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キビノタケヒコ《吉備武彦》

キビノタケヒコ《吉備武彦》

『古事記』表記なし
『日本書紀』表記吉備武彦
別名吉備武彦命、吉備建彦命、吉備臣建日子
祭神名吉備武彦命・他
系譜(父)稚武彦(?)(『新撰姓氏録』)
(妃)吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)
(子)鴨別、浦凝別、御友別、兄媛、
属性日本武尊従者
後裔本文参照
祀られている神社(全国)久佐奈岐神社(静岡県静岡市)、他
祀られている神社(名古屋)
龍神社(熱田神宮web)摂社)

本当に吉備の人?

吉備のタケは本当に吉備地方の人間だったのか?
そんなことは当たり前じゃんと言われてしまうと返す言葉もないのだけど、ヤマトタケル東征の話が創作された物語だとしたらどうなんだろうと思う。
吉備地方から来た人ではなく、こちから吉備地方に行った人という可能性はないだろうか。
そのあたりの問いというか疑問を念頭に置きつつ、記紀その他の史料や神社伝承などについて見ていくことにする。

『古事記』が伝えない吉備武彦

私が吉備武彦に違和感のようなものを抱く理由がふたつあって、ひとつは『古事記』のヤマトタケル東征のところで登場しないことで、もうひとつは熱田社(熱田神宮/web)の本社裏の大事な場所に祀られていた(現在も)ことだ。
熱田社の話は後回しにして、まずは『古事記』の倭建命(ヤマトタケル)東征の部分をあらためて読み返してみたい。

『古事記』に登場しないと言い切るのは必ずしも正しくなくて、ヤマトタケルが東国へ出発する前に天皇は吉備臣(きびのおみ)等の祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副えて、柊(ひいらぎ)の八尋矛(やひろほこ)を授けたという記述がある。
名前は違うものの、吉備臣の祖といっていることからすると、この御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)が吉備武彦に当たる人物とも考えられる。
柊の八尋矛が文字通りのものなのか、何かの暗示なのかはよく分からない。武器というより祭器のようなものかもしれない。
吉備地方は古くから祭祀全般を扱っていたことが遺跡から発掘される土器(特殊器台)などによって指摘されていて、そのあたりにも何か関係があるだろうか。
『日本書紀』ではもうひとりの副将軍として大伴武日命(オオトモノタケヒ)がつけられたとあるのだけど、ここでは出てこない。
御鉏友耳建日子はヤマトタケル東征の最中には登場せず、柊の八尋矛がどうなったかについても書かれない。

『日本書紀』ではそこそこ活躍する吉備武彦

続いて『日本書紀』の該当部分を読んでみる。
日本武尊(ヤマトタケル)は、西の熊襲などを征伐した後、東の賊を討つ前に斧と鉞(まさかり)を受け取っている。
それに続く原文は”以再拜奏之曰”と書かれており、再拝して奏上したのは西の熊襲を討って東にまだ従わない賊がいるので行って討伐しましょうといったことだ。
斧と鉞は武の象徴かもしれないけど、実用としての武器ではなさそうだ。
『古事記』がいう御鉏友耳建日子の名前には”鉏”(スキ)が入っていることも何か通じるものが感じられる(鉏は小刀や鋤(すき)のこと)。
そこで景行天皇は、吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒ)に命じて、ヤマトタケルに従わせたとある。
つまり、ヤマトタケルが選んだメンバーではなく、景行天皇が選んだ人選ということだ。親心からかもしれないし、お目付役といった役割だったかもしれない。
更に七掬脛(ナナツカハギ)を膳夫(かしわで)にしたともいっている。
膳夫は平たくいうと天皇の食事係のことだけど、わざわざここに書いているということはもう少し深い意味がありそうだ。
”カシハ”は槲葉のことで、古くから酒や食べ物を乗せる容器として使われたことがカシハデの由来とされる。
七掬脛(ナナツカハギ)の脛(はぎ)は”すね”のことだけどここでは防具のことで、”掬”(つか)は掬(すく)うという意味だけど、ここでは長さのことだろうから、七掬の脛は長い防具という意味になる。
ただ、防具が料理人ではおかしいので、七掬脛はそういう名前(象徴名)の人物ということになる。

