
元は天神
読み方 | はちまん-しゃ(うめもりだい) |
所在地 | 名古屋市梅森台1丁目177 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧村社・十二等級 |
祭神 | 応神天皇(オウジン) 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ) |
アクセス | 名古屋市地下鉄鶴舞線「平針駅」より徒歩約25分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月第2日曜日 |
神紋 | 梅鉢紋 |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
梅森の由来が鍵
江戸時代の梅森村の氏神だった神社なのだけど、その歴史はやや分かりづらい。
梅森の地名について名古屋市のサイトは、「梅森の名の由来は諸説があり、伝承によると寿永3年に造られた天神祠付近に、梅林が多かったことにちなんで名づけられたとされています」と書いており、これは古くから語られる通説となっている。
寿永3年は鎌倉幕府が開かれる前年の1184年に当たる。
しかし、梅森の地名由来も、寿永3年創建説も個人的には信じていない。
津田正生(つだまさなり)も『尾張国地名考』の中で「正字なり」と書いているので、同じ認識だったようだけど、梅森のあたりに梅の木がたくさんあったという話はなく、この説の根拠は薄い。
むしろ、天神=梅(梅鉢)から来ている可能性を考えるべきだと思う。
『梅森の歴史』は、昭和31年発行の『日進村誌』の中で天平時代(8世紀)に梅森集落ができて、60代醍醐天皇の延喜の頃(10世紀)には十数戸の集落があって西後の山中に天神の小祠を祀ったと書かれていると紹介し、本郷畑から出土した遺物を調査した結果、この話は正しいのではないかと結論づけている。
その上で、もしそれが本当であれば天神というのは菅原道真のことではないとも指摘する。
延喜年間は901年から923年で、道真は903年(延喜3年)に没し、清涼殿落雷事件(930年)などを経て北野の地で祀られたのが947年だからという根拠はその通りだろう。
それよりも、8世紀に集落ができて10世紀まで社がなかったはずはなく、天神以外の社があったか、もしくは天神以前の元社があったであろうことの方が重要だ。
梅鉢紋は菅原道真専用ということはなく、梅鉢紋はずっと古くからあって、その家紋の一族が祀る神社だったとも考えられる。
梅の一族がいた森だから梅森と考えれば納得がいく。
梅森村の成立が永正5年(1508年)というのもちょっとあり得ない。そんなに遅いはずはない。
『梅森の歴史』は異説として、西後の山中に富士社があって祭神の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は尾張連の祖の天火明命(アメノホアカリ)の母に当たり、古吟集に梅の花のことを”此の花”と詠じていることから、コノハナ=梅で梅森になったのではという話を紹介している。
『日進町誌 本文編』は、明治15年の『愛知県郡町村字名調』では”ムメモリ”とあると書いており、これもちょっと気になった。
”ムメ”の”ム”は、梅森村の北の高針村の氏神の高牟神社(高針)のム(牟)に通じるので、”ムメ”と”タカム”は何らかの関係があるのかもしれない。
梅森地区では奈良から平安時代の窯址が6基見つかっており、行基焼きの破片が多数出ていることからも、遅くとも奈良時代にはこのあたりに人がいたのは間違いなさそうだ。
梅森の歴史は考えられている以上に古いのではないか。
江戸時代の梅森村
江戸時代の尾張国の地誌で梅森村がどうなっていたかを見ていく。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
梅森村
家数 弐拾九軒
人数 百八拾五人
馬 八疋禅宗 愛知郡岩崎村妙仙寺 宝珠寺
寺内七畝歩 前々除本願寺宗 三州佐々木上宮寺末寺 眺景寺
寺内四畝歩 前々除社五ヶ所 内 八幡 権現 大日 山之神弐社
村中支配
社内壱町七反九畝廿五歩 林共ニ前々除
家数が29軒で村人が185人なので、村の規模としては小さい。
そのわりに馬が8頭(疋)というのは多い。街道筋ではないので農作業に使っていたのだろうか。
神社は5社。
八幡が今の梅森台八幡社で、権現がちょっと分からなくて富士社なのか別の社なのか、大日は後に御鍬社と呼ばれるようになった。
山神2社は東山神と西山神があった。
眺景寺は八幡の東に隣接し、宝珠寺は少し南に現存している。
神社、寺ともに前々除(まえまえよけ)になっているので1608年の備前検地のときにはすでにあったことが分かる。
