ヤマトタケルのお供として名を残す
『日本書紀』では大伴武日連、他の史料では大伴健日連とも表記される。 『古事記』には出てこない。 第12代景行天皇の時代、倭武尊/日本武尊(ヤマトタケル)東征の際に大伴武日は景行天皇より吉備武彦(キビノタケヒコ)とともに従者に任じられたとされ、その関係で神社の祭神として名を残すことになった。
大伴氏の祖神は天忍日命
大伴氏の系譜については少しややこしいので、整理しながら確認していくことにする。
伴氏系図をさかのぼると、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊/邇邇芸命(ニニギ)一行を先導した天忍日命(アメノオシヒ)に行きつく。 『古事記』、『日本書紀』に天忍日の系譜はないものの、『先代旧事本紀』や『古語拾遺』は高皇産霊尊(タカミムスビ)の子としている。 天忍日は天孫降臨した天津日子番能邇邇芸命(アマツヒコホノニニギ)に、天津久米命(アメツクメ)とともに太刀と弓を携えて仕えたと『古事記』は書く。 そのあとで、天忍日命は大伴連(おおとものむらじ)などの祖で、天津久米命此(アマツクメ)は久米直(くめのあたい)の祖といっている。 『日本書紀』の本文には出てこないものの、第九段一書第四にほぼ同じことが書かれているので、『古事記』はこの伝承を採用したのだろう。 天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降ったとき、大伴連の遠祖の天忍日命が來目部(くめべ)の遠祖の天槵津大來目を率いて、武器や防具を携え(天磐靫・稜威高鞆・天梔弓・天羽羽矢・八目鳴鏑・頭槌劍)、先導したと『日本書紀』はいう。 この記事からすると、大伴が主人で久米はその配下という関係性だったようだ。
大伴と久米のコンビは『日本書紀』神武東征の場面でも登場する。 熊野の山中で敵の毒気に当たって倒れて進退窮まった神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)一行の元に天照大神(アマテラス)から頭八咫烏(ヤタガラス)が道案内として遣わされる。 そのとき、大伴氏の遠い祖先の日臣命(ヒノオミ)が大久米(オオクメ)を率いて八咫烏を追いかけて山道を踏み越え進み、無事に菟田穿邑(うだのうがちのむら)に出ることができた。 この功績を認められ、日臣命は道臣命(ミチノオミ)の名を与えられたという(勝手に改名されてしまうパターン)。
続いて、兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)が登場する場面でも道臣(日臣)は活躍することになる。 一行がたどり着いた菟田穿邑の菟田縣(うだのあがた)の魁帥(ひとごのかみ/首長のこと)である兄猾と弟猾をカムヤマトイワレビコが呼んだところ、兄猾が姿を見せず、弟猾のいうには罠を張ってカムヤマトイワレビコを襲おうと企んでいるという。 そこでカムヤマトイワレビコは道臣に偵察してくるように命じたところ、確かにその通りだと分かり、罠を仕掛けた小屋におまえが入ってみろと脅しつけ、仕方なく入った兄猾は自ら作った罠に掛かって死んでしまうというお話だ。 その後、弟猾が宴会を催し、カムヤマトイワレビコ一行はそれに呼ばれ、そのとき天皇が歌った歌は後に久米歌と呼ばれるようになった。 久米歌についての文献上の初出は奈良時代前期の749年に東大寺で演奏されたという『続日本紀』の記事だ。 久米氏の部民である久米部が伝え、宮廷の儀式などで歌い継がれてきたもので、それは現在にもつながっている。 平安時代は天皇即位の大嘗祭の後の節会で歌われたこともよく知られている。
