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八幡神社(内田町)

古墳の被葬者との関係は?

読み方はちまん-じんじゃ(うちだちょう)
所在地瀬戸市内田町1丁目665 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧無格社・十二等級
祭神応神天皇(オウジン)
宇賀魂命(ウカノミタマ)
アクセス愛知環状鉄道「中水野駅」より徒歩約14分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

下水野村の八幡

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてはこう書いている。

創建については明かではない。
明治6年据置公許になる。
大正7年5月13日、字後田の田辺社、字内屋敷の神明社、字四ツ谷の山神社の三社を合祀した。

 下水野村の氏神って何だったんだろう? という素朴かつ根本的な疑問を持っている。
 下水野村の中心だった”本郷”集落の近くにあるのがこの八幡なのだけど、ここは明治6年に据置公許となった無格社なので違うのだろう。
 例外はあるだろうけど、明治になって一村につき一社の村社を置くこととなったので、氏神ならたいていは村社になっている。
 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)には「社六ヶ所 内 八幡 天王 山之神 権現三社」とある。
 八幡がこの内田町の八幡神社で、天王は枝郷の岩割瀬(いわりぜ)にあった岩割瀬神社、山之神と権現は大正7年に八幡神社に合祀された。
 江戸時代後期の『尾張徇行記』(1822年)では神明が加わり、権現三社は田辺権現になっている。
 田辺権現はおそらく、熊野三社権現のことではないかと思う。
『尾張志』(1844年)は「神明社 八幡社 山神社 天王社 四社ともに下水野村にあり」といっており、何故か権現(田辺権現)が抜けている。このときまでにすでになくなっていたわけではないので書き落としだろうか。

 いずれも氏神に関する記述がないのだけど、可能性があるとすれば権現(田辺権現)か、神明しかない。
 しかし、氏神(村社)を大正時代に無格社の神社に合祀するかと考えると、それはちょっとなさそうではある。
 もともと明確に氏神とする神社はなかったという可能性もあるのだろうか。

下水野村について

 下水野村については岩割瀬神社(鹿乗町)のページに書いたので、詳しくはそちらをお読みいただければと思います。
 ここでは関係がある部分について見つつ少し考えてみたい。

『尾張徇行記』は下水野村についてこんなふうに書いている。

此村落ハ、南ノ方エビツルケ根ノ麓ニ本郷アリ、北ノ方ニ水野川アリ、昔時ハ此本郷水野川ノ北ノ方ニアリシカ、明和四亥年ノ洪水ニコトコトク家漂流セシニヨ リ、其後今ノ新田へ皆家ヲ移シ、山下ニ軒ヲ連ラヌ、小百姓ハカリ也、農事ヲ専ラ生産トス貧村也、水野川ノ北山ノ麓ニ農屋アリ、是ヲ四屋ト云、又東谷山東ノ 麓ニ村落一区アリ、是ヲ十軒屋ト云、是ハ往昔大森村ヨリ中志談味村ノ諏訪ノ原へカカリ、夫ョリ此地ヲ歴テ定光寺へノ山路アリシカ、此間二人家ナキコトヲ瑞龍公イカカト思食、本郷ヨリ農屋十戸移サシメ玉ヒ、其トキ御除地七段余ヲ賜ハルト也、今ハ二十戸ホトモアリ

 村の中心である本郷はエビツルヶ根の麓にあって、北に水野川が流れている。
 もともとは水野川の北に本郷があったのだけど、1767年(明和四年)の洪水で多くの家が流されてしまったため、現在(江戸時代後期)の場所に移ったという。
 今の町名でいうと、もともとの本郷があったのは水野川北岸の内田町で、移ったのが川南の本郷町になる。
 水野川の北にも少し家があって、そこを”四屋”といっていた。
 四屋の字は残っていないものの、愛知環状鉄道の四谷トンネルに名を残している。
 十軒屋については、中志段味から定光寺へ向かう途中に民家がないのはいかがなものかと瑞龍公がいうので、本郷から農家を10軒移させたという話を書いている。
 瑞龍公は尾張藩2代藩主の光友のことで、初代藩主の義直の陵を定光寺に作ったので、歴代の藩主は定光寺詣でのため、このあたりを何度も訪れることになる。あと、水野は狩場として藩主たちが利用したこともあって、そのお世話などもしないといけなかった。
 ただ、十軒屋は殿様街道からは外れているので、何か別の意図もあったのかもしれない。
 現在も十軒町として地名が残っている。

 内田町の町名が誕生したのは昭和39年(1964年)なのだけど、これは村の南側の内屋敷と北側の後田から一ずつをとって内田町とした。
『愛知縣神社名鑑』がいう「大正7年5月13日、字後田の田辺社、字内屋敷の神明社、字四ツ谷の山神社の三社を合祀した」というのは、そういうことだと分かる。

古墳と八幡

 八幡神社の北東の民家の裏に古墳があり、荏坪古墳(えつぼこふん)と名づけられている。
 横穴式石室がそのまま残っており、築造されたのは6世紀後半から7世紀初頭と考えられている。
 直系は17メートル、高さ4.8メートルの円墳という。

 瀬戸市内の中央北寄りを東から西へ向かって水野川が流れており、この水野川沿いに多くの古墳が築造された。
 内田町1丁目で見つかった四ツ谷古墳群(5基)もそのうちのひとつで、古代にこのあたりに暮らしていた人たちにとって水野川が重要な役割を果たしていたのは間違いない。

