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富士浅間神社(祐福寺村)

裕福寺=伊福の可能性を探る

読み方ふじせんげん-じんじゃ(ゆうふくじむら)
所在地愛知郡東郷町春木狐塚3801-1 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧指定村社・五等級
祭神木花佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ)
素盞嗚尊(スサノオ)
大物主命(オオモノヌシ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
アクセス名鉄バス「裕福寺」より徒歩約13分
駐車場あり
webサイトwebサイト
例祭・その他7月第一日曜日(旧7月8日) / 授与所あり/社人常駐
神紋十六弁菊紋(?)
冨士山紋(?)
オススメ度**
ブログ記事

伊福神社?

 日進市の神社を巡っていると、祭礼などは富士浅間神社までお問い合わせくださいという看板を何度も見かけたので、東郷町の中心神社なのだろいう認識はあった。
 ただ、それ以上の予備知識はなく、境内の由緒書を読んで驚くことになった。そこにはこんなことが書かれている。

式内社 富士浅間神社

当神社は、古名を「伊福神社」と言う。
御鎮座の年代は不詳であるが、西暦九二五年に書かれた「延喜式」と言う書物に早くもその名が見える事より、少なくとも一000年以上の歴史を持つ近最古の神社である。
中世、祐福寺の奥の院として富士山権現を勧請し、雨来福の神、子供の守り神として遠くの地方よりも参拝者が多い。

『延喜式』神名帳(925年完成、927年成立)に載る愛知郡伊福神社はうちですよと言っている。
 言い切っているので何らかの根拠があるのだろうけど、わりと大胆な宣言だ。
 伊福神社は江戸時代にはすでに失われていてどこにあったか分からなくなっていた。
 昭和区伊勝町の伊勝八幡宮や緑区鳴海町の熊野社などが論社とされるも、どちらも決定打には欠けるようで、東郷町の富士浅間神社も論社の一つとして挙がっている。
 北名古屋市宇福寺天神の天神社も論社とされているのだけど、さすがにあの場所を愛知郡とするのは無理がありそうだ。

 実際のところ、東郷町裕福寺の富士浅間神社が伊福神社の可能性があるのかなのだけど、考察は後回しにして、まずは祐福寺村について見ていくことにする。

裕福寺は伊福から?

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で裕福寺村についてこう書いている。

祐福寺村 イウフクジ

奮は部田村の内なり
【近藤利昌日】 祐福寺の寺領あるより呼

 もともとは南の部田村(へたむら)の村域で、裕福寺の寺領があるから祐福寺村になったといっている。
 部田村については「此村に裕福寺といふ淨土宗西山派の寺あり嘉曆元年賢良上人開基といふ御黑印高四十石」とする。
 ここでは裕福寺が伊福から来ている云々といったことは書いていない。

 コトバンクは『日本歴史地名大系』(平凡社)を引用して以下のように書いている。

祐福寺村
村名は村内にある祐福寺に由来するが、「延喜式」神名帳の愛知郡に「伊副神社」、尾張国神名帳に「伊副天神」と記す。
「本国神名帳集説」に「仙覚法師が万葉集抄に引たる尾張風土記に伊副村とあるは此村の事なるべし、村名を寺号とせしが、其後、寺号を村名に呼ぶ例諸国に多し」とあって、初めの伊副(いふく)が祐福に転訛したとも考えられる。
明応五年(一四九六)足利義澄の御教書(祐福寺文書)には「傍士(示)本祐福寺」、元和六年(一六二〇)の徳川義利(義直)黒印状には「部田村之内四十石祐福寺領云々」、「尾張名所図会」にも「部田村祐福寺」などとあり、「尾張志」には「祐福寺再建(中略)の頃は祐福寺村はいまだなかりしかば傍尓本村の祐福寺といへり」とあって、当村はその後、祐福寺領を中心として傍示本・部田両村の間に生じたものであろう。

