本当にただの秋葉なのか?
読み方 | あきば-じんじゃ(あきばちょう) |
所在地 | 瀬戸市秋葉町 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明(迦具土神?) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約20分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 11月? |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
何者かの意思
この神社の素性というか成り立ちがよく分からない。
普通に考えれば江戸時代に村人が火伏せの神として祀ったのが始まりだろう。
しかし、それで納得してしまって本当にいいのかという気持ちが私の中にあって簡単に片付けることができない。
いくつか引っ掛かっていることがあって、その一つは祀られている場所だ。
神社は集落の中でも出入り口でもなく、集落から外れた丘の上に鎮座している。
更に、秋葉町という町名になるほどこの秋葉神社の存在が大きいことだ。
秋葉社があるから秋葉町なんだろうと思うかもしれないけど、そんなことをいったら日本全国そこら中が秋葉町になってしまう。
この秋葉社は町名になるほど特別な存在の可能性がある。
もう一つ気になっているのが、深川神社、石神社、山神社との関係性だ。
北にある深川神社を頂点に、東から山神、石神、秋葉と東西に並んでおり、この西には御嶽、更に西には熊野もある。
これらの社は横並びになっているだけではなく、どこもすべて集落から外れた丘の中腹にあるのだ。
もう少し詳しく言うと、丘陵の突端から少し登ったところに位置している。
この配置が偶然だとは思えない。
意図は分からないけど、私には何者かの意思でこのように配置されているような気がしてならない。
手掛かりはほぼない
江戸時代の『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)などに、この秋葉に相当する神社は載っていない。
江戸時代以前から瀬戸村にあったのは山神、社宮神、八王子、権現の4社で、山神は今の山神社、社宮神は石神社、八王子が深川神社で、権現は熊野町の熊野神社(熊野権現)だと思う。
『尾張徇行記』には、このほか、石神、山神、諏訪明神がすでに社が廃されたとあるも、この中にも秋葉はない。
神社本庁にも入っていないようで、『愛知縣神社名鑑』にも載っていない。
手掛かりといえばSetopediaくらいで、そこには以下のように書かれている。
焼成を必須とする陶都瀬戸では火の信仰に厚く、秋葉社を祀り、また秋葉講代参が盛んであった。
窯屋が火入れの際には、慶昌院秋葉本殿(それ以前は熱田秋葉円通寺)から付け木とマッチ(火打石)を受けてきたものである。
秋葉神社は郷・南新谷の聖地であり、境内に立派な常夜燈1基がある。
棹の4面に「秋葉山 常夜燈 島中安全 文化十一年申戌九月吉日」と刻んである。
瀬戸市内の常夜燈の中では最も大型で、文字の彫りが深くて美しい。花崗岩製で、この時期の当地方の石造物は高遠(伊那谷)系の石工技術によるものといわれる。
これによると、焼き物で火を使う瀬戸では秋葉講が盛んで、村の中で多くの秋葉権現を祀っていて、この秋葉神社はその中の一つということになるだろうか。
熱田秋葉円通寺というのは今も熱田神宮(公式サイト)のそばにある秋葉山圓通寺(公式サイト)のことで、尾張における秋葉信仰の中心だった寺だ。
そこから火入れのときに火を譲り受けていたのが、後年になって慶昌院秋葉本殿より受けることになったようだ。
慶昌院はかつての今村にあった八王子神社(共栄通5)の南にある寺で、室町時代の文明5年(1474年)に当時の今村城主だった松原広長が八王子大明神とともに薬師如来を祀って天台宗医王山八王子を開いたのが始まりと伝わっている。
しかしながら、この秋葉神社は秋葉講が祀り始めた神社ではないと個人的には考えている。