続いて『尾張徇行記』(1822年)では以下のようになっている。
宝珠寺 府志曰、在梅森村、号梅森山、曹洞宗属岩崎妙仙寺
覚書曰寺内七畝前々除
当寺書上ニ境内七畝御除地
天正七巳卯年当村城主松平三蔵男(名不詳)創建ス眺景寺 府志曰、在梅森村、号竹林山、一向宗東派、属三州佐々木上宮寺
覚書ニ寺内四畝前々除
当寺書上ニ初天台宗ニテ草創ハ知レズ、桃延坊ト云、天文二癸巳年一向宗トナリ、慶安五壬辰年今ノ寺号二改ム社五ヶ所 覚書ニ、八幡権現・大日・山神二区・社内一町七反九畝廿五歩林共ニ前々除
庄屋書上ニ、八幡八劍天神合一祠境内一町二反御除地、此祠鎮座ノ年曆ハ知レズ、再建ハ寛文八申年ト棟札ニアリ、富士祠境内五反一畝十六歩、東山神社境内四畝、西山神祠境内三畝、大日堂境内三畝九歩、イツレモ御除地ナリ梅林城二 府志日、一則松平三蔵、一則松平助左衛門居之、今為民家及陸田、土人曰、所謂助左衛門者、三蔵之臣也、然不詳其伝
此村ハ天白川ノ北ニアリテ一村立ノ所也、竹木ナク村立アシク小百姓ハカリニテ農事ノミヲ渡世トス
寺のことは後回しにして神社を見ると、庄屋の書上(かきあげ)に”八幡八劍天神合一祠”とあるといっている(書上は調査報告の上申書のこと)。
ここがこの神社の一番分からないところだ。
上に書いたように、延喜年間(901-923年)に西後の山中に天神祠を祀ったというのが梅森台八幡社の始まりとするならば、中世のどこかで八幡を勧請して八幡と称するようになったということだ。
しかしながら、八幡が取って代わったわけではなく、天神は天神で残したのだろう。
では、八劔がどこで加わったかだけど、これはもうちょっとよく分からないのでいったん保留としたい。
寛文八申年(1668年)再建の棟札があったようだけど、ちょうど同じ頃に調査が行われた『寛文村々覚書』では八幡になっているから、その頃はすでに八幡だったということになる。
権現が八劔かというとそうではなさそうで、八劔はたいてい明神や大明神だったと思う。
富士祠が他に独立してあったというから、浅間権現かもしれない。
大日堂は名前からして大日如来を祀っていたのだろうけど、それを神社と考えていたのが江戸時代の人たちの感覚だったようだ。
本地垂迹説では天照大神(アマテラス)の本地仏が大日如来とされていたから、そういう認識も持ち合わせていただろうか。
そういえば、入り口の木造鳥居は両部鳥居で、神仏習合の名残が見て取れる。
村の様子については、「竹木ナク村立アシク小百姓ハカリニテ農事ノミヲ渡世トス」と書いている。
竹林がないと村立が悪くて小百姓ばかりになるようだ。こういう表現が『尾張徇行記』にはよく出てくるから、竹林というのは現代人が考えている以上に重要だったということか。
梅森城についても後述とする。
『尾張志』(1844年)は簡単にこう書いている。
八幡八劔天神相殿社 是を村の本居神とす 富士ノ社 山神ノ社二所 この四社梅もり村にあり
八幡・八劔・天神の合一社と富士、山神二社はそのままなのだけど、大日がなくなっている。
最後に『愛知縣神社名鑑』を確認しておく。
「創建については明かではない。明治5年7月村社に列す。
祭神木花開耶姫命は字西後鎮座の冨士社明治42年2月8日合祀による。昭和26年本殿を造営、同55年境内整備を行う」
ここでおやっと思うのが、祭神の顔ぶれだ。
現在の祭神は応神天皇と木花開耶姫命になっており、木花開耶姫命は明治42年に富士社を合祀したためというのが分かるのだけど、八劔と天神の祭神が消えてしまっている。
相殿社ともいっていないので、明治以降に八幡に一本化したということだろうか。
しかしながら神紋は梅鉢紋で、これは元の天神の流れだ。八幡は表向きで、実体は今も天神のままなのなのかもしれない。
『日進町の歴史』で補足すると、太平洋戦争の空襲で焼けてしまうまでは寛文八年(1668年)、正徳二年(1712年)、元文二年(1737年)、宝暦十二年(1762年)の棟札(戦災により焼失)には、八幡・八剣・天神が併記されていて、寛文八年の棟札に”八劔宮加作”とあったそうだ。
このとき八劔を勧請したのか、相殿神に加えたのかは判断がつかない。
ただ、どちらにしても八劔は江戸時代前期にはすでに祀られていたということだ。
明治十年十二月の書上には祭神は応神天皇のみで天神の菅原道真と八劔の日本武尊(ヤマトタケル)は祭神から消えているとも書いている。
だとすると、明治5年に村社となったときに八幡社の単独社になったということかもしれない。
東西の山神と大日堂(御鍬社)は、明治5年に境内に移され、地誌にはない金刀比羅社、須佐之男社、秋葉社も、このときに境内社とされたという。
昭和18年には神饌幣帛料供進社(指定村社)に指定されたというから、ただの村社より一段格上だったことも分かる。
