鳥原の鳥は何を示しているのか
読み方 | はちまん-じんじゃ(とりはらちょう) |
所在地 | 瀬戸市鳥原町706番 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧村社・十三等級 |
祭神 | 応神天皇(ホムタワケ) 伊弉諾尊(イザナギ) 伊弉冉尊(イザナミ) 木花開耶媛命(コノハナサクヤヒメ) |
アクセス | せとコミュニティバス「鳥原町中」からすぐ |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭10月15日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
鳥原集落の神社
この八幡神社がある鳥原は、字面をパッと見ると島原に見えるので、わりと長い間”しまばら”と思い込んでいた。
あるとき、鳥原川の表記を見て、あれ? ”とりはら”なの? と気づいて、ちょっと恥ずかしかった。
そう、ここは鳥原という。
鳥って何の意味だろうというのがずっと気になっていた。
江戸時代の中品野村の村域に当たるのだけど、本郷の郷嶋からはだいぶ離れていて、支邑(村)という扱いだったようだ。
『尾張志』(1844年)は「八幡社 中品野村の支邑鳥原村にあり」と書いているから、半ば独立した村だっただろうか。
名古屋の人間の感覚でいうと、岩屋堂へ向かう途中の集落にある神社だ。
岩屋堂への行き帰りにずっと遠くから見ているだけで、実際に訪れるまでに時間がかかった。
岩屋堂(”いわやどう”が正式なのだろうけど”いわやど”と呼んでいる)は、瀬戸や名古屋市民にとって夏の避暑地だったり紅葉の名所として親しまれている。香嵐渓は混むから岩屋堂にしておくか、みたいな妥協案的な観光地でもあり、少し前までは昭和の風情を色濃く残していた。
この岩屋堂を開いたのは行基という伝承がある。
またここでも行基かと思うのだけど、瀬戸は行基の伝承が色濃くあって、全部を作り話と否定することはできない。ここまで伝承が点在しているということは、それなりの事実があったはずで、本当に行基本人が訪れたのかもしれないと思わせる。
というわけで、神社の話の前にまずは岩屋堂について見ておくことにしよう。
岩屋堂と行基
一般的に岩屋堂というと地名というか場所を思い浮かべるのだけど、もう少し限定的にいうと行基が開いたとされる岩屋山薬師堂のことを指す。
それが略されて岩屋堂と呼ばれるようになった。
現在はこのあたり一帯が国立公園に指定されていて、岩屋堂公園となっているので、岩屋堂イコール場所という認識は間違っていない。
正面の大きな岩に人工なのか自然なのか空洞ができていて、その中に仏像が安置されている。
『愛知縣神社名鑑』は鳥原町の八幡神社のところで以下のようなことを書いている。
第四十四代元正天皇の養老年間(717-23)以降の由緒は旧記が証すと「前大島桂宮司が明細書に書き入る古き社なり。
『尾張志』に中品野村の枝村島原村(ママ)に八幡社と載す。
明治5年、村社に列格する。
相変わらずよく分からない文章なのだけど(鳥原を島原と間違えてるし)、”旧記”、つまり養老年以降の古い記録があるので古い神社に違いないということをいっている。
この旧記というのが具体的に何を指していて今も残っているのかどうかといったことは分からない。
岩屋堂公園のwebサイトはこんな文章を載せている。
岩屋堂の名の由来となった大きな岩のほこらは正式には岩屋山薬師堂といい、堂内には薬師仏ほかを祀ります。725年(奈良時代)名僧行基(ぎょうき)が、修行の途中、巨大な岩窟を見つけ、時の聖武天皇の病気平癒を祈願し、3体の仏像を彫り、うち一体の薬師(やくし)瑠璃光(るりこう)如来(にょらい)を安置し、以後岩屋堂と呼ばれるようになりました。人の背丈程の天然の巨岩の祠の中には、現在は15体の仏像があります。目、耳の病気に霊験ありとか、信仰の聖地として訪れる人も絶えません。11月末の日曜日には、浄源寺(じょうげんじ)でお薬師さんが行われます。行基の熱意に感激し、無数の鳥達が木の実を供えに集まった。」との言い伝えから、鳥原の地名の由来にもなりました。
