
裕福寺=伊福の可能性を探る
読み方 | ふじせんげん-じんじゃ(ゆうふくじむら) |
所在地 | 愛知郡東郷町春木狐塚3801-1 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・五等級 |
祭神 | 木花佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ) 素盞嗚尊(スサノオ) 大物主命(オオモノヌシ) 崇徳天皇(すとくてんのう) |
アクセス | 名鉄バス「裕福寺」より徒歩約13分 |
駐車場 | あり |
webサイト | webサイト |
例祭・その他 | 7月第一日曜日(旧7月8日) / 授与所あり/社人常駐 |
神紋 | 十六弁菊紋(?) 冨士山紋(?) |
オススメ度 | ** |
ブログ記事 | 愛知県東郷町の富士浅間神社はなかなか |
伊福神社?
日進市の神社を巡っているとき、祭礼などは富士浅間神社までお問い合わせくださいという看板を何度も見かけたので、ここが東郷町の中心神社なのだろういう認識はあった。
ただ、それ以上の予備知識を持たないまま出向いて、境内の由緒書を読んで驚くことになった。そこにはこんなことが書かれている。
式内社 富士浅間神社
当神社は、古名を「伊福神社」と言う。
御鎮座の年代は不詳であるが、西暦九二五年に書かれた「延喜式」と言う書物に早くもその名が見える事より、少なくとも1000年以上の歴史を持つ近最古の神社である。
中世、祐福寺の奥の院として富士山権現を勧請し、雨来福の神、子供の守り神として遠くの地方よりも参拝者が多い。
『延喜式』神名帳(925年完成、927年成立)に載る愛知郡伊福神社はうちですよと言っている。
言い切っているので何らかの根拠があるのだろうけど、わりと大胆な宣言だ。
伊福神社は江戸時代にはすでに失われていてどこにあったか分からなくなっていた。
昭和区伊勝町の伊勝八幡宮や緑区鳴海町の熊野社などが論社とされるも、どちらも決定打には欠けるようで、東郷町の富士浅間神社も論社の一つとして挙がっている。
北名古屋市宇福寺天神の天神社も論社とされているのだけど、さすがにあの場所を愛知郡とするのは無理がありそうだ。
実際に東郷町祐福寺の富士浅間神社が伊福神社の可能性があるのかなのだけど、そのへんの考察は後回しにして、まずは祐福寺村について見ていくことにする。
裕福寺は伊福から?
津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で祐福寺村についてこう書いている。
祐福寺村 イウフクジ
奮は部田村の内なり
【近藤利昌日】 祐福寺の寺領あるより呼
もともとは南の部田村(へたむら)の村域で、祐福寺の寺領があるから祐福寺村になったといっている。
部田村については「此村に祐福寺といふ淨土宗西山派の寺あり嘉曆元年賢良上人開基といふ御黑印高四十石」とする。
ここでは祐福寺が伊福から来ている云々といったことは書いていない。
コトバンクは『日本歴史地名大系』(平凡社)を引用して以下のように書いている。
祐福寺村
村名は村内にある祐福寺に由来するが、「延喜式」神名帳の愛知郡に「伊副神社」、尾張国神名帳に「伊副天神」と記す。
「本国神名帳集説」に「仙覚法師が万葉集抄に引たる尾張風土記に伊副村とあるは此村の事なるべし、村名を寺号とせしが、其後、寺号を村名に呼ぶ例諸国に多し」とあって、初めの伊副(いふく)が祐福に転訛したとも考えられる。
明応五年(一四九六)足利義澄の御教書(祐福寺文書)には「傍士(示)本祐福寺」、元和六年(一六二〇)の徳川義利(義直)黒印状には「部田村之内四十石祐福寺領云々」、「尾張名所図会」にも「部田村祐福寺」などとあり、「尾張志」には「祐福寺再建(中略)の頃は祐福寺村はいまだなかりしかば傍尓本村の祐福寺といへり」とあって、当村はその後、祐福寺領を中心として傍示本・部田両村の間に生じたものであろう。
どうやらこの説の元ネタは、天野信景の『本国神名帳集説』(参考本国神名帳集説尾張国)のようで、必ずしも客観的な史料によるものではないということだ。