これらの話を『古事記』も描いているだのけど、少し違っている。 兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)の元に使いに出たのは八咫烏(ヤタガラス)で、天孫の皇子に従うかと訊ねたところ、兄宇迦斯がいきなり矢を放ってきたので八咫烏は逃げ帰り、カムヤマトイワレビコのところに弟宇迦斯がやってきて兄宇迦斯が罠を仕掛けていると密告し、道臣と大久米命が兄宇迦斯を呼びつけて罵った。 そして罠を仕掛けた御殿追い立て殺してしまったという流れになっている。道臣と大久米命はなんだか用心棒みたいで柄が悪い。 兄宇迦斯の一族がその後どうなったかは不明ながら、弟宇迦斯は宇陀の水取(もいとり)の祖先と『古事記』はいっている。水取というのは宮中の飲料水を管理する役職のことだ。
このあと、カムヤマトイワレビコは磯城邑(しきのむら)の首領の磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)を椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾に命じて討たせることになるのだけど、このあとの記事でちょっと不思議なことが書かれている。 磯城八十梟帥を討つにあたって天神地祇を祀って椎根津彦が誓約をしたところ良い結果が出て喜んだカムヤマトイワレビコは、丹生川上の五百箇眞坂樹(いほつのまさかき)を抜き取って神を祀り、道臣(日臣)にこう言った。 自分(カムヤマトイワレビコ)が自ら高皇産靈尊を祀るからお前(道臣)は齋主(いわいぬし)になるように。そしてお前を嚴媛(いつひめ)と名づけようと。 あれ? 媛ってどういうこと? と混乱する。道臣(日臣)って女性だったのか? 斎主というと今でも女性のイメージが強いのだけど、神主と考えると男性でもおかしくないのか。しかし、男性に”媛”と名づけるだろうかという疑問が残る。 あと、これは丹生川上神社(web)の起源伝承のはずなのに、今の丹生川上神社はこの話を採用していない。主祭神は水の女神である罔象女神(ミツハノメ)で、古くから祈雨・止雨の神とされてきた。 途中のどこかで祭神の入れ替えがあったりしたのだろうけど、それにしてもタカミムスビや道臣のことがまったく語られないのはどうしたことか。 ヤソタケをなんとかル討伐した後も苦労があって、最終的には道臣が偽の宴会を開いて敵たちを酔わせてだまし討ちにして、どうにかこうにか磯城邑を鎮めることに成功したのだった。大和最大の敵である長髄彦(ナガスネヒコ)との決戦はまだ先のことだ。 神武天皇時代、道臣は築坂村(つきさかむら/桜井市?)に住居を与えられ、大久米は畝傍山の西の川辺(旧高市郡?)に住んだとある。
時代は飛んで第11代垂仁天皇の時代に、道臣(日臣)の子孫と思われる武日(タケヒ)についての記述がある。 垂仁天皇25年条で、大伴連の遠祖の武日は阿部臣の遠祖の武渟川別(タケヌナカワワケ)、和珥臣の遠祖の彦国葺(ヒコクニブク)、中臣連の遠祖の大鹿嶋(オオカシマ)、物部連の遠祖の十千根(トオチネ)とともに大夫(まへつきみたち)のひとりとして挙げられている(五大夫)。 垂仁天皇はこの5人に向かって、先代の城入彦五十瓊殖天皇(イマキイリヒコイニエノスメラミコト/崇神天皇)は聖人だったから、自分もそれに倣って祭祀を怠りなくやらなければならないといっている。 ここでいう”大伴連の遠祖の武日”が大伴武日のことなのだろうけど、この時代すでに大伴を名乗っていたかどうかは分からない。 ただ、『日本書紀』の第12代景行天皇の記事では大伴武日として出てくるので、この頃までに天忍日の子孫は大伴を名乗っていた可能性はある。 記事では吉備武彦と共に大伴武日をヤマトタケルの東征に従わせたとあるだけで具体的な活躍については書かれていない。 ヤマトタケル一行は蝦夷討伐を終えて引き返し、常陸国(茨城県)を経て甲斐国(山梨県)の酒折宮に滞在した折、武日はヤマトタケルから靭部(ゆけいのとものお)を賜ったとあるので、東征の間に何らかの功績があったということなのだろう。 ここでは久米の名前は出てこない。 この酒折宮伝承地に酒折宮(web)という神社が建っている。