出典が書いていないのでどこ情報か定かではないのだけど、年数まで書いているということは何らかの記録があるということだろうか。
へえ、そうなんだと納得してしまえば話はそれで済むのだけど、細かいことが気になるタチの私なので無粋を承知であえて検証すると、いろいろおかしな点があって、この話をそのまま信じるわけにはいかない。
まず引っ掛かったのが725年という年だ。
668年河内国大鳥郡(大阪の堺)生まれという話を信じるなら、このとき行基は57歳になっている。修行僧といったような身分ではない。
この頃、行基はチーム行基とも呼べるような宗教集団を作って近畿地方を中心に布教や社会奉仕活動を行っていた。
寺の外での活動を禁じる僧尼令に違反したとして何度か処分も受けている。
なので、一人もしくは数人の弟子を伴って尾張の瀬戸あたりまでやってきて修行をしていたというのはあり得ない。
725年といえば、聖武天皇即位2年目で25歳だ。
寝込むような病気をしたという記録はないはずで、軽い病気くらいはしたにしても、行基が瀬戸で聖武天皇の病気平癒のために仏像を彫ったというのもおかしな話だ。
現実的な推測をするならば、チーム行基の誰かが瀬戸にやってきて薬師山岩屋堂を開いたということだろうけど、そもそも何故その人物は瀬戸の奥地にこんなところがあることを知っていたのかという疑問を抱く。
人跡未踏の地に踏みこんでこの場所を見つけたというのはちょっと考えづらいから、地元民か誰かに聞いて知っていたということかもしれないのだけど、それにしてもなんでこの場所だったのだろう。
聖武天皇の話がどこから来たのかも気になるところではある。
聖武天皇といえば、全国に国分寺を建てる詔(741年)や平城宮の東大寺盧舎那仏像の造立の詔(743年)を出したことで知られるているけど、そのあたりのことが瀬戸の薬師岩屋堂を開いたことと連動しているのかどうか。
730年代から740年代にかけて、天然痘が大流行して多くの死者が出たことを考えると、その頃に薬師如来を彫って安置したということと、行基の伝承があわさってこんな話が出来上がったということかもしれない。
話の細部は違っても薬師岩屋堂が開かれたのが奈良時代だとすると、すでに鳥原の集落はあった可能性が高く、そうであれば当然ながら神社もあったことになる。
行基の熱意に打たれて鳥たちが木の実を供えに集まったから鳥原という地名が生まれたというのはいかにも作り話で、これはそのまま信じる人はないと思う。
ただ、鳥の原の鳥は必ず何かを象徴したもので、この鳥の正体が分かると鳥原集落や神社の性格が見えてくるはずだ。
岩屋堂公園にいつ誰がモミジを植えたのかは知らないのだけど、わりと知られる紅葉名所となっている。
バスで行くには不便だけど、車なら名古屋からも近い。
最盛期でも香嵐渓のような混雑はないので、フラッと行って楽しめるのがいい。私も何度も行っている。
夜間のライトアップもオススメします。
祭神問題と八幡
この八幡神社の祭神は応神天皇(ホムタワケ)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)、木花開耶媛命(コノハナサクヤヒメ)となっている。
ホムタワケ(応神天皇)はいいとして、後のイザナギ、イザナミ、コノハナサクヤヒメはどこから来たのか。
途中で加わったのか、中世に八幡になったのかでいうと、ここは後者の気がする。
鎌倉以降に八幡神が流行して式内社などの古い神社さえ八幡社になった例は多い。
