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熊野社(東菱野町)

菱がカギ

読み方くまの-しゃ(ひがしひしのちょう)
所在地瀬戸市東菱野町66 地図
創建年(伝)天平21年?(750年)740年とも
旧社格・等級等十一等級・旧指定村社
祭神伊弉諾尊(イザナギ)
速玉男神(ハヤタマノオ)
事解男神(コトサカノオ)
アクセス愛知環状鉄道「瀬戸口駅」から徒歩約14分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日に一番近い日曜日
神紋
オススメ度**
ブログ記事

菱とは何か?

 瀬戸市は旧村名がよく残っている土地で、かつての村が今のどのあたりなのかが分かりやすい。
 本地村、菱野村、山口村が愛知郡で、美濃之池村、今村、瀬戸村、赤津村、下品野村、中品野村、上品野村、白岩村、片草村、上半田川村、下半田川村、沓掛村(沓縣村)、上水野村、中水野村、下水野村が春日井郡だったのだけど、これらの村名は今もそのまま町名になっているところが多い。
 瀬戸の土地勘がある人ならだいたい分かると思う。
 少し分かりづらいのは今村と沓掛村だろうけど、今村は共栄通・東寺山町・西寺山町あたりで、沓掛村は定光寺(地図)の東の定光寺町がそれに当たる。
 地名はその土地の歴史を伝える上でも大事なものなので、何々町1丁目、2丁目のように安易に変えるのはよくない。

 というわけで今回も地名の話から入りたいと思う。
 サブタイトルにあるように”菱野村”の”菱”とは何か、だ。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこう書いている。

菱野村(ひしの)

地名未考或は菱形の野といふ意にや

 未だ考えつかないとギブアップ宣言しつつ、苦し紛れに菱形を持ち出している。
 しかし、言うまでもなくここ菱野村は菱形などしていないし、菱形が村名の由来ではない。

 そもそも、”菱”とは何かということだ。

 菱という名の水草がある。正確にはミソハギ科ヒシ属の一つで、夏場に池に葉っぱがたくさん浮いて水面を覆っている様子を見たことがある人もいるだろうけど、それは菱かもしれない。
 葉っぱは角の丸い三角形で菱形に見えなくもないけど、実を横から見ると菱形をしているので菱と名づけられたという説がある。
 では、菱形とは何かといえば、数学的にいえば、四辺が等しく角度が異なる四角形を指す、ということになる。
 辺の長さが違えば台形や平行四辺形になるし、辺の長さが同じで角度がすべて90度なら正四角形になる。
 英語のrhombus(ロンバス)は回転するものという意味のギリシャ語のrhombosから来ており、日本でいう菱形とは少し概念が違うのかもしれない。
 ”ひしゃげる”(拉げる)という言葉が一般的かどうかは分からないのだけど(大阪近辺の方言ともいう)、押しつぶされるという意味の”ひしげる”や”ひしがれる”から派生した言葉で、菱とも関係がある。
 ひな祭りのときの”菱餅”は馴染みがあるだろうけど、あれは何か特別な意味があるに違いない(桃の節句が中国由来などというのはたわごと)。
 菱の文様は縄文時代前期の土器にも見られる古いものだ。
 それを”菱”と呼んでいたかどうかは不明ながら、菱形というものを日本人は相当古くから意識していたのは間違いない。そこに何の意味もないということはあり得ない。

 ネットで誰かが、”ヒシ”は鉄や製鉄と何か関係があるのではないかという考察をしていた。
 これは面白い発想だし、的を射ているかもしれない。
 その中で、『古代の鉄と神々』の中で真弓常忠は「ヒシ、ヘシ、ペシは鉄を意味する古語」という一例を挙げている。
 弥生時代の日本には製鉄技術がなくて大陸や半島から技術がもたらされたという古い定説をいまだに信じている人が多いけど(専門家ですら)、日本にはもっとずっと古い縄文時代から製鉄技術はあったという話を聞いている。
『倭名類聚鈔』(930年頃)には「比之(ヒシ)は鏃字也」とある。鏃は”やじり”のことだ。
 鉄製に限らず、やじりの先のようなああいうものを総称してヒシ(菱)と呼んでいたのかもしれない。

 菱形には何か特別な意味があると考える理由の一つに、家紋に多く菱形が使われていることもある。
 有名なのが武田家の武田菱で、もともとは清和源氏義光の流れを汲む一族が使ったとされる。
 名門北畠氏も菱紋を使っていた。
 三菱を起業した岩崎弥太郎は、甲斐武田の分家筋だったらしく、その関係で三菱を考案したといわれている。
 これらの一族は菱の意味を分かっていたに違いない。

 では菱野村の菱は何から来ているかだけど、私としてはよく分からないとしか言えない。
 鉄に関係している可能性がないではないけど、ちょっと違う気もする。
 ひょっとすると、このあたりで鉄が採れたのかもしれないし、鉄に限らず何かの金属が関係あるのか。
 確実に言えることとしては、この土地も間違いなく尾張氏が関係しているということだ。
 菱野の熊野社も尾張氏が建てたに違いない。

天平年間創建は本当か?