 どうやらこの説の元ネタは、天野信景の『本国神名帳集説』(参考本国神名帳集説 尾張国)のようで、必ずしも客観的な史料によるものではないということだ。
 天野信景がどこかから情報を得たのか、自分で考えただけなのかは分からない。
 ただ、『尾張風土記』(逸文)に伊副村が出てくるというなら伊福村があったということで、それが後の祐福寺村の可能性はある。
 祐福寺村が村として独立したのがいつなのかについては判然としないのだけど、部田村の祐福寺とされたり傍示本村の裕福寺とされたりしたというから、時代によって境界が変わったのか、村で取り合いになっていたのか。
 それでも、1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』に裕福寺村として載っているから、江戸時代後期とかではないのだろう。

 私が得られた範囲内で裕福寺が伊福村から転じたとしているのは、この天野信景の『本国神名帳集説』と富士浅間神社の社伝だけで、尾張の地誌にはそういったことは書かれていないので、ちょっと判断がつかない。
 この問題はいったん保留として先へ進めたい。

裕福寺について

 祐福寺村や富士浅間神社について見る前に、まずは村名ともなった裕福寺がどんな寺なのかを確認しておくことにする。

『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。

净土宗 京都 光明寺禅林寺 両末寺 玉松山祐福寺
 寺内拾町七反余 但、松山共 前々除
 護摩堂 観音堂 二重塔 鐘撞堂
 大門 小門 十王堂 三門 鎮守堂有之。
 寺家六ヶ寺 孝甘院 法正院 受徳院 大悟院 知福院 慶徳院

 京都府長岡京市にある西山浄土宗総本山の光明寺は、鎌倉時代初期の1198年(建久9年)に、法然上人の弟子の熊谷蓮生によって建てられたとされる。
 同じく西山浄土宗総本山である禅林寺はもっと古く、空海の弟子の真紹僧都が平安時代前期の853年(仁寿3年)に開いたのが始まりと伝わる。
 裕福寺は前々除(まえまえよけ)となっているので江戸時代以前創建には違いないものの、具体的な創建年などには触れていない。

『尾張徇行記』(1822年)はいろいろ書いているのだけど、前半部分は『張州府志』(1752年)を引用してこう書いている。

祐福寺 府志、号玉松山、浄土宗属洛陽禅林光明二寺、嘉暦元年丙寅、達智賢了上人創建、縁起略曰、
上人姓源村上天皇後胤久我通雄郷男子也、幼在南京、十二歲入園城寺(後略)

 嘉暦元年は1326年で、鎌倉時代末期に当たる。後醍醐天皇時代だ。
 ここでは達智賢了が創建としているのだけど、これは再建で、実際はもっと古いという話もある。
 そのあたりについては以下のように書いている。

当寺草創ハ人王八十二代後鳥羽院ノ御宇建久年中、宇都宮弥三郎頼綱ト云勇吉アリ(室畠山氏女也)右大将頼朝公ニ仕ヘ、上総下総常陸三ヶ国ノ勢ヲ卒シ、羽賀記清加茂一族都合三万七千騎、津国一谷四国八島二発向シ、合戦ニ利ヲ得帰東ノミキリ、常陸下総ヲ給リ宇都宮ニ居城シテ、頼朝公ヨリ頼ノ字ヲ給リ頼綱ト名ノリ、武勇ノ蒼レ世ニ高シ、其後熊谷入道ノ勧メニ依テ在京ノ砌法然上人ノ弟子トナリ、入道シテ名ヲ蓮心ト改對(字ハ実信)東国ニ帰ル、折柄尾張国祐福寺ヲ造立シ、是ヨリ凡ソ百三十余年星霜久クシテ堂舎絶々ニ相続シケル処、人王九十五代後醍醐天王御宇、嘉暦三年ノ比再興ヲナサントイヘトモ、元弘ノ騒乱ヨリ都鄙静カナラズ、依之殿堂難調住僧モ稀ナリ、其後五十一年ヲ経テ、人王百代後円融院御宇康暦元年ニ、二人ノ長者アリ、阿願空明ト云、深ク達智上人ヲ信仰シテ此寺ニ請シ入レ、山主トシテ衆人帰依シ、諸伽藍方ニ全備ス、故達智ヲ開祖トシ以来浄土宗西山派七檀林ノ随一トス

