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多度神社(新居)

どの時代の水野氏?

読み方たど-じんじゃ(あらい)
所在地尾張旭市新居町西浦3182番地 地図
創建年康安元年(1361年)または応永年中(1394-1428年)
旧社格・等級等旧指定村社・十等級
祭神天津彦根命(アマツヒコネ)
豊受毘売命(トヨウケ)
倭建命(ヤマトタケル)
天照皇大神(アマテラス)
大山祇命(オオヤマツミ)
建御名方命(タケミナカタ)
金山比古命(カナヤマヒコ)
菊理比売命(キクリヒメ)
アクセス名鉄瀬戸線「尾張旭駅」から徒歩約19分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月17日(変更している可能性あり)
特殊神事 御くわ祭 7月22日、雲霞祭 7月29日
棒の手(無二流)
神紋五七桐紋
オススメ度
ブログ記事又太郎良春さんはアマツヒコネがお好き?
あらためて水野良春について紹介したい

創建者は誰だったのか?

 江戸時代は新居村(あらいむら)の氏神だったのは間違いない。
 ただ、創建年についてはいくつか説があってはっきりしない。

 まず、新居村を開拓したとされる水野又太郎良春(みずのまたたろうよしはる)が康安元年(1361年)に伊勢から多度権現を勧請して祀ったという話がある。
 康安元年は南北時代の中期、室町時代でいうと前期に当たる。
 伊勢の多度権現というのは、三重県桑名市にある多度大社(公式サイト)のことだろう。
 水野良春については守山区の勝手社のページに書いたのだけど、尾張旭市にとっての恩人のような人なので、あらためて書いてみたいと思う。

水野良春と新居村

 水野氏は桓武平氏高望流(かんむへいしたかもちりゅう)の平良兼(たいらのよしかね)の後裔が尾張国山田郡水野郷(瀬戸市)に住んだことで水野氏を称するようになったとされる。
 良春の曾祖父の基家の代には志段味郷(守山区)を本拠としていたようだ。
 この水野氏は、1221年に起きた承久の乱では山田重忠らとともに一族を率いて朝廷側で戦っている。
 承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時(ほうじょうやすとき)を討伐しようとして失敗した乱なのだけど、源氏と平氏が複雑に絡み合っている。
 源頼朝以来の源氏が三代で途絶えた後、実権は執権の北条氏が握ることになる。
 この北条氏は桓武平氏の平直方を祖とすると自称する平氏で(否定する説もある)、尾張の水野氏は同じ平氏なのに朝廷側で戦っているし、山田重忠は源氏だ。
 平安末の源平合戦も、源氏と平氏に別れて戦っていたわけではなくて、源氏の嫡流家と平氏の中の伊勢平氏が戦っていただけだった。なので、源氏も平氏も入り交じっている。

 それはともかくとして、結局は朝廷側が敗れ、戦死したり、捕まって処刑されたり、逃げたりすることになる。
 水野氏の中でも戦死者が出たようだけど、どうやら故郷には戻らず、そのまま大和や京に居着くことになったらしい。
 そういう経緯があって、水野良春は吉野生まれとされる。
 生まれた年ははっきりしないものの、1374年(応安7年)に亡くなったことが分かっており、1331年の元弘の乱で吉野金峯山寺(公式サイト)の僧兵団の将として戦っているので、生年は1300年から1310年の間くらいだろうか。
 このときも水野氏は反幕府の朝廷側で戦ったということだ。
 良春の前半生についてはほとんど何も伝わっていないものの、金峯山寺の僧兵団を率いたということは金峯山寺に何かゆかりがあったと考えられる。そこで修行をしたり学んだりしたのかもしれない。
 現在、尾張旭の神社に伝わる”棒の手”は、良春が吉野の修験道から持ち込んだとされる。
 農民の自営の武道だったものが後に儀式化されて神社の祭りなどで奉納されるようになっていった。
 無二流の”無二”は良春の号から来ている。

