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弁財天社(品野町8)

川の守り神か

読み方べんざいてん-しゃ(しなのちょう8)
所在地瀬戸市品野町8丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神不明
アクセスせとコミュニティバス「中品野」より徒歩約9分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他
神紋
オススメ度
ブログ記事

中品野村の神社だろうか

 この弁財天があるのは中品野町8丁目で、江戸時代の中品野村の村域だと思うのだけど確信はない。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、中品野村の本郷に当たる郷嶋集落の北東端に位置している。
 ただ、この神社が江戸時代やそれ以前からあったのか、もともとこの場所にあって動かされていないのかといったことは情報がなくて分からない。
 鳥居は後から作ったもので、もともとは祠だけが祀られていたのだろう。

 ネット情報でいうと、近くの品野台小学校の生徒が調査した結果をこんなふうに書いている。

学校の南門の横に弁財天様の神社があります。
弁財天は女性の神様?で、昔、南門のあたりの川が増水して命を落としてしまった女性があって、それで弁財天の神社がつくられたとのことです。

 おそらく近所の方から聞いた話だろうから、これはわりと信用性が高いのではないかと思う。
 時代としては江戸時代といえばそうだろうし、あるいはもっと古い可能性がないわけではない。
 ここは東から流れてきた水野川に北から流れてきた蟹川が合流する少し西で、大雨が降れば川が溢れてもおかしくない場所だ。
 かつての川筋は少し違っていたようだけど、今も神社のすぐ南を水野川が流れている。

江戸時代の中品野村

 江戸時代の書に手がかりはないかと探ってみる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)には弁天関連の情報はない。
『尾張徇行記』(1822年)に弁天が出てくる。

同村弁天社内九歩御除地、山神社三区社ナシ、境内一段一畝四步村除
府志八劔祠、在中品野村、伝言有長江入道者建此社、永禄元戊午年松平監物重修之
摂社八幡祠、白山祠、神明祠、浅間祠、天神祠、源太夫祠又社外有山神稲荷弁天祠

 同村は中品野村のことで、弁天が載っている。
 もう一社、中品野村の氏神だった八劔(八剱神社)の”社外”の摂社に弁天祠がある。
 このどちらかが今も残る弁財天社なのか、どちらも違うのか。これはちょっと判断がつかない。
 前者の弁天は”御除地”になっているのでそれなりに古い社だったはずだ。1608年の備前検除なのか、それより前の前々除なのかは分からない。

『尾張志』(1844年)は八劔社の境外社について書いている。

八劔ノ社
中品野村にあり長江入道といふものありて此社を創建すといへり永禄元戌午年松平監物修復す
末社に八幡社 白山社 神明社 天神社 源太夫社 以上六社境内
山神社 稲荷社 辯才天社 以上三社境外にあり

 ただ、『尾張徇行記』がいう独立した弁天については触れていない。

弁天は日本がルーツなのでは

 弁財天/弁才天については神様事典ベンザイテン(弁才天)のページにわりと詳しく書いたので、興味のある方は読んでみてください。
 通説ではヒンドゥー教の女神のサラスヴァティーが仏教に取り込まれて日本に伝わり、神仏習合や民間信仰などによって様々な要素を取り込んでできあがったとされるのだけど、個人的にはこの話は信じていない。
 そもそも仏教がインド発祥で中国から日本に入ってきたというのも違うと思っている。もともとの本家は日本で、それが海外に出ていったものを逆輸入したと認識している。
 なので、弁才天のルーツも日本由来だと個人的には考える。
 どこかの時点で宗像三女神の中の市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)と習合したというのも根拠があったはずで、そもそも市杵嶋姫命が先で、弁才天が後のような気がする。
 イチキシマヒメは、一木のシマのヒメということだ。

 直接の関係はないだろうけど、同じ瀬戸市内の深川神社の境内社に市杵島社がある。
 社名からも分かるように祭神は市杵島姫命だ。
 境内の由緒書にこんなことが書かれている。

今から1200年前の昔からここ池田に8人の神様を祀りました。世にこれを深川天神と云い、これが現在の深川神社です。
その一人が市杵島姫命で、俗に弁財天と呼ばれる神様が当社の祭神です。
商売の守護神として困って居る人々を救い財物を与え願い事を叶えるあらたかな神様として、古くから多くの人々にあがめ親しまれてまいりました。

 ”八神”というのが意味ありげなのだけど、そのうちのひとりが市杵島姫命、俗にいう弁財天だといっている。
 これは何らかの事実を元にした伝承で事実そのものではないだろうけど、八神のうちのひとりが市杵島姫命というのは何かある。
 中品野の弁財天も、意外と古い信仰が起源となっているかもしれない。

作成日 2024.12.6

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