鳥原の八幡もそうだったとすると、もともとの祭神はイザナギ・イザナミだったかもしれない。だとすれば、かなり古い神社の可能性が出てくる。
行基の時代には鳥原集落があったとすれば神社は少なくとも奈良時代以前まで遡るということだ。
遺跡に目を向けると、下品野で縄文草創期 の品野西遺跡が見つかっている他、鳥原川の谷では縄文早期の岩屋堂・鳥原遺跡、縄文中期~弥生中期の境井の先史遺跡、森屋敷古墳などが知られ、中世古窯群もあることから、縄文から古代、中世に至るまで継続的に人が暮らす土地だったと考えていいだろう。
鳥原集落も縄文時代からできていたとしてもおかしくはないし、八幡の元になったカミマツリもその時代から行われていたであろうから、創祀ということでいえば縄文に始まるという言い方もできるかもしれない。
コノハナサクヤヒメに関しては、どこかの時点で浅間神が入ったのか、もしくは山の女神を祀ったのが後世にコノハナサクヤヒメとされたのか、そのあたりは何とも言えない。
これはいろいろな可能性がありすぎて推測しても当てられそうにない。
江戸時代の書では
江戸時代の書で鳥原と八幡の情報を拾ってみる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の中品野村を見るとこうなっている。
社四ヶ所 社内壱町五畝弐拾五歩 前々除
内 八幡山之神 社内壱反弐拾五步 当村祢宜 次郎太夫持分
八劔宮山之神 社内九反五畝歩 同 助太夫持分
本郷の郷嶋にある八剱社と、鳥原の八幡は社人(祢宜)が別になっている。
『尾張徇行記』(1822年)では八剱社は次郎太夫、八幡社は鳥原社人岩松治太夫としている。
八劔と八幡は別系統の神社ということだ。
山之神は現在残っていないので、どこかで移されたか廃社になったのだろう。
『尾張徇行記』には末社が載っていて、これがなかなか面白くて興味深い。
社四区覚書ニ八幡 山神社内一段二十五歩次郎太夫持分、八劔山ノ神社内九段五畝歩助太夫持分
鳥原社人岩松治太夫書上ニ、八幡社内五畝二十歩御除地、外ニ田四畝歩村除、畠六畝廿六歩屋敷年貢地
末社熊野権現稲種公相殿一社、神明社、源太夫社此本社勧請ノ年紀ハ不伝、再営ハ正保四年ニアリ、山神境内一畝六歩年貢地社ナシ
当村社人菊田助太夫書上ニ、八劔社内七段六畝十四歩前々除、外ニ田九畝步村除
末社九社明神社、天神社、牛頭天王社、八幡社、白山権現社、浅間社、源太夫社、此本社勧請年紀ハ不知、
再建ハ永禄元年ニアリ
同村弁天社内九歩御除地、山神社三区社ナシ、境内一段一畝四步村除
府志八劔祠、在中品野村、伝言有長江入道者建此社、永禄元戊午年松平監物重修之
摂社八幡祠、白山祠、神明祠、浅間祠、天神祠、源太夫祠又社外有山神稲荷弁天祠
「末社熊野権現稲種公相殿一社、神明社、源太夫社此本社勧請ノ年紀ハ不伝、再営ハ正保四年ニアリ、山神境内一畝六歩年貢地社ナシ」
熊野権現と稲種公の相殿があるといっている。
稲種公は建稲種(タケイナダネ)のことで、乎止与(オトヨ)の子であり、宮簀媛(ミヤズヒメ)の兄とされる人物だ。
熱田社縁起などの尾張側の伝承では日本武尊(ヤマトタケル)の東征に副将軍として付き従い、帰り道で駿河の海に落ちて死んだと伝えられている。
つまり、八幡社にも尾張氏が関わっているということだ。
熊野権現は”雲”に関わる古い神社で、これと建稲種が一緒に祀られているということにも意味がある。
源太夫の祭神を江戸時代の人がどう認識していたのかは分からないのだけど、熱田にあった源太夫社は現在、上知我麻神社と名を変えて乎止与を祀っている。
末社として神明があったことはなんとなく意外な感じもする。
”再営”とあるので、いったん途絶えていたものを復活させたというニュアンスにも取れるのだけど、正保四年は江戸時代前期の1647年だ。
山神については江戸時代後期のこの頃までに社がなくなって境内も年貢地になっていたようだ。