 良春の後半生の足跡についてはそれなりに伝わっている。
 足利高氏らの活躍で鎌倉幕府を倒すことに成功したのが1333年。
 ここから後醍醐天皇による建武の新政が始まるのだけど、これがすこぶる評判が悪かった。
 最大の功労者だった足利尊氏との対立で後醍醐天皇は京を追われることになる。
 その際、後醍醐天皇は三種の神器を持ち出して吉野にこもった。
 これが1337年のことだ。
 このときから朝廷が2つ並立する南北朝時代となり、それが1392年まで続くことになる。
 水野良春が尾張国山田郡に移った年ははっきりしない。
 新居村の開拓を始めたのがが1361年(康安元年)というから、それより前のことだ。
 後醍醐天皇が亡くなったのは1339年なので、そこがきっかけではない。
 初めは一族の本拠があった志段味に居を構えたようだ。それがどのあたりだったかは定かではない。
 吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神のひとつ勝手明神を勧請して勝手社を建てた話が本当であれば、上志段味ということになるだろうか。
 ただ、勝手社は現在、勝手塚古墳と呼ばれる墳丘上に祀られており、もともとここに祀ったかどうかは分からない。

 新居水野家の「先祖由緒之覚書」に、康安年中(1361-362年)に多度権現を勧請して氏神とするとあるそうだから、水野家にはそういう話が伝わっていたということだ。
 どうして多度権現だったかというと、伊勢の多度神社は平安時代に伊勢平氏が崇敬して守護神としていたからということは考えられる。
 多度神社(多度大社)は『延喜式』神名帳(927年)では名神大社となっており、伊勢国二宮でもあった。

 以上のことを考え合わせると、吉野から志段味に移り、その後、新居を開拓した良春が、村の守護神として平氏ゆかりの多度権現を祀ったというのは充分あり得る話だ。
 しかし、別の話も伝わっているということは、良春創建と決めつけてもいけない。
 寺社の創建はやってもいない有名人がやったことになっている例が多い。

 水野良春が創建したと分かっているのは退養寺(地図)だ。
 多度神社の440メートルほど西に位置している。
 この退養寺は、1368年(応安元年)に良春が弟の報恩陽徳を定光寺から招いて開山したと伝わっている。
 良春は1374年(応安七年)に亡くなって、この寺に葬られているので、これはおそらく間違いない。
 退養寺の守護として愛宕社を祀ったのも良春とされる。
 良春が1361年に多度社から勧請して祀ったというのが事実であれば、退養寺と愛宕社に先だって多度社を建てたことになる。
 そうではなく、多度社は良春より後の時代という話もある。

天正年中?

 良春は亡くなることになる1374年に新居城を築いたという話がある。
 今は城山公園になっている場所だ(お城の姿をした建物は作り物の城山レストラン)。
 しかし、これも本当かどうか分からない。
 1361年に新居の地をあらたに開墾したときに何らかの館は建てただろうから、それを城山城の始まりとすることもできるかもしれない。
 良春から数えて4代(または5代)後の水野雅楽頭宗国が1460年に改築したという話もあるから、新居城の実質的な始まりはこのときとするべきかもしれない。
 この時代に大森村の大森城主尾関氏が新居城に攻め込んできたのを返り討ちにして、逆に大森城を焼き落としたという話が伝わっている。
 遺構はある程度残っていて、現地に行くと城跡の雰囲気は感じられる。

 多度神社のもう一つの創建年説として天正年中というのがある。
 天正は1573から1592年なので、織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代だ(本能寺の変が1582年)。
 当時の新居城城主だった水野雅楽頭平良宗が多度社を祀ったという。
『愛知縣神社名鑑』はこちらの説を採っている。

「創建は天正年中(1573-91)にこの村の城主水野雅楽頭良宗が祭祀したと伝わる。
 延宝9年辛酉(1681)9月28日再建の棟札に水野又太郎平宗長等と記す。
 明治5年、村社に列格、同40年10月26日、供進指定社となる。
 同44年9月17日字鳴鍬の大明神社、字寺田の神明社、字鳴鍬の白山社、字西浦の天道社、山神社、字諏訪南の諏訪社を合祀した。
 大正9年10月、本殿を改築、昭和33年10月15日、弊殿、拝殿を森恒保熱田神宮営繕課長指導により改築、同34年9月26日、伊勢湾台風により拝殿西側半面はぎとらる倒木512本約538石被害。」