第14代仲哀天皇のところでも大伴の名がちらっと出てくる。 熊襲の矢に当たって天皇が急死してしまったため、武内大臣が中心となって今後どうしたものかと相談する中で、中臣、物部、大三輪などととにも大伴武以連(たけもつのむらじ)の名がある。
『古語拾遺』が伝える日臣
『古語拾遺』の中にも少しだけ大伴関連の記事がある。 神武東征のときの日臣についてで、大伴氏の遠祖である日臣命は将軍(督将/いくさのきみ)として敵(兇渠/あたども)をなぎ払って勲功を挙げたというものだ。 記事としてはそれだけで、ここでは久米の名前は出てこない。
『先代旧事本紀』が伝える日臣関連
『先代旧事本紀』はちょっと興味深い系譜を伝えている。 それによると高皇産霊尊には4人の男子がいて、長男が天思兼命(オモイカネ)で、続いて天太玉命(フトダマ)、天忍日命、天神立命(カムタチ)となっている。 ということは、天之岩戸開きのときに中心的な活躍をしたオモイカネや忌部の祖とされるフトダマの弟ということになるのだけど、それはどうなんだろうという気がしないでもない。 忍日の別名として神狭日命とも書いていて、”天”であり”神”でもあるとするところに何かありそうだ。 ちなみにその弟の天神立命というのはあまり馴染みがないと思うのだけど、『先代旧事本紀』では山代(山背)久我直を後裔とし、『新撰姓氏録』では河内国の役直や摂津国の葛城直を後裔として挙げている。
その他には、国譲りが成った後、天孫降臨する際に五部の伴をつけ、それに加えて大伴連の遠祖の天忍日命が来目(久米)の祖神の天クシ(きへんに患)津大久米を率いて武器防具を身につけて先鋒となったという記事がある。 日臣に関しては、やはりイワレビコの東征のときに日臣と大久米が先鋒を務め、兄狡と弟猾の話が語られ、久米歌の起源について書かれるなど、『日本書紀』と同じような内容になっている。
大伴の伴とは?
大伴(おおとも)は朝廷直属の多くの伴造(とものみやつこ)を率いる一族だったことから”大きな伴造”という意味で大伴を名乗ったとされる。 伴造というのは複雑で説明が難しいのだけど、簡単にいうと豪族の一族や職業集団の中で天皇(または朝廷)直属の者たちを指すと考えると大きな間違いではないと思う。 部民がいて、伴造がいて、名負氏がいて、その構造は私もよく分かっていない。 大伴はそういう小集団を束ねる一族のことなのだけど、必ずしも血縁ではないことが理解を難しくさせる。 『日本書紀』の内容からしても軍事的な意味合いが強い一族だったことは推定できる。久米を率いているということからしても、軍事の長としての役割があったのだろう。 同じく軍事的な一族だったとされる物部氏との違いは、物部は朝廷の軍事を司っていたのに対して大伴は天皇に近い親衛隊や宮中の警察のような役割だったと考えられる。 いつから大伴を名乗るようになったのかについてははっきりしないのだけど、律令制以降ということはなく、かなり早い時期からだったかもしれない。 平安時代の第53代淳和天皇の諱(いみな)が大伴だったことから遠慮をして伴氏を名乗るようになった。
伴氏系図や『新撰姓氏録』
大伴氏の系譜については『続群書類従』に収録されている大伴氏系図や『新撰姓氏録』等でその一部を知ることができる。 ただ、大伴氏系図は誤りが多いという話もあり、『新撰姓氏録』にも混乱が見られるなど、はっきりしない点も少なくない。 系図では日臣(道臣)は天忍日命のひ孫となっており、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)はニニギのひ孫に当たるので、ここは問題ないか。 大伴武日は日臣(道臣)の七世孫になっている。武日は第11代垂仁天皇から第12代景行天皇の時代の人という『日本書紀』の記述を信じるなら、ここらへんはやや微妙なところだ。
