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ヒカミウバノミタマ《火上老婆霊》

ヒカミウバノミタマ《火上老婆霊》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 火高里之大老婆、大老婆公、老姥神様
祭神名 火上老婆霊
系譜 不明
属性 火上の里の地主神(?)
後裔 不明
祀られている神社(全国) なし(不明)
祀られている神社(名古屋) 朝苧社(緑区)

火上の里の老婆とは?

 氷上姉子神社地図)の300メートルほど北東にある標高約30メートルの姥神山(うばかみやま)と呼ばれる山の中に朝苧社(あさおしゃ)と称する社が鎮座している。
 この社で祀られている祭神を火上老婆霊(ヒカミウバノミタマ)という。聞き慣れない神だ。
 その正体については諸説あってはっきりしない。
 火上(ひかみ/ほのかみ)の地主神とされたり、宮簀媛(ミヤズヒメ)の母神とされたりすることもある。
 宮簀媛の母は真敷刀俾(マシキトベ)とされるのだけど、火上老婆霊は真敷刀俾のことかというと必ずしもそうではないようで、火高里之大老婆や大老婆公、老姥神様などと呼ばれたことをから年老いた宮簀媛のことではないかという考えもある。
 鍵を握っているのが建稲種(タケイナダネ)の存在だ。
 まずはこのあたりの人間関係をあらためて整理することにしよう。

 

記紀と熱田社の縁起を混同してはいけない

『古事記』、『日本書紀』は日本武尊(ヤマトタケル)が景行天皇に命じられて東征に出た際、尾張に立ち寄って尾張氏の娘の宮簀媛/美夜受比売をめとったといっている。
 日本武尊は草薙剣を置いたまま伊吹山の神を倒しにいって返り討ちに遭い、伊勢の能褒野(のぼの)で命を落とすことになる。『日本書紀』はこのとき30歳だったと書いている。
 一人残された宮簀媛は年を取って自分では草薙剣を管理できなくなったため、剣を祀るための社を熱田に建てたというのは熱田神宮web)の縁起書『尾張國熱田太神宮縁起』(奥書には寛平二年(890年)とある)にある話だ。『古事記』も『日本書紀』も熱田社の創祀については何も書いていない。

 宮簀媛の扱いについては『古事記』と『日本書紀』で少し違いがある。
『古事記』は美夜受比売(ミヤズヒメ)を尾張国造の祖とし、『日本書紀』は”尾張氏之女”としか書いていない。
 両方に共通するのは、建稲種を登場させていないことだ。熱田の縁起書は建稲種を宮簀媛の兄としているので、出てこないことが不自然に思える。
 ただ、『古事記』は応神天皇の皇妃にまつわる系譜のところで建伊那陀宿禰の名前を出しているので存在をまったく無視しているわけではない。
 でも建稲種って日本武尊東征のときに副将軍じゃなかったけ? と思ったら、それは『尾張國熱田太神宮縁起』が書いているだけで『古事記』や『日本書紀』にはない話だった。このあたりのことを混同してはいけない。

 それにしても、このとき尾張氏には当然当主がいたはずで、そこを飛ばして日本武尊と宮簀媛の婚姻はあり得ず、東征があったとすれば(記紀が書いているような東征はなかっただろうけど)それも成り立たない。
『先代旧事本紀』の天孫本紀や京都丹後一宮の籠神社(このじんじゃ/web)に伝わる海部氏系図(勘注系図)によると、天火明(アメノホアカリ)から数えて十一世孫を乎止与(オトヨ)とし、乎止与が尾張大印岐(オワリオオイミキ)の娘の真敷刀俾(マシキトベ)を娶って一男が生まれ、それが十二世孫の建稲種だといっている。
 あれ? 宮簀媛は? と思うのだけど、宮簀姫は『先代旧事本紀』にも尾張氏の系図にも出てこない。『先代旧事本紀』は乎止与と真敷刀俾との間の子を一男としているので、そもそも女子の存在はない。
 だとすると、宮簀姫の母は真敷刀俾とは別の女性で、建稲種と宮簀姫は異母兄妹ということになるだろうか。
 それは話として成立することなのか?