『愛知縣神社名鑑』

 しかし、天正年中まで時代が下ってしまうのはどうかという気がする。
 良春が祀った愛宕は退養寺の守護神で、それとは別に新居の守護としての神社も必要だったはずだ。
 勝手明神を屋敷神として祀ったともいわれていて、それは充分あり得ることだ。
 天正年中というのは、本格的な再建か増築だったのではないかと個人的には考えている。

江戸時代の新居村について

 江戸時代の新居村がどんな様子だったかを見てみることにしよう。

『寛文村々覚書』(1670年頃)では以下のようになっている。

家数 百五拾軒 
人数 八百弐拾弐人
馬 七拾疋

社 七ヶ所 内 明神 権現 白山 天道 大明神 諏訪明神 山之神
社内四町弐畝歩 前々除

雨池 九ヶ所 平池 にごり池 長池など

『寛文村々覚書』

 少し分かりづらいのだけど、明神は八劔明神、権現が多度神社を指している。
 前々除になっているので、すべて江戸時代以前からあったということで、この7社の顔ぶれは明治の末まで変わらなかった。

『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。

社七区覚書ニ明神、権現、天道、諏訪明神、白山、大明神、山神 社内四町二段歩前々除、当村祢宜聡太夫与太夫持分

祠官谷口縫之助書上ニ、氏神多度大明神社内東西二町南北一町松林御除
末社 八幡、高家大明神、豊受太神、牛頭天王、香取大明神、天照太神、春日大明神、愛宕大明神、熱田太神、八龍大明神、天神、児護神、一目尊
村内神明社内二段歩、白山社内二段歩、大明神東西一町南北三十間何レモ御除ナリ

府志曰、多度祠、在新居村、応永年中水野又太郎造進之

山伏智見院書上ニ天道社内二段歩前々除、此社勧請ノ年紀ハ不知、再建ハ天正六戌寅年五代大覚院掌之、
境内ニ秋葉堂観音同天神社アリ

 ここで別の創建年説が出てくる。
 ”府志曰く”の”府志”は『張州府志』(1752年)のことで、そこには応永年中に水野又太郎が建てたと書かれているということだ。
 又太郎は代々受け継いだ名前だろうから、初代の又太郎良春のことではない。
 応永年中は室町時代前中期の1394年から1428年に当たる。
 ただ、”造進”という表現を使っているので、これは勧請でも創建でもなく、改築か増築のたぐいだろうと思う。

 多度社を司っていたのは谷口家だったようだ。
 東西200メートル、南北100メートル(東西二町南北一町)の松林が除地(よけち)とあり、境内域は現在の境内と周辺をあわせたくらいでさほど違っていない。
 当時からたくさんの末社があったことが分かる。

 多度神社についてはこうも書いている。

士人水野氏家譜ニ、水野又太郎良春トイヘル者、康安元年丑ノ比志段味村ニ居住セシカ、是ヨリ南ニ当リ平地ノヨキ新田ニナルヘキ所アリトテ、人夫ヲ召ツレ田畑ヲ開墾シ宅地ヲ構ヘリ、(中略)
艮ノ方ニ当レル山林ヲトシテ寺宇ヲ創建シ、安生山退養寺ト号セリ、此ウラ山ニ愛宕ヲ勧請シ、当村鬼門ノ守護神トス、
サレハ良春志段味村ヨリ出テ此新居村ヲ開キケレハ、古ヘハ志段味村ト新居村トノ境入合也、(中略)
又康安年中ニ多度権現ヲ勧請シテ氏神トス、(後略)

『尾張徇行記』

 水野良春の後裔の水野家に伝わる記録として康安元年に志段味から南下してあらたに田畑を開墾して居を構え、退養寺を建てて愛宕を鬼門の守護として、康安年中に多度権現を勧請して氏神としたという話を伝えている。
 これはあくまでも水野家の記録であって、『尾張徇行記』がそう主張しているわけではない。
 とはいえ、新居村を開拓した水野良春の家にそういう話として伝わっているのであれば、それが一番信用できるといえるだろう。

