MENU

ニギハヤヒ《饒速日命》

ニギハヤヒ《饒速日命》

『古事記』表記 邇芸速日命
『日本書紀』表記 饒速日命
別名 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命、天照御魂神、天照皇御魂大神、櫛玉命、櫛玉神饒速日命、など
祭神名 饒速日命、他
系譜 (父)天忍穂耳尊(『先代旧事本紀』)
(母)栲幡千千姫/萬幡豊秋津師比売(『先代旧事本紀』)
(妻)登美夜毘売(『古事記』)/三炊屋媛(『日本書紀』)
   天道日女命(『先代旧事本紀』)
(子)宇麻志麻遅命/可美真手命/味間見命
   天香語山命(『先代旧事本紀』)
属性 天津神、皇孫
後裔 物部連、穂積臣、婇臣、など
祀られている神社(全国) 磐船神社(大阪府交野市)、石切劔箭神社(大阪府東大阪市)、矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市/web)、藤白神社(和歌山県海南市)、など
祀られている神社(名古屋) 孫若御子神社(熱田神宮内)(熱田区)、八劔神社(大森)(守山区)、尾張戸神社(守山区)
(いずれも祭神名は天火明)
 

口ごもる記紀と反論する『先代旧事本紀』

 饒速日命(ニギハヤヒ)は記紀神話において微妙な立ち位置に置かれている。
 高天原から天降って天皇の祖となったのを瓊瓊杵尊(ニニギ)としつつ、その瓊瓊杵尊との関係がはっきりしない。饒速日命を天津神としながらその出自を明かさず、最終的には瓊瓊杵尊に下ったと記紀はいう。
 しかし、『先代旧事本紀』は饒速日命と瓊瓊杵尊を同じ父母から生まれた兄弟とし、先に天降った饒速日命が亡くなったのでその次に饒速日命が天降ったといっている。
『古事記』と『日本書紀』の合わせ技のような『先代旧事本紀』が、饒速日命に関してはまったくの独自路線で描いているのは興味深い。
 
 それでは順番に『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』がどう書いているかを読んでいって、その後他の書や伝承などについても見てみることにしよう。
 
 

『古事記』はあまりにも唐突な登場の仕方

 饒速日命が出てくるのは神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇の東征の場面だ。
 高千穂宮にいた神倭伊波礼毘古命は、天下を治めるにはどこがいいかを兄の五瀬命(イツセ)と相談し、東へ向かうことが決まる。
 ここでは目的地は明かされず、かなり漠然と東へ向かったような書き方をしている。
 途中であちこちに立ち寄り、そこここで何年間も滞在しつつ、のんびり東へと向かっている。その土地の勢力との争いを暗示しているのかもしれないけど、いくらなんでものんびりしすぎだろうと思う。
 ただ、そこでの出会いが後に神武政権のブレーンにつながったことを考えると、これらのエピソードは何らかの事実を反映したものにも思える。
 浪速渡(なみはやのわたり)を通って白肩津(しらかたのつ)に船を泊めたところ、登美(とみ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち構えていて戦いになる。
 神武東征の最大の強敵がここで現れた。
 地名についてはいつも書くようにあくまでも物語上の設定なので、あまり気にする必要はない。現在の地名に当てはめてもほとんど意味がない。
 登美毘古(トミビコ)との戦いで五瀬命は矢を受けて負傷し、この傷がもとで命を落とすことになる。
 神倭伊波礼毘古命たちはいったん退却し、紀伊方面から回り込む作戦に出た。
 しかし、その後も苦戦が続き、熊野村で一行が意識を失ったところに高倉下(タカクラジ)が刀を持って助けに来たりといったことがありつつ、あれやこれやあって再び登美毘古(那賀須泥毘古)と相対することになる。
 そのとき何の前触れもなく唐突に邇芸速日命(ニギハヤヒ)が登場する。
 邇芸速日命がいうには、天津神の御子が天降ったと聞いて駆けつけましたと。
 そして、天津神の宝(瑞)を献上して仕えたという。
 その後、邇芸速日命は登美毘古の妹の登美夜毘売(トミヤスビメ)を娶って宇麻志麻遅命(ウマシマジ)が生まれたと書く。
 神倭伊波礼毘古命はというと、荒ぶる神たちを言向け平和し、従(伏)わない人たちを退け撥って畝火(うねび)の白祷原宮(かしはらのみや)で天下を治めたといっている。
 ん? どういうこと? と思う。話が急展開すぎてついていけない。
 登美毘古との決戦はどうなった?
 邇芸速日命はどこから来た?
 邇芸速日命の行動についての説明がまったくないので想像するしかないのだけど、邇芸速日命が天津神の瑞を持っていたということは天津神に違いない。ただ、天津神の御子が天降ったと聞いて駆けつけたというのはおかしい。天降ったのは邇邇芸命であって神倭伊波礼毘古命ではない。神倭伊波礼毘古命は邇邇芸命の孫だから世代が違うし葦原中国生まれだ。神倭伊波礼毘古命が天降ったというのはやはり違和感がある。
 それに、神倭伊波礼毘古命と敵対していた登美毘古の妹の登美夜毘売を邇芸速日命が娶ったというのもどういうことなのか。邇芸速日命が間を取り持って和平を実現したとも取れるのだけど、邇芸速日命の立ち位置というか、
神倭伊波礼毘古命や登美毘古との関係性がはっきりしない。
 これほど重要な役割を果たしながら神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の治世下においてまったく名前が出てこないことにも違和感を抱く。
 宇麻志麻遅命を物部連(モノノベノムラジ)、穂積臣(ホズミノオミ)、婇臣(ウネノオミ)の祖としているのもどうしてだろう。邇芸速日命を祖としなかった理由が何かあるのだろうか。
 
