
神明から春日へ
読み方 | かすが-しゃ(ほうじもとむら) |
所在地 | 愛知郡東郷町大字春木字白土1番 地図 |
創建年 | 1421年(?) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十三等級 |
祭神 | 建御雷命(タケミカヅチ) 齋主命(イワイヌシ/經津主神?) 天児屋根命(アメノコヤネ) 姫大神(ヒメオオカミ) |
アクセス | 名鉄バス「傍示本」より徒歩約1分 東郷町コミュニティバス「中屋敷」より徒歩約1分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 10月19日(要確認) |
神紋 | |
オススメ度 | ** |
ブログ記事 |
好きなものは好きは神社も同じ
あ、この神社好きだ、と直感的に思った。
それは好みのタイプのようなもので、言葉で説明するのは難しいのだけど、何の根拠もなくそんなことを思うわけはないので、何か理由はあるのだろう。
東郷町を代表する神社が裕福寺の富士浅間神社だったとしても、個人的には傍示本の春日社が一番好きだ。
どこがと訊かれても答えられない。好きなものは好きとしか言えない。
傍示本村について
春日社は傍示本村の氏神だったのは間違いないのだけど、元は神明で、どこかで春日社になったらしく、そのあたりの経緯ははっきり伝わっていない。
まずは傍示本村について、その由来などをあわせて見ていくことにする。
津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で傍示本村についてこう書いている。
傍示本村 ハウジもと
傍は榜(ハウ)の誤なり榜示は漢語にして疆をしらせるの札をいふとぞ
【成人日】
後世鎌倉の末後醍醐天皇の頃民部省より國々の□帳をあらたむるとて榜示を建たるより其俗稱の遺れるなるべし
【附言】武蔵國賀美の郡本庄宿の東に榜示堂村あり上毛野國芭樂郡に榜示塚村あり 館林の近邊也
おのおの國堺なり本國榜示本も三河堺にあり
傍示本村の”傍”は”榜”の間違いで、国境を示す榜示が立てられたのが村名の由来というのが津田正生の主張というか推理だ。
榜示(牓示/牓爾)というのは後の時代の高札、つまり掲示板のようなもので、木簡は平城宮跡などから見つかっていることから、律令制と関係があると考えられる。
ただし、ここでは鎌倉時代末の後醍醐天皇時代に立てられたということをいっている。
それにしても、傍示本の”傍”を”榜示”の”榜”の間違いと決めつけるのはどうかと思う。
”傍”は文字通りであれば、”そば”とか”かたわら”といった意味の字だ。
他国にも榜示堂村や榜示塚村があるということを根拠としているけど、いずれも”榜”であって”傍”ではない。
榜示なんてものはわりと数があったはずで、それが村名になるというのは可能性としては低い気がする。
”本村”というからには本郷とか元郷といった意味もありそうだし、榜示とは関係ないのではないかと個人的には思う。
”ほうじ”という音からすると、むしろ”法事”の方がありそうだ。
傍示本村と南の部田村との間にある裕福寺村は裕福寺の寺領が独立して村になったという経緯もあり、この裕福寺とも関係があるのかもしれない。
尾張の地誌を古い順に見ていく。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
傍尓本村
家数 三拾七軒
人数 三百弐拾人
馬 弐拾弐疋浄土宗 祐福寺末寺 松京山円城寺
寺内七畝歩 備前検除社 弐ヶ所 内 明神 山之神 当所祢宜 三郎右衛門持分
社内壱町九反步 但、松林共 前々除薬師堂 一宇 地内年貢地 右之 円城寺持分
申庚堂 一宇 地内壱反七畝歩 前々除
古城跡壱ヶ所 先年丹羽右近居城之由、今ハ畑ニ成ル
御上洛・朝鮮人来朝之時、人馬出ス。
村名の字についても触れておくと、『寛文村々覚書』と『尾張徇行記』はいずれも”傍尓本村”としており、『尾張志』では”傍爾本村”となっている。
尓/爾は二人称代名詞の”なんじ/おまえ”という意味の字で、”それ/これ”といった指示代名詞でもある。その他、”しかり/その通り”といった意味もある。
