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オトタチバナヒメ《弟橘媛》

オトタチバナヒメ《弟橘媛》

『古事記』表記 弟橘比売命
『日本書紀』表記 弟橘媛
別名 弟財郎女?
祭神名 弟橘媛命・他
系譜 (父)忍山宿禰(オシヤマノスクネ)もしくは田道間守/多遅摩毛理(タジマモリ)
(夫)日本武尊/倭建命
(子)稚武彦王(ワカタケヒコ)/若建王(ワカタケル)、稲入別命(イナリワケ)、武養蚕命(タケカイコ)、葦敢竈見別命(アシカミカマミワケ)、息長田別命(オキナガタワケ)、五十目彦王命(イメヒコノミコ)、伊賀彦王(イガヒコ)、武田王(タケダ)、佐伯命(サエキ)(『先代旧事本紀』)
属性 不明
後裔 尾津君、揮田君、武部君など
祀られている神社(全国) 橘樹神社(千葉県茂原市)、走水神社(神奈川県横須賀市)、吾妻神社(神奈川県中郡)
祀られている神社(名古屋) 橘神社(緑区)、水向神社(熱田神宮web)境内社)

ヤマトタケルを救った悲劇のヒロインというだけではない

日本武尊/倭建命(ヤマトタケル)の妃で、ヤマトタケルが東征の途中で危機に陥ったとき、海に身を投げて一行を救ったことで知られる。
しかし、その出自の謎や記紀での扱いの差、オト-タチバナという名前など、それほど単純な存在ではない。

『古事記』は、一行が走水海(はしりみずのうみ)を渡ろうとしたとき、渡の神が波を起こして船が回って進めなくなり、后の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)が、わたし(妾)が皇子の代わりに海に入りますので、任務を果たして無事に帰還してくださいといい、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷いて、その上に座って海に下りたとある。
菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重はそれぞれ、管(スゲ)、動物の皮、絹の敷物なのだろうけど、どういう意味なのかはよく分からない。
何らかのまじないを意味しているのかもしれない。
また、このときオトタチバナヒメは次の歌を詠ったといっている。

「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

相武国(さがみのくに)の国造にだまされて火に囲まれたとき、私のことを心配して問いかけてくれたあなた、といった意味の歌だ。
いずれにしても人身御供(ひとみごくう)となってヤマトタケルを助けたということだ。
七日後、后の櫛が海岸に流れ着いたので拾い上げて、御陵を作って治めたと書いている。

”陵”(みささぎ)や”后”(きさき)というのは本来、天皇・皇后に使われる言葉なので、『古事記』は暗にヤマトタケルを天皇、オトタチバナヒメを皇后として扱っているともいえる。

それに対して『日本書紀』は、弟橘媛を”王之妾”という異例の表現を用いている。
正妻のことを”后”、それに準じる女性を”妃”とするのが一般的で、妾というのはその下のいわば愛人扱いだ。
『日本書紀』も相摸(さがむ)の海で上総(かみふさ)に渡ろうとしたとき暴風にあってオトタチバナヒメが海に入って神を鎮めたという展開は同じなのだけど、ニュアンスが少し違っている。
ヤマトタケルがこんな小さな海はひとっ飛びで渡れるだろうと高挙げ(ことあげ/言挙げ)したことが原因で海の神の怒りを買ったという書き方をし、オトタチバナヒメの歌も載せず、櫛が流れ着いて陵を作ったといった話も書いていない。

それにしてもどうして『日本書紀』はオトタチバナヒメを”妾”としたのか。
セリフの部分は「願賤妾之身 贖王之命而入海」と、オトタチバナヒメは賤(いや)しい妾(わたし)の身で王の命を贖(あがな)うために海に入りますと言ったとある。
『古事記』でもオトタチバナヒメ自身が自分のことを”妾”といっているので、出自に何か問題があったということだろうか。
妾というのはもともと辛の下に女という文字で、”辛”は入れ墨を入れる針のことを指し、罪人や神へ捧げる女に入れ墨を入れたことから妾(辛+女)という言葉ができた。
つまり、オトタチバナヒメはそういう女性として記紀は扱っているということだ。特に『日本書紀』はオトタチバナヒメを殊更貶めて書いているように思える。