『尾張志』(1844年)はあっさりこう書いている。

「多度社 新居村にあり 応永年中水野又太郎造建す 天道社 神明社 山神ノ社 諏訪社 白山社 八劔社 此六社も新居村にあり」

『尾張志』

 ここでも応永年中に水野又太郎が造建という書き方をしているのだけど、これは『張州府志』をそのまま写しただけだろう。
『尾張志』で一つ気になったのは、新居村を”荒井村”としていることだ。
 新たに居を構えたという意味で新居としたと理解するのが普通だけど、荒れ地を開墾したという意味では荒井村というのもふさわしい気がする。

村絵図と今昔マップに見る新居村

 新居村の絵図については、年代不明のものと嘉永2年(1849年)のものが伝わっている。
 嘉永2年の方は簡略で、年代不明の方が詳しい。

 東西の通りが北と南に二本走っていて、北が今の城山街道、南が瀬戸街道で、当時の道筋がそのまま残っていることが分かる。
 今は中央通りと呼んでいる南北の道もあって、御巡見道とある。
 これは江戸時代に幕府の巡検使が通った道で、北は森林公園を抜けて志段味方面へ、南は稲葉村の一之御前神社の前を取って長久手方面へ向かう。
 この道筋も昔のまま変わっていない。
 村の中心に退養寺があり、少し西にある洞光院は、戦国時代の1558年(永禄元年)に建てられたとされる寺だ。
 退養寺と洞光院の間に”御殿嶋”、”御殿跡”とあり、これが初代の良春の館跡という伝承がある。
 新居城跡については、”古城”ではなく単に”城山”とだけ書かれている。
 山神、神明、秋葉、天道は退養寺周辺にあって、少し離れた南西にスワ(諏訪)、白山、八剣があったことを知ることができる。
 民家は江戸時代の前期で150軒あったくらいだからわりと多く建っていたはずだけど、絵図では満遍なく散らばっていて密集したところはなかったようだ。

 続いて今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 地形的には江戸時代から大きく変化していないものの、民家はおそらく増えただろうと思う。
 今の城山街道沿いを中心に、西大道、東大道に集落の密集地がある。
 江戸時代の村絵図に御殿嶋とか御殿跡とあるあたりの集落が江戸時代の村の中心だっただろうけど、このあたりはあまり発展していない。
 この地図の少し後、明治38年(1905年)に瀬戸と矢田を結ぶ瀬戸自動鉄道が開通している(翌年に大曽根まで延長)。
 これが村のだいぶ南を通ったことで新居村の重心は南へと移動していった。
 その他で目に付くのがため池の多さだ。
 このあたりは丘陵地で農耕のための水の便が悪かった。そのため、新居村を開拓する際にたくさんのため池を掘ったのだろう。
 今も平池や長池、維摩池などが残っているものの、明治まではもっと多くあった。平池も地図で見ると現在の2倍以上の大きさだったことが分かる。
 地図でその後の変遷を辿ると、少しずつ民家が増え、田んぼが減っていったことが見て取れる。
 瀬戸電気鉄道が名古屋鉄道と合併したのが昭和14年(1939年)。
 この名鉄瀬戸線は名古屋駅に乗り入れる計画があったのだけど、戦争で計画が中止になってしまったのが痛かった。
 紆余曲折を経て栄駅まで伸びたのは昭和53年(1978年)のことだ。
 もし、名鉄瀬戸線が名古屋駅に乗り入れていたら、尾張旭市は今よりもっと発展していただろう。
 それがよかったかどうは分からないけど。

個人的な印象というか感触

 結局のところ、この多度神社はいつ誰が建てたの? ということなのだけど、個人的には良春ではなく、その後の世代の誰かだったような気がする。
 上に書いたように、平氏の水野氏と伊勢の多度神社はゆかりが深いから、あらたに開拓した村に氏神として祀ったとしてもおかしくはない。
 ただ、良春は生前に退養寺を建てて愛宕を守護とし、屋敷には勝手明神を祀っていた。
 それ以前に多度権現も祀ったかというとどうなんだろうと思う。
 志段味にいた良春が南下して新居の地の開拓を始めたのが1361年だったとして、死去する1374年までの約15年間でどこまで村作りが進んだか。
 平地とはいえ荒れ地だっただろうから木を伐ったり土地を耕したり、ため池も掘らないといけない。
 良春の代に新居村に完全移住が成ったかといえば、それもちょっと疑問だ。
 多度権現はおそらく雨乞いの神として祀ったのが始まりだっただろう。
 こういったことを考え合わせると、応永年中(1394-1428年)の勧請というのが妥当に思える。
 良春の孫とかそれくらいの代だろうか。 