 父・乎止与と母・真敷刀俾との間に長男・建稲種、長女・宮簀媛がいて、宮簀媛は日本武尊と婚姻し、建稲種は日本武尊東征に副将軍として従い、帰りに駿河の海に落ちて死に、老いた宮簀媛が草薙剣を祀るために熱田社を創建したというのは、『尾張國熱田太神宮縁起』が書いているだけということをしっかり認識しておく必要がある。
 何かしらの事実を反映した伝承なのだろうけど、全部が本当とは思えない。
 記紀は記紀でおかしなことになったのは、建稲種を登場させなかったからだ。出さなかったのには理由がある。出してしまうといろいろ面倒なことになるからだ。
 そのあたりについては建稲種の項に書いたのでよかったら読んでみてください。

 

火上老婆があの場所で祀られていることの意味

 話を戻すと、火上老婆は誰のことかということだ。
 氷上姉子神社が建っているのは火上山の東の麓で、もともとは火上山の上にあったと伝わっている。元宮(地図)が今も残されている。
 この火上山を中心に、西の齋山(地図)、東の姥神山はすべてセットになっている。
 齋山は日本武尊と宮簀媛が契りを交わした場所という伝承があり、現在は齋山稲荷社が建っている。
 姥神山に祀られているのが火上老婆霊で、麓には弥生時代から古墳時代にかけての石神遺跡石神白龍大王社)がある。
 姥神山の朝苧社は今でこそ小さな祠だけになっているものの、かつては氷上姉子神社の第一摂社として重要視され、江戸時代中期の1745年に書かれた『氷上山之図』を見ると、天神、山神、山王などの社があって、姥神山全体を境内地としていた様子が見て取れる。
 この社について『張州雑志』は尾張大印岐の妻とし、『尾張名所図会』は火高の里の地主と書いている。

 もう少し視点を広げると、齋山の西は名和(なわ)と呼ばれる土地で、日本武尊東征の折、西の伊勢から船で海を渡って名和から尾張に上陸したという伝承が残っている。
 近くには日本武尊を祀る船津神社(地図)があり、尾張南部では最古級(4世紀末)のカブト山古墳(地図)や6世紀のものとされる名和古墳群(地図)もある。
 今では想像するのが難しいのだけど、かつては名和のあたりが天白川の河口で、西はすぐ伊勢湾だった。
 東は南区の星崎あたりから北の熱田までは入り海で、火上と熱田は入り海を隔てた対岸という位置関係にあったということだ。
 尾張の北は庄内川、南は天白川が重要河川で、川や湊は物流の要なので、ここを押さえていないということはあり得ない。
 庄内川河川は多くの遺跡が知られているのに天白川河川はほとんど知られていない。それが何を意味するかはちょっと考えれば分かる。
 天白川の方がより重要で隠したということだ。
 一般的には知られてない遺跡がこのあたりにはたくさんある。むしろほとんどが遺跡といっていい。
 氷上姉子神社のあたりはもちろん、大高城跡や大高緑地などもすべてそうだ。
 町中に不自然に残された緑地や公園などは遺跡である場合が多い。遺跡の上に学校や公共施設を建てるのも常套手段だ。そうすれば掘り返されることなく守ることができるからだ。
 その隠しっぷりは本当に徹底していて、ネット検索では一件もヒットしなかったりするのでちょっと恐ろしくなる。専門家と呼ばれる大学教授あたりでも教えてもらっていないのでほとんど知らないのだと思う。

 

火上の主神とは誰か?

