
立派でびっくり
読み方 | てんち-しゃ(あかいけ) |
所在地 | 名古屋市赤池町屋下186 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十等級 |
祭神 | 国常立命(クニノトコタチ) 伊弉諾命(イザナギ) 伊弉冊命(イザナミ) 須佐之男命(スサノオ) |
アクセス | 名古屋市地下鉄鶴舞線「平針駅」より徒歩約12分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月第1日曜日 |
神紋 | 五七桐紋(五三桐紋?) |
オススメ度 | ** |
ブログ記事 |
日進についての認識が改まる
日進市を侮っていたつもりはないのだけど、この天地社の存在が私の認識を大きく変えることになった。
日進、やるじゃん、と。
少し分かりづらい奥まったところにあって見つけるのに少し手こずった。
天地社という名前からしてなんとなくこぢんまりした神社を想像していたら、思いがけず立派で驚いた。
むしろ立派すぎて疑った。
なんだ、ここ。新宗教の施設か何かか、と。
境内の由緒書を読むと、古いのは間違いなさそうだ。
現在の祭神は国常立命(クニノトコタチ)、伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冊命(イザナミ)、須佐之男命(スサノオ)となっているのだけど、古くは天神地祇全般を祀っていたのかもしれない。
だとすると、そんな神社は名古屋にも近郊にもない。
何かここは重要な拠点だったのかもしれないと思えてきた。
赤池の由来が気になる
神社があるのはかつての赤池村(あかいけむら)で、天地社は村の氏神だった。
江戸時代までは大明神などと呼ばれていたようだ。
神社について調べる前に、まずは赤池(あかいけ)について考えてみたい。
文字通りなら赤い池だけど、そんなはずはない。
津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で以下のように書いている。
赤池村(あかいけ) 中島郡に同名あり
地名正字なり赤池とは自然なる稱呼なるべし
【相傳云】むかし大蛇の住たる淵あり此故に赤池といふ後世つぶれて其跡に寺院を建て蟠住(ハンヂウ)山龍淵寺(リョウヱン)と呼と■【考證】攝津國能勢郡栗栖川に赤淵といふ所あり相傳へて曰昔毒蛇すむ■に前川景安といふ者武勇ありてこれを殺水色朱になる
此故に赤淵といふと津國名所志に見へたり是等の事は取がたし此村龍淵寺といひ蟠住山といへば龍蛇に因縁ありげに聞ゆ
中島郡の赤池村は今の稲沢市赤池町で、他にも赤池地名は全国にけっこうある。
静岡県磐田市、鳥取県東伯郡、福岡県田川郡、徳島県阿南市、新潟県上越市などで、偏りというか傾向らしい傾向はない。
それぞれ由来は違っていて共通してはいないだろうけど、赤い池にちなむところが多いのかもしれない。
日進の赤池村について津田正生は”正字”、つまりそのままの意味だといっている。
言い伝えとして大蛇のすむ淵があってそこから赤池と呼ばれるようになったというのは意味がよく分からない。
仏語で浄水を意味する”阿伽(あか)”から来ているという説があるようで、手水鉢に彫られている”赤心”(せきしん=偽りのない真心)の”赤”と共通するという考え方もできるけど、こういうのは後世の考え方で、古い時代からの地名であれば、そういうことではない。
清和源氏の村上頼季の子孫が赤池(氏)を称したのだけど、そこからということもないだろう。
赤は色の赤色ということではないとすると、”あか-いけ”という音から来ているのだろうか。
池は文字通りの池なのか、別の意味なのか。
赤池の由来は現状分からないので、とりあえず念頭に置きつつ先へ進めたい。
江戸時代の赤池村
江戸時代の赤池村がどうだったかを尾張国の地誌で見ていくことにする。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
家数 五拾六軒
人数 三百拾八人
牛馬 拾四疋 内 馬拾弐疋 牛弐疋禅宗 愛知郡岩崎村妙仙寺末寺 蟠住山龍淵寺
寺内壱反廿歩 備前検除社 三ヶ所 内 大明神 山之神弐社 村中支配
社内壱反七畝拾八歩 前々除古城跡壱ヶ所 先年、丹羽十郎右衛門居城之由、今ハ畑ニ成ル
家数が56軒で村人が318人なので、まあまあの規模の村だったといえる。大きくはないけど小村でもない。
馬が20頭もいたのは、ここが駿河街道沿いだったためだ。
家康のいた駿府と名古屋城を結ぶ街道を整備したとき、天白川近くにあった平針村を街道沿いに移した。
赤池村はその改造沿いの東隣ということで、間の宿の役割の一部を負担したのだろう。
牛2頭と、わざわざ牛について書いているのは珍しい。
龍淵寺と古城(赤池城)については後回しとして、神社を見ると大明神と山之神2社の3社となっている。
大明神が今の天地社に当たる。
山神2社については『愛知縣神社名鑑』が「境内社山神社は丸根に鎮座のところ明治40年1月に合祀した」と書いているのだけど、この頃までには山神は1社になっていたのか、もう1社は別にあったのか、詳しいことは分からない。
いずれも前々除(まえまえよけ)となっているので江戸時代前からあったということだ。
続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。
社三区、覚書二、此内大明神・山神二社境内一反七畝十八歩前々除、村中支配