なので、傍示本村の”示”は間違いというか、後年に変化してしまった字のようだ。
”傍尓本村”をそのままの意味として取るなら、本郷のそばの村といった意味とも取れる。
家数37軒で村人が320人なので規模はそれほど大きくない。
規模のわりに馬が22疋(頭)と多いのは殿様などが通るときに人馬を出したためだ。
集落の中央を通る東西の道は尾張と三河を結ぶ脇道として利用されたのだろう。
村の東を流れるのが境川で、名前の通り、この川で尾張と三河が分かれていた。
この当時の神社は明神と山神の2社で、明神が今の春日社のことなのだろうけど、古くは神明だったという話があってちょっと混乱する。
そのあたりについて『尾張徇行記』(1822年)は以下のように書いている。
社二区、覚書ニ明神山神社内一町九反前々除
庄屋書上ニ、神明祠境内二町六反六畝二十歩御除地、応永二十八丁丑年沙門宥賢ト云者勧請スル由棟札ニアリ、当社ノ界内ニ春日大明神愛宕大権現ノ二社アリ、春日祠ハ万治三年勧請ノ由棟札ニアリ、山神二社、此内一社ハ一反、一社ハ一反二畝御除地、役行者堂境内十五歩、弁才天祠境内一畝、熊野権現祠境内二畝、牛頭天王祠境内一畝十歩、秋葉祠境内一反、金毘羅祠右ノ境内ニアリ、イツレモ御除地ナリ
庄屋の書上に、神明祠は応永28年(1421年)に沙門の宥賢という人間が勧請したという棟札があるといっている。
1421年は室町時代中期で、応仁の乱(1467-1477年)の前だ。
こんな時代に神明を勧請した例はあまり多くないと思うのだけど、それをしたのが沙門(しゃもん)というから、それまた珍しいのではないか。
沙門というのは寺に属する僧侶ではなく、いわば個人的な修行者といった人間で、それが伊勢の神宮(公式サイト)から勧請することができたのだろうかという疑問も抱く。
棟札にあるのならできたのだろうけど、何か特別な人物だっただろうか。
この神明の境内には春日大明神と愛宕大権現があって、春日祠は万治3年(1660年)勧請の棟札があるとも書いている。
どこかで神明と春日が入れ替わるようなことになったと考えられるのだけど、それはいつだったのか。
『寛文村々覚書』がまとめられたのが1670年より少し前で、1660年に春日神を勧請して祀ったことで春日社となった可能性もある。だから、”明神”としているのかもしれない。神明を明神とは呼ばないだろう。
そうなると『尾張徇行記』にある庄屋書上がいつ書かれたものかということになるのだけど、ここではしっかり”神明祠”といっているので、江戸時代に入っても神明時代があったのは間違いなさそうだ。
『尾張志』(1844年)はこの棟札の内容を書いている。
春日社
傍爾本村にあり當村の氏神とす境内に神明社及愛宕ノ社あり神明ノ社の棟札あり如左大願主沙門宥賢
泰造立御社一宇應永廿八年辛丑極月十九日
大工叉次□山ノ神ノ社 氏神より西の方にあり
熊野社 氏神より東の方にあり
山ノ神ノ社 氏神より南の方にあり
知立社
秋葉社この五社も同村にあり
ここでは春日社を當村(傍示本村)の氏神としており、境内社として神明と愛宕があるといっているので、神明と春日が入れ替わったことを示している。
神明を勧請したのは”大願主沙門宥賢”となっており、これは間違いなさそうだ。
春日社以外にも、山神2社、役行者堂、弁才天祠、熊野権現祠、牛頭天王祠、秋葉祠、金毘羅祠があって、すべて除地といっている。
『尾張志』にある知立社は元の金毘羅祠かもしれない。
祠や堂の多さや顔ぶれからして、傍示本村が古い歴史を持つことが感じられる。室町時代あたりにできた新興の村ではないだろう。
神明を勧請したのが1421年だったとしても、それ以前にすでに何らかの社があったのではないかと思う。
傍示本村を古いとする根拠はあるのか
東郷町内で縄文、弥生の遺跡は見つかっていない。
ただ、知られていないからといってないとは限らない。
古墳についても、北部の諸輪エリアで5基ほど知られているものの、きちんと調査されたわけではないので詳しいことは分かっていない。
飛鳥時代から奈良時代の須恵器を焼いたとされる古窯址が諸輪を中心に30以上見つかっていることから、遅くともその頃までにはこのあたりで人が暮らしていたのは間違いない。
傍示本村や部田村の村域でも古窯址が見つかった。