大伴氏というと、大伴旅人・大伴家持親子を思い浮かべる人が多いと思う。 家持は『万葉集』の編集などで知られる歌人というイメージが強いけど、大伴氏の家柄からして軍事に携わる朝廷の役人だった。旅人もそうだ。 『続日本紀』を読むと、地方で反乱が起きたときに討伐隊の責任者に任命されて出向いたといった記事が出てくる。 親子揃って浮き沈みの激しい役人人生を送ったようで、出世したり左遷されたり乱に加わった嫌疑をかけられたりと、なかなか忙しかった。そんなことで無常観に陥って歌の道へ向かったという面もあったかもしれない。 それでも、家持が歌った「大伴の 名に負ふ靫 負ひて 万代に 頼みし心 何所か寄せむ」などは、軍事氏族としての矜持を感じさせる。 旅人は家持に比べると知名度は低かったけど、旅人の『万葉集』梅花の宴の序文が令和の元号の由来となったことで一般的な知名度が上がった。
その他の大伴氏でいうと、5世紀後半の雄略天皇時代に大連となった大伴室屋(おおとものむろや)や越前から継体天皇を連れてきたとされる大伴金村(おおとものかなむら)などがいる。 大伴氏の本拠地がどこだったのかについてははっきりしないものの、近畿一円に足跡を残しており、大伴武日のものと伝わる古墳は和歌山県和歌山市の和歌山城付近にあることから、一族がそこにいた時代もあったということだろう。 河内国や摂津国にも痕跡が残っており、大伴金村の邸宅は住吉にあったようだ。 『新撰姓氏録』には、「高皇産霊尊五世孫 天押日命の後 大伴宿祢(左京神別)、高魂命五世孫 天忍日命の後 家内連(河内国神別)、高魂命九世孫 日臣命の後 高志連(右京神別)が載っている。 近畿以外でいうと、鎌倉の鶴岡八幡宮(web)は伴忠国が初代神主となって以来長らく社家を継承した。 大隅国の豪族の肝付氏や近江国の豪族の滝川氏(甲賀伴党)の他、三河や伊豆などにも大伴氏の一族が拠点としていた。
大伴氏関係の神社について
最初に書いたように、ヤマトタケル東征のお供をした大伴武日がヤマトタケル関係の神社で祀られているというパターンが多い。同じくお供をした吉備武彦とセットになっているところもある。名古屋の熱田神宮(web)や静岡県静岡市の久佐奈岐神社などがそうだ。 それとは少し違うパターンで、大伴武日が訪れたとか統治したという伝承が元で祀られるようになったという神社もある。山梨県西八代郡の弓削神社や長野県佐久市の大伴神社(web)などがそのパターンで、大伴神社は『延喜式』神名帳に載る古社なので、何らかの根拠があったと考えられる。少なくとも大伴一族がその地にいたのは間違いない。
熱田神宮以外に名古屋で大伴武日を祀っている神社としては、天白区の八事神社、瑞穂区の一之御前社(平郷町)、瑞穂区の八劔社(御劔町)がある。 主祭神として祀っていた神社があったかどうかは分からないのだけど、摂社・末社に祀っていたところはもっとたくさんあったのではないかと思う。
天忍日を祀る神社は意外なほど少ない。前述の大伴神社など全国でも10社程度ではないかと思う。 古代の一時期までは有力な中央豪族だった大伴氏の祖神としては少し寂しい気もする。大伴氏は藤原氏台頭のあおりを受けて没落していったとされるから、神社が多く建てられるようになった時代にはすでに力を失っていたのかもしれない。 ただ、現代でも大伴や伴さんはけっこういるから、大伴氏の子孫は脈々とつながっているのだろう。 どの一族も浮き沈みの歴史があることを考えさせられる。
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