天津彦根と多度

 多度神社の祭神は天津彦根命(アマツヒコネ)、豊受毘売命(トヨウケ)、倭建命(ヤマトタケル)、天照皇大神(アマテラス)、大山祇命(オオヤマツミ)、建御名方命(タケミナカタ)、金山比古命(カナヤマヒコ)、菊理比売命(キクリヒメ)となっている。
 数が多いのは明治の末に村の神社を全部合祀したためで、もともとの祭神は天津彦根命だ。
 どうして天津彦根なんだろう、という素朴な疑問を抱く。
 多度大社が天津彦根を祀っているからそうなのだろうけど、じゃあ、なんで多度大社は天津彦根なのか、ということだ。

 多度大社の社伝では雄略天皇時代(5世紀後半か)に創建されたという話を伝えているのだけど、もっとずっと古くから多度山をご神体とする信仰があったのは間違いない。古い磐座の跡なども見つかっている。
 多度山は養老山脈の南にある標高403メートルの山で、現住所でいうと三重県桑名市と岐阜県海津市にまたがっている。
 養老というと養老の滝が有名で、この地を訪れた元正天皇が泉水を賞賛して元号を養老に改めたという話も知られている。
 元正天皇といえば『日本書紀』(『日本紀』)が奏上されたときの天皇で、『日本書紀』成立の720年は養老4年に当たる。
『日本書紀』と元正天皇と養老が結びつけられた背景には何かありそうな気もする。

 多度山の”多度”の語源や由来についてはよく分からない。
 字はおそらく当て字で、”たど”または”たと”という音が何かを意味しているのだと思う。
 これはたぶん信じてもらえないと思うのだけど、瀬戸市の海上の森(かいしょのもり)の入り口近くに小さな多度社があって、そこが多度大社の元社という話を聞いている。
 多度大社の社家(宮司)も訪れるというから、まったくあり得ないことではないかもしれない。
 だとすれば、”たど”のルーツは尾張にあるのではないか。

 多度大社は伊勢の神宮(公式サイト)ともつながっている。
「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」という俗謡を知っている人もいると思う。
 一般的な説明としては、多度神社で祀られている天津彦根は伊勢の天照大御神の息子だからというのだけど、天照大御神と素戔嗚尊(スサノオ)との誓約(うけひ)で生まれたとされるのは五男三女神で、他の子を祀る神社にはそんな話はないので、多度と伊勢はもっと別のところでつながっていると考えるべきだ。
 その裏つながりが尾張や尾張氏ではないかと思う。
 多度大社(多度神社も)の神紋は五七桐紋で、これは尾張氏系とも考えられる。桐紋を使うところは多いのでそう決めつけることはできないのだけど、熱田神宮公式サイト)の神紋の五七桐竹紋は、五七桐と竹笹が組み合わさったものとなっている。
 多度と尾張のつながりでいうと、小串和夫(おぐしかずお)氏が1994年から2018年まで熱田神宮の宮司を務めていた。
 この小串家というのは古くからの多度神社(多度大社)の社家で、その家の神職が熱田神宮の宮司になったのは偶然ではない(小串和夫氏は熱田神宮の前に多度大社の宮司だった)。

 尾張氏家系図を見ると記紀が伝える誓約とは大きく違っていて戸惑う。
 アマツヒコネを義貴として、大海祇(オオワタツミ)直系の長子としている。
 大海祇直系の八重代姫とムスヒ一族の禍ツ日善也(速玉男)との間の子で、下の兄弟に忍穂耳(オシホミミ)、天穂日(アメノホヒ)、イチキシマヒメ(市杵嶋姫)が書かれている。
 これをどう理解すればいいのかは分からないのだけど、イサナキ・イサナミの大山祇系と、タカミムスヒの大綿祇系とは別の第三勢力的な大海祇系の子が山祇と綿祇の家の養子になったということかもしれない。
 それでいうと、速玉は熊野、穂日は出雲、忍穂耳は天皇家、天津彦根が尾張ならびに伊勢の本家直系ということになるだろうか。
 誓約は要するに養子縁組のことで、このあたりの関係は複雑で難しい。皆親戚といってしまえばそうだ。