吉備武彦は東征中にも出てくる。
東国をあらかた従わせたものの、越国(こしのくに)の一部が従わなかったので吉備武彦を派遣して地形や人民の様子を探らせたとある。
その後、ヤマトタケル一行は陸奥国の蝦夷(えみし)たちを従わせて引き返し、信濃に至ったところで険しい山道に阻まれて進退窮まる。
そこに白い鹿に姿を変えた山の神がヤマトタケルの前に現れ、ヤマトタケルは誤ってその白鹿(山の神)を殺してしまった。
更に道に迷うものの、白い狗(いぬ)が出てきて道案内をしてくれたことでどうにか美濃国に出ることができたのだった。
吉備武彦は越(こし)から戻って美濃国でヤマトタケルと合流したといっている。

ヤマトタケルは尾張国で宮簀媛(ミヤズヒメ)をめとって何ヶ月か過ごすのだけど、吉備武彦も一緒に留まっていたらしい。
というのも、膽吹山(いぶきやま)の荒ぶる神退治に出向いて体調不良に陥り、伊勢の能褒野でいよいよ駄目だとなったとき、吉備武彦を走らせて天皇に報告させているからだ。
『古事記』の御鉏友耳建日子とは違って『日本書紀』の吉備武彦はそれなりに活躍が書かれていて、ある種の実在感がある。
大伴武日については、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)でヤマトタケルから靫部(ゆけいのとものお)を与えられたといっている。
気になるといえば、陸奥国で捕虜にした蝦夷たちを神宮(伊勢の神宮/web)に獻(ささ)げたというのはどういう意味なのか。
この蝦夷たちは神宮で昼夜を問わず騒いだので倭姫命(ヤマトヒメ)から苦情が入り、御諸山(大和の三輪山)に移されることになり、そこでも勝手に木を切ったり里で騒いだりしたため、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に分け送ることにして、それらが佐伯部の祖になったとする。

そっけなさすぎる『先代旧事本紀』の不審な態度

『古語拾遺』はともかく、『先代旧事本紀』にも吉備武彦は出てこない。それどころか、『先代旧事本紀』のヤマトタケルに対する態度にひどく違和感を覚える。
『古事記』と『日本書紀』があれほど詳細にヤマトタケルの活躍を描いているのに、『先代旧事本紀』はヤマトタケルをわずか数行で済ませている。この不自然なまでのそっけなさをどう受け取ればいいのだろう。
ヤマトタケルの父である第12代景行天皇についてはかなり詳しく書いている。
十二年の秋七月には天皇自らが筑紫に出向いて熊襲を討ったといっている。
その中でヤマトタケルに関する記述は、二十年の冬十月に日本武尊を遣わして熊襲を討たせた(このとき尊の年は十六歳だった)ことと、五十一年に日本武尊は東の蝦夷を平らげて帰ろうとしたが帰ることができず、尾張国で亡くなったという、わずか二行しかない。
”尾張国で亡くなった”という爆弾発言さえもしている。
基本的に『日本書紀』に沿って書かれている『先代旧事本紀』が、ここまで『日本書紀』と違うことを書くのは珍しい。
尾張国で亡くなったとした場合、伊勢の能褒野で亡くなって白鳥になって飛び去ったという伝説も成り立たなくなる。
更に亡くなった年齢も違っている。『日本書紀』が30歳だったといっているのに対して『先代旧事本紀』は景行天皇20年のとき16歳だったとしているので、51年では47歳ということになる。
『先代旧事本紀』の記述はそっけないがゆえにかえって信憑性があるように感じられる。