『尾張志』(1844年)は上にも書いたように「八幡社 中品野村の支邑鳥原村にあり」といっている。
ウィキペディアの鳥原町のページに、「鳥原橋近くの秋葉神社跡地に鳥原会館があり、石仏も集められている」とあるので、鳥原橋(地図)あたりに秋葉社があったようだ。
ここは鳥原集落の入り口に当たる。
浄源寺のこと
岩屋堂入り口近くにある浄源寺が好きで何度も訪れている。
春先に裏庭で咲く可憐なセリバオウレンのことを地元の野草好きなら知っているんじゃないだろうか。貴重な花で他ではなかなか見られないこともあって、私も何年か続けて通ったことがある。撮影するのがとても難しい花でもある。
セリバオウレンもいいのだけど、ここはなんといっても紅葉の隠れ名所として知る人ぞ知る撮影スポットだ。
11月下旬の見頃よりも、紅葉終盤の12月初旬に訪れると、イチョウのモミジ落ち葉絨毯を撮ることができる。
このタイミングを見極めるのが困難で、ジャストタイミングに当たるのは稀だ。
運が悪いと(撮影者にとって)お寺の人が掃き掃除をした後ということにもなる。
もう10年くらい前になるのだけど、この風景が撮りたくて毎年出向いていっていた。
浄源寺の公式サイトはこんな縁起を載せている。
<開基>
当山九世自得契虔(じとくかいけん)和尚が著された『淨源歴代之序(じょうげんれきだいのじょ)』によれば、聖武天皇の代(724~48)に菩薩僧行基(ぼさつそうぎょうき)が当地に来て、草庵(そうあん)を結び(一説では神亀二年〈725〉と)、天皇の病気平穏を祈念して仏像を三体彫刻された。
これを石室に安置し、岩屋山薬師堂と称し天台宗に属していたという。現在は当寺の奥の院となっている。<開山>
開基(かいき)から七百余年後の永享二年(1430)、雲興寺二世天先祖命禅師(うんこうじにせてんせんそみょうぜんじ)は、当山を天台宗より曹洞宗に帰させ、五百米下流に現寺号の堂宇を建立し行基作の白衣観世音菩薩(びゃくえかんぜおんぼさつ)を本尊として安置したのが淨源寺の開山である。
師は、七才にして毛詩左伝(もうしさでん)(詩経・春秋)をよむは師訓に預からずいう逸才で天鷹和尚(てんようおしょう)に従って雲興寺開山に努力されたが、当山における資料は乏しく現存する「南無天満大自在天神(なむてんまんじざいてんじん)」の名号は天先和尚の真筆であり、玄関前に有る天先梅(てんせんばい)は開山手植えとされており、示寂(じじゃく)も当山で長禄二年(1458)九十二才であった。
行基がこの地にやってきて聖武天皇の病気平癒のために薬師如来像などを彫って安置した岩屋薬師堂を開基とし、室町時代中期の1430年(永享2年)に雲興寺の僧だった天先祖命禅師が現在地に堂宇を建てたことを開山とするということだ。
自得契虔というのがいつの時代か分からないのだけど九世となっているから戦国時代か江戸時代といったところか。
古い記録がどこまで残っていたのかは不明ながら、こうした記録がある(あった)ことは確かなようで、725年に行基が云々という話はこれが元ネタなのかもしれない。
ただ、これは上で検証したようにそのまま信じるのは少し無理があるように思う。
『寛文村々覚書』は、
「禅宗 赤津村雲興寺末寺 洞谷山浄源寺
寺内三反壱畝歩 備前検除
外ニ寺山 三町七反五畝歩 当村山之内
壱町五反歩 下品野村山之内」
とあり、備前検除となっているのが少し引っ掛かる。
これは1608年の備前検地のときに除地になったということで、それ以前からの除地(前々除)ではなかったということだ。
『尾張徇行記』は、「浄源寺 此寺草創ノ由来不詳、岩屋薬師境内一畝歩年貢地、庚申堂境内五歩年貢地、共ニ草創ノ年紀ハ不知」と書いている。
草創や由来は不明で、岩屋薬師堂も、他も年貢地になっている。
このあたりの事情もよく分からない。
『尾張志』は、「浄源寺 中品野村にありて洞谷山といひて右同(雲興寺)末也永享二庚戌年天先和尚の開基にて寺寶天滿大自在天神の名号は即和尚の眞筆なり」といっている。