やはりこの神社は、ただの村の八幡ではなさそうだ。
梅森の変遷について
現在の梅森台八幡社は、車通りの多い県道221号線を背にしていて、少々騒々しい環境にある。
この道路は戦後に新設された道で、旧道を拡張したといったものではない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、集落や道路などの状況は今とはまったく違っていたことが分かる。
旧道は集落の中央付近を横断する道で、これは現在もそのまま残されている。
かつては現在の鳥居より100メートルほど南のこの道沿いに建っていたのではないかと思う。
『尾張徇行記』には境内は一町二反とあるから、3,600坪の広い神社だったようだ。
神社の北は丘陵地で、南の集落と天白川の間は広く田んぼだった。
少し離れた東にも梅森洞という集落があり、これが今の上松に当たる。
現代の地図を見ると、上松のあたりは区画整理されていない古い時代の区画がそのまま残っているようだ。
今昔マップは1968-1973年(昭和43-48年)まで飛んでしまうのでその間の変遷が分からないのだけど、東に県道219号線が通り、集落の北東に日生梅森園という新興住宅地ができている。
その後、丘陵地は順番に開発され、区画整理が行われ、新道が通り、住宅が増えていった。
それでも、まだ田んぼはけっこう残っている。私は尾張旭や長久手で見慣れているけど、名古屋の人間が日進へ行くと広い田んぼ風景は新鮮に映るんじゃないだろうか。
そんな変遷を経てもなお、八幡は動かずそのまま鎮座し続けてきた。これからも動く様子はない。
それにしても、八幡の空襲被害はどの程度だったのだろう。
日進市の空襲被害についてはほとんど語られることがなく、ネットをざっと検索しても出てこない。
棟札が全部焼けてしまったくらいだから八幡の社殿は全焼くらいだったのではないか。
周辺に軍需関連の施設があったようでもないのに、どうして八幡に焼夷弾を落としていったのだろう。他に目標がなかったということなのか。
寺院と梅森城について
八幡社に隣接する眺景寺は山号を竹林山といい、浄土真宗大谷派で、阿弥陀如来を本尊とする。
竹林もないのになんで竹林山なんだろうと思うけど、この”竹”もこの土地を何か象徴しているのかもしれない。
1533年(天文2年)に岡崎から梅森に移ってきた松平三蔵信次(釋道西)が梅森城を築城し、1538年(天文7年)城内に堂を建てたのが始まりと伝わる。
聖徳太子ゆかりの三州佐々木上宮寺(上宮寺公式サイト)の末寺で、もともとは天台宗だったようだ。
信次長男の直勝は武士として岡崎にとどまり、次男高照(釋尊照)が後を継いで代々住職を務めているらしい。
宝珠寺については『尾張徇行記』が「宝珠寺 府志曰、在梅森村、号梅森山、曹洞宗属岩崎妙仙寺 覚書曰寺内七畝前々除 当寺書上ニ境内七畝御除地 天正七巳卯年当村城主松平三蔵男(名不詳)創建ス」と書いている。
天正7年は1579年なので、松平三蔵信次の孫かひ孫の代の誰かが創建したということになるだろうか。
梅森城に関しては情報が少ない上にやや混乱が見られる。
北城と東城の二つがあったという話があるものの、それぞれの場所や位置関係ははっきりしない。
北城が眺景寺のあたりで、東城が東名古屋病院のあたりという説があるのだけど、これでは南と北の位置関係なので、北城と東城というのは違和感がある。
築城者についても、松平三蔵信次やその次男の高照という話もあり、よく分からない。
とりあえず眺景寺境内に「梅森城址」と刻まれた石碑が建っているので、ここに城があった可能性は高いだろうか。
だとすると、梅森城を築城した松平氏がもともとあった天神に八幡を勧請したとも考えられる。
日進市は丹羽氏が支配していた土地で、ここに三河碧海郡の松平氏が出張ってきていたということは何かしらの意味がある。
その後は織田氏の力が強くなっていく中で飲み込まれていったのではないかと思う。
梅森由来は分からず
結局、梅森の由来は最後まで分からなかった。
ただ、天神と梅が何か関わっていそうだということは分かった。
天神イコール菅原道真で梅鉢紋といった単純な図式ではなく、もっと古くから梅に関わる一族がこの地にいたのではないかと思う。
八幡の元天神を祀ったのはその一族だろう。
日進は平成6年(1994年)に町から市になった近年成長著しい町で、人口も右肩上がりに増えている。
昭和40年代は2万人ちょっとだったのが、令和には9万人を超えた。
名古屋の人間からすると郊外の新興住宅地というイメージが強いのだけど、歴史は案外古そうだ。
縄文や弥生というほどの古さはないにしても、飛鳥から奈良時代くらいには確実に人が暮らしていた。
日進の神社を通じてそのあたりを掘り起こしていければと思っている。
作成日 2025.4.12