以上からして、傍示本村の前身といえる集落は奈良時代にはできていたのではないかと推測できる。
ただし、それがずっと続いたとは限らない。途中で途切れて、また復活したかもしれない。
神明の前身があったのではないかという私の推測も、あながち間違いではないと思うけどどうだろう。
傍示本村の春日社について『東郷町誌』はこんなふうに書いている。
鎮座年歴は詳かではないが、御正体懸仏の裏面に永享第二曆十二月 日又は永享辛亥三月十五日とあることから、永享年間に関連があり、棟札に応永二十八丁己十二月十九日沙門宥隕僧之勧請とあるから、初めて勧請鎮座したのは応永永享の頃か又はそれ以前と推定できる。
この棟札の応永二十八年は五百三十六年前である。
懸仏は四面あって、この懸仏は神明社の御正体で仏像は大日彌陀の両仏であり裏面に
奉献大神宮
永享第二曆
大顺主 近藤
十二月朔日
とあり。
永享年間は応永年間に続く1429年から1441年までで、応永28年(1421年)に神明が勧請され、そこに奉納するためだったのだろう。
その他、永享年に作られた懸仏が他にも残っている。
懸仏と近藤氏と城のこと
懸仏(かけぼとけ)は、鏡板に仏や神の像を刻んだり貼り付けたりしたもので、壁に掛けるための吊り輪を付けたものが多かったことから名づけられた。
神は仏が仮の姿で現れたもので、真の姿は仏なのだという本地垂迹思想から”御正体”(みしょうたい)とも呼ばれた。
神仏習合思想が発達した平安時代中期頃から作られるようになったとされ、江戸時代まで作られたものの、明治の神仏分離令を受けて壊されたものが多い。
春日社に伝わっているものは、室町時代中期に沓掛城主だった近藤氏が奉納したものだ。
”奉献大神宮”とあることからも、この当時は神明という認識だったのが分かる。
沓掛城(地図)は今の豊明市沓掛町にあった城なのだけど、傍示本村の春日社(神明)からは直線距離で3.5キロ以上離れている。
どうして沓掛城の近藤氏は離れた村の神社に懸仏を奉納したのだろう。
4つの懸仏の裏には、それぞれ以下のように書かれている(『東郷町誌 第一巻』より)。
奉献御正体一面
(一)永享辛亥三月十五日
願主 近藤基行
—
奉献御正体一面
(二)永享辛亥二月十五日
願主 近藤基行
—
大願主
(三)神明傍示○
藤○義行
—
奉献御正体一面
(四)永享辛亥三月十五日
願主 基行
近藤義行については沓掛城主という記録があるも、近藤基行については伝わっていない。
願主の藤○が藤原であれば、藤原氏の系統とも考えられるのだけど、近藤姓は尾張氏本家に近い分家という話を聞いているので、そちら系かもしれない。
尾張氏についても、熱田社の大宮司家は平安時代中期に藤原氏が引き継ぐ格好になっているので、そちらとの関係もあるだろうか。
気になるのはやはり位置関係というか距離だ。
かなり離れた隣村の神社に別の村の領主が懸仏を奉納するということがあったのだろうか。
傍示本村には傍示本城があったとされており、傍示本公民館(地図)があるあたりで、城跡の石碑も建っている。
春日社から見て200メートルほど東で、このあたりは中屋敷、北屋敷、市場屋敷など、”屋敷”地名が多く、これは傍示本城と関係しているかもしれない。
傍示本城について『寛文村々覚書』は「古城跡壱ヶ所 先年丹羽右近居城之由、今ハ畑二成ル」、『尾張徇行記』は「傍尔元城、府志曰、土人日、丹羽右近居之、今為竹林及田」と書き、『尾張志』は以下のように書いている。
傍爾本ノ城
傍爾本村にありて市場といふ地也東は谷にて平田を見下し南西北三方に堀あり四面に松林竹藪めぐれり
西北の隅に民戶一烟ありて其外は皆畠也東西三十一間南北三十四間あり
城主は府志及地方覺書に丹羽右近とあるがことし接に此右近は丹羽右近太夫氏勝にて其子次郎三郎氏重二代住へりしならん
丹羽右近こと丹羽氏勝と、その子の氏重が居城したといっているけど、これは少し違うというか誤解のある書き方だ。
そもそも傍示本城は戦国時代に丹羽氏勝が建てた城ではなく、もっと古いとされる。
一説では1324年(正中元年)に北条雅時の家臣の加藤安俊がここに移ってきて築いたのが始まりとされる。
ただ、北条雅時というのがどういう人物かがはっきりせず、加藤安俊の正体も不明なので、この話をそのまま信じることはできない。