これは寺伝に近いもので、永享2年(1430年)に天先和尚の開基としている。
いずれも行基どうこうという話は出てこない。
今昔マップで辿る鳥原の変遷
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)と現在の地図を比較しながらあらためて鳥原の位置を確認してみる。
中品野村の本郷に当たる郷嶋があったのが現在の品野町8丁目で、水野川と信州街道の南の八剣社がある中品野町にも小さな集落があったことが分かる。
鳥原の集落はそれより南東で、東から流れてきた鳥原川が丘陵を削ってできた沖積地の入り口に位置している。
集落があったのは鳥原川の北側で、丘陵地の縁に沿って家が並んでいたようだ。
八幡は集落から少し山へ入っていった高台に鎮座する。
鳥原川の周辺を中心に平地部分を田んぼにしていたのも見て取れる。
地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛んでしまうのだけど、そこから先もあまり大きな変化は見られない。
少しずつ道路ができて、少しずつ家が増えていったくらいだ。
大きく様変わりしたのは、鳥原を東西に分断するように通された東海環状自動車道ができたときだ。
私が何十年かぶりくらいで岩屋堂を訪れたのは2005年だったかその前だったか覚えていないのだけど、気がついたら存在感がありすぎる高架道路がそこに出現していた。
愛知県豊田市と三重県桑名市を結ぶ環状道路で、現在進行形で工事が行われている道だ。
豊田東JCTと美濃関JCTの間が開通したのが2005年3月だから、その前後を見ている気がするのだけどどうだろう。
2005年は長久手の青少年公園(現モリコロパーク)で愛地球博が行われた年で、そのことと道路建設は連動していたかもしれない。
岩屋堂もここ20年でそれなりに変化した。
昭和の観光地のなれの果て感丸出しだったのが、新しい店もできたりしてちょこっとだけ小洒落た風になった。
入り口近くにあった市民プールがなくなったときは驚いた。
昭和もだんだん遠くなる。
鳥とは何か
最初の方で鳥原の鳥とは何かという問題提起だけして考察はしなかった。
上手く説明できたらしないのだけど、私には難しい。
尾張の伝承で、愛知を鳥にたとえる話がある。
尾張と三河で二羽の鳥で二羽鳥らしい。
この鳥は鳩という。
しかし、町中にいる鳩ではなく鳳凰のことという。
このあたりまでいくと私の理解を超えてついていけなくなる。
鳩は九の鳥と書くので九鳥。
鳳凰の部首(かまえ)は”つくえ/かぜかんむり”で、これは九を示している。
その中に”一”の”鳥”と”白”の”王”がいる。
天の白の王が天皇であり、天白王だ。
鳩が八幡の使いとされるのは、このあたりのことが関わっているようだ。
鳥は天皇や皇室ともゆかりが深い。
桃太郎のお供は猿、犬、雉(キジ)で、これは当然ながら何かの象徴だ。
猿といえば猿田彦だったり、犬といえば愛知では犬山があって桃太郎神社もある。
雉は日本の国鳥に指定されている。
『古事記』の中では国譲りのために葦原中国へ派遣した天若日子(アメノワカヒコ)が戻ってこないということで、鳴女という名の雉が派遣され、天若日子はそれを射殺してしまい、そのことで天若日子も命を落とすことになる。
八幡神とされる応神天皇の皇子の仁徳天皇は大雀(オオサザキ)の名を持ち、日本武尊は白鳥になった。カムヤマトイワレビコ(神武天皇)がピンチのときに助けたのは八咫烏だ。他にも日本神話の中にたくさんの鳥が象徴として登場する。
鳥原の鳥が具体的に何を指しているのかは分からないけど、ここが鳥の原だったということはいえるのではないかと思う。
鳥は一族のことなのか、場所のことなのか、もっと別の何かの象徴なのか。
作成日 2024.12.4