吉備津彦との関係はよく分からない

吉備武彦の後裔について見る前に、よく似た名前の吉備津彦(キビツヒコ)について確認しておくことにする。
吉備に関係したよく知られた人物としては、吉備武彦よりもむしろ吉備津彦の方が有名だ。桃太郎伝説のモデルともされる人物で、備中国一宮の吉備津神社(web)の祭神にもなっている。
時代は吉備津彦の方が前で、第7代孝霊天皇皇子で、いわゆる四道将軍のひとりとして西道に派遣されとされる。
ただ、吉備津彦はまたの名で、記紀ともに本来の名前は彦五十狭芹彦命/比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリヒコ)としているので、吉備武彦とは直接的な関係ではないのかもしれない。
ちょっと混乱しがちなので、吉備武彦と吉備津彦は別人だということだけ再確認しておく。

出自と系譜について

吉備武彦の出自について、『日本書紀』は何も書いていない。
景行天皇51年条で、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)がヤマトタケルの妃となって武卵王(タケカヒコ)と十城別王(トオキワケ)を生んだとする。
『古事記』はヤマトタケルの系譜のところで吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)の名を挙げており、その妹の大吉備建比売(オオキビタケヒメ)が建貝児王(タケカイコ)を生んだと書いている。
娘と妹の違いや、子供の違いはあるものの、『吉備臣建日子』がいう吉備臣建日子は『日本書紀』の吉備武彦と同一と見ていい。
だとすれば、東征のときに従った御鉏友耳建日子と吉備臣建日子(吉備武彦)はやはり別人と見るべきか。

その他、吉備武彦の子供の名が第15代応神天皇のところで挙げられる。
応神天皇の妃となった兄媛(エヒメ)とその兄たちなのだけど、娘のひとりである吉備穴戸武媛がヤマトタケルの妃になっておきながらヤマトタケルの孫に当たる応神天皇の妃にもなるというのはあり得ないので、この系譜はそのまま受け取るわけにはいかない。
ただ、それらの後裔を自認する氏族がいる以上、無視もできない。
『日本書紀』応神天皇二十二年条に、天皇の妃の兄媛が登場し、兄媛は吉備臣(きびのおみ)の祖先の御友別(ミトモワケ)の妹といっている。
ここでは兄媛や御友別を吉備武彦の子とは書いていないのだけど、『日本三代実録』が吉備武彦の子として浦凝別(ウラコリワケ)、御友別、鴨別、兄媛を記していることから、兄媛は吉備武彦の娘だろうということになる。
『日本書紀』はこれらの兄弟たちに吉備国を分割して分け与えたと書いている。
ということは、翻って考えると、吉備武彦の時代は吉備を支配していなかったということになるのではないか。父である吉備武彦が支配していた吉備国を兄弟で分けるのであれば当たり前のことで、わざわざ応神天皇が分け与えたと書く必要はない。
吉備武彦は景行天皇の命でヤマトタケル東征に従軍したということからすると、中央に住む豪族、もしくは天皇の臣下だったと考えるべきではないだろうか。

吉備武彦関係の後裔

『先代旧事本紀』の応神天皇記はあっさりした内容で、吉備武彦関連の記述は何もない。
「国造本紀」の中で、成務朝(ヤマトタケルの異母弟)に池田坂井君(いけだのさかいのきみ)の祖の吉備武彦命の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を盧原国造(いおはらのくにのみやつこ/駿河国)に定めたという記載がある。
その他、吉備氏関係としては、成務朝に角鹿国造(つぬがのくに/後の越前国)として吉備臣の祖・若武彦命(わかたけひこ)の孫の建功狭日命(たけいさひ)が、景行朝に葦分国造(あしきたのくにのみやつこ/肥後国)として吉備津彦命の子の三井根子命(みいねこ)が定められたとある。
吉備国の国造としては、崇神朝に吉備中県国造(きびのなかつあがたのくにのみやつこ)として神魂命の十世孫の明石彦(あかしひこ)が、景行朝に吉備穴国造(きびのあなのくにのみやつこ)として和邇臣と同祖の彦訓服命(ひこくにぶく)の孫の八千足尼(やちのすくね)が、成務朝に吉備風治国造(きびのほむじのくにのみやつこ)として多遅麻君(たじまのきみ)と同祖の若角城命(わかつのき)の三世孫の大船足尼(おおふなのすくね)がそれぞれ定められたとする。