 そんないくつもの疑問を抱えつつ『日本書紀』を読んでいくことになる。
『日本書紀』ではまったく設定が違っているので、その違いについても明確にしていきたい。
 
 

『日本書紀』が説明している部分としていない部分

 神武東征の話で『日本書紀』と『古事記』の違いはいろいろあるのだけど、饒速日命(ニギヤハヒ)についていえば、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト)は東征に出る前に饒速日命のことを知っていたという設定になっている点に大きな違いがある。
 神日本磐余彦天皇は天下を治めるためにはもっといい地があるはずだと兄神や子供たちと相談するのだけど、鹽土老翁(シオツチノオジ)に聞いたところでは東に青山に囲まれた美しい地があり、そこに天磐船に乗って飛び降りた者がいるという話をする。それは饒速日ではないのかと神日本磐余彦天皇は推測した。
「厥飛降者謂是饒速日歟」という書き方からすると確信は持っていない。飛び降りた者、いわゆるこれは饒速日か、という言い回しをしている。
 その地は天下を治める中心とするにはもってこいだから行こうということになる。
 おいおい、ちょっと待てと、思う。結果的に神日本磐余彦天皇が神武天皇として即位したからなんかいい話のようになっているけど、饒速日側からしたらたまったものではない。神日本磐余彦天皇は自分が治めている土地を占領しようとやってくる敵でしかない。そりゃあ、争いが起きるというものだ。神日本磐余彦天皇の勝手な言い分を押しつけられても困る。饒速日だって天津神なのだし。
 