天野信景がどこかから情報を得たのか、自分で考えただけなのかは分からない。
ただ、『尾張風土記』(逸文)に伊副村が出てくるというなら伊福村があったということで、それが後の祐福寺村の可能性はある。
祐福寺村が村として独立したのがいつなのかについては判然としないのだけど、部田村の祐福寺とされたり傍示本村の祐福寺とされたりしたというから、時代によって境界が変わったのか、村で取り合いになっていたのかもしれない。
ただ、1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』に祐福寺村として載っているから、江戸時代後期とかではないのだろう。
裕福寺について
祐福寺村や富士浅間神社について見る前に、まずは村名ともなった祐福寺がどんな寺なのかを確認しておくことにする。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。
净土宗 京都 光明寺禅林寺 両末寺 玉松山祐福寺
寺内拾町七反余 但、松山共 前々除
護摩堂 観音堂 二重塔 鐘撞堂
大門 小門 十王堂 三門 鎮守堂有之。
寺家六ヶ寺 孝甘院 法正院 受徳院 大悟院 知福院 慶徳院
京都府長岡京市にある西山浄土宗総本山の光明寺は、鎌倉時代初期の1198年(建久9年)に、法然上人の弟子の熊谷蓮生によって建てられたとされる。
同じく西山浄土宗総本山である禅林寺はもっと古く、空海の弟子の真紹僧都が平安時代前期の853年(仁寿3年)に開いたのが始まりと伝わる。
祐福寺は前々除(まえまえよけ)となっているので江戸時代以前創建には違いないものの、具体的な創建年などには触れていない。
『尾張徇行記』(1822年)はいろいろ書いているのだけど、前半部分は『張州府志』(1752年)を引用してこう書いている。
祐福寺 府志、号玉松山、浄土宗属洛陽禅林光明二寺、嘉暦元年丙寅、達智賢了上人創建、縁起略曰、上人姓源村上天皇後胤久我通雄郷男子也、幼在南京、十二歲入園城寺(後略)
嘉暦元年は1326年で、鎌倉時代末期に当たる。後醍醐天皇時代だ。
ここでは達智賢了が創建としているのだけど、これは再建で、実際はもっと古いという話もある。
そのあたりについては以下のように書いている。
当寺草創ハ人王八十二代後鳥羽院ノ御宇建久年中、宇都宮弥三郎頼綱ト云勇吉アリ(室畠山氏女也)右大将頼朝公ニ仕ヘ、上総下総常陸三ヶ国ノ勢ヲ卒シ、羽賀記清加茂一族都合三万七千騎、津国一谷四国八島二発向シ、合戦ニ利ヲ得帰東ノミキリ、常陸下総ヲ給リ宇都宮ニ居城シテ、頼朝公ヨリ頼ノ字ヲ給リ頼綱ト名ノリ、武勇ノ蒼レ世ニ高シ、其後熊谷入道ノ勧メニ依テ在京ノ砌法然上人ノ弟子トナリ、入道シテ名ヲ蓮心ト改對(字ハ実信)東国ニ帰ル、折柄尾張国祐福寺ヲ造立シ、是ヨリ凡ソ百三十余年星霜久クシテ堂舎絶々ニ相続シケル処、人王九十五代後醍醐天王御宇、嘉暦三年ノ比再興ヲナサントイヘトモ、元弘ノ騒乱ヨリ都鄙静カナラズ、依之殿堂難調住僧モ稀ナリ、其後五十一年ヲ経テ、人王百代後円融院御宇康暦元年ニ、二人ノ長者アリ、阿願空明ト云、深ク達智上人ヲ信仰シテ此寺ニ請シ入レ、山主トシテ衆人帰依シ、諸伽藍方ニ全備ス、故達智ヲ開祖トシ以来浄土宗西山派七檀林ノ随一トス
前半部分をまとめると、建久年中(1190-1199年)に頼朝の家臣で源平合戦で活躍した宇都宮弥三郎頼綱が、法然上人(1133-1212年)の弟子となって蓮心という法名となり、東国へ帰る途中で尾張に立ち寄って祐福寺を建てたといったことを書いている。
『尾張志』(1844年)は、「祐福寺村にあり玉松山といふ京都西山光明寺東山禪林寺兩末寺也建久二年宇都宮賴綱入道蓮心の創建造營也」と、創建年を建久2年、つまり1191年といっている。
おそらく寺伝としてそういう話があったのだろうけど、これは年代的に無理がある。
創建者として名が挙がっている宇都宮弥三郎頼綱の生年は1178年(治承2年)とされる。