出自と系譜について

オトタチバナの出自について、『古事記』は何も触れず、『日本書紀』は、穗積氏忍山宿禰の女(むすめ)としている。
逆に『古事記』が書いていて『日本書紀』が書いていないこともあってややこしいのだけど、まず忍山宿禰(オシヤマノスクネ)は穂積氏(ほづみうじ)の祖としている。
『古事記』の成務天皇記に穂積臣の祖の建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)という人物が出てくる。
成務天皇が建忍山垂根の娘の弟財郎女(オトタカラノイラツメ)をめとって和訶奴気王(ワカヌケ)が生まれたとある。
『日本書紀』がいう忍山宿禰と『古事記』にある建忍山垂根は同一人物という説もあるようだけど、どうなんだろう。
成務天皇はヤマトタケルの異母弟とされており、姉(?)のオトタチバナヒメがヤマトタケルに嫁ぎ、妹(?)の弟財郎女が成務天皇に嫁いだと考えればいいのか。
ただ、更にややこしいのは『常陸国風土記』は弟橘比売命(オトタチバナヒメ)の姉の大橘比売命(オオタチバナヒメ)が出てきて倭武天皇の橘皇后といっているのだ。
なんですって?
混乱したまま話を進めると、『古事記』は建忍山垂根の父を大水口宿禰(オオミナクチノスクネ)といっていて、穂積氏系図によると饒速日命(ニギハヤヒ)から出発している。
穂積氏は大和国の有力豪族で、物部氏の同族ということになる。
何が言いたいかというと、オトタチバナヒメが穂積氏の家の娘ならば出自に問題がないどころか名門の出ということになるということだ。
自分を卑下して妾などという必然があるとは思えないし、『古事記』では后という扱いになっているのもそれほど不自然ではない。
しかし、オトタチバナヒメは建忍山垂根の実の娘ではないという話がある。

オトタチバナヒメは田道間守の娘?

三重県亀山市に忍山神社(おしやまじんじゃ/web)という神社がある。
第10代崇神天皇の勅命で物部氏の伊香我色雄命(イカガシカオ)が猿田彦命(サルタヒコ)を祀ったのが始まりという説と、第11代垂仁天皇皇女の倭姫(ヤマトヒメ)が天照大神(アマテラス)を祀る地を探しているとき立ち寄った場所のひとつ(元伊勢)という説があるのだけど、ヤマトタケルが東征のときこの神社に立ち寄って神官だった忍山宿禰の娘の弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃としてめとったという話が神社に伝わっている。
更に社伝がいうには、オトタチバナヒメは、田道間守/多遅摩毛理(タジマモリ)と放橘姫(ハナタチバナヒメ)の娘だというのだ。
タジマモリといえば、垂仁天皇の命を受けて常世国に非時香菓(ときじくのかくのみ)を探しにいって、
苦労の末に手に入れて戻ったときには垂仁天皇が崩御していたので嘆いて天皇の陵で自殺したとされる人物だ。
タジマモリは新羅からの渡来人・天日槍(アメノヒボコ)の末裔という話もある。
非時香菓は古代でいうところの橘(たちばな)のことなので、名前の弟橘(オトタチバナ)と合致する。
タジマモリ亡き後、妻のハナタチバナヒメと娘のオトタチバナヒメを引き取ったのが忍山宿禰だというのだ。つまり、忍山宿禰はオトタチバナヒメの養父ということになる。
このあたりのことについて記紀は何も語っていないのだけど、わりと真実味があるように思う。
この話が事実だとすると、系譜的には物部氏系穂積氏の娘であり、血筋としては天日槍の後裔で、神社の娘という立場だったことになる。
ヤマトタケル東征の話がどこまで事実に基づいているのかは分からないし、オトタチバナヒメが妃だったのか后だったのかという問題はあるにしろ、そういう女性が実際にいて、ヤマトタケル伝承が作られる中で
物語に組み込まれていったというのは充分あり得る話だ。元になる何らかの事実があったと考える方が自然だ。