 神武東征の話はまだるっこいというかもったいぶっているとか、その話いる? ということが多々あって読んでもあまり面白くない。
 最大の敵となった長髄彦(ナガスネヒコ)との話も詳しく語られていて、こちらはちゃんと結末まで描いている。
 その長髄彦との戦い中で饒速日は登場する。
 攻め込んできた神日本磐余彦天皇に対して長髄彦は使者を派遣して言葉を伝えた。
 かつて天神の子が天磐船に乗ってこの地に降り立った。名前を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒ)という。
 この天津神は自分(長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)、別名長髄媛(ナガスネヒメ)、またの名を鳥見屋媛(トミヤビメ)を娶って可美眞手命(ウマシマデ)が生まれた。なので自分は饒速日命を君として仕えている。天神の子がどうして二人もいるでしょうか。もし本物の天神だというならシルシ(表物)があるはずだ。それを見せて欲しい、と。
 長髄彦側は饒速日命が持っていた天羽々矢(あめのははや)一隻と步靫(かちゆき)を神日本磐余彦天皇に見せた。
 それを見た神日本磐余彦天皇は、偽物ではないと言い(事不虛也)、神日本磐余彦天皇も同じく天羽々矢と步靫を見せた。
 それでたじろいだ長髄彦ではあったのだけど、今更後には引き返せないと抵抗するのをやめなかった。
 その様子を見た饒速日命は長髄彦に言い聞かせても納得できないだろうし気が変わることもないだろうと見限り、殺してしまう。
 饒速日命は天神がもっとも大事にするのは天孫だと知っていて、神日本磐余彦天皇ももともと饒速日命のことは分かっていて、忠義を示したので褒めて寵愛したといっている。
 饒速日命は物部氏の遠祖だとしつつ、饒速日命のその後については何も書いていない。
 
 以上が『古事記』と『日本書紀』の饒速日命についての記事だ。
 共通しているのは、神日本磐余彦天皇を天孫としていることだ。天孫というと普通は瓊瓊杵尊のことを指す。
 ただ、子孫を二世孫、三世孫というように、瓊瓊杵尊以降を天孫とするという解釈はできる。
 しかし、そうなるとすべての天皇は天孫ということになるのだけど、他では天皇が天孫という扱いをされていない。
 神武天皇って結局、瓊瓊杵尊のことなの? とも思う。
 
 

やはりよく分からない饒速日命の立ち位置

 饒速日命に関しては、終盤で急に登場して戸惑わせる『古事記』に対して『日本書紀』は東征前から出てくるので不自然さは感じない。
 ただ、神日本磐余彦天皇の最大の敵である長髄彦の妹と婚姻して子供までできているということの説明は『日本書紀』にもない。
 瓊瓊杵尊が天降って現地の娘の鹿葦津姫(カシツヒメ/木花之開耶姫)との間に子供ができたという話と共通する部分はあるにしても、敵対する勢力の妹という設定にした理由がよく分からない。娘ではなく妹ということも何か意味があるのだろうか。
 饒速日命がいなければ神日本磐余彦天皇は長髄彦には勝てなかったし、天下を治めることもなかった。その最大の功労者である饒速日命に対して『古事記』も『日本書紀』もそっけない。
 その後の天皇家が饒速日命を大事に祀ったという話も聞かない。
 饒速日命の親についても、記紀は何も語っていない。
 そんなモヤモヤを解消してくれるのが『先代旧事本紀』だ。内容の真偽はともかく、話の筋としては一番通っていてすっきりする。
 
 

『先代旧事本紀』が一番書きたかったのは饒速日命の伝承かもしれない

『先代旧事本紀』は物部氏や尾張氏の独自伝承を伝えていることから物部氏系の人物が書いたのではないかという説がある。
 かつては偽書扱いされたこの書も近年は見直されてきていて、個人的にはけっこう的を射ている部分があるように思っている。私が聞いている話とも合致する部分が少なくない。
 記紀が揃って饒速日命は物部氏の祖だといっている。そのことを意識してかどうかは分からないけど、饒速日命をとても重視している。
 
 まず、饒速日命の正式名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒ)とし、饒速日命と天火明命(アメノホアカリ)との合体名になっている。
 この前提からして非常に大胆で驚かされる。ある意味で『古事記』、『日本書紀』に喧嘩を売っている。
 天火明命といえば一般的には尾張氏の祖とされているのだけど、その系譜については記紀その他も一致せず混乱が見られる。
『古事記』や『日本書紀』の第九段一書第六は、天照大御神(アマテラス)の子の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と高木神(高皇産靈尊)の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)の子とし、邇邇芸命をその弟としている。
『日本書紀』の別の一書では天孫降臨した瓊瓊杵尊と鹿葦津姫(木花之開耶姫)の間の子といっている。
『先代旧事本紀』は饒速日命=天火明命という立場を取っているので、親子兄弟関係はこの伝承を採っている。
 また、天照国照彦天火明尊(饒速日命)のもうひとつの別名として胆杵磯丹杵穂命(イキイソニキホ)を挙げる。
 わざと混乱させるためにいっているのではなく、これらは通称であり合体名であることをいわんとしているのだと思う。
 