これが本当であれば、源平合戦のクライマックスの壇ノ浦の戦い(1185年)のときは7歳ということになってしまう。小2だ。そんな子供が「上総下総常陸三ヶ国ノ勢ヲ卒シ、羽賀記清加茂一族都合三万七千騎、津国一谷四国八島二発向シ、合戦ニ利ヲ得」なんてことはあり得ない。
裕福寺を創建したとされる1191年でも13歳でしかない。中2だ。
生まれ年については、1259年(正元元年)に88歳で死去したという史料から逆算すると1172(承安2年)ということになるのだけど、それにしても壇ノ浦の戦いのときは13歳だ。
そんな少年が源平合戦で大活躍していればとっくに物語の登場人物になっているはずだけど、宇都宮頼綱のことはほとんどの人は知らないと思う。
生まれ年が大きく違っているか、祐福寺を創建したのは宇都宮頼綱ではないかのどちらかだろう。
というか、尾張にゆかりが深いとは思えない宇都宮頼綱が国に戻る途中でついでのように寺を建てたというのもちょっと信じがたい。頼朝との縁で一時滞在して庵を結んだといったことならあったかもしれないけど。
そもそも宇都宮頼綱が出家したのは1205年(元久2年)に起きた畠山重忠の乱や牧氏の変に巻き込まれたときに、鎌倉方に許しを請うためだったといわれる。
その後、いったんは京都嵯峨野に引っ込んで隠棲生活を送り、法然の弟子の証空に師事して浄土宗徒となり、再び鎌倉に出仕しつつ、各地の寺社の修繕などを行ったという。
こうした流れの中に尾張国の祐福寺があったかどうか。まったく何もないところにこういう話が出てくるとは思えないから何か関係があったのだろうけど、1191年に宇都宮頼綱が祐福寺を創建したというのは、ちょっと疑わしい。
その後の祐福寺がどうなったかというと、100年以上の歳月が流れる中で荒廃していたものを嘉暦3年(1328年)に再興の話が持ち上がったものの、ほどなくして元弘の乱(1331-1333年)が起きて世の中が騒がしくなり、話はいったん立ち消えになったようだ。
元弘の乱は鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇と鎌倉の北条氏との間で起きた内乱だ。
結局、再興がなったのはそれから50年あまり経った康暦元年(1379年)で、阿願と空明という二人のお金持ちが行った。
二人は達智上人を深く信仰していたため、開祖を達智上人としたと、ここではいっている。
別の話としては、明知城(みょうちじょう)城主の小野田長安と傍示本城城主の加藤時利が美濃国から達智上人を招いて嘉慶3年(1389年)に再興したともされる。
明知城は三河国三好にあった城なので、国を超えて二人の城主が尾張の祐福寺を再興したことになる。達智上人は美濃の人なので、美濃もあわせた三国合作だ。
最盛期には七堂伽藍に加えて25の塔頭を持つ大寺院となり、後小松天皇や後柏原天皇などが勅使を派遣して勅願道場ともなった他、将軍足利義教が東国へ向かう途中に泊まったり、桶狭間の戦いの前日には今川義元が宿泊したと伝わる。
織田信長や徳川家康、尾張藩主も大事に守った。
富士浅間神社として再出発
長い前置きを経て、富士浅間神社の話に移りたい。
先に裕福寺について書いたのは、祐福寺と富士浅間神社が無関係ではないからだ。一時期はほとんど一体だったときがあった。
しかしながら、祐福寺村の歴史と地域性や、村内のその他の神社を考えると、事はそう単純ではないのかもしれない。
もし、祐福寺の場所に伊福村と伊福神社があったとすれば、遅くとも平安時代には存在したということで、延喜式内社の多くが奈良時代以前の創建ということからすると、さらに飛鳥時代やそれ以前まで遡ることになる。
『寛文村々覚書』(1670年)は祐福寺村の神社について以下のように載せている。
社 六ヶ所 内 天神 弁才天 白山 天王 八王神 神明
社内拾弐町歩 山林共 前々除 村中支配
この中の”天神”が富士浅間神社のことなのかと思いきや、どうも違うようだ。
浅間神社は権現と称されることが多く、天神とは呼ばない。
これが富士浅間神社の前身の伊福神社で、この頃はまだ富士浅間神社はなかったということもあり得るだろうか。