『常陸国風土記』についても、中央からやってきたヤマトタケルのモデルになった人物がいて、常陸国ではその人物を天皇のように扱い、一緒にいた女性を皇后として、記紀のヤマトタケルの物語を反映しつつ地方独自の伝承が生まれたと考えれば納得がいく。
あるいは、オトタチバナヒメとされる女性は実際には相模の海では死なずに常陸国までやってきていて、その姉妹も実在したのかもしれない。
記事にはヤマトタケルの後から大橘比売命が来て山と海に分かれて狩りを競ったとあり、ある種の信憑性が感じられる。少なくともまったくの作り話とは思えない。
オトタチバナヒメはやはり途中で命を落とし、その代わりとして姉の大橘比売命が来たという可能性もあるのか。

二人の子供は一人? 子だくさん?

二人の子供については、『日本書紀』は稚武彦王(ワカタケヒコ)、『古事記』は若建王(ワカタケル)がいると書いていて、これはおそらく同一人物だろうと思う。
『古事記』によると、建忍山垂根の娘の弟財郎女(オトタカラノイラツメ)と成務天皇との間には和謌奴気王(ワケヌケ)という子がいて、この家系が物部氏(もののべうじ)、采女氏(うねめうじ)の本宗家とされる。
『古事記』、『日本書紀』ともに成務天皇に関する記事があまりにも少ないことから、実在しない天皇だとか、成務天皇はヤマトタケルのことではないかなどとよく言われる。
だとすると、弟財郎女(オトタカラ)はオトタチバナヒメのことで、和謌奴気王(ワケヌケ)は稚武彦王/若建王のことになるのか。
上にも書いたように忍山宿禰/建忍山垂根は饒速日命、宇摩志麻治命から続く物部氏直系とされるので、話のつじつまは合う。

『先代旧事本紀』は景行天皇のところで日本武尊は東の蝦夷を平らげて帰ろうとしたが帰ることができずに尾張国で亡くなったと書き、最初の妃が両道入姫皇女(フタジイリヒメ)が稲依別王(イナヨリワケ)、足仲彦尊(タラシナカツヒメ)、布忍入姫命(オノオシイリ)、稚武王(ワカタケ)を生み、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)を妃として、武卵王(タケカイコ)と十城別王(トオキワケ)を生み、穂積氏の忍山宿祢(オシヤマノスクネ)の娘の弟橘媛は稚武彦王を生んだといっている。
成務天皇のところでは、穂積氏の祖・忍山宿禰の娘の弟橘媛が一男を生み、それは稚武彦王命で尾津君(オヅ)、揮田君(フキダ)、武部君(タケベ)らの祖とし、次にという形で稲入別命(イナリワケ)、武養蚕命(タケカイコ)、葦敢竈見別命(アシカミカマミワケ)、息長田別命(オキナガタワケ)、五十目彦王命(イメヒコノミコ)、伊賀彦王(イガヒコ)、武田王(タケダ)、佐伯命(サエキ)の名を挙げている。
これら全員をオトタチバナヒメが産んだのか、養子か何かなのか。
これらの後裔として、波多臣、竈口君、讃岐君、尾張国の丹羽建部君、三川の御使連らの祖といっており、この記事通りだとすればオトタチバナヒメは多くの一族の祖という立場の女性ということになる。