 とりあえず饒速日命として話を進めると、饒速日命は天照孁貴(天照大神)と高皇産霊尊の孫ということで天孫、または皇孫とはっきり位置づけている。
 そして天神の御祖神(みおやのかみ)によって天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を授けられた饒速日尊は天磐船に乗って天降ることになる。
 その際、天神は布留言(ふるのこと)という呪文を教え(石上神宮に伝わる)、高皇産霊尊は32人の供をつけたと書く。
 その中にはおなじみの天太玉命(アメノフトダマ)や天児屋命(アメノコヤネ)、天鈿売命(アメノウズメ)といった面々や尾張氏二代とされる天香語山命(アメノカゴヤマ)もいる(饒速日命の子)。
 ただ、その多くが知らない神々であり、32人の他にも40人以上が付き添いとして名を連ねていて、一体これは何事かと思う。
 民族大移動というか、大引っ越しだ。これが何らかの事実を反映しているとすれば、饒速日命を中心としてかなり大がかりな移住があったことを思わせる。
 それに続く天孫降臨の話も、『先代旧事本紀』は完全に饒速日命の話として語っている。
 天孫降臨から国譲りまでを描いた「天神本紀」の最後はこんなふうに締めくくられる。
 太子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)が高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)、またの名を栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメ)を妃として、二柱の男児を生んだ。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、弟は天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギ)であると。
 
 天孫降臨後の饒速日命については「天孫本紀」で語られる。
 まず最初に天降ったのは河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)で、次に大倭国(やまと)の鳥見白庭山(とみのしらにわやま)に還ったという。
 そこで饒速日尊は長髓彦の妹の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶って妃とし、宇摩志麻治命(ウマシマジ)が生まれたとする。
 ちょっと分からないというか引っかかるのは、御炊屋姫が身ごもっているときに饒速日尊はもし男子が生まれたら味間見命(ウマシマミ)と名づけ、女子なら色麻弥命(シコマミ)と名づけなさいと言ったという記述だ。
 まるで自分の死を予感していて子供が生まれるまで生きていらないことを悟った父親のような物言いだ。
 実際、そのすぐ後に饒速日尊が死が語られる。
 何か予感がした高皇産霊尊が速飄神(ハヤカゼ)を遣いに出して葦原中国へ様子を見に行かせたところ、饒速日尊はすでに亡くなっていたというのだ。
 そのことを天に登って報告したところ、憐れに思った高皇産霊尊は再び速飄神を遣いにやって饒速日尊の遺体を天に運ばせ、天で葬儀をして葬ったという。
 また、饒速日尊は御炊屋姫の夢の中に現れ、子供を形見とするように伝え、天璽瑞宝を授けたのだった。
 そして最後に重要な証言をしている。
 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天上で天道日女命(アメノミチヒメ)を妃として天香語山命が生まれ、天降って御炊屋姫を妃として宇摩志麻治命が生まれたと。
 なるほどこれなら尾張氏と物部氏が同族でありながら途中で分かれたことの説明がつく。母系社会において母方が違えば別の一族ということになる。
 
 続く「皇孫本紀」の中で天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊の天降りが語られるのだけど、大部分は饒速日尊のこととして「天神本紀」に書いてしまっているので同じことは書けない。読み比べると矛盾するところもあって、やや無理もある。
 瓊々杵尊だけの話としては、天鈿売と猿田彦神(サルタヒコ)の話がここで語られている。
 筑紫の日向の襲の槵触二上峯(くしふるのふたかみのみね)に天降って以降の話は記紀に準じている。
 ここでは独自性はすっかり影を潜め、『古事記』と『日本書紀』のまとめ記事のような内容になっている。
「天神本紀」や「天孫本紀」で見せたような熱量は感じられず、とりあえず書いておきますけどね的な態度に感じられる。
 
