
素性不明のせともの神社
読み方 | せともの-じんじゃ(しなのちょう) |
所在地 | 瀬戸市品野町1丁目 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明 |
アクセス | 名鉄バス「品野馬場」より徒歩約16分 |
駐車場 | あり(道の駅 瀬戸しなの) |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
せとものの町品野
国道248号線の「品野町2丁目東」交差点を西に入って少し行ったところに「道の駅 瀬戸しなの」(公式サイト)がある。
品野陶磁器センターに併設された施設で、開業は2011年(平成23年)なので道の駅自体はわりと新しい。
建物の外観は登り窯をイメージしているそうだ。
陶器全般を”せともの”と呼ぶように、瀬戸における作陶の歴史は古い。
陶器作りに適した条件はいくつかあって、適した粘土が採れることはもちろん、他にも燃料となる大量の木や水が必要で、登り窯を作るための斜面も不可欠となる。
それらの条件を満たしていたのが名古屋東部の東山丘陵で、古墳時代には須恵器の大量生産を行っていた。
一般的にこれを猿投窯(さなげよう)と呼んでいる。
瀬戸で作陶が始まったのは平安時代末の12世紀後半あたりとされる。
瀬戸の中でも品野は作陶の中心地で、今でも大量の土が掘り出され、ごっそり掘り返された谷を瀬戸のグランドキャニオンといっている。
どうして陶器に適した土があるかというと、かつてここに古東海湖があったためだ。
少なくとも650万年前には存在したと考えられている巨大湖で、琵琶湖の6倍もあったとされる。伊勢湾から濃尾平野に広がっており、湖の底に沈殿した土が陶器に適しているというわけだ。
常滑焼や美濃焼などもそうだ。
品陶と書いて”せともの”
そのせとものの町品野にあるのがこの品陶神社だ。
非常にささやかではあるけど、あるのとないのとでは全然違う。
品陶と書いて”せともの”と読ませるのはちょっと厳しいものがあるし、字面だけでは今一つ性格が分からないので、普通に”せともの神社”でもよかったんじゃないかと思わないでもない。
いつ誰がここに祀ったのかは調べがつかなかった。
鳥居は新しく、平成29年12月とあるものの、社はそれほど新しいものではない。
隣接する「品陶稲荷」の社も同様で、古び方はよく似ている。
品野村にあったものをここに移してきたのか、もともとここに祀られていたのか、判断も難しい。
直接はつながっていないのだけど、隣は採土工場みたいで、地図を見ると春暁陶器や八坂鉱山という表記がある。
”八坂”というのは何か意味ありげな名前だ。
品野町のすぐ北は八床町(やとこちょう)だし、”八”にまつわる土地かもしれない。
ネット情報では品野陶磁器センターなどがあるのは品野陶土の土地らしいので、そこの企業社の可能性もある。
中馬街道と阿弥陀ヶ峰城
「道の駅 瀬戸しなの」は国道248号線沿いではなくちょっと入ったところにあるのを不思議に思った人もいたんじゃないかと思う。
この前の通りは、かつて中馬街道と呼ばれる重要な道だった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、東の下品野村と西の上水野村を結んでいることが分かる。
少し東に分かれ道があり、南へ行くと瀬戸村に至る。
中馬(ちゅうま)というのは中継ぎの馬という意味で、要所に馬が置かれていて、荷物の運搬途中にそこで馬の乗り換えを行っていた。
正式名を信州飯田街道といい、名古屋方面と信州を行き来する道として利用された。
名古屋からは海産物や塩、しょう油などが山地に運ばれ、帰りは信州や東濃の陶器や煙草、紙などを積んで戻ってきた。
このように交通の要衝だったため、中世には阿弥陀ヶ峰城(あみだがみねじょう)が築かれた。
道の駅の400メートルほど北東の全宝寺(ぜんぽうじ/地図)があるあたりにあったとされる。
瀬戸ペディアが上手くまとめてくれているので引用させていただこう。
信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。