オトタチバナヒメゆかりの地と神社

オトタチバナヒメの出身については上に書いたように三重県亀山市の忍山神社があるあたりが有力と考えられる。
もしくは、田道間守の娘というのであればそれは大和ということになる。
忍山神社については、『延喜式』神名帳(927年)の「伊勢国・鈴鹿郡 忍山神社」に比定するのが通説ではあるのだけど、同じ式内社の布氣神社(布氣皇舘太神社/web)とする説もある。
中世には荒廃して一時はご神体をよそに移すといったこともあるようで、明治から戦後にかけて多くの神社を合祀しているのでその実態がよく分からなくなっているところがある。
主祭神は猿田比古命で、天照皇大神が配祀されているのだけど、多くの祭神の中にオトタチバナヒメの名がないのが気になる。

オトタチバナヒメが入った海は、今の三浦半島(相模)と房総半島(上総)の間の浦賀水道と呼ばれる場所だったとされる。
『日本書紀』はその海を馳水(はしりみず)と呼んでいると書いている。
橘樹神社(千葉県茂原市/上総国二宮/web)、走水神社(神奈川県横須賀市/web)、吾妻神社(神奈川県中郡/web)など、神奈川から千葉にかけてはヤマトタケルとオトタチバナヒメを祀る神社が何社かある。
千葉県の袖ケ浦市や習志野市の袖ヶ浦は、オトタチバナヒメの着物の袖が流れ着いたことが地名の由来という伝承がある。
伝承でいうと、愛知県知多郡東浦町にある入海神社(いりみじんじゃ)は、ヤマトタケルとオトタチバナヒメが訪れた地であり、櫛が流れ着いたでそれを祀ったのが創祀という。
神社は縄文時代早期の貝塚の上に鎮座している。
忍山宿禰ゆかりの神社でいうと、神奈川県中郡の川勾神社(かわわじんじゃ/相模国二宮/web)や香川県善通寺市の大麻神社(web)などがある。

名古屋に残るオトタチバナヒメのかすかな痕跡

名古屋では昭和30年に創建されたという橘神社(緑区)が唯一、弟橘媛命を主祭神として祀っている。
その他、熱田神宮web)境内社の水向神社(みかじんじゃ)が弟橘媛命を祀る。
奈良時代末にまとめられたともされる『熱田太神宮御鎮座次第本紀』に、朱鳥元年(686年)にヤマトタケル東征ゆかりの地に10社の神社を祀ったという記述があり、水向神社はその中のひとつとして挙げれている(他の9社は松姤神社、白鳥神社、日長神社、狗神神社、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社)。
その場所がどこだったのかは不明ながら、オトタチバナヒメを祀る独立した社がかつてあったということだ。
『延喜式』神名帳には載っていないものの、『尾張国内神名帳』に正二位 水向天神などと載っていることから、少なくとも平安時代まではあったということだ。しかも正二位や正二位上となっているから、かなり位が高い神社だった。
戦国時代あたりに荒廃するかして熱田社に取り込まれたのか、熱田社にあった遙拝所だけが残ったのか。
緑区の橘神社も、建てられたのは戦後で新しくても、その地に伝わる古い歴史を秘めている可能性がある。何の根拠もゆかりもなく名前を冠した神社を建てるとも思えない。

オトとは何か

弟のオトとは何か?
オトとヲトは同じなのか違うのか。
オトは音でもあり字でもある。
音は立と日で日立。日立は常陸にも通じ、尾張国は古くは日立の国と呼ばれたという。
尾張にはオトヨ(乎止与命)や弟姫がいるし、音聞山という重要な場所もある。
オトは乙でもあり、乙姫といえば竜宮城の姫だ。三河国の岡崎には乙川や男川も流れている。
オトが何を示しているのかは分からないけど、何かを意味しているのは間違いない。
最初に書いたように、オトタチバナヒメはオト-タチバナ-ヒメだ。それはオトの姫であり、タチバナの姫を意味している。
そこまで言えば、ああ、なるほどそういうことねと、ピンと来る人もいるかもしれない。
オトタチバナヒメにはある種の二重性がある。
『古事記』は暗に皇后扱いし、『日本書紀』はあえて貶めるような書き方をした。それぞれの意図はどこにあったのか。
私が結論めいたことを言うことはできないけど、ある程度ヒントになるようなことは提出できたと思う。

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