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は明かではないが、天平年間(750)に当地に開山された天台宗東福寺の守護神として熊野本宮より勧請され以来社僧により明治まで祭事が営まれた、明治5年7月28日、村社に列格し、大正10年5月24日、指定社となる。
昭和34年9月、伊勢湾台風により拝殿倒壊したが再建する。
同60年10月社殿、社務所を造営した

 天平年間というと、聖武天皇の治世で、大伴旅人や吉備真備などが生きた時代だ。
 天然痘が大流行して藤原四兄弟が揃って死去するなどということもあった。
 聖武天皇は、朕ワケあって関東に行きます、探さないでくださいと書き置きを残して旅に出てしまい、戻ってきてからは恭仁京に遷都し、更には難波京に遷都し、大仏建立の詔を出したりもした。
 社会情勢が不安定だった時代背景と東福寺建立が連動していたのかどうかは分からない。
 ただ、『愛知縣神社名鑑』の言っていることはちょっと信じられない気もする。
 そもそも、天平年間は729年から749年までで750年は天平勝宝だ。
 東福寺の守護神として熊野本宮から勧請したというけど、現在の祭神の伊弉諾尊(イザナギ)、速玉男神(ハヤタマノオ)、事解男神(コトサカノオ)とはなんとなく合わない感じがする。
 和歌山県熊野の熊野本宮大社(公式サイト)は神仏習合して祭神が増えすぎてよく分からない状態になってしまったのだけど、一応主祭神の家津美御子(けつみみこ)を素戔嗚尊(スサノオ)、速玉男を伊弉諾尊(イザナギ)、牟須美(フスミ)を伊弉冉尊(イザナミ)としている。
 熊野というと現在は紀伊和歌山の熊野本宮大社がよく知られているけど、それよりも重視すべきは出雲国一宮の熊野大社(公式サイト)の方だ。
 この熊野大社は伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命という長い祭神名で祀っていて、「伊邪那伎日真名子」を”イザナギが可愛がる子”と解釈したり、スサノオの別名としたりしているのだけど、それらはたぶん正しくない。
 ”真名”といえばかつては”真名井神社”と称した丹後国一宮の籠神社(公式サイト)を連想する。
 籠神社は伊勢の神宮(公式サイト)の内宮と外宮両方の元伊勢であり、古くから尾張氏一族の海部氏が社家を務めてきた。
 現在の祭神は尾張氏の祖とされる彦火明命となっているけど、元からそうだったわけではない。
 尾張氏の祖はイザナギ・イザナミであり、オオクニヌシでもあるので、古くはそのあたりを祀っていたのではないかと思う。
 熊野大社がイザナギの真名子を祀っているのは、元社というべき本来の”真名”があったことを意味しているかもしれない。
 たぶん信じてもらえないだろうけど、熊野大社の元社は名古屋市天白区の島田神社だ。ここは元々熊野社で、尾張氏の本拠地だった。
 本地や菱野を初めとした瀬戸市一帯は古い時代に尾張氏が開拓した土地で、そこで熊野社を祀っているのであれば、紀伊や出雲から熊野の神を呼んでこなくても自前でまかなえる。熊野神はそもそも尾張の神なのだから。
 熊野の熊は何度も書くように、”雲”が転じたものだ。
 菱野の南は長久手の北熊、前熊で、この地名からしても、このあたりが八雲のうちの一つの雲だったということだ。
 そこに雲の社を祀ったのはごく自然なことだった。
 それが中世以降に姿形を変えて現代に伝わったと考えていい。

『愛知縣神社名鑑』がいう天平年間(750年)創建を信じないのは、”古すぎる”からではなくそれでは”新しすぎる”からだ。
 東福寺については後ほどあらためて見るとして、この熊野社はそんな新しいはずがない。
 少なくとも創祀はそれよりもずっと古い。