庄屋書上ニ、西山神祠境内六畝御除地、東山神祠境内六畝御除地、草創ノ年曆不詳
龍淵寺控、天地大明神祠境内長十四間横十間御除地、是ハ当村本居神也
府志日、天地祠在赤池村、祭神不詳、明応七年戊戌建之龍淵寺 府志曰、号幡住山、曹洞宗属岩崎妙仙寺(開山実山和尚)
天正二年丹羽帯刀創建之、当村有蛇淵、故以為山号
寛文覚書ニ、寺内一反二十歩備前検除
当寺書上ニ、境内一反二畝御除地、天正元癸酉年当村城主丹羽帯刀秀信創建ス古城跡一ヶ所、覚書ニ、丹羽十郎右衛門居城ノ由今ハ畠ニナル
府志日、赤池城、土人曰、丹羽七右衛門居之、今為水田、然塁址僅存矣、呼其地曰元郷(今宇ヲ城ノ内ト唱フル由)
ここも神社のことだけ見ていくと、「龍淵寺控、天地大明神祠境内長十四間横十間御除地、是ハ当村本居神也 府志日、天地祠在赤池村、祭神不詳、明応七年戊戌建之」といっている。
社家は不在で村が管理していたようだけど、龍淵寺も関わっていたようだ。龍淵寺の書上に”天地大明神祠”、『張州府志』にも”天地祠”とあるということは、遅くとも江戸時代中期には”天地”の名が冠されていたことになる。
村の本居神であり、祭神は不明。
「明応七年戊戌建之」の明応7年は戦国時代前期の1498年に当たる。
ただ、この年に創建されたのではなく、明応地震が関係しているとすれば再建されたということではないかと思う。
東海道沖を震源とするマグニチュード8クラスの巨大地震で、いわゆる南海トラフ地震のひとつとされる。紀伊から房総にかけての海岸に津波が押し寄せてかなりの被害が出たと考えられている。
『尾張志』(1844年)も見ておく。
天地ノ社 府志に祭神不詳明應七年戊戌建之とあり境内に鍬ノ神ノ社あり
山ノ神ノ社 二所
この三社赤池村にあり
「境内に鍬ノ神ノ社あり」という情報が加わっている。
鍬神(御鍬様)についてはこれまで何度か考察してきたのだけど、今のところよく分かっていない。
北隣の梅森村にあった大日堂が江戸時代後半には鍬神になっているので、そのあたりも何か関係しているかもしれない。
丹羽氏と赤池城と龍淵寺
丹羽氏というと織田信長に仕えた丹羽長秀がよく知られる存在だけど、元を辿れば和爾(ワニ)の一族で、尾張国二宮地区にいたと聞いている。
丹羽氏といってもいろいろだろうけど、丹羽一族の一部が日進に勢力を持っていたのは間違いない。
別の一族は尾張国守護の斯波氏(しばうじ)に仕えていたようで、最初から織田家の家臣というわけではなかったようだ。
丹羽氏の城のひとつだった赤池城について『寛文村々覚書』は「古城跡壱ヶ所 先年、丹羽十郎右衛門居城之由、今ハ畑ニ成ル」と書き、『尾張徇行記』は”府志曰く”として「赤池城、土人曰、丹羽七右衛門居之、今為水田、然塁址僅存矣、呼其地曰元郷(今宇ヲ城ノ内ト唱フル由)」とする。
丹羽十郎右衛門や丹羽七右衛門という人物についてはほとんど何も伝わっていないのでよく分からない。
ネット情報で補足すると、築城されたのは天文年間(1532-1555年)で、十郎右衛門、七右衛門の他に帯刀秀信の名もあるという。
この丹羽帯刀秀信が赤池城を築城し、1573年に龍渕寺を創建したと伝わる。
日進における丹羽氏の本居は岩崎城で、赤池城は支城のひとつだったようだ。
丹羽氏は当初、徳川方だったともいう。
丹羽秀信は1574年に没し、後を継いだのが子の十郎右衛門、七右衛門たちで、1584年に起きた小牧長久手の戦いの際、岩崎城を助けに向かう途中で討ち死にしたらしい。
その後、赤池城は廃城となったようだ。
龍渕寺(りようえんじ)は曹洞宗の寺院というくらいで情報がほとんどない。
寺には秀信の墓と秀信が植えた椎の木があるそうだけど、5本あった椎の木は伊勢湾台風(昭和34年)で4本倒れて1本だけ残っているのだとか。
赤池城の石碑が残るのみで、城の遺構は現存していない。
気になった桐紋
気になったのは神紋で、入り口の社号標は五三桐紋なのに、鳥居その他は五七桐紋になっている。
五三桐は尾張の古い紋で、五七の方が新しいと聞いている。
間違えているのか、混じっているのか、たまたまなのか、意図的なのか。
五三桐なら、本来の祭神は大国主とか八王子とかだったかもしれない。
祭神を国常立命、伊弉諾命、伊弉冊命、須佐之男命としたのがいつなのかは分からないけど、かなり変わった顔ぶれだ。
江戸時代には分からなくなっていたようだから、明治以降にそう定めたということだろうか。
いずれにしてもなかなか奥行きのある神社という気がする。
旧本殿は日進最古
旧本殿が境内に保存されている。
江戸時代前期の1689年(元禄2年)に築造されたもので、日進市内では最古の建造物とされる(市の文化財指定)。
私が訪れたときは何やら工事中で近づけなかったのだけど、覆い屋の中に収められている。
おそらく朱塗りの社殿で、そうなると天王社系かとも思う。
今の本殿は平成6年(1994年)に建てられたもので、こちらも立派だ。
天神地祇を祀るということ
天神地祇を祭神として祀る例は全国を見てもさほど多くない。たとえば、宮中三殿の神殿がそうだ。
日進の天地社はそんなたいそうなものじゃないと思うかもしれないけど、ひょっとすると何か根源的な社かもしれない。その可能性がなくはないと感じる。
天地社には押し出しの強さみたいなものがあって、威圧感とまではいかないまでも、どうだという自信のようなものを感じて少し気圧された。
日進の方たちは、この天地社をもっと誇っていいように思う。
作成日 2025.4.17