多度であった必然とは
読み方 | たど-じんじゃ(ひろくてちょう) |
所在地 | 瀬戸市広久手町 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明(天津彦根命?) |
アクセス | 愛知環状鉄道「山口駅」から徒歩約45分 |
駐車場 | なし(海上の森の駐車場あり) |
webサイト | |
例祭・その他 | 多度祭 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 海上の森にある多度神社 |
どうして多度神だったのだろうという素朴な疑問
瀬戸市の海上の森(かいしょのもり)は2005年の愛知万博(愛地球博)のときに広く一般に知られるようになった。
当初、この森を会場とする案が出ていて、それに対して自然を破壊するとして反対運動が起きた。
いろいろなことがあったのだけど、最終的には海上の森はやめて長久手市の青少年公園が会場となり、海上の森は守られることになった。
私も万博が終わって以降、写真を撮るために足繁く通うことになる。100回まではいかないけど50回以上は行ったと思う。
それくらいこの森が好きだし、写真の被写体として魅力的ということが言える。
その海上の森入り口から15分ほど歩いたところにひっそりと小さな社が祀られている。
道沿いから少し入ったところなので、海上の森にハイキングに訪れた人でも気づかないくらいかもしれない。
入り口に「多度神社 入り口」という案内の板が立っているから、行ったことはなくても存在だけは知っているだろうか。
私も一度か二度しか行ったことがなくて、そのときの写真を探したけど見つけることができなかった。
道沿いならついでということがあっても、ここは明確な意思を持って向かわないと参拝できないところにある。
この社がここで紹介する多度神社なのだけど、どうして海上の人たちは多度の神を祀ったのだろう。
この疑問は何か裏があるとか怪しいとかではなく、どうしてだったんだろうなという素朴な疑問だ。
多度社というと、三重県桑名市の多度大社(公式サイト)がよく知られている。
近年では上げ馬神事が動物虐待ではないかという指摘を受けてよくニュースにもなっているので東海地方以外でも広く認知されているのではないかと思う。
伊勢国二宮で北伊勢の総鎮守ともされる多度大社は古い由緒と格式を持つ神社ということで、多度神の大本と考える人も多いだろう。
しかし、私は多度神の発祥や本拠は尾張だと思っている(そうだと聞いている)。
ただ、尾張の中心地である名古屋に多度社は一社もない。過去にはあったかもしれないけど、現存していない。
だったら尾張発祥などあり得ないと思うだろうけど、名古屋の周辺部には何社か多度社がある。尾張旭市新居の多度神社や長久手市前熊の多度社、この瀬戸市広久手の多度神社がそうだ。
尾張の中心から見て鬼門に当たる東北に多度神が集中的に祀られているのは偶然とは思えない。
多度社はたいていどこでも天津彦根命(アマツヒコネ)を祀っている。
これは天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(ウケヒ)で生まれた五男のうちの一人と、日本神話はいう。
天津彦根は字を見れば個人名ではないことが分かる。
分解すれば、天の根の彦ということになる。
つまり、高天原の根国の王子ということだ。
多度神は根国の王子のことだとすると、尾張旭から長久手、瀬戸のあたりは根国だったということではないのか。
実際、このあたりは根の付く地名が多い。
海上の森にある多度社は、もしかすると多度神発祥の地かもしれないと個人的には思っている。
この多度社については史料もほとんどなく、情報も少ないで、この項では考察中心の内容となる。
今のところまだ着地点は見えないけど、つらつらと考えながら進めていくことにしよう。
海上の里についての史料と情報
ここで海上の里に関する史料や情報をまとめておくことにしたい。
ただ、情報量としては多くないので、書けることはあまりない。
海上の森と呼ばれているエリアは、江戸時代は山口村に属していた。
それ以前は上菱野村と呼ばれていたようだ。
江戸時代前期の1670年代の『寛文村々覚書』を見ると、家数52軒、村人435人、馬33疋なので、そこそこの規模の村だったことが分かる。
江戸時代以前からの神社が9社もあったことからしても、歴史の古さを感じさせる。
神社の中に多度権現もあって、これが現在の多度神社だと思うのだけど、多度社の奥宮というのもあったらしくて、断言はできない(後述)。