江戸時代の菱野村について

 江戸時代の菱野村がどうだったかを見ていくことにしよう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

家数 五拾五軒
人数 四百弐人
馬 弐拾壱疋

天台宗 野田密蔵院末寺 白山東福寺
 寺内壱反歩 前々除
 右寺内ニ薬師堂有。

本願寺宗 濃州 各務郡長塚村大願寺末寺 西光寺
 寺内 年貢地

庚申堂壱宇 右西光寺地内ニ有
 地内拾五歩 前々除

禅宗 赤津之内、白坂雲興寺末寺 福禄山仙寿寺
 寺内壱反五畝歩 前々除

社七ヶ所 内 権現弐社 神明 榊之森 山之神三社
 当村 東福寺持分
 社内四拾七町余 前々除

 家数が55軒で村人が452人なので、そこそこ大きな集落だったことが分かる。
 村域がどこからどこまでだったのか明確に把握できていないのだけど、矢田川を挟んで北と南に分かれていたのは間違いない。
 熊野社や東福寺、仙寿寺があるのは矢田川の北岸で、西光寺は南岸にある。
 現在の町名でいうと、東は東米泉町、西は西幡町あたりまでだろうか。
 寺で古いのは東福寺で、次が仙寿寺、西光寺は年貢地なので江戸時代に入ってから建てられたものだろう。
 菱野の里自体がけっこう古そうで、熊野社はその頃から祀られていただろうし、東福寺(もしくはその前身)が奈良時代前期の740年に創建されたという伝承は信じていいのではないかと思う。
 仙寿寺について『尾張徇行記』(1822年)は「草創ハ天文九亥年大建和尚也」といっている。天文9年は戦国時代の1540年だけど、これはあり得ることだ。

 神社に関しては、権現が2社、山之神が3社、他に神明と榊之森があり、すべて東福寺の持分といっている。
 権現2社は熊野権現と白山権現のことで、『寛文村々覚書』は東福寺を「白山東福寺」としているので、東福寺と白山の関係が深そうだ。
 尾張と白山とは密接な関わりがあって、一般的な山岳信仰の白山信仰とは違う。
 ”本地”で白山を祀るというのはそういうことで、そのあたりについては尾張旭市編本地ヶ原神社のところで書いた。
 瀬戸市の本地に隣接する菱野で白山を祀っていたということも、この地を古くから尾張氏が開発したことを示している。
 気になるのは”榊之森”で、これは土地神の感じがする。尾張旭にある縣森(あがたのもり)と同じようなものかもしれない。
 神明も前々除(まえまえよけ)となっているので、江戸時代以前からあったということだ。
 神社については『尾張徇行記』がもう少し詳しく書いている。

社七ヶ所、覚書ニ、此内権現二社、神明榊ノ森、山神三社、境内四町三反前々除、東福寺持分
東福寺書上ニ、十二所権現祠境内東西八十間南北百間、白山権現祠境内東西五十間南北八十間、山神祠三区一ツハ東西十九間南北八間、一ツハ東西九間南北七間、一ツハ東西十間南北十間、神明祠境内東西六十間南北七間、榊明神祠境内東西三間南北四間、弁天祠境内東西五間南北三間、庚申堂境内東西五間南北三間、観音堂境内東西六間南北四間、イツレモ備前検除ナリ

 江戸時代後期には(熊野)権現は”十二所権現祠”と呼ばれていたようだ。
 熊野信仰は複雑に神仏習合して祀る神が増えていって、最終的にはちょっとよく分からなくなった。
 天忍穂耳命(アメノオシホミミ)や瓊々杵尊命(ニニギ)、彦火々出見尊(ヒコホホデミ)や軻遇突智命(カグツチ)、埴山姫命(ハニヤマヒメ)など、日本神話でおなじみの神々にそれぞれ本地仏を当てて、神像も盛んに造られた。
 江戸時代前期にはなかった弁天祠が追加されている。今も弁天町という地名が残っているので、そこにあったのだろう。
 これら白山や榊森、神明、山神がいつどこへ行ってしまったのかは調べがつかなかった。おそらく、明治あたりに熊野社に移されたか合祀されたのだろう。

 寺についても『尾張徇行記』で補足しておく。

東福寺 府志曰、天台宗、属野田密蔵院、界内有薬師堂
覚書ニ、白山東福寺境内一反前々除、寺内ニ薬師堂アリ、外田三畝燈明田前々除
当寺書上ニ、境内東西五十間南北四十五間 境外田三畝共ニ備前検除、創年暦不知ト也