6社すべてが前々除(まえまえよけ)になっているので江戸時代以前にあったもので、”天神”だけでなく”天王”や”八王神”も古いのではないかと思う。
『尾張徇行記』は以下のように書いている。
氏神冨士浅間祠宮山東西四町南北三町御除地、摂社、神明、熊野、伊豆、白山、日吉、鹿島、三島、箱根、此外山ノ麓ニ大日、薬師、文殊、不動ノ堂アリ、皆氏神ノ境内ニアリ
府志日、祭礼毎歲五月二十八日祐福寺僧会之誦大般若経
天王祠境内四畝神明弁財天山神四祠境内俱ニ二十五歩、八王子天神二祠俱境内三畝十歩、イツレモ御除地ナリ、
以上八社草創年暦八不詳
山神ノ外六祖ハ府志ニモ載レリ
覚書ニ、社六ヶ所天神弁財天白山天王八王神神明社内十二町山林トモ前々除、村中支配トフリ
この頃までに”冨士浅間祠”と呼ばれるようになっている。
”宮山”というのが神社が建っている小山の名称なのか通称なのかはよく分からない。
境内は今の倍くらいで、隣接する東郷高校の敷地もかつては富士浅間神社の敷地だった。
境内社も多い。神明、熊野、伊豆、白山、日吉、鹿島、三島、箱根、大日、薬師、文殊、不動堂があるといっている。
祐福寺の僧侶が般若経を唱えたり、神社を村で管理していたりしているので、裕福寺を中心とした独立性の高い村だったようだ。
『尾張志』(1844年)も見ておくとこうなっている。
淺間社
祐福寺村にあり是此處の本居神也府志に祭禮每歲五月廿八日祐福寺僧會之誦般若經と見えたり
攝社に神明社 熊野社 伊豆社 白山社 日吉社 鹿嶋社 三島社 箱根社なとありて麓に大日堂不動堂藥師堂文珠堂秋葉堂籠堂などあり
天王社 神明社 八王子社 辨才天社 天神社 山神社二所
並同村にあり
ここでは淺間社としている。
『寛文村々覚書』で「天神 弁才天 白山 天王 八王神 神明」となっているのと比べると白山が消えて山神2社となっている以外は変わっていない。
ここにある天神社が『寛文村々覚書』にある天神のことであれば、やはり天神と 浅間社(富士浅間神社)は別ということになる。
『東郷町誌 第一巻』はこんなことを書いている。
鎮座年暦は詳らかでないが、延喜三年の延喜式神祇中にある伊福神社。文治二年の尾張国内神名牒の伊福利天神はこの神社といわれ、古く里人は永祿三年桶狭間の戦の残党の奇火に禍いされ、又明治初期怪火により全焼せりと伝える。
元玉松山祐福寺の奥の院として崇敬が厚かったといい、当時の御正体仏の一つである仏像は今、祐福寺に宝物として住職の居間に奉祀せられている。
明治元年神仏分離の際まで祐福寺寺他によって奉仕せられたと伝える。
『東郷町』の編集者は現・富士浅間神社は元・伊福神社という認識のようで、里の古老曰く、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの折に兵火によって焼けてしまったという話が伝わっているようだ。
そのときすでに富士浅間神社だったのか、まだ伊福神社(あるいは前身神社)だったのかは分からない。
桶狭間の戦いで焼けていったんは廃絶になったものを江戸時代のどこかで富士浅間神社として再建した可能性もあるだろうか。
そうではなく、祐福寺の鎮守としての社は鎌倉時代からあって、その最初から(富士)浅間社だったということもあり得るのか。
”奥の院”といういい方からすると、鎮守というのではないようにも思える。
いずれにしてもよく分からないのは、どうして浅間(富士浅間)だったのかだ。
中世に八幡が流行ったときに、式内社のような古社が八幡社になった例は多いものの、浅間社になったというのはほとんど聞かない。
桶狭間の戦いに巻き込まれて焼けたというのはあり得る話だ。桶狭間の戦い前日に、隣村の沓掛城に今川義元が宿泊したとされるので、戦のどさくさで火を付けられたということもあっただろう。
そのとき古記録失われたというのであればそうかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』からはこれといった情報は得られない。
創建は明らかでない。
明治五年七月二十八日村社に列格した。
同四十三年三月十八日に屋敷の素盞鳴社と境内社金刀比羅社を合祀する。