『日本書紀』の応神天皇記では、川嶋県(かわしまのあがた)を御友別の長子の稻速別(イナハヤワケ)に、上道県(かみつみちのあがた)を二男の仲彦(ナカツヒコ)に、三野県(みののあがた)を三男の弟彦(オトヒコ)に、波区芸県(はくぎのあがた)を御友別(ミトモワケ)の弟の鴨別(カモノワケ)に、苑県(そのあがた)を御友別の兄の浦凝別(ウラコリワケ)に与え、妃の織部(はとりべ)を兄媛に与えたと書いている。
それぞれの後裔を以下の通りとする。
稻速別 下道臣(しもつみちのおみ)
仲彦 上道臣(かみつみちのおみ)、香屋臣(かやのおみ)
弟彦 三野臣(みののおみ)
鴨別 笠臣(かさのおみ)
浦凝別 苑臣(そののおみ)

『新撰姓氏録』は畿内の氏族名鑑なので関連氏族についての記載は少ないのだけど、左京皇別の下道朝臣を吉備朝臣同祖で稚武彦命の孫の吉備武彦命の後とし、右京皇別の真髪部を稚武彦命の子の吉備武彦命の後としている。
これからすると、吉備武彦の父または祖父は稚武彦命(ワカタケヒコ)ということになり、『日本書紀』が書いていない情報がここに載っていることになる。
『日本書紀』は稚武彦命を第7代孝霊天皇と絙某弟(ハエイロド)との間の子としており、孝霊天皇と絙某弟の姉の倭国香媛(ヤマトクニカヒメ)との子である吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)とは異母兄弟ということになる。
しかし、吉備氏の系譜にはいろいろ問題や疑問も多いため、これをそのまま信じることはできない。
そもそも、第7代孝霊天皇の子の稚武彦/吉備津彦と第12代景行天皇時代の吉備武彦を親子や祖父と孫の関係とするのは無理がある。
それでも、吉備氏が天皇と近い関係にあった氏族だった可能性は高い。
実際、稚武彦の娘の播磨稲日大郎姫命(イナビノオオイラツメ)は景行天皇の皇后になっている。

ついでに書いておくと、『日本書紀』の景行天皇記では、吉備穴戸武媛とヤマトタケルとの間に生まれた武卵王を讃岐綾君(さぬきのあやのきみ)の始祖とし、十城別王を伊予別君(いよのわけのきみ)の始祖としている。

吉備地方で祀られない吉備武彦

吉備国は律令時代に備前国、備中国、備後国に分割され、それぞれに吉備津神社が建てられてすべて後に一宮となった。
本社に当たるのが岡山市北区にある吉備津神社で、主祭神として大吉備津彦命を祀っている。
備前国一宮(岡山市北区)の吉備津彦神社(web)や備後国一宮(岡山県福山市)の吉備津神社(web)も同様だ。
三社に共通するのは、吉備武彦を相殿神としても祀っていないことだ。このことからも分かるように吉備地方における吉備武彦の存在感は薄い。
全国で見ても、吉備武彦を主祭神として祀っている神社はほとんどないのではないかと思う。
相殿神や境内社で祀られるところがあるとすれば、ヤマトタケル東征絡みの神社だろう。
そのひとつが熱田神宮だ。