『先代旧事本紀』の内容がどこまで事実に即したものなのかは分からないのだけど、全体として理にかなっていて納得できるものになっている。変に誤魔化したりぼかしたりしている『古事記』や『日本書紀』に比べるとずっと明快で分かりやすい。
 尾張氏や物部氏の系譜にしても、何の資料もなくあんなに詳しく書けるとは思えない。詳しい系図があったのだろうし、それは今もどこかにあるかもしれない。
 結局のところ、『先代旧事本紀』のキモというか一番書きたかったのは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊のことだったのだろう。ここだけは書いておかなければ(はっきりは書けないにしても)本当の歴史が闇に埋もれてしまうという危機感があったのではないか。
 もし、『先代旧事本紀』が世に出ていなければ、我々は尾張氏について今の10分の1も知らずにいたかもしれない。
 饒速日尊についても、倭に先にいた人だっけ? くらいの認識だっただろう。
 本当は饒速日尊こそが本流であったのかもしれない。
 では、饒速日尊と瓊瓊杵尊は本当の兄弟なのか?
 饒速日尊と天火明は同一なのか?
 いや、結論を急ぐのはよくない。その前に他の書や伝承についても確認しておかないといけない。
 
 

斎部広成は興味なし

『古語拾遺』は基本的に『日本書紀』に準じているので天降った皇孫は天津彦尊といっている。
 これは天津彦彦火瓊瓊杵尊などを略したものだろう。
 神武天皇東征については短い記事ということもあって饒速日尊や長髄彦の話はない。
 ここ以外でも饒速日尊については言及されていない。
 
 

後裔について

 後裔について『古事記』は子の宇麻志麻遅命を物部連、穂積臣、婇臣の祖とし、『日本書紀』は子を可美眞手命としつつ、饒速日命を物部氏の遠祖としている。
 この違いは小さいようで大きい。
『先代旧事本紀』は上にも書いたように天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と天道日女命との間の子を天香語山命、御炊屋姫との間の子を宇摩志麻治命とし、天香語山命を尾張氏の祖、宇摩志麻治命の祖と位置づけてそれぞれ詳しい系譜を載せている。
 天香語山命を高倉下としているのも『先代旧事本紀』独自の伝承で、その高倉下は磐余彦尊(神武天皇)の東征を手助けをし、饒速日尊の後を継いだ宇摩志麻治命が磐余彦尊に代わって長髄彦を誅殺したというのも記紀との違いだ。
 磐余彦尊の東征のときにはすでに饒速日尊は亡くなっていたという設定で、長髄彦はその子の宇摩志麻治命に仕えていたということになっている。
 なのでここでは長髄彦と宇摩志麻治命は伯父と甥の関係になっている。
 皇孫の磐余彦尊に帰順した宇摩志麻治命は父の饒速日尊から授かった天璽瑞宝十種を皇孫に差し出し、その後政治や祭祀にも関わっていくようになる。
 
 

平安時代は一大勢力だった

『新撰姓氏録』(815年)に載る饒速日命関係の氏族は数多い。平安時代前期の京や畿内において饒速日命一族は相当幅をきかせていたことが見て取れる。
 火明命を祖とする一族もかなりいたことが分かるのだけど、やはり饒速日命と火明命は同一ではなく別とする認識だったようだ。
 名前を挙げるには多すぎるので省略するけど、気になったのは神饒速日命という表記がけっこう多いことだ。
 饒速日命の前に”神”がついているということは神の一族と関わりが深いことを示している。
 もっといえば、饒速日命と神饒速日命は違う流れの一族かもしれない。どちらが本家でどちらかが分家というのとは少し違うのだろうけど。
 それにしても、ここまで饒速日命関係の氏族が多いということはそれだけ中央政権に影響力があったということだし、饒速日命という名前に価値があったと推測できる。
 
 

饒速日命信仰は消されたのか?