同四十四年十二月二十七日、供進指定社となる。
現在の祭神が木花佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ)に加えて素盞嗚尊(スサノオ)、大物主命(オオモノヌシ)
崇徳天皇(すとくてんのう)となっているのはこのためで、崇徳天皇も金比羅社からの流れだ。
境内社の中でどうして金比羅社だけを合祀したのか、その理由は分からない。
おっ、と思ったのは、五等級ということだ。
等級というのは神社のランクではなく、いってしまえば神社庁にいくら納めるかというもので、五等級は相当に高い。郷社クラスがほとんど中、指定村社で五等級まで上がっている(上げている)ところは少ない。
やる気とお金がないとここまでは上げないというか上げられない。
一つには境内地を半分売ってお金が入ったというのもあるだろうけど、氏子以外のスポンサー的な人や団体がついていたのかもしれない。
裕福寺と富士浅間神社との関係は
祐福寺と富士浅間神社との関係について、尾張の地誌は何も書いていない。
祐福寺の奥の院云々といっているのは『東郷町誌 第一巻』だけで、どこから得た情報なのかは不明だ。
『愛知縣神社名鑑』もそんなことは何もいっていない。
富士浅間神社が初めて祀られたのがいつかというのも問題で、江戸時代以前なのか、以降なのか。
それはどういう人物、あるいは勢力だったのか。
由緒書は中世に富士権現を勧請したといっているけど、1670年頃の『寛文村々覚書』に載っていないのが引っ掛かる。江戸時代に入ってからという可能性はないだろうか。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、祐福寺村の集落と祐福寺と富士浅間神社それぞれの位置関係が分かる。
集落があったのは祐福寺の南で、富士浅間神社は北の小山の山頂に鎮座している。
地図を見る限り、集落から富士浅間神社へ続く道はあるものの、祐福寺と富士浅間神社は直接つながっていなように見える。
祐福寺の奥の院という位置づけだったにしろ、寺の鎮守ではなかったかもしれない。
富士浅間神社の方が先だったとも考えられる。
もし伊福神社なら平安時代以前に遡る。
祐福寺については、寺伝がいう鎌倉時代初期の1191年を遡ることはないのではないか。
祐福寺と祐福寺村でいうと、寺よりも集落の方が先だっただろう。
東郷町内から古墳時代に須恵器を焼いた古窯の跡が見つかっていることからすると、集落ができたのは飛鳥時代やそれ以前に遡る可能性もある。
裕福が伊福から発している可能性
再び最初の問いに戻りたい。祐福寺が伊福から来ている可能性があるのかという問題だ。
津田正生(つだまさなり)は『尾張国神社考』(尾張神名帳集説訂考)で伊福神社について以下のように書いている。
從三位伊副神社(イブクの)(一本作正四位下伊福部天神) 【集説云】鳴海莊驛中
【松平君山曰】如意寺は毎年正月二十四日佛像前におひて射禮を行へり。的面(まとのおもて)に天下泰平國土安全青鬼降伏の十二字を書(しるす)。
此の日亦蛤貝を備て後海に放つ。
恐らくは是伊福神社の本地佛ならむ。故にその祭祀の遺意(おもかげ)を修るのみ
【正生曰】此説いとおもしろし。
【瀧川弘美曰】知多郡猪伏村(ゐふし)は舊は愛智郡也。されば此村の社をいふ歟
【正生考】この説を受て二三度立ち越て懇に捜索に此村に舊跡とおぼしき社地なし。
村西に八幡宮あり 社地半町四方ほどありて山間也。又禪寺のうしろに若宮とよぶ小社あり、南の山上に神明あり、おのおの狹少の地也。更に據(よりどころ)なし。
村名はよくあひたれど、伊猪(イゐ)の假字(かな)も違(たが)へりき。
”集説云”は天野信景(あまののぶかげ)が1707年に書いた『尾張国神名帳集説』のことで(出版は1734年)、津田正生の『尾張神名帳集説訂考』はこれが下敷きになっている。
ここでいう”鳴海莊驛中”の天神は現在の北名古屋市にある宇福寺天神のことのようだけど、あそこが愛智郡ということはないと思う。