仙寿寺 府志曰、号福禄山、曹洞宗属白坂雲興寺、旧為臨済宗、寛文七丁羊年改曹洞宗
覚書ニ寺内一反五畝前々除
当寺書上ニ境内六反六畝二十歩御除地、草創ハ天文九亥年大建和尚也

西光寺 府志曰、一向宗東派、属濃州各務原郡長塚大願寺
覚書ニ寺内年貢地、庚申堂一宇西光寺境内ニアリ、十五歩ハ前々除也
当寺書上ニ、境内東西三十間南北十五間年貢地、当寺順了代中本寺ハ濃州各務原郡長塚大願寺ナリシカ、宝永二年順了東本願寺派ニナリ、其後野符村ノ円光寺ノ主僧トナリ、其跡二男順達最高時ノ主僧タリシカ、元文四未年高田宗ニナリ、不埒ニヨツテ寺外隠居仰付ラレ、夫ヨリ十年ノ間高田本坊ヨリ看坊長海ト云僧住職シ、寛永元辰年再東本願寺ニ改派ス、今東懸所末寺也

修験明宝院 境内東西八間南北六間年貢地、是ハ天明八申年願ヨルテ祈祷所建立ス

 村の様子についてはこんなふうに書いている。

此村ハ中央ヲ山口川ナカレ通リ、明和四亥年洪水以来砂入地高四百石余アリテ田畝不足、農事ハカリニテハ渡世ナリカタキ故、農隙ニ草鞋草履ヲツクリ、名古屋ヘイリ出シ、叉ハ知多郡其外三州遠州辺ヘ、瀬戸物ヲ荷ヒウリニユキ渡世ノ助トス、此村瀬戸六ツニワカレ民戸散在ス、北山・西島・東島、川ノ南ヲ西ワケ島・羽島・川瀬島ト云イツレモ村立アシク、小百姓ハカリニテ貧村ナリ

 矢田川のことを山口川といっていて、それが明和4年(1767年)に氾濫して田んぼに砂が入って耕作できなくなったため(砂入地)、農業だけでは生活が成り行かなくなって農閑期には草履や草鞋を作って名古屋に売りにいったり、瀬戸物の陶器を知多や遠州まで運んで売ったりして生活の足しにしたようだ。
 6つのシマに分かれたのもこの洪水以降ということだ。
 神社や寺も被害を受けただろうけど、そのあたりまでは書いていない。

『尾張志』(1844年)も載せておこう。

十二所ノ社(當社を村の氏神とす) 白山ノ社(氏神より北の方にあり) 神明ノ社(氏神より巳の方にあり) 山ノ神ノ社(三所) 榊ノ社 辨才天ノ社 この八社菱野村にあり

東福寺 菱野村にありて瑞雲山と号し春日井郡野田村密蔵院の末寺也創建の時代詳ならす僧宥を中興の開基とす 本尊薬師佛を安置す

仙壽寺 菱野村にありて福祿山といふ本寺上におなし創建の年月知られす本堂に観世音を安置すもとは臨済派也しを寛文七丁未改て當派(曹洞派)となる

西光寺 菱野村に在て大澤山といふ本山直□也創建の年月知がたし寛永二年再興すといへり

『寛文村々覚書』は東福寺を白山東福寺といっているけど、ここでは瑞雲山としている。
 東福寺について補足しておくと、ネットのSetopedia(web)は天平12年(740年)に創建されたという伝承を紹介しつつ、寺伝では12世紀に開かれたといっている。
 12世紀は平安時代後期に当たるわけだけど、この時代まで村に寺がなかったとは考えられず、信じられない。
 廃寺になっていた寺(東福寺または前身)をこのとき再興したというのであればあり得ることだ。
 永正13年(1516年)に火災で全焼したという話は江戸時代の書には書かれていない情報だ。
 昭和25年(1950年)に無住になって廃寺となり、今は観音堂や山門の石碑が残るのみとなっている。

 神社の位置関係はここでおおよそ知ることができる。十二所ノ社(熊野社)を氏神として、白山は氏神より北、神明は巳の方なので南南東にあったようだ。
 白山は熊野社の北に白山町があるので、この中のどこかだ。
 神明は熊野の南南東なので、西米泉町か東米泉町か。矢田川の南の南山口町は違うと思うけどどうだろう。
 弁天は上にも書いたように弁天町のどこかだ。
 榊森だけが分からないので、ちょっとモヤモヤが残った(判明したら追記します)。
 いずれにしても、江戸時代以前からあった7社と江戸時代に加わった弁天が江戸時代を通じて変わっていないのはちょっと驚きだ。
 江戸時代とひとくくりにするけど、260年以上なので20世代以上に渡っている。その間ずっと変わらず村の社を守り続けたというのは、けっこうすごいことだと思う。