もしこの話が本当であれば、神明が勧請されたという1421年よりもずいぶん前ということになり、なおかつ、近藤氏が神明に懸仏を奉納したときはすでに傍示本城があったことになる。
沓掛城を築城したのは近藤義行という話もあるのだけど、そのときまでに傍示本城一帯も近藤氏の支配下にあったということだろうか。
あらためて年代と流れを確認すると、近藤義行が沓掛城を築城したと信じるなら応永年間(1394年-1428年)、近藤基行願主の懸仏が奉納されたのは永享3年で、これは1431年に当たる。
神明に奉納された永享2年はその前年の1430年だ。
義行銘の懸仏には年号が入っていないのだけど、基行願主のもとには年号と日にちも入っている。
ひょっとすると、このとき、傍示本城の城主は近藤基行だったのかもしれない。
義行と基行は親子か兄弟だったとすれば辻褄は合う。
その後、200年以上にわたって沓掛一帯は近藤氏の支配下が続くことになる。
傍示本村の支配がどういうことになっていたのかはよく分からないも、傍示本城は加藤氏が城主を務めたという話もある。
だとすれば、近藤家と加藤家は親戚関係だっただろうか。
時は流れて戦国時代。
岩崎城(日進市)を中心に勢力を伸ばした丹羽氏が傍示本城まで支配下に治めるようになっていた。
沓掛城はというと、引き続き近藤氏が城主を務めていたものの、尾張の織田方と三河の松平・今川との争いに巻き込まれて右往左往することとなる。
9代目城主の近藤九十郎景春は、最初、三河の松平広忠(徳川家康の父)の家臣だったのが、織田信秀(信長の父)が優勢とみるや織田方に鞍替えした(松平広忠が森山崩れで死去したのが1549年なので、その後かもしれない)。
しかし、1551年に信秀が死去すると跡継ぎの信長にはつかず、鳴海城主の山口教継・教吉父子とともに今川義元の元に走った。
この時期の信長はすこぶる評判が悪かったので、この判断はあながち間違いではなかったと思う。
1560年、桶狭間の戦い。
今川方だった近藤景春は大軍を率いた今川義元を沓掛城に迎え、翌日出立した今川軍と行動を共にすることになる。
しかし、桶狭間では戦闘に加わらなかったようで、いったん沓掛城に戻り、あらためて刈谷城を攻めるも落とせず、2日後の5月21日、織田方に攻め込まれて沓掛城は落城。
近藤景春はこのとき討ち死にしたとも、天神山で自刃したとも伝わる。
近藤氏に代わって沓掛城の城主となったのが簗田政綱(やなだまさつな)だった。桶狭間の戦いを勝利に導いた武勲第一とされた人物なのだけど、この人物についてはいろいろ謎がある。
簗田政綱に沓掛城が与えられたことの意味は決して小さくないはずだけど、ここではこれ以上追求しない。
その簗田政綱も1575年(天正3年)には加賀の天神山へ移り、その後は織田信照、川口宗勝が城主を勤めることになる。
桶狭間の戦い当時の傍示本村がどうだったかについては話が伝わっていない。
歴史の表舞台に登場するのは、信長亡き後、1584年に起きた小牧長久手の戦いのときだ。
岩崎城主だった丹羽氏勝は、信長の家臣として数々の武功を揚げた重臣の一人だったのが、1580年に突如、林秀貞、安藤守就と共に織田家追放となってしまう。
理由は何かあったのだろうけど、よく分からない。
その後の氏勝は各地を転々とすることになる。
代わって岩崎城主となったのが氏勝の長男の氏次で、次男の氏重が傍示本城の城主となった。
1582年の本能寺の変で信長が死去すると、父の氏勝は次男の氏重がいる傍示本城に身を寄せ、ここで余生を過ごすことになる。
2年後の1584年の小牧長久手の戦いでは、長男の氏次は家康方についていたため家康軍として付き従い、次男の氏重が代わりに岩崎城を守ることになった。このとき、氏重、若干15歳。
そこへ通りかかったのが家康留守の三河を奇襲するため向かっていた秀吉方の池田恒興と森長可だった。
そのまま通り過ぎようとする池田恒興・森長可方に対し、見過ごすのは末代までの恥と襲いかかるも返り討ちにあい、戦死。
長男の氏次は関ヶ原の戦いも生き抜き、1601年に52歳で死去した。
父の氏勝は1597年に75歳で死去したと伝わる。