猪伏村は今の大府市森岡町なのだけど、ここまで愛智郡としていいのかは判断がつかない。
祐福寺村がかつての伊福村という根拠は、”いふく”という音なのだけど、”いふく”から”ゆうふく”に転じるかというと、ちょっと疑問だ。
”いふく”という音が先にあったとして、それに”祐福”を当てるかというとそれはない気がする。
他の論社でいうと、伊勝八幡の場合は、棟札に「伊福神社天明3年癸卯年春伊勝村神主」と記されていることを根拠としているのだけど、天明3年は江戸時代中期の1783年と新しく、決め手とはなっていないようだ。
徳重の熊野社は祭神として伊福利部連命(いふくべむらじのみこと)を祀っていることから、伊福神社と関係があるのではないかとされている。
私としては分からないと投げてしまい気分でいる。
実際、分かりっこないと思う。
とっくの昔に完全に失われていたとしても不思議はない。
あるいは、まったくノーマークの神社が後身だったりするのかもしれない。
【追記】 2025.7.13
『尾張国風土記』逸文に伊福神社の手掛かりになりそうなことが書かれていると教えていただいた。
そこには、「愛知郡 福興寺 俗名三宅寺 南去郡家九里十四歩 在□(日下)部郷伊福村」とあり、日下(草下/日部とも)郷に伊福村があったことが分かる。
福興寺は三宅連麻佐が8世紀初頭に創建したとされる古刹で、三宅寺と呼ばれていたようだ。
この”三宅”は天皇直轄地を意味する”屯倉”と関係がありそうだ。
日下部郡(和名抄にある愛智郡日部)がどこにあったのかについては不明で、郡家(ぐうけ/こおげ)は律令時代の郡司がいた役所で、その9里南に日下部郡伊福村があるといっている。
近世の1里=4キロと考えてしまうと36キロも離れた場所ということでおかしなことになるのだけど、律令時代の1里は500メートルちょっとだったようなので、約5キロということになる。
郡家がどこにあったのかは知られていないものの、緑区や東郷町の北というのはちょっと考えづらいか。
いずれにしても伊福村があったからといって必ず伊福神社があったとは限らず、伊福村に伊福神社があったとしても、それを延喜式内社の伊福神社と決めつけるわけにもいかない。
奥の院からの景色

社殿の向かって左手に小高い丘があって、階段を登っていった先に奥宮がある。
この高台からの眺めがいいので、ぜひ頑張って階段を登って欲しい。
見下ろすと社殿の様子もよく分かる。
気になったのは、神社境内の地名が”狐塚”ということだ。
狐塚というと、日進市北新町にも同名の地名があり、そこには稲荷社が祀られている。
まったく無関係かもしれないけど、さほど離れていない場所に二つの狐塚というのは、やはりちょっと引っ掛かった。
塚というとどうしても墓を思うし、墓といえば古墳を連想する。
ここは古墳とはされていないけど、実際は古墳かもしれない。
神社西に隣接する東郷高校がある敷地もかつては富士浅間神社の境内地だった。
昭和43年に東郷村が東郷高校を誘致するためにこの土地を買い取ったのだけど、そこには北野社と山神社があり、その他にも敷地内には白山社、日吉社、伊豆社、箱根社、鹿島社、三島社、熊野社、御鍬社などがあった。
境内社にしてもこの数は多く、顔ぶれも多彩だ。この場所が東郷町エリアの中心地だったことを物語っている。
現在、散策路として整備されている場所も、かつては森だったのが、昭和34年の伊勢湾台風で老木や大木のほとんどが倒れてしまって、かつての森の面影は残っていない。
この富士浅間神社が延喜式内社の伊福神社なのかについては、そうだともそうでもないともいえない。
ただ、何かの特別感のある神社と感じる。
各時代の為政者たちが祐福寺を重要視して大事にしたことを考え合わせると、その感を強くする。
実際、ここがかつての伊福村で、延喜式内の伊福神社があったとしても驚きはしない。
東郷町の歴史は思うよりも古くて深く、ここがその中心地だったとしたら、延喜式内社の一社や二社あって当然といえる。むしろない方がおかしい。
諸輪や和合地区も重要なのだけど、あちらとこちらは別の地区と考えた方がよさそうだ。
作成日 2025.7.14