菱野城のこと

 かつて菱野には菱野城があった。
 場所は西光寺の東、羽根町のこのあたり(地図)だったとされる。
 羽根町(はねちょう)の”羽根”は古い地名で、”根”の付いているところは重要な拠点を意味している。
 もともとは”八根”だったかもしれない。

 菱野城について『寛文村々覚書』は「古城跡壱ヶ所 先年林次郎左衛門居城之由、今ハ百姓屋敷ニ成」と書き、『尾張徇行記』は以下のように書いている。

志略曰、按山田系譜、尾張国山田郡菱野村駿河守平義村所領、以山田三郎泰親(山田左近太夫重親二子)補上菱野村地頭職、以山田四郎親氏(重親三子)補下菱野村地頭職
人物志曰、山田筑後源重定愛智郡菱野村人云々 按葦敷系譜筑後守重定源重実三男云云(重定補鎮西八郎為朝)

 尾張国山田郡は尾張氏一族の山田氏が治めた土地で、平安時代末から鎌倉時代前期を生きた山田重忠もその一人だ。
 山田重忠の名は名古屋や瀬戸などの寺社でたびたび登場してくるので、このあたりに深く関わっていたのだろう。
 1221年の承久の乱で後鳥羽上皇方として孤軍奮闘するも敗れ、最後は京都の嵯峨般若寺山で自刃したとされる。
 このとき、一緒に戦に参加していた嫡子の重継は幕府方によって殺され、孫の兼継はまだ若かったため(16歳ともいう)越後に流されて出家したと伝わっている。
 しかし、山口の本泉寺にはずっと後の年代の没年が書かれた重忠の位牌があり(現物を見せていただいた)、ひょっとすると逃げ延びて瀬戸の菱野あたりで余生を過ごしたのかもしれない。
 重忠一族が地頭を務めていた山田庄は幕府に没収され、後に泰親・親氏兄弟の代になって幕府への出仕が許され、菱野の地頭に任じられた。
『尾張徇行記』によると、兄の泰親が上菱野の、弟の親氏が下菱野の地頭に任じられたようだ。
 泰親・親氏兄弟は兼継の弟の重親の子なので、重忠のひ孫に当たる。
 本泉寺を建立したのは泰親と伝わっている(1283年)。

『尾張徇行記』が紹介している「志略曰」の「志略」がどの書を指しているか分からないのだけど(『尾張國人物志略』か?)、このあたりのことをいっている。
 面白いのは次の「人物志曰」の部分だ。
「山田筑後源重定愛智郡菱野村人云々 按葦敷系譜筑後守重定源重実三男云云(重定補鎮西八郎為朝)」では分かる人が少ないと思うので説明すると、山田重定は愛智郡菱野村の出身で、「重定補鎮西八郎為朝」、つまり鎮西八郎為朝を捕らえた人物ということをいっている。
 本当かなと半信半疑なのだけど、山田重定は一般的には源重貞として知られている。
 鎮西八郎為朝こと源為朝については名古屋市編の神明社(小碓命)八幡社(闇之森八幡社)でも名前が出てきたけど、間接的に尾張とはゆかりがある人物だ。
 子供の頃から乱暴者で、13歳で父親に九州に追放されて、九州で大暴れしてその存在が知られるようになり、保元の乱(1156年)でも武名をとどろかせた。
 しかし、戦に敗れて近江国坂田まで逃げたところで病気になって温泉で治療していたところを捕まってしまう。このとき捕縛したのが源重貞(山田重定)だったとされる。
 この山田重定が平安末の承歴3年(1079年)に菱野に屋敷を構えたことが菱野城の始まりという。
 長い前置きを経て、ようやく菱野城の話になる。

 その前に一つ確認として、菱野城と上菱野城(かみひしのじょう)があって、それは別の城ということだ。菱野城は地域でいうと下菱野に当たる。
 上菱野城は山口城とも呼ばれ、現在本泉寺が建っている場所にあった。遺構も少し残っている。
 本泉寺はもともと今より300メートルほど南にあって、江戸時代初期の慶長18年(1613年)に上菱野城跡だった現在地に移された。
 別名の屋形の城(やかたのしろ)は、泰親が子の重元に地頭職を譲って隠居するにあたり居館として築城したことから来ているのだろう。
 泰親は1281年にこの地を訪れた下野国専修寺の顕智上人の説法に感銘を受けて出家して本泉寺を建立(1283年)し、その際に上菱野城は廃城となったというから、ごく短い期間の一代限りの館城だっただろうか。
 ただ、この話はなんとなくしっくりこないので、どこか違っているかもしれない。