『尾張志』がいうところの「(傍示本城)城主は府志及地方覺書に丹羽右近とあるがことし接に此右近は丹羽右近太夫氏勝にて其子次郎三郎氏重二代住へりしならん」というのを説明しようとしたら話が長くなった。
傍示本城は氏勝の死をもって役割を終えて自然消滅的に廃城になったのではないかと思う。
岩崎城の丹羽氏も三河の伊保城に移ることになった。
沓掛城も、城主だった川口宗勝が関ヶ原の戦いで西軍についたため、没収されて廃城となった。
その他補足
話がそれたので、本筋に戻したい。
『愛知縣神社名鑑』は春日社について以下のように書いている。
創立は明らかでないが、応永二十八年極月十九日の棟札あり。
明治五年七月二十八日村社に列格した。
深池の秋葉社、金刀比羅社、山神社。上ノ畑の山神社、素盞鳴社。中屋敷の熊野社、宗形社。北所屋敷の知立社を明治十年一月に合祀境内社として祀る。
同四十年十月二十六日、供進指定社となる。
大正九年一月、社務所を新築する。
昭和五十三年十月造営竣工す。
『尾張志』の頃にあった傍示本村の神社は山神社2社、熊野社、知立社、秋葉社で、それから増えたのか名前が変わったのか、素盞鳴社と宗形社があったようだ。
素盞鳴社はもとの牛頭天王社だろうけど、『尾張徇行記』にもある金毘羅社が知立社になったということはあるだろうか。
いずれも古い神社だったようだけど、明治10年に春日社に集められてしまったらしい。
『東郷町誌 第二巻』から補足すると、旧本殿は天保2年(1831年)に再建されたものだったのを、昭和53年(1978年)に建て直したようだ。
明治13年(1880年)に建てられた神楽殿は昭和19年の震災で倒壊し、更に昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の際に倒木で壊れて翌昭和35年に再建したという。
少し寄り道をして、高見彰七についても触れておきたい。
米野木神明社の入り口に大きな白い馬の像があるのだけど、ここ傍示本村の春日社にも小さな白い神馬の像がある。この作者が高見彰七だ。
コンクリ仏師としては浅野祥雲がよく知られているのだけど、実は同時代にもうひとりのコンクリ仏師がいたことはあまり知られていない。
浅野祥雲が明治24年(1891年)生まれで、高見彰七が明治23年(1890年)だから1歳違いだ。
ただ、決定的な違いとして、浅野祥雲はプロの造形作家だったのに対して高見彰七はそうではなかった。趣味というにはその域を超えているのだけど、本職は農業だった。
そもそも観音像を作りたいということから始まって、やり始めたら止まらなくなって多くの像を制作することになった。
かつて豊田市の自宅前に250体ものコンクリ仏像が建ち並んでいてちょっとした名所になっていたようだけど、残念ながら平成2年(1990年)頃に撤去されてしまったようだ。
観音像はあまり残っていないようで、そのうちの一体は愛知県高浜市の吉浜人形の店前に建っている。
馬も得意で、各地の神社に神馬像が十数体あるようだ。
銘が入っていないものが多いものの、白く塗られた神馬像を見たら高見彰七の作品かもしれない。
傍示本の変遷を辿る
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で傍示本村を確認してみる。
北に和合村があり、南に裕福寺村、その少し南に部田村という位置関係だったのが分かる。
これらのうち、明治11年(1878年)に傍示本村、祐福寺村、部田村の3村が合併して春木村となったため、村名がそのまま町名になることはなかった。
なので、傍示本村、祐福寺村、部田村の集落や村域がどこだったのかを把握することが少し難しい。
傍示本については、傍示本交差点や傍示本公園に地名をとどめているので、ある程度は分かる。
ただ、傍示本村集落の中心はそれより東で、現在の地名でいうと中屋敷、市場屋敷、中通屋敷のあたりだ。
南北の幹線道路になっている県道36号線(諸輪名古屋線/1959年)は完全な新道で、これの元になった旧道は存在しなかった。
春日社があるのは集落の西の小山の上で、村を見下ろす格好になっている。
西にある池が蟹池で、町名も蟹池なのが気になる。
江戸時代に作られた農業用のため池だろうけど、蟹池の名前の由来は何だったのだろう。
1920年(大正9年)の地図を見ると、集落の東に南北の村をつなぐ道が通っている。