 荏坪古墳のすぐ南西に八幡が祀られているとなると、まったく無関係と考えるのは無理がある。
 古墳の被葬者と直接関係はないにしても、神社を最初に祀った人たちは古墳を意識していなかったはずがない。
 被葬者を祀るという意識があったとすれば、ここはもともと八幡ではなかったかもしれない。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、八幡が祀られているのは山の中腹で、まわりに民家などはない。
 もとの本郷はこの麓あたりにあっただろうか。
 本郷が南に移ったときに神社を移さなかったのは、この場所に祀ることに意味があったからだろう。
 どの集落からも離れており、日常的に参るには不便すぎる場所にある。

祭神について

『愛知縣神社名鑑』によると、現在の祭神は応神天皇(ホムタワケ)宇賀魂命(ウカノミタマ)となっている。
『尾張徇行記』は「八幡祠、府志曰、在下水野村、祀応神天皇、国常立尊、宇賀神 瑞龍公命令重葺之」と書いている。
『張州府志』(1752年)にそうあるということだ。

 宇賀神(ウガジン)と宇賀魂命(ウカノミタマ)は名前が似ていることから同一視されることがあるのだけど、簡単にそう決めつけていいわけではない。
 宇賀魂命は宇迦之御魂神(『古事記』)や倉稲魂命(『日本書紀』)などとも表記し、京都の伏見稲荷大社(公式サイト)で祀られていることもあって、一般的には穀物神(稲荷神)と考えられている。
 一方の宇賀神は出自のはっきりしない神で、中世に弁財天(弁才天)と習合した。
 頭は人、体は蛇で、とぐろを巻く姿で表されることが多く、顔は老人だったり女だったりする。
 弁才天の頭の上に乗っていることもある。
 その性質についてはよく分からない。
 ただ、まったくの空想上の存在とは思えないのは、宇賀神が苗字になっているためだ。
 元になった明確なルーツがあるのではないかと思う。

 もう一つ重要な点は、江戸時代中期には国常立尊(クニノトコタチ)も一緒に祀られていたことだ。
 国常立尊を祀る例はそれほど多くないものの、あるにはある。
 神明社系と御嶽社系が多いのだけど、神明社は外宮系のところが多いのではないかと思う。
 中世に流行った伊勢神道で国常立尊が重視されたことで各地の神明社で国常立尊が祀られたと考えられる。
 御嶽教は国常立尊・大己貴命(オオナムチ)少彦名命(スクナヒコナ)の三柱を祭神としたので、その流れだ。

 もう一点見逃せないのは「瑞龍公命令重葺之」の部分だ。
 上にも書いたように瑞龍公は尾張藩2代藩主の光友のことで、光友が”重葺を命じた”といっている。
 修造でもなく再建でもなく”重葺”という表現に引っ掛かる。
 これは単に社殿を建て直したということではなく、建て替えたことを意味しているのではないかと考えるのは飛躍しすぎだろうか。
 実はよく似た話が名古屋にもある。

 光友が隠居するために建てた大曽根屋敷のそばに朽ちそうな社があって、光友があれは何の社かと訊ねて、東照宮の社人が八幡ですと答えたため、光友が命じて八幡社として建て直したということがあった。
 それが今の片山八幡社なのだけど、これは『延喜式』神名帳(927年)の山田郡片山神社だったかもしれない。
 つまり、下水野村にあったこの神社を八幡にしたのは光友ではないかということだ。
 父であり尾張藩初代藩主の義直の死を受けて藩主となったのが1650年(慶安3年)。
 定光寺に義直の霊廟が作られたので墓参りに何度もこのあたりを訪れている。そのときに神社の建て直しを命じたのではなかった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)に八幡とあるので、その前だ。
 もちろん、光友以前から八幡だった可能性もあるのだけど、だとすると祭神に宇賀神や国常立尊が入っていることの説明がつかない気もする。
 もし八幡ではなかったとすると、どんな神を祀るどんな神社だったのかということだ。

古墳と八幡

 やはり問題となるのは、古墳と神社の関係だ。
 下水野の本郷集落がいつできたのかということも鍵を握る。
 四ツ谷古墳群として知られるのが5基でも全部見つかっているわけではないだろうし、荏坪古墳が6世紀末でも、それより古い古墳がないとも限らない。
 このあたりで縄文の遺跡は見つかっていないので、品野や赤津地区よりは新しい地区のような気がする。
 それでも、弥生時代あたりにはすでに人が暮らす土地だったのではないだろうか。
 古墳というのは、古墳時代になって突然誕生した新興の土地にあるものではなく、それ以前からの歴史や流れの上にあるものだ。
 集落ができれば、そこでは必ずカミマツリが行われる。
 カミマツリと墓は集団生活をしていく上で必ず必要になる。
 古い神社はそれが発展した形に違いない。
 そう考えると、内田町の八幡の起源はかなり遡るのではないか。

 古墳と宇賀神と国常立尊を結びつけることは難しいのだけど、それでもこの神社と古墳を切り離して考えることはできない。
 たとえ村社とされなかったにしても、やはりこの神社が下水野村本郷の氏神だったのではないかと思う。
 大正時代に合祀された神明と田辺権現との関係も気になるところではある。
 古墳も神社も、まあこのへんでいいだろうみたいに適当に決めたわけではないはずだから、この場所、この土地が重要だったのだろう。
 古代の人たちには土地を見るといった能力があったのだと思う。

作成日 2025.1.26

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