 結局何が言いたいかというと、この重要拠点である火上の地主神ともいえるのが火上老婆だとすれば、それはもう最重要人物だったということだ。
 尾張氏当主の妻とか母とか、もしくは当主そのものだったかもしれない。
 宮簀媛をまったく架空の人物とは思っていないけど作り出されたイメージキャラクターには違いない。
 日本武尊の物語も記紀や熱田社の縁起が語るそのままではあり得ない。
 やはりキーパーソンは建稲種だ。
 建稲種と宮簀媛の父とされる乎止与(オトヨ)の影は薄い。『先代旧事本紀』でも乎止与と先代の淡夜別(アワヤワケ)との関係が書かれてらず、もしかしかたら養子かもしれない。記紀が伝える宮簀媛と日本武尊の話でも乎止与は出てこないところを見ると、そのときすでに亡くなっていたとも考えられる。
 建稲種の項で『さるかに合戦』は建稲種のことを語り継ぐために作られた物語ということを書いた。
 熱田縁起では東征の帰りに駿河の海に落ちてなくなり、三河の幡豆に遺体が流れ着いたといっているけど、それはちょっとあり得ない。
 外海の駿河湾から内海の三河湾に何かが流れ着くなどということは潮の流れを考えたら不自然すぎる。
 尾張氏の家に伝わる話では、矢作川の上流で殺されて川を下って幡豆に流れ着いたという。
 地図を見ると矢作川は幡豆よりもだいぶ西の一色の西で三河湾に注いでいるのだけど、吉良のすぐ西を流れる矢作古川がもともとの矢作川の本流だった。かつてはもっと広い川だったので矢作川を下って幡豆に流れ着いたというのは無理のない話だ。
 そして、これが重要なのだけど、その建稲種の遺体を埋めて祀ったのが氷上姉子神社だというのだ。
 だとすれば、建稲種を祀ったのは誰だったのかということになる。
 母の真敷刀俾だったのか、妻の玉姫だったのか、妹の宮簀媛だったのか。その全員だった可能性もある。
 建稲種は一男だったようなので男兄弟はいない。子供は二男四女がいたと『先代旧事本紀』にあるけど、建稲種が亡くなったときはまだ幼かっただろうし、乎止与がすでに亡くなっていたとしたら、女性が尾張氏を守る必要に迫られただろう。
 それらのうちの誰かが老齢まで生きて建稲種を祀り続け、死後にその女性が火上老婆として祀られたと考えると納得できる。
 妻の玉姫は建稲種亡き後、実家の荒田に戻って過ごし、その後田縣神社(web)で祀られたと田縣神社の社伝にあるので、そうなると残されたのは母の真敷刀俾か妹の宮簀媛ということになるのだけど、宮簀媛は本当に建稲種の妹なのかという疑問もある。
 妹(いもうと)といえば年下の女兄弟のことだけど、古代における妹(いも)は恋人や妻のこともそういった。
 日本武尊のイメージの大部分は建稲種と重なっている。だとすれば、建稲種と宮簀媛はある種の婚姻関係にあったとも考えられる。
 玉姫が実は宮簀媛のことという可能性もあるし、あるいは宮簀媛はもう一人の妻だったかもしれない。
 建稲種の遺体を火上で祀っていたのは宮簀媛で、草薙剣も建稲種のものだったのではないか。
 年老いた宮簀媛が祀れなくなった建稲種を草薙剣に見立てて熱田社に移して祀り、宮簀媛は火上に埋葬されて火上老婆として祀られたと考えたらどうだろう。
 すべてのピースが収まるべき場所にピタリと収まったように思うけど、これは私の妄想でしかないだろうか。

 

補足と機織女のイメージ

 火上老婆を祀る朝苧社(あさおしゃ)の社名について少し補足しておきたい。
 朝はおそらく”麻”のことで、苧は”からむし”のことだろう。
 苧(からむし)の茎の皮から採れる繊維は非常に丈夫で古くから利用されてきた。自生していたものの他に縄文時代から栽培されていたとされる。
 紡(つむ)いで糸にし、糸をより合わせて紐や縄にして縦横に織れば布になった。
 ちなみに、名和の地名も縄に由来するとされる。
 古代においては糸を作る専門の麻績部(おみべ)や布を織る機織部(はとりべ)といった職業集団がいたことも知られている。
 機織りは神の衣を織る女性のことでもあり、それは巫女のイメージとも重なる。
 火上で宮簀媛は神となった建稲種のために機織りをして過ごしていたのかもしれない。
 その宮簀媛が暮らした館は火上山の元宮のような気がしている。

 

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