 前半部分をまとめると、建久年中(1190-1199年)に頼朝の家臣で源平合戦で活躍した宇都宮弥三郎頼綱が、法然上人(1133-1212年)の弟子となって蓮心という法名となり、東国へ帰る途中で尾張に立ち寄って裕福寺を建てたといったことを書いている。
『尾張志』(1844年)は、「祐福寺村にあり玉松山といふ京都西山光明寺東山禪林寺兩末寺也建久二年宇都宮賴綱入道蓮心の創建造營也」と、創建年を建久2年、つまり1191年といっている。
 おそらく寺伝としてそういう話があったのだろうけど、これは年代的に無理がある。
 創建者として名が挙がっている宇都宮弥三郎頼綱の生年は通説として1178年(治承2年)とされている。
ちょっと考えれば分かることだけど、これが本当であれば、源平合戦のクライマックスの壇ノ浦の戦い(1185年)のときは7歳ということになってしまう。小2だ。そんな子供が「上総下総常陸三ヶ国ノ勢ヲ卒シ、羽賀記清加茂一族都合三万七千騎、津国一谷四国八島二発向シ、合戦ニ利ヲ得」なんてことはあり得ない。
 裕福寺を創建したとされる1191年でも13歳でしかない。中2だ。
 生まれ年については、1259年(正元元年)に88歳で死去したという史料から逆算すると1172(承安2年)ということになるのだけど、それにしても壇ノ浦の戦いのときは13歳だ。
 そんな少年が源平合戦で大活躍していればとっくに物語の登場人物になっているけど、宇都宮頼綱のことはほとんどの人は知らないと思う。
 生まれ年が大きく違っているか、裕福寺を創建したのは宇都宮頼綱ではないかのどちらかだろう。
 というか、尾張にゆかりが深いとは思えない宇都宮頼綱が国に戻る途中でついでのように寺を建てたというのもちょっと信じがたい。頼朝との縁で一時滞在して庵を結んだといったことならあったかもしれない。
 そもそも宇都宮頼綱が出家したのは1205年(元久2年)に起きた畠山重忠の乱や牧氏の変に巻き込まれたときに鎌倉方に許しを請うためだったといわれる。
 その後、いったんは京都嵯峨野に引っ込んで隠棲生活を送り、法然の弟子の証空に師事して浄土宗徒となり、再び鎌倉に出仕しつつ、各地の寺社の修繕などを行ったという。
 こうした流れの中に尾張国の裕福寺があったかどうか。まったく何もないところにこういう話が出てくるとは思えないから何か関係があったのだろうけど、1191年に宇都宮頼綱が裕福寺を創建したというのは、ちょっと疑わしい。

その後の裕福寺がどうなったかというと、100年以上の歳月が流れる中で荒廃していたものを嘉暦3年(1328年)に再興の話が持ち上がったものの、その後の元弘の乱(1331-1333年)が起きて世の中が騒がしくなり、話はいったん立ち消えになったようだ。
 元弘の乱は鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇と鎌倉の北条氏との間で起きた内乱だ。
 結局、再興がなったのはそれから50年あまり経った康暦元年(1379年)で、阿願と空明という二人のお金持ちが行ったようだ。
 二人は達智上人を深く信仰していたため、開祖を達智上人としたと、ここではいっている。
 別の話としては、明知城(みょうちじょう)城主の小野田長安と傍示本城城主の加藤時利が美濃国から達智上人を招いて1389年(嘉慶3年)に再興したともされる。
 明知城は三河国三好にあった城なので、国を超えて二人の城主が尾張の裕福寺を再興したことになる。達智上人は美濃の人なので、美濃もあわせた三国合作だ。
 最盛期には七堂伽藍に加えて25の塔頭を持つ大寺院となり、後小松天皇や後柏原天皇などが勅使を派遣して勅願道場ともなった他、将軍足利義教が東国へ向かう途中に泊まったり、桶狭間の戦いの前日には今川義元が宿泊したと伝わる。
 織田信長や徳川家康、尾張藩主も大事に守った。

富士浅間神社として再出発


 


 
 


 

(つづく)

作成日 2025.7.7


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