 話を菱野城に戻すと、鎌倉時代前期の菱野城主はこの泰親の弟の親氏だったとされる。
 ただ、1221年の承久の乱の後、山田庄は鎌倉幕府によっていったんは没収されている。
 なので、山田重定が建てた菱野城(館)も山田氏の手から離れたと考えるべきで、その後、親氏が下菱野の地頭になるまでの数十年間はどうなっていたのかはよく分からない。
 館はそのまま残っていてそれを城にしたのか、改めて建て直したのか。
 分からないといえば、菱野城を築城したとされる山田重定と山田重忠との関係だ。
 同じ山田一族には違いないけど、直接的な血縁関係はなさそうで、世代も違っている。
 重忠は1221年の承久の乱のときは56歳だったという話があるから、逆算すると1165年前後の生まれになる。
 山田重定は1156年の保元の乱で活躍したというから、生まれは1130年代か1120年代くらいだろう。
 山田氏の系譜の話をすると長くなるのでやめるけど、重忠のひ孫の泰親・親氏兄弟はどうして菱野の地頭を任じられたのかという疑問がある。
 菱野は山田庄の一部ではあるけど、尾張山田氏の本拠は今の北区山田あたりだったとされ、そこからはわりと距離がある。
 上に書いたように、本泉寺に伝わる重忠の位牌が本当だとすると、重忠が菱野にいたから菱野の地頭にしてもらったという可能性はあるだろうか。

 時は流れて室町時代。
 菱野城は林氏の居城となっていた。
 この林氏は織田家家老の林秀貞の同族という説ががある。
 林氏は春日井郡の沖村を本拠としていた土豪で、もともとの織田家の家臣ではない。
 秀貞は父の通安とともに織田信長の父の信秀に仕えて、若き信長の後見役に指名された。
 ただ、信長を信用していなかったようで、反信長派として裏で動いていたともされる。
 長らく織田家の宿老を務めていたのに、本能寺の変の2年前の1580年に突然、織田家を追放されてしまう。
 その理由についてはよく分かっていない。

 この林一族が菱野城の城主に収まったのは室町時代で、それは意外と古いのかもしれない。
 1504年の城主に林次郎左衛門惟光の名があり、1511年生まれの信秀や、1513年生まれの林秀貞より以前なのは間違いない。
 ただ、上にも書いたように、ここは尾張氏一族の山田氏が治めていた土地で、まったくのよそ者が入ってきて主になれるようなところではなく、この林氏も尾張氏に近い一族の可能性がある。
 信長時代は瀬戸、長久手、尾張旭の一帯は信長の勢力下にあった。
 陶器を作る瀬戸にも信長はちゃんと目を付けており、瀬戸物の販売促進を後押ししたりもしている。

 最終的な城の規模は東西70メートル、南北100メートルほどだったとされる。
 しかし、明和4年(1767年)の洪水で水に浸かって遺構は埋まってしまったようだ。
 西光寺の山門はかつての菱野城の城門だったのが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で壊れてしまって残っていない。