江戸時代後期の1822年に完成した『尾張徇行記』には、海上についての記述がある。
海上洞 府志日、在山口村東、又名海上林、山勢峻巍 岩石甚多、山腹有民家、然山径嶮岨、少人往来、林中多栗樹、常禁斧斤、其東高嶺日観物嶺、土人曰、是武田信玄置戌之古塁也
この「府志曰く」というのは江戸時代中期の1752年にまとめられた尾張藩の地誌である『張州府志』のことで、それによると海上洞または海上林と呼んでいたことが分かる。
岩がゴロゴロ転がる険しい山地のようなイメージだったようで、山腹に何人か住んでいて栗が多く、木を伐ることは禁じられているといっている。
栗の木が多いというのはちょっと意外で、今はそれほど多くないと思う。むしろ杉や檜が多く、それはたぶん明治以降に植樹されたためだろう。
「観物嶺」というのは今の物見山(ものみやま)のことで、地元ではここに武田信玄が築いた土塁があるという伝承が伝えられているということだ。
そのあたりについては山口の八幡社(八幡町)のところで書いた。
『張州府志』とは別に『尾張徇行記』が書いていることもある。
支邑ヲ海上洞ト云、是海上洞御林ノ麓ニアリ、本郷ヨリ十八町ホト隔山奥ニアリ、倭屋十三四戸アリ、叉蒙原四沢ト云所ニモ二戸ホトツツアリ、是ハ共ニ見取所ナリ
海上洞を山口村の支邑(支村)といっており、民家が13、4戸あって、蒙原や四沢にも家が2軒ほどずつあるといっている。
「見取所」の見取というのは、開拓して間もない耕作地や、石高が決まっていない農地のことなので、山口村やその他から海上洞に移り住んだ人たちがいたということかもしれない。
ネットにあった情報によると、江戸時代後期は17、8戸で、明治から大正にかけては23-26戸ほどあったという。
昭和になると、そのうちの1軒、2軒と引き払って山口村などに移り、愛知万博の会場問題が持ち上がった頃に多くが引っ越していったようだ。
資料では平成12年(2000年)に最後の1軒が転出したといっているけど、私が海上の森を頻繁に訪れていた2010年代は数軒あって、田んぼでは米を作っていたし、農作業をしている人の姿もときどき見かけた。
現在は海上の森にあらたに家を建てることは禁じられたようだ。
『尾張名所図会』(1844年)も海上洞について紹介しているのだけど、内容は『尾張徇行記』とほぼ同じだ。
同所の東にあり。岩石多く羅列し、山徑の嶮岨(けんそ)、民家ありといへども世外(せぐわい)の風致(ふうち)あり。林中栗の樹多し。是物見岩の山腹なり。
内容が似通いすぎていて現地取材してないんじゃないかと、ちょっと疑ってしまう。
ただ、「世外の風致あり」という表現はなかなか秀逸で、江戸時代の人間から見ても世俗から離れた場所に映ったのだろう。
”物見岩”についてもなかなか詩的な表現をしている。
同村の東にあり。三ツ岩屹立(きつりつ)し地高く、尾張・三河の山々、及び南の方はるかに蒼海を望み、絶景他にこえたり。
武田信玄の戌卒(じゅそつ)物見(ものみ)せしよしにて、岩石及び山の名に呼び、其東の方の山間則尾三兩國の境なり。
叉山口渓は此邊(このあたり)の山々より出づ。春日井郡矢田川のみなもとなり。
『尾張名所図会』は題名が示すとおり名所案内なので、『尾張殉後記』や『尾張志』よりも魅力が伝わるような表現をしている。
尾張や三河の山々や遙か彼方に蒼い海を望むなんて言われたら自分も行ってみたい! と思う。
ただ、現在の海上の森は木々が生い茂っていて物見山に登ってもそんな景色は見られない。江戸時代は海がもっと近かったこともあるけど、視界は開けていたんだろうか。
多度神社についての少ない情報
海上の森にある多度神社についての情報は少ない。
『寛文村々覚書』にある多度権現が今の多度神社を指すのであれば、前々除(まえまえよけ)になっているので1608年の備前検地以前からあったのは間違いない。
『尾張徇行記』は「祠官丹羽喜太夫書上」として「多度祠境内松林六反九畝」としている。
六反といわれても感覚的によく分からないのだけど、1反が300坪なので1,800坪+9畝(270坪)で2,000坪となると、当時はかなり広かったことが分かる。
現在は境内地だけなら家一件分くらいなので数百坪もないと思う。
『尾張徇行記』は多度山神を山口神祠の摂社といっているので、江戸時代すでに山口八幡の摂社になっていたようだ。
『愛知縣神社名鑑』は山口八幡社(八幡町)のところで、「大正元年12月12日字海上344番地の多度社と字南山60番地の神明社の両社を合祀した」と書いている。
字海上344番地が今の社地なのかどうかもよく分からないのだけど、大正元年に合祀された多度社と今残っている多度神社との関係が掴めない。