 天津彦根についていうと、”天”の”彦”の”根”という意味になる。
『古事記』は”天津日子根”としていて、”天”の”日”の”子”の”根”とも解釈できる。
 根は”根っこ”とか”根本”という意味とすると、本家の跡取りにふさわしい名を与えられていることになる。
 記紀は具体的な活躍は何も書いていないものの、『新撰姓氏録』(815年)には天津彦根の後裔を自認する一族がたくさん載っているので、それだけ重要な位置にいた人物ということがうかがえる。
 多度大社だけでなく、桑名宗鎮守の桑名神社(桑名宗社/公式サイト)の祭神も天津彦根命となっていることからすると、北伊勢一体を治めていたのが天津彦根の後裔一族だったと考えてよさそうだ。
 彦根城で知られる彦根の地名は、天津彦根ではなく兄弟神とされる活津彦根(イクツヒコネ)から来ているとされる。
 ただ、天津彦根と活津彦根はおそらく兄弟ではない。
 尾張氏家系図ではイクツヒコネを”住吉”として、八事酒解男と熱田姫との間の子とする。
 こちらはイサナキ・イサナミ系の本家直系ということだ。
 住吉大社(公式サイト)の社家を長く務めた津守氏は尾張氏一族として知られる家で、住吉大社の現在の神紋は花菱紋となっているのだけど、もともとは五三桐だったのではないかと思う。
 花菱紋は伊勢の神宮の神紋であり、出雲大社は二重亀甲剣花菱紋なので、このへんは全部つながっている。

 天津彦根の子とされる天目一箇神(アメノマヒトツ)についても興味深いところではあるのだけど、書くと長くなるのでここではやめておく。
 神様事典の天目一箇神の項に書いたので、よかった読んでみてください。
 多度大社では別宮の一目連神社で天目一箇神を祀っている。

水野又太郎良春と天津彦根

 名鉄瀬戸線の「尾張旭駅」前(地図)に、馬に乗った武将の像がある。
 興味がない人は、そんなものあったけ? という感じで通り過ぎてるだろうし、あれが水野又太郎良春の像だと知っている人でも水野良春について詳しく語れる人は少ないと思う。
 でも、尾張旭市民であれば、南北朝時代の南朝の武士で、新居村を開拓した人くらいの知識は持っておいていいと思う。
 尾張旭市ゆかりの有名人としては、毛受家照(めんじゅいえてる/勝照とも)がいるのだけど、こちらは更にマイナーなので戦国ファンくらいしか知らない。
 良春の4世孫で(異説あり)、稲葉村に生まれて柴田勝家の小姓として仕えて名を挙げた武将だ。
 尾張旭市文化会館の前に銅像があるのだけど、こちらは知らない人が多いだろう。

 毛受さんはともかくとして、個人的に水野良春にはなんとなく親近感を抱いていて、退養寺の裏手にある良春と一族の墓も参ったし、ブログ「現身日和」にも書いたことがある。

 あらためて水野良春のことを紹介したい

 水野良春についてここで詳しく書くのはやめておくけど、水野良春が実際に天津彦根を祀ったとしたら、自分の家の祖だったからかもしれない。
 上にも書いたように、多度と尾張は確実につながっている。
 それだけでなく、水野と尾張にも深い関わりがある。
 瀬戸市の水野にある金神社(かねじんじゃ/公式サイト)で祀る尾張金連(おわりのかねのむらじ)は尾張氏直系の人物(十五世孫とも)で、そのことからしても水野の開拓は尾張氏が行ったと考えられる。
 良春の祖先がその水野に住んだことで水野を名乗ったという話が本当であれば、良春やその一族はそのあたりの歴史を聞いて知っていただろう。
 自分の家の祖は天津彦根だと聞いていたのかもしれない。
 あるいは、この天津彦根は若彦とも呼ばれた天火明(アメノホアカリ)のこととも考えられる。
 そのあたりのことを考えると、歴史が頭の中でぐるぐる回ってとりとめがなくなるのだけど、いずれにしても歴史は思いがけないところでつながっていて、糸を辿っていくと意外なところに行き着いたりする。


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