菱野村の変遷について

 菱野の里がいつ頃できたのかは分からない。
 東福寺の創建が奈良時代前期の750年だとすると、少なくともそれ以前ということになる。
 近くに古墳や遺跡は見つかっていないものの、西隣の本地には本地大塚古墳などもあり、弥生時代やそれ以前だとしてもおかしくはない。
 鎌倉時代は上菱野村と下菱野村があったようだけど、江戸時代に合併したのか、下菱野村は山口村になったのかもしれない。
 熊野社に伝わる戦国時代の棟札には菱野村とあるので、その頃までには上菱野村という村名ではなくなっていたようだ。
 江戸時代には尾張藩領となり、水野代官所が管理していた。
 明治22年(1889年)に菱野村と本地村が合併して幡野村となる。
 明治39年(1906年)に幡野村と山口村が合併して幡山村となった。
 戦後の昭和30年(1955年)には幡山村が瀬戸市に編入された。
 その後、大字菱野の地名は消えて、それぞれの町名が誕生して現在に至っている。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 明和4年(1767年)の洪水以前のことは分からないものの、江戸時代後期の面影は色濃く残している。
 集落があるのは矢田川の南、西光寺がある西脇町や東の羽根町と、矢田川の北、今の菱野町から福元町、瀬戸口町、東菱野町にかけてが中心だった。
『尾張徇行記』にあるように、明和4年の洪水以来、北山、西島、東島、西ワケ島、羽島、川瀬島の6つのシマに分かれたというのもなんとなく分かる。
 熊野社は集落から外れた北東の丘陵地にある。
 麓ではなく少し登った高台にあるのは洪水対策か、この山を神聖視していたからか。
 田んぼは矢田川沿いに広がっていてけっこう面積があるように見えるけど、『尾張徇行記』の時代は収穫量はさほどでもなかったようだ。
 大正時代(1920年)に入ってもほとんど変化は見られない。
 途中の地図はなく、たいぶ飛んで1968-1972年(昭和43-47年)では矢田川沿いの道が整備されて、宅地も田んぼも区画整理されている。
 1976-1980年では南北につなぐ県道208号線が通っている。
 建設中となっているのは瀬戸西高校(1978年開校)だ。
 その後、少しずつ民家が増えていくのだけど、1970年に開業した愛知環状鉄道のおかげもある。
 この路線は春日井市の高蔵寺駅と岡崎市の岡崎駅を結ぶというマニアックな路線で利便性は今一つなのだけど、ないよりあった方が全然ましには違いない。
 最寄りの瀬戸口駅が開業したのは1988年(昭和63年)だった。
 とりあえずこれに乗って次の新瀬戸駅まで行けば名鉄瀬戸線と連絡しているので、栄までは行ける。
 もしくは逆方向の八草まで行ってリニモに乗り換え、藤が丘で地下鉄東山線に乗れば名古屋駅まで行ける。
 どちらにしても乗り換えがまあまあしんどそうだ。
 私は一度だけ、岡崎の花火を見に行ったときの行きだったか帰りだったかに乗ったことがある。
 なんで乗ったのかは覚えてなくて、一度乗ってみようと思ったのか、混雑を避けるためだったか。

熊野社と東福寺と天台宗の関係性

 上で書いたように、東福寺は奈良時代前期の750年に創建されたという伝承があり、熊野社は東福寺が管理していたという話がある。
 しかし、個人的には信じていなくて、東福寺創建が実際に750年だったとしても熊野社の方がずっと古いと思っている。
 ここで一つ、疑問というか違和感を抱く。
 東福寺は天台宗であることだ。
 天台宗は最澄が唐から持ち帰って日本に広めたとされており、最澄は空海と同時代人だから平安時代の人なので、そもそも750年当時、日本に天台宗はなかったはずだ。
 最澄が唐で天台宗を学んだという話も信じていないのだけど、公式には804年に唐に渡って天台宗を学び、翌805年に帰国して天台宗を広め、806年に天台法華宗として認められたということになっている。
 東福はもともと別の宗派だったのが平安時代以降に改宗して天台宗になった可能性もあるものの、天台宗であったことには違いない。
 尾張と天台宗にはいろいろなつながりというか因縁めいたいものがある。

 話は飛ぶけど、熱田社(熱田神宮)は天台宗とのつながりが深い。
 中世の熱田社には亀頭山神宮寺という神宮寺があった。
 神宮寺というのは神社の中に作られた寺で、明治の神仏分離令までは神社と寺院が混在するのが普通の姿だった。
 この亀頭山神宮寺が天台宗で、空海が創建したとか、最澄が開いたなどいう伝承がある。
『尾張志』は仁明天皇の勅願を受けて最澄が開いたといっているのだけど、仁明天皇の在位は833-850年で最澄は822年に没しているのでこれはちょっとおかしい。
『尾張名所図会』(1844年)も仁明天皇の勅願としつつ、伝教(最澄)と弘法(空海)が二人で開いたといっており興味深い。
 空海は835年まで生きているのでぎりぎり仁明天皇と重なっている。
『張州府志』(1752年)はずっと古い時代に設定していて、聖武天皇時代の創建と書いている。
 聖武天皇といえば国分寺建立や東大寺大仏殿の天皇として知られており、在位でいうと724-749年となる。
 東大寺の大仏が完成したのが752年だった。
 東福寺創建の750年というのは、このあたりの年代に当たる。