いったん合祀したのを後にあらためて復活させたのか、合祀はしたけど元社も残っていたのか、それとももともと別の多度社だったのか。
更に混乱するのが『海上の森奇譚』(山田みち江)の記述だ。
二股道の右へ行くと物見山山頂で、左の峰の頂に多度神社奥の院があると書いている。
多度神社奥の院というのが里の多度神社とは別にあるということだろうか。
このあたりの事情や経緯については、機会があれば山田さんに話をうかがいたいと思っている。
『海上の森奇譚』について
山田みち江氏が書かれた『海上の森奇譚』という書がある。
1から3まで出ていて、全部読ませていただいた。
ここに書かれた話を丸々信じるのは難しいのだけど、ある程度は本当ではないかと思っている。
というのも、他から聞いている話と同じだったり矛盾しないからだ。
海上の森が聖地で卑弥呼や聖徳太子がここにいたという話はなんとも判断がつかないのだけど、屋戸(やと)に日本武尊を祀る吉野山天戸八剣宮があって、祭礼では山口の八幡を出発して海上の森の多度神社や物見山を通って猿投山へ向かい、猿投神社に参拝した祭りが今この地域に伝わっている警固祭り(オマント)の原形という話などはその通りではないかと思う。
現在の山田さんの住居兼アトリエの陶龍寺の場所に多度神社と御嶽神社と八百萬神社の三社混合神社があったというのも事実だろう。
霊能者にいろいろな霊が降りてきて語り伝えたといったあたりは拒絶反応を起こす人も多いだろうけど、山田三郎泰親が聖徳太子であり天智天皇でもあるという話は個人的に興味深いと感じている。
時代が全然違うにしても、この話には何か大事なことが秘められているように思う。
上菱野(かみひしの)の”上”は”天”を意味していて、海上の物見山を”△”で表し、これは日本の天竺であり、インドの天竺は”▽”で表し、二つを合わせると”◇”、つまり”菱”になるというのも惹かれる話だ。
これは別のところでも同じようなことを聞いているのだけど、日本側は濁らない”テンチク”で、天竹とも書き、インドは濁る”テンジク”なのだという。
”竹”は尾張のイサナキ系で、武田信玄の武田にも”竹”が隠されている。
もう一つ、△と▽を合わせると六芒星になるというのも重要な指摘で、六芒星は”籠目”ともいう。
籠目は竹で作るカゴの模様であり、竹かんむりに龍と書く。
元伊勢を称する京都の籠神社(このじんじゃ/公式サイト)もこの字を当てている。
籠神社の社家を長く務めている海部氏(あまべ)は、天(アメ)の部民から来ている。
山田さんいわく、伊勢の神宮の元宮は猿投山の東にあり、海上の物見山は熱田社(熱田神宮)の元宮でもあるという。
熱田の八剣宮も、もともとは海上の森の入り口近くにあった八剣宮を移したものなのだとか。
ほとんどの人はとても信じられないだろうけど、個人的にこれは重要な証言だと思っている。
山田氏は言うまでもなく山田庄の主の家柄で、山田家に嫁ぐ前の旧姓は加藤だったそうだ。
この加藤家も土地持ちの旧家だったというから藤原氏の流れを汲む家柄かもしれない。
山田は尾張の源氏であり、武田信玄の武田家も源氏で、山田は尾張氏の一族でもある。
熱田の尾張氏を救ったのが藤原南家で、藤原季範が熱田社の大宮司を引き継いだことで熱田尾張氏は助けられたということもあった。
この藤原季範の孫が源頼朝で、1221年の承久の乱で敗れた山田重忠が逃げ延びて晩年を菱野で過ごしたという話があり、重忠のひ孫に当たる泰親が菱野の地頭に任じられたというのも、こういうつながりを知っていればなるほどそういうことかと納得する。
織田信長は武田信玄と敵対したときに海上の森の城を焼き尽くしたと著書にあるけど、それは充分にある得ることで、事実であれば信長もそれだけこの地を重視していたということだろう。
秀吉はこのあたりの尾張の歴史を知っていたようで、かなり有効に利用した感がある。
馬印に瓢箪を用いたこともそうだし、豊(トヨ)の臣(オミ)を名乗ったということは、秀吉がやろうとしたのは尾張と三河の統合だったのだろうと思う。
秀吉の近くには加藤家の加藤清正もいた。
多度であった理由は
この項を書きながら、どうして多度神だったのだろうとずっと考えていたのだけど、答えは出ないままだった。
海上の森や物見山が日本武尊ゆかりの地だから八剣宮を祀ったというのはなんとなく分かる。
でも多度神だった理由はよく分からない。
天津彦根は表向きとして、本当は誰を祀っていたのか?
これはもう考えても分かりそうにないので教えてもらうしかない。
何か分かれば追記したいと思う。
作成日 2024.9.16