熱田社はどうして吉備武彦を重要視したのか

江戸時代の『尾張名所図会』(1844年)を見ると、一之御前社で大伴武日命を祀り、龍神祠で吉備武彦命を祀っていたことが分かる。
二社はそれぞれ本社裏手の北西と北東にあり、本社を後ろから守るような恰好になっている。
この時代、本社で祀る熱田大神を誰と考えていたかは諸説あるものの、本社と並んで建つ土用殿では草薙剣を祀っていたことからするとヤマトタケルという意識が強かったかもしれない。
現在の熱田神宮では一之御前神社を天照大神の荒魂とし、龍神社で吉備武彦命と大伴武日命をあわせて祀っている。
一之御前社の創建は景行天皇時代とも、天武天皇時代ともされるのだけど、実はこの一之御前社こそが熱田社の始まりかもしれない。
もともとの祭神は当然ながらアマテラスではないし、大伴武日命や吉備武彦命でもない。尾張氏の祖というべき人物のはずだ。天火明(アメノホアカリ)よりももっと前の。
江戸時代以前は、この一之御前社に大伴武日命と吉備武彦命を一緒に祀っていたようで、江戸時代前期の1686年に熱田社大宮司が別々に祀ることを願い出て認められ、龍神社で吉備武彦命を祀るようになったという経緯がある。
いずれにしても、そういった熱田社の重要な社で大伴武日命と吉備武彦命を祀っていたという事実は軽くない。それだけ尾張氏が2人を重要視していたということだし、尾張氏や尾張国と近しい関係にあったことが推測できる。
”トモのタケ”と”キビのタケ”、”ヤマトのタケ”、尾張国から東征の副将軍として従ったとされるのが”タケのイナダネ”(建稲種)と、すべて”タケ”つながりになっているのは偶然ではない。
あるいはこれは、すべて一人の人物に集約されるのかもしれない。
それが吉備国では重視されず尾張国で重視されたとなると、吉備武彦は尾張側の人間だったのではないかと思えるけどどうだろう。

久佐奈岐神社が伝えること

最後にもうひとつ、久佐奈岐神社(web)について少し書き加えておきたい。
現在の静岡県静岡市にある神社で、『延喜式』神名帳(927年)にある「駿河国廬原郡 久佐奈岐神社」に比定されている。
『駿河国風土記』に成務天皇元年に官幣を奉るという記事がある古い神社で、ここの祭神がとても興味深い。
主祭神の日本武尊に加えて弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬胸脛命、稚武彦命、御鉏友耳武彦命を祀るとしている。
ヤマトタケル東征に従った人たちで、『古事記』と『日本書紀』の合わせ技のような顔ぶれになっている。
上にも書いたように御鉏友耳武彦命は吉備臣の祖でヤマトタケル東征に従わせたと『古事記』がいっている人物、膳夫七掬胸脛命は『日本書紀』に登場するヤマトタケル東征の従者とされた人だ。
吉備津彦の異母兄弟である稚武彦命が入っていて吉備津彦が入っていないのは不自然だけど、それにしてもこのメンバーはユニークだ。
記紀に合わせて祭神を決めたのか、もっと以前からの根拠があるのか。
久佐奈岐神社社伝によると、東征の後、吉備武彦が廬原郡を賜り、この地で日本武尊を祀ったのが始まりという。
廬原郡といえば、『先代旧事本紀』の国造本紀で、成務朝に吉備武彦命の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を盧原国造(いほはらのくにのみやつこ)に定めたとあることからして、まったく根拠のない作り話とはいえない。
実際には国造もしくはその子孫が祀ったのが始まりの可能性が高そうだ。

結論ともいえない結論

以上見てきたように、吉備武彦は名前に吉備は入っているものの、吉備地方の人ではないというのが個人的な見解だ。吉備出身か、吉備にゆかりのある人物かもしれないけど、吉備を本拠とした人物ではないだろう。吉備地方における吉備津彦と吉備武彦の扱いの差を見ればそれは明かだといえる。
ヤマトタケル東征の話が作り話だったと仮定した場合はどうなるか。それでも吉備武彦関連の系譜があり、吉備武彦の後裔を自認する一族がいて、少ないながらも神社の祭神となっている以上、吉備武彦に相当する人物が実在したと考えるのが妥当だ。あるいはそれは一人ではないかもしれない。
『日本書紀』がいうところの吉備武彦を越国に派遣したということと、『先代旧事本紀』の国造本紀が書いている成務朝に角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)を吉備臣の祖の若武彦命(ワカタケヒコ)の孫の建功狭日命(タケイサヒ)に定めたということはどこかでつながっている。
氏族の首長という立場ではなかったものの、有能なひとりの武将だったと考えれば、吉備武彦像がぼんやりながら見えてくるような気がする。

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