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マシキトベ《眞敷刀俾》

マシキトベ《眞敷刀俾》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 なし(不明)
祭神名 眞敷刀俾命・他
系譜 (父)尾張大印岐
(夫)乎止与命
(子)建稲種命宮簀媛(美夜受比売)
属性 尾張氏
後裔 尾張氏
祀られている神社(全国) 不明
祀られている神社(名古屋) 下知我麻神社(熱田区/熱田神宮内)

『先代旧事本紀』に出てくる

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」で尾張氏の系譜のところに名前が出てくる。
 十一世孫の乎止与命(オトヨ)が尾張大印岐(オワリオオイミキ)の娘の眞敷刀俾(マシキトベ)を娶って一男が生まれたとある。
 十二世孫は建稲種命(タケイナダネ)となっているのだけど、乎止与命の子としていないところにちょっと引っかかりを感じる。
 一男が生まれたとあるから素直に取ればそれが建稲種命だろうけど、そうは書いていない。
 建稲種命は迩波県君(にわのあがたのきみ)の祖の大荒田(オオアラタ)の娘の玉姫(タマヒメ)を妻として二男四女が生まれたという。
 これらの系譜は『古事記』、『日本書紀』には登場せず、熱田神宮公式サイト)の縁起書『尾張國熱田太神宮縁起』(奥書に寛平二年(890年)とある)にも出てこない。 

 立ち位置でいうと、乎止与の妻で建稲種の母という立場の女性ということだ(『先代旧事本紀』は宮簀媛(ミヤズヒメ)については系譜の中では触れていない)。
 それだけなら特に注目することはなかったのだけど、熱田社にゆかりの深い下知我麻神社(熱田神宮内)の祭神となっていることで無視できない存在となる。
 上知我麻神社(熱田神宮内)で乎止与命を祀り、下知我麻神社で眞敷刀俾命を祀ることは何を意味しているのか。

 

千竈とはどこだったのか

 上知我麻神社と下知我麻神社は、『延喜式』神名帳(927年)に載っており、平安時代中期には上と下の二社が独立してあったことが分かる。
 場所については熱田だったのかそれ以外だったのか分からない。
 南区星崎の星宮社の本社裏にある上知我麻神社と下知我麻神社が元宮だという説もあるのだけど、個人的にはそうは考えていない。あれはたぶん遙拝所か何かだろう。
『和名類聚抄』(938年)の愛智郡の郷名に、千竃(ちかま)が載っており、この千竃と関係があるかもしれない。
 千竃は星崎あたりの海辺というのが通説だけど、『和名類聚抄』の郷名の並び順からするともっと北のような気がする。今の中川区、もしくは熱田台地の北あたりではいだろうか。
 平安時代末に作られたとされる『尾張國内神名帳』には千竈上名神、千竈下名神として載っており、正二位(上)とあるのでかなり格式の高い神社とされていたようだ。
 上と下が何を示しているのかもよく分からない。場所なのか格式なのか別の意味なのか。
 一説では鎌倉時代に熱田社近くに移されたというのだけど、そのへんもはっきりしない。
 江戸時代は上知我麻神社を源大夫社(げんだゆうしゃ)、下知我麻神社を紀大夫社(きたゆうしゃ)と呼んでいた。
 古代から中世、近世にかけて、この二社の祭神をどう認識していたのかは分からない。乎止与と真敷刀俾と考えていたかどうか。
 一つの社で相殿神として祀るのではなく独立した二つの神社で祀ったのも気になるところだ。分ける必要があったということだ。
 上知我麻神社と下知我麻神社は戦後に空襲で焼けた熱田神宮を再整備した際に境内に取り込まれる格好となった。

 

眞敷刀俾の立ち位置

 あらためて眞敷刀俾の立ち位置について考えてみよう。
 尾張氏系統の系図としてよく知られているのが京都丹後一宮の籠神社(このじんじゃ/公式サイト)に伝わる系図だ。
「本系図」(籠名神社祝部氏係図)と「勘注系図」(籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記)から成り、海部氏系図とも呼ばれる。
 初代を彦火明とし(天火明ではない)、十世孫を乎縫命(オヌイ)のまたの名を小止与命(オトヨ)とし、
十一世孫を建稲種命としている。
 小止与命の別名を稚産霊尊、乎縫命の別名を神皇産尊としていて混乱するのだけど、いずれにしても眞敷刀俾の名は出てこない。これは一体どういうことなのか。
 女性は書いていないかといえばそうではなく、たとえば乎縫命の妹の大倭姫命や、建稲種命の妹の日女命については書かれている。
 結局のところ、眞敷刀俾について書いているのは『先代旧事本紀』のみということだ。熱田社の縁起の『尾張國熱田太神宮縁起』にさえ出てこないというのも気になる。
 ただ、尾張氏の家に伝わる系図(海部氏系図とはまったく別のもの)にはちゃんと眞敷刀俾も載っていて、別名を大枝姫となっているので、『先代旧事本紀』の勝手な創作ということではないようだ。