秋葉講が関わったことは否定しないし、江戸時代には秋葉権現という認識だったかもしれないけど、それ以前からある古い神社ではないかと思う。
少なくともこの場所で行われたカミマツリの起源はずっと古いはずだ。
秋葉講が竈や村の鎮守として祀るにはふさわしくない場所であり、上にも書いたように深川神社や他の石神、山神との関係性からしても、単なる秋葉権現とは思えない。
じゃあ、いつ誰がどんな神を祀ったのが始まりと思うのかと問われると答えることはできないのだけど。
今昔マップで辿る
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く集落の様子や秋葉がどこに位置していたのかを確認することができる。
集落の南の外れの丘陵の突端近くに秋葉は鎮座していた。
集落が集まっているのは丘陵地の麓近くで、北を流れる瀬戸川との間の狭い平地を田んぼにしていたことも見て取れる。
今は神社の少し西に155号線が通って道沿いに民家が建っているのだけど、当時は丘陵地は手つかずの状態だった。
もともと狭い土地のわりに民家が多かったところへ持ってきて瀬戸自動鉄道が開通(明治38年)したことで土地が足りなくなり、田んぼをつぶして宅地にして、それでも足りないので丘陵地を開拓していった。
1920年(大正9年)の地図を見るとわずか20年で激変している様がよく分かる。
この頃までには後の155号線になる道も通っている。これは南の山口を通って豊田方面まで結ぶ南北の重要な道だった。
その後の地図がないので詳しい変遷は分からない。
次の1968-1973年では、それまで民家がまばらだったところにもびっしり家が建ち並んだ。
秋葉神社のすぐ近くまで家が迫ってきている。
神社の南に「文」とあるのは祖母懐小学校で、これは大正5年(1916年)に開校した瀬戸市立第三尋常小学校を前身とする古い小学校だ。
祖母懐(そぼかい)については石神社のところで書いた。
1976-1980年になると、秋葉神社は住宅地に完全に飲み込まれてしまった。
現地の様子と行き方
この秋葉神社を見つけるのに苦労した。
アプローチとしては「東本町2」の信号から南東へ斜めに入っていくのが一つの方法だ。
すぐを右に折れて、更にすぐを左に曲がって、四つ辻を通過して、次の三叉路を右に曲がって坂道を登っていくと階段が見えるので、そこを上がっていった先にある。
この説明だけで行ける人がいたらすごい。私は二度、三度と行き来して自分の現在地を見失って、近所の人に訊ねても分からず、更に迷った末になんとか辿り着けたのだった。
南からアプローチする場合は、「萩殿町」の信号を東に入って、突き当たりを左に曲がって、そのまま真っ直ぐ進んで突き当たりの三叉路を左方向に進むと南入口に着く。
スマホのナビで行けばいいのだけど、小さな神社は地図に出ていないことが多いので、あらかじめPCからプリントして印を付けた紙の地図が必要になる。
境内は公園のようになっているというか、夏草が好き放題生い茂って、野性的な趣を見せている。
藤棚があり、ベンチが置かれているので、一応は人々が集うようにはなっているようだ。
ただし、ベンチはさび付いている。
春はお花見とかもできるのかもしれない。
その中央にこの場所に似つかわしくないほど立派な秋葉の石灯籠(常夜燈)が建っている。
江戸時代後期の文化11年(1814年)に奉納されたもので、高さは508センチとSetopediaにはあるのだけど、そんなにあるよだろうか。
秋葉社本社は小屋の中にあるようだけど、それ以外にも小さな社が2つあり、1つは独立した鳥居を持っている。
しかし、この周辺がとんでもないことになっていて、足の踏み場もない草木の間を掻き分け、踏み分け突っ込んでいかないと社の前まで辿り着けない。
ワイルドだ。
神社参拝にワイルドさは求めていないのだけど、これはこれで嫌いではない。
今となっては近所の人が初詣に訪れたり、氏子さんたちが年に一度の例祭に参加したりという以外はほとんど人が寄りつかないであろうことが想像できる。
それだとちょっとかわいそうなので、瀬戸を訪れた際は、頑張って探し当てて参拝してあげてください。