は一対の関係性という可能性もある。
 ただ、蛭兒の性格についての言及はなく、三歳になるまで脚が立たなかったといっているので何らかの不具合や不都合があったのだろう。脚が立たないというのは文字通りの意味ではなく何かを象徴的に伝えている。
 それから気になった最大のポイントは”蛭兒”となっている点だ。
 兒は今の文字でいうと児童の”児”で、幼い子供を意味する。
 国生みのところで出てきたヒルコは”蛭子”と”子”になっていた。
 兒と子は似ているけど違う。兒は”ちご”とも読むように幼い子供限定なのに対して子はもっと幅広い意味で使う。親子の関係でいえば、幼いときだけ兒で、成長したあともずっと子であることに変わりはない。

 そもそも蛭子は国生みの最初で生まれたもので、神生みの三貴神とともに生まれた蛭兒とは別なのではないか。
 船に乗せて流したという共通点はあるものの、蛭子は葦船に載せて流した(便載葦船而流之)のに対して、蛭兒は天磐櫲樟船に載せて流したといっている(載之於天磐櫲樟船而順風放棄)。
 天磐櫲樟船の”磐”は磐座などの岩の象徴だろうし、”櫲樟”は樟(くすのき)を意味しているので、木を彫って作った頑丈な船といっている。葦船とは全然違う。
 以上から、蛭子と蛭兒は別というのが私の考えだ。少なくとも別の可能性を考える必要がある。

 第五段の一書第二は他にはない独自の伝承で興味深い。
 日神、月神の後に蛭兒が生まれたものの三歳になっても脚が立たなかったというのは本文と同じなのだけど、その原因は伊弉諾尊と伊弉冉尊が柱を巡るときに陰神(イザナミ)が先に発言したから陰陽の理にかなわなかったからだといっている。
 さらっと読むとなるほどそういう理由だったのかと納得しそうになるのだけど、よく考えるとこれはおかしな話だ。それが原因なら四兄弟のすべてに影響が出るはずなのに、三番目の子だけそうなるのは変だ。しかも、他の三兄弟は三貴神として特別扱いされている。蛭兒だけがその責を負ういわれがない。
 おかしいといえば、国生みの蛭子と神生みの蛭兒をここで同列に語るのも違和感がある。
 それから、本文では天磐櫲樟船となっていたのがここでは鳥磐櫲樟橡船(トリノイワクスフネ)が生まれて、その船に載せて蛭兒を流して棄てたと書いている。
 ということは、船は船ではなく人または神なのか? という疑問も抱く。
 天磐櫲樟船も人だとすると、船に載せて流したというのも別の意味合いが出てくる。
 この一書第二の特殊性は、火神の軻遇突智(カグツチ)が土神の埴山姫(ハニヤマヒメ)を娶って稚産霊(ワクムスビ)が生まれたといったところにも表れている。
 本文とも他の一書とも違う特殊な伝承を『日本書紀』が採用したということは無視できない。

 ちなみに、『古事記』は三貴神の誕生について、伊邪那岐命が黄泉国から戻って禊(みそぎ)をしたときに生まれたとしているので、この部分に蛭兒は登場しない。

 

『先代旧事本紀』は微妙に変えている

『先代旧事本紀』の「陰陽本紀」の国生みの部分はほぼ『古事記』と同じで、ほとんどそのまま写している。
 蛭子を水蛭子と表記して、葦舩に乗せて流したというのも共通している。
 神生みに関しては『古事記』とも『日本書紀』とも違う独自の伝承を伝えているのだけど、蛭兒も出てくる。
 少し違うのは生まれた順番だ。日神の大日孁貴、月神の月読尊、素戔烏尊に続いて四番目に蛭兒が生まれたとし、三歳になっても脚が立たなかったのは伊弉冉尊が先に声を発して陰陽の道理にかなわなかったので最後にこの御子が生まれたと書いている。
 蛭兒を載せて流した船については『日本書紀』本文の天磐櫲樟船ではなく一書第二の鳥磐櫲樟船としている。
 これらの微妙は変更の意図がよく分からないのだけど、『先代旧事本紀』作者の家に伝わる伝承に従ったということだろうか。

 

蛭子はどうして祀られたのか

 以上が記紀その他から得られる蛭子(蛭兒)についての情報だ。
 ただ、これだけの情報で信仰対象になったとは考えづらく、もう少し何か別の要素があるような気がする。三貴神に並ぶ存在だったとはいえ、記紀では性格付けもされておらず、怨霊めいた話もない。鎮めるために祀ったということがあったかもしれないけど、それが全国に広がるとは考えづらい。
 ポイントは船に載せて流したとはいっているものの死んだとはいっていないということだ。流しただけなら流れ着いた先があってもおかしくはない。
 実際にそうだったのかそういう発想から出たのかは分からないのだけど、蛭子は中世以降に恵比寿(夷)と習合することになる。
 大きなきっかけになったと考えられるのが兵庫県西宮市の西宮神社(web)の夷三郎の存在だ。