 とりあえずこの系譜に従うとして、気になるのが眞敷刀俾の父とされる尾張大印岐は何者かということだ。
 そのあたりの詳しいことは『先代旧事本紀』にも書いていないので想像するしかないのだけど、まず個人名ではないというのは間違いないだろう。
 尾張の大いなる印岐(いみき)という意味の呼び名のようなものと考えられる。
 この印岐が八色の姓(684年)で制定された忌寸(いみき)のことという説もあるのだけど、個人的にはそうは考えない。天武天皇とは時代が違いすぎる。
 手がかりを尾張氏家の系図に求めると、別名を印色入日子としている。
 これは重要な証言で、印色入日子(イニシキノイリヒコ)は『古事記』にも『日本書紀』にも登場する垂仁天皇の皇子だ。『日本書紀』では五十瓊敷命(イニシキ)となっている。
 母は垂仁天皇皇后の氷羽州比売命/日葉酢媛(ヒバスヒメ)と、記紀も尾張氏家系図もいっているので、そこは共通している。
 印色入日子/五十瓊敷命は大足彦尊の兄で、大足彦尊が後に景行天皇として即位することになる。
 これらを考え合わせると、尾張大印岐こと印色入日子は天皇の皇子であり、眞敷刀俾も天皇の直系ということだ。
 このあたりの人間関係はとても複雑で把握するのが難しい。
 垂仁天皇の先代にあたる崇神天皇こと御間城入彦五十瓊殖天皇は、御眞木の入り婿という意味なので、このあたりから天皇家と尾張氏の関係が非常に濃かったことが分かる。
 しかし、誉田天皇(応神天皇)以降にそれが崩れていくことになる。

 話を眞敷刀俾に戻すと、尾張氏家系図にある大枝姫とは何かということだ。
 そのまま読むと”えだ”だけど、”え”で”おおえ”の姫とも読める。
 愛媛県の例があるように、”え”が愛だとすると大枝姫は大愛姫、大いなる愛智の姫という意味になるかもしれない。
 乎止与は存在感が薄く、個人的には早死にしたのではないかと考えていて、その息子の建稲種も若くして殺されている。
 それが「さるかに合戦」として伝えられているという話は建稲種の項に書いた。5世紀中頃(450年頃)のことだという。
 尾張氏家系図によると、建稲種の妹に小止姫がおり、これが記紀がいうところの宮簀媛(ミヤズヒメ)のことで、別名を宮津姫、または大中津姫という。
 その大中津姫が仲哀天皇の皇后になるのだけど、それは宮簀媛の項で詳しく書くことにする。

 まとめると、尾張氏と天皇家のいわば身内の争いの中で夫と息子を亡くした眞敷刀俾は娘の宮簀媛とともに尾張氏や尾張を守っていかなければならなかったと考えられる。
 だからこそ、大愛姫(大枝姫)と称されたのだろうし、死後に神として祀られたのも当然といえば当然のことだっただろう。
 逆にいえば、そんなことでもなければ神社の祭神として祭り上げられることはなかったはずだ。尾張氏本家の嫁というだけでは神社の祭神にはなれない。
 火上の里で祀られた火上老婆霊は宮簀媛だと推測していたけど、眞敷刀俾の方がふさわしいようにも思えてきた。

 

眞敷刀俾の母は誰か

 尾張大印岐が印色入日子/五十瓊敷命だとして、尾張大印岐の妻、真敷刀俾の母は誰かということが気になる。
 記紀はそのあたりについて言及がなく、尾張氏家系図を見ると沼代郎女(ヌシロノイラツメ)となっている。
 沼代郎女は『古事記』にも出てくる名前で、大帯日子淤斯呂和気命(景行天皇)と妾との間の子として豊戸別王(トヨトワケ)とともに名を挙げられている。
 妾は妃よりも下の位なので名前を出さなかったのかもしれないけど、あえて名を伏せた可能性もある。
『日本書紀』は妃の襲武媛(ソノタケヒメ)との間に、国乳別皇子(クニチワケ)、国背別皇子(クニソワケ/または宮道別皇子)、豊戸別皇子(トヨトワケ)が生まれたといっているので、『古事記』の妾は襲武媛を指すのかもしれない。
 尾張氏家系図でも沼代郎女の母は襲武姫となっている。

 整理すると、垂仁天皇皇子の印色入日子/尾張大印岐と景行天皇の皇女の沼代郎女との間に生まれたのが真敷刀俾ということになる。
 ただ、垂仁天皇と景行天皇が親子だとすると、父の息子と孫娘が婚姻したことになり、ちょっと無理があるかもしれない。
 婚姻のサイクルが今よりも短くて15年とか20年とかが一世代とすれば年齢的には可能だろうけど。

 

隠したかったことと伝えたかったこと

 尾張氏家の系譜が正しいかどうかの判断は私にはできないのだけど、『古事記』も『日本書紀』も何かを隠したり誤魔化そうとしたのは間違いない。
『先代旧事本紀』も尾張大印岐を垂仁天皇皇子の印色入日子と書けなかったのは遠慮というか忖度だったのだろう。
 記紀もその他の書も、隠しながら伝えるという難しい課題を克服しきれずに矛盾が噴出していて、作者たちは途中で整合性を取ることを半ば諦めたようにも思える。
 そりゃあ無理だよという話だ。半分も本当のことを書けないのに事実をそのまま伝えられるわけがない。

 

少しだけ補足

 最後に一つ伝えておきたいのは、少なくとも誉田天皇(応神天皇)までは天皇家と尾張氏は渾然一体だったということだ。
 国譲りは一度ならず何度も起きており、乎止与、建稲種、眞敷刀俾が生きていた時代もその一つだった。
 欠史八代と称される初期の天皇を架空と考えている人もいるけど、あれは事実上尾張氏の家の人たちだ。
 詳しいことを書くとボロが出るので書けなかっただけで、記事の内容が薄いからといっていなかったわけではない。
 実際は天皇家と尾張氏という二大勢力といった単純な図式ではなくて、少なくとも三大勢力があって、もう少し狭い”何々家”という単位で捉える必要がある。
 それを知るためには一木、二木、三木を理解しなければいけないのだけど、それはまた別の機会にしたい。
 いえるのは、舞台は尾張だということだ。九州とか倭(大和)とかを見ていると何も見えない。

 

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