 饒速日命を主祭神として祀る神社は少ない。あらためて調べてみても、大阪府交野市の磐船神社(web)、大阪府東大阪市の石切劔箭神社(web)、奈良県大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社(web)、和歌山県海南市の藤白神社(web)くらいしかない。
 小さい神社まで入れればそれなりにあるのだろうけど、これはちょっと意外だ。
 物部氏の祖とされながら物部氏の本拠とされる島根県大田市の物部神社(web)は宇摩志麻遅命を主祭神としていて饒速日命は布都霊神とともに相殿神として祀られているに過ぎず、奈良県天理市の石上神宮(web)では祭神として名前さえ連ねていない。
 その他、物部系の神社の多くは宇摩志麻遅命を祭神としている。
 これは一体どういうことか。
 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というたいそうな名前を与えられながらこの扱いには違和感を抱く。
 天も国も照らす神ということで、天照大神以前の皇室神だったという説もあって、なんとなく打ち消された印象がある。
 ひとつ考えられるのは、瓊瓊杵尊によって上書きされてしまった可能性だ。
 名前からもそれがうかがえる。
 
 

二木ということの意味

 饒速日と瓊瓊杵と書くと共通項はないように思える。音としてもニニギとニギハヤヒはけっこう違う。
 しかし、濁らない名前ならどうだろう。ニキハヤヒとニニキ。同じく”ニキ”の名を持っていることに気づく。
 これは二木を意味している。一木、二木、三木といった二木だ。
 つまり、ニキハヤヒは二木のハヤヒであり、ニニキはニの二木ということだ。
 ニニキのニは二番目、つまり二代目二木を表しているかもしれない。
 もしくは、二木+二木で四木ということか。
 四を暗示しているなら一木+三木とも考えられる。
『先代旧事本紀』を思い出して欲しい。ニキハヤヒが亡くなったのでニニキが後を継いだ形になったといっている。
 この二人を兄と弟といっているけど、違う可能性もある。
 ニキハヤヒの後を継ぐということはある意味では取って代わる、乗っ取るということだ。
 それは地位だけでなく土地も神も名前も系譜もだ。あるいは妻さえも。
 ニキハヤヒは本当に自然死だったのか?
 自分がもう死んでしまうようなことを口にしたのは、死の予感があったからだ。病気だとかそういうことは言っていない。
 ニキハヤヒとニニキの天孫降臨の話は形を変えた国譲りのことをいっている。
 もっと現実に即していえば、ニニキがニキハヤヒを殺してその立場を奪ったのではないか。
 いや、違う。それでは辻褄が合わない。
 もうひとひねり操作が行われている。
 ニキハヤヒとホアカリがイコールのはずがない。ホアカリとイコールなのはむしろニニキではないのか。
 人物名の入れ替えがあるとしたらどうだろう。
 ナカスネヒコを殺したのはニキハヤヒでいいとして、ニニキを殺したのがニキハヤヒだったと仮定する。
 ニニキ=ホアカリはワカヒコともつながる。 
 天若彦を殺したのは誰だと『日本書紀』はいっていたか?
 高皇産靈尊だ。
 天若彦の葬儀に白々しく参加していたのは、”顔がそっくりな”味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)だった。
 味耜高彦根神は宇摩志麻遅命の後の名だという話を聞いている。
 そうなると、どういうことになるのか?
 殺し殺されたのはニキハヤヒとニニキではなく、ウマシマジとニニキ(ホアカリ)の子ということになるかもしれない。
 ホアカリの子はカクヤマだ。 
 
 いくつもの名前が出てくる話も、整理してみれば主要人物は数人ということになる。
 誰が誰を殺して誰が天皇になったのか?
 その答えはそれぞれに委ねたいと思う。
 
 

結びに変えて

 
 記紀や『先代旧事本紀』がほどこした封印は二重三重ではない。真実は八重の垣根によって守られている。八重垣作るその八重垣を。
 今回少しだけ裏側に光を当てたような気になっているけど、実際は依然として深い霧の中というか厚い雲によって覆われたままだ。
 わずかに裂け目から弱い光が見えた気がしたのも幻だったかもしれない。

 

ホーム 神様事典