小社(西本地)のところでは本地城の松原平内の立場から、八王子神社(共栄通5)では松原広長からの視点で書いたけど、阿弥陀ヶ峰城の長江利景(ながえとしかげ)の側から見るとまた違う事情も見えてくる。
長江氏(ながえうじ)は桓武平氏良文流の鎌倉景正(かまくらかげまさ)を祖とする鎌倉氏の嫡流とされる。
本当であればなかなかの名門だ。
相模国葉山郷大山(神奈川県三浦郡葉山町)を本拠地とし、鎌倉幕府の重臣として所領を拡大した。
その後、関東、奥州、美濃尾張の三系統に分かれて戦国大名化するも、北条氏、足利氏、伊達氏などとの勢力争いの中で衰えていく。
このうち、品野に移ってきたのが尾張品野長江氏と呼ばれる一族で、美濃国今須から尾張春日井郡の落合城に入った長江利景は、美濃国主斎藤氏の武将として桑下城を築いた(1470年代頃)。
品野城主時代を経て阿弥陀ヶ峰城を築き、文明14年(1482年)の松原広長と戦いで勝利したことで瀬戸一帯を手中にする。
これが安戸坂・大槇山の戦いと呼ばれるものだ。
そもそもこの戦いは、応仁の乱終結後の東軍細川方(長江利景)と西軍山名方(松原広長)との代理戦争のようなもので、後の戦国時代の前哨戦的な戦でもあった。
こうしていったんは瀬戸を収めた長江氏だったのだけど、16世紀になると瀬戸の支配は三河の松平清康(徳川家康の祖父)に移る。
長江利景は永井民部と名を変え、松平氏の家老となった。
子の景利、景隆と続くも、松平清康が暗殺されてしまう。天文4年(1535年)のいわゆる”森山崩れ”と呼ばれるものだ。
そのあたりについては白山神社(市場)のところで書いた。
これを機に松平氏は品野から撤退し、長江氏は今川義元の配下となる。
代わって品野には松平氏が入ったものの、桶狭間の戦いの前哨戦で落合城、桑下城、品野城などが織田信長方の攻撃により落城。
長江氏は織田信長に仕えることになる。
ここまででもかなりの流転ぶりなのに、信長の怒りを買って(理由はよく分からない)蜂須賀氏に仕えることになる。
蜂須賀氏が徳島藩に移ったときはついていって重臣として家が続いたから上手く立ち回ったといえるかもしれない。
阿弥陀ヶ峰と行基
阿弥陀ヶ峰城は名前の通り阿弥陀ヶ峰に建てられたからそう称されている。
全宝寺は山号を大松山といい、天平6年(735年)に天台宗の寺として建てられたのが始まりと伝わる(廃寺となった後、雲興寺十四世居雲宗準によって再興され曹洞宗に改宗)。
実はこの寺、行基が関わっているのではないかと個人的に考えている。
瀬戸には行基の伝承が多く、よく知られる岩屋堂も行基が始まりとされる(八幡神社(鳥原町)参照)。
水野には行基が建てたとされる感応寺もあり(金神社(小金町))、735年という年代も合う。
行基の生まれは天智天皇7年の668年とされており、没年は天平21年の749年だ。
行基本人が来ていなくても、チーム行基といった集団が関わっている可能性は充分にありそうだ。
というのも、京都の東山に同名の阿弥陀ヶ峰城があり、天平年間(729-749年)この山に行基が阿弥陀如来を安置したことが山名の由来とされているためだ。
当然ながら全宝寺の本尊も阿弥陀如来像となっている。
京都の阿弥陀ヶ峰山頂には豊臣秀吉を祀る五輪塔や豊国廟、秀吉を祀る豊国神社があり、秀吉が絡んでいるのも何か意味がありそうだ。
大松山の”松”も、豊臣の”豊”も、三河を象徴するもので、品野の阿弥陀ヶ峰や瀬戸は三河の松平氏が支配していた。
上の方で出てきた”八”は尾張と三河をあわせたものであり、阿弥陀ヶ峰の西は大”槇”山(おおまきやま)となると、これはもう尾張氏のものとしか思えない。
尾張国の守護は斯波氏(しばうじ)で、清和源氏の流れであり、足利でもある。
守護代が織田家で、今川や武田も絡んでくるとなると、人間関係が複雑すぎて眩暈がする。
脱線して何も分からず
本筋から脱線しすぎて結局品陶神社については何も分からずじまいとなった。
でも、無駄話と思える中にも何かしら真実のカケラが含まれているかもしれない。
これらの歴史が思いがけないところで品陶神社につながっていても不思議はない。
それが歴史の面白いところで、こうして神社としてカタチがあることで歴史は埋もれずに伝わっていく。
作成日 2025.3.12