 尾張四観音の一つで、尾張における天台宗の中心的な存在でもあった龍泉寺(公式サイト)は、最澄が熱田社に籠もっていた際に龍神のお告げを受けて開いたという伝承があり、空海は熱田社にあった八剣のうちの三剣を龍泉寺に埋めたともいわれている。
 最澄と空海というと、なんとなく喧嘩別れのような格好になって天台宗と曹洞宗に分かれていったようなイメージがあるけど、実際はかなり親密な協力体制にあったのではないかと思う。
 最澄も空海も確実に尾張の歴史を知っていて、尾張に積極的に関わっている。
 特に空海はチーム空海といった組織があって、尾張の各地に空海伝説を残している。
 龍泉寺の剣の話もそうだし、空海お手植えの楠木などもそうだろう。

 熱田社と天台宗の関わりで付け加えておくと、平安時代末に作られたとされる『尾張国内神名帳』は熱田社神宮寺の妙法院座主が神事に先立って読み上げた神社一覧が元になったといわれている。
 座主(ざす)というのは天台宗特有の呼び名で、天台宗のトップを指す。

 話を戻すと、瀬戸の東福寺と熊野社に熱田社と神宮寺に似た関係性が感じられるということを言いたかったのだ。
 東福寺を創建したときに熊野社を鎮守としたのではなく、熊野社が神宮寺として東福寺を建立したのではないかということだ。
 当初から天台宗ではなかったにしろ、瀬戸は尾張氏が開拓した土地で、熊野社を祀ったのも尾張氏に違いなく、そこに天台宗の寺が関わっているとなると、たまたまそういう組み合わせになったというのはちょっと考えにくい。

瀬戸と猿投山と梶田甚五郎

 この熊野社でも10月に警固祭りが行われる。
 時代によって形は変化してきたのだけど、猿投山との関係が深い。
 オマント(馬の塔)とも呼ばれる祭りで、長久手などでも盛んに行われている。
 飾り馬に山車を乗せたりして神社に奉納し、鉄砲隊や棒の手隊がそれに付き従うというのが現在の形だ。
 この祭りの起源はおそらく相当に古くて、中世以前に遡る。始まったのは古代だろうし、今に続く祭りの基本形がここにあったのかもしれない。
 それだけ猿投山というのは重要な場所だったということだ。

 菱野の警固祭りは「菱野のおでく警固祭り」と呼ばれている。
 ”おでく”は梶田甚五郎を模した人形のことで、この”おでく”を飾り馬の標具としているのが菱野の特徴となっている。
 梶田甚五郎こと平井綱正(ひらいつなまさ)は織田信長の家臣で、本能寺の変(1582年)の後、豊臣秀吉に仕えて池田恒興の配下となった。
 小牧長久手の戦い(1584年)の際、池田恒興に猿投神社へ行って戦勝祈願をしてくるように命じられて向かったところ、菱野村で落ち武者と間違われて村人に殺されてしまう。
 その後、菱野村では飢饉が起こり、疫病も蔓延したため梶田甚五郎の祟りという話になり、梶田甚五郎が村人の枕元に立って猿投神社へ連れて行けと化けて出るようになったため、梶田神社を建てて霊を鎮め、秋祭りにも梶田甚五郎の人形を作って神社に奉納したという伝承が伝わっている。

 この梶田甚五郎の話も元ネタというか裏があって、話としては長久手の戦いのときのことになっているけど、実際はもっと古い時代に起きた出来事が元になっているのではないかと思う。
 菱野の祟りも実際にあったことで、村人が全滅したというような話も洩れ伝わっている。

立派すぎる感じ

 この神社は海上の森へ向かう途中の道沿いにあって、何十回を超えて百回くらい前を通っている。
 そのわりに参拝したのは2、3回しかなかったのだけど、今回あらためて参ってみて抱いた感想は、立派すぎやしないか、というものだった。
 立派すぎる。
 それは褒め言葉でもあるけど、疑問や違和感も含んだものだ。
 こう言っては失礼だけど、瀬戸市の片隅の人口も多くない町の神社としては似つかわしくない。
 社殿は白塗りのコンクリート造で風情も情緒もないのだけど、非常に立派だ。
 これは少ない氏子の寄付金だけで建てられるようなものではない。どっかからお金出てるでしょと思う。
 県とか市とかではなく、一族か本家からか、とにかく何らかの私財が投じられている匂いがする。
 社殿の様子は天白区の島田神社に似ていて、あそこは熊野社の本家なので、たぶんつながりがある。
 境内社も道ばたにあった小さな祠を移してきたというようなものではなく、瓦屋根の門を持つしっかりした社で、このあたりもいちいちお金がかかっている。
 つまり、立派すぎるのだ。
 それだけこの神社が重要視されていたということであり、ただの村の氏神などではないということが言える。


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