これで村同士の連絡はよくなったんじゃないだろうか。
集落の様子はほとんど変化が見られない。
時代は飛んで1968-1973年(昭和43-48年)、けっこう大きく変わっていて驚く。
道が通され、区画整理が行われ、現在の町並みの原型はこの頃までにほぼ完成している。
西の県道57号(瀬戸大府東海線)がまだないけど、このあたりまで伸びるのはだいぶ後になってからだろうか。
1970年代以降は南西の丘陵地も宅地開発されて春木台と名づけられ、多くの住宅が建つことになる。
町名変更について補足しておくと、明治22年(1889年)に諸輪村と和合村が合併して諸和村となり、明治39年(1906年)に春木村と諸和村が合併して東郷村となった。
東郷村から東郷町になったのは昭和45年(1970年)のことだ。
東郷町は昭和から現在に至るまで人口が増加傾向にあり、現在4万3,000人を超えている。5万人を超えれば東郷市になれるのだけど、今後は減少傾向が予想されているから難しいかもしれない。
日進市、みよし市、長久手市に続きたいところだろうけど、面積の狭さと鉄道が通っていないのがネックとなる。
地下鉄桜通線の徳重駅から更に延伸してもらえるといいのだけど、そんなわけにはいかないか(名古屋市営地下鉄で市外の駅は日進市の赤池駅だけで、それは名鉄豊田線とつないでいる)。
ここは誰の土地だったのか
春日社の前身の神明が勧請されたのは棟札からして1421年で間違いないのだろうけど、その前身に当たる社があったと個人的には考えている。
傍示本の集落が室町時代にできたとは思えず、古窯址からしても、飛鳥時代、遅くとも奈良時代には人が暮らしていただろう。
陶器作りは一人や二人でできるはずもなく、陶工が数人いればその家族もいたはずだから、それらの人たちが集落を作っていたとしてもおかしくない。
そもそももっと遡るのではないか。弥生時代や縄文時代にすでに人が暮らしていたとしても驚くに当たらない。
神明の前身があったとして、それがどんな神を祀る社だったのかは分からない。
最初にこの地にやってきたのはどんな人たちだったのだろう。
中世に近藤氏がいたということは、それ以前に関係者がいたということだろう。上にも書いたように、近藤氏は尾張氏本家に近い筋の人たちと聞いている。
傍示本城は加藤家が治めていたという話もあって、加藤といえば熱田の加藤家を思い浮かべる。
この加藤家は織田家とも近しい関係で、尾張における人質時代の竹千代(後の徳川家康)を預かっていたのが加藤図書助だった。
信長が桶狭間へ向かうとき、熱田社に戦勝祈願の酒を届けたのも加藤家だ。
懸仏にあるように近藤義行が藤原義行を名乗っていたとしたら、藤原と姻戚関係にあったということだろう。
熱田の藤原といえば、熱田社大宮司家を尾張氏から引き継いだのが藤原南家の藤原季範で、この季範の娘が源頼朝の母なので、源氏ともつながる。
熱田とのつながりを示すことがもう一つある。それは昭和時代の春日社の宮司が野々山正彦氏だったことだ。
日進や東郷町のほとんどの神社の宮司を加藤家が独占していたのに、傍示本と部田の春日社だけは野々山正彦氏で、この人は熱田の宮司で、景清社なども兼務していた。
現在はどうなっているのか分からないのだけど、傍示本や部田は古くから熱田との関係があったのだろうと思う。
以上のことからして、東郷町のエリアはもともと尾張氏が開拓した土地と考えられる。
姻戚関係が複雑に入り交じっているものの、尾張氏色が強いように思う。
言い方を変えれば、三河色は弱いということだ。
ただ、東郷(統合)だったり、和合だったり、諸輪だったり、豊明だったり、尾張と三河の合体を思わせる地名が多いことからすると、どこかで三河も入り込んできているのだろう。
最後にもう一つ、疑問を呈しておくと、どうして春日社だったのか、ということだ。
東郷町に現存する8社のうち3社が春日社なので、春日社の存在感が大きくなっている。
春日神といえば、鹿島であり、大和という印象が強いのだけど、もともとは尾張の二宮が発祥と聞いている。
現在の春日井市はかつては春日部などといっていた。
そのあたりとのつながりが見えると、また何か違うことが分かるかもしれない。
作成日 2025.7.6