 

蛭子と恵比寿

 ”夷”の文献上の初出は平安時代末の辞書『伊呂波字類抄』とされる。
 廣田神社(web)の末社10社の中に「夷 毘沙門」、「三郎殿 不動明王」とあり、後にこれが混同して夷三郎という人格神として一人歩きし始める。
 西宮神社社伝によると、和田岬の沖で蛭子の神像を引き上げた漁師が自宅で祀っていたところ夢で神託を受けて西の現在地で祀ったのが西宮神社の起源という。
『延喜式』神名帳(927年)の「菟原郡 大国主西神社」との関係も指摘されるのだけど、平安時代は廣田神社の摂社だったこともあり、夷信仰の起源ということでは廣田神社かもしれない。
 蛭子を乗せたまま流された船は鳴尾浜に漂着してその地で育てられて夷三郎になったというのは後世の創作話だろうけど(『源平盛衰記』)、そういった話が伝えられるきっかけになる出来事があったとは考えられる。まったくのゼロからこういう伝承は生まれない。
 脚が立たないという理由だけで親に捨てられたとしたら不憫すぎるので、せめて救いになる話を作りたかったということだっただろうか。

 恵比寿というと七福神(しちふくじん)の中の一柱として知られているけど、七福神自体は江戸時代に広まった信仰でそれほど古いものではない。
 ただ、上にも書いたように夷(恵比寿)に対する信仰は遅くとも平安時代にはあって、インドのヒンドゥー教の神である大黒とセットで祀られることが多かったようだ。大黒を広めたのは最澄といわれる。
 これに毘沙門天が加わって三神となり、鎌倉時代から室町時代にかけて更に弁財天、布袋、福禄寿、寿老人が追加されて最終的に七福神という格好になった。
 それぞれ異なるルーツを持つ面々の中で、恵比寿だけが日本由来ということになる。
 この恵比寿と蛭子がいつどういう経緯で習合したのかはよく分からない。
 夷というのは夷狄(いてき)という言葉があるように外側の存在で、それが何らかの形でこちら側に付いたことで味方にしたということがあったのではないか。
 客神(まろうどがみ)というのは外からやってきた神のことで、多くは海からやってくる。船に乗って流されてきた蛭子を外からやってきた客神としたのはある意味では自然なことだった。
 七福神の恵比寿が釣り竿と鯛を持っているのは、記紀が伝えた事代主神(コトシロヌシ)のイメージによるものだろう。こちらも海との関わりが深い。

 

蛭子の神社

 蛭子を祀る神社の起源はよく分からない。中世に蛭子と夷(恵比寿)が習合して以降は蛭子信仰というより恵比寿信仰になっていっただろう。
 恵比寿系の神社は西日本に多いものの、東日本にもそれなりにあり、蛭子系と事代主系に分かれる。
 現存する恵比寿神社は明治の神仏分離令で蛭子か事代主を祭神としたのだけど、数としては事代主の方がずっと多い。蛭子はやはりあまりイメージがよくない。

 気になるのは、名古屋で蛭子を祀っている神社だ。
 名古屋北部の北区、西区一帯に六所社が集まっており、それらで蛭子命が祭神に加わっている。
 ここはかつて山田と呼ばれた地の中心地で、山田は尾張氏の外戚のような存在なので六所社も尾張氏が当然関わっている。
 伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、月読命、須佐乃男命、蛭子命という顔ぶれは六所の六の数合わせなどではなく、このメンバーであることに意味がある。親子が勢揃いしているということだ。
 これは明治の神仏分離令以降に当てはめられた神ではなく江戸時代以前からそうだった。『尾張志』(1844年)にも書かれている。
 式内社とされる西区の大乃伎神社や北区の別小江神社も同じ祭神だから、中世もしくはそれ以前にこの思想は生まれていたのかもしれない。
 ポイントは六にある。それは分かる。ただ、それ以上のことは私にはよく分からない。
 尾張は八の思想でできているというのはこれまでに何度も書いている。中心から放射状に道を延ばしていった先にそれぞれ一から八があり、そのうちの六に当たるのが今の北区、西区ということだろうか。
 六所というのは塩竈とのつながりもあって、尾張の千竈は六の場所にあったかもしれない。

 

蛭子は日子

 蛭子はやはり、日子だろうというのが私の考えだ。
 日は高天原であり、イザナギ・イザナミのことでもある。日子はその子ということだ。
 蛭子と蛭兒は別と考えたい。なので、正確にいえば日子は日兒とすべきだろう。
 蛭兒(日兒)に何が起きたのか。三歳まで脚が立たなかったというのはどういうことを意味しているのか。
 単純に考えれば三年経っても国作りが成らなかったということだろうか。
 それでも蛭兒(日兒)はイザナギ・イザナミの子には違いなく、三貴神の兄弟だった。
 そう思いたい。

 

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