名古屋城(web)の東、東区の新出来・古出来や千種区の松軒・内山あたりは、名古屋城下の外れで、武家屋敷と農地との境目だった。 JR中央本線の大曽根駅から南の千種駅にかけて、列車は堀のような半地下を走っている。これは古代に矢田川が削った自然の谷で、鉄道を通すために人工的に掘ったものではない。熱田台地の西を熱田面、東を大曽根面と呼んでいる。 名古屋城下の町は江戸時代を通じて人口が増えるにつれて南へ東へと広がっていき、東区の東側や千種区の西側もだんだん人家が建ち並ぶようになっていった。 この武家屋敷のはずれあたりに、たくさんの須佐之男社系列の神社が集まっている。 ひとつのきっかけとして、1767年に庄内川が氾濫して疫病が流行したということがあった。続いて1770年には城下で大火事があり、大きな被害を出した。 そのため、ときの藩主・徳川宗睦は城下の人々に疫病除けのための天王社と火防のための秋葉権現を祀ることを奨励した。 東区・千種区一帯の須佐之男社系神社は、この頃創建されたものが多い。 松軒の素盞男社も、後に中村区日吉町に移された素盞男神社(元は千種区内山町)も、同じ1773年に創建されている。 その頃はスサノオを祀る須佐之男社ではなく、牛頭天王を祀る天王社だったはずだ。牛頭天王は疫病を司る神、疫病除けとして当時絶大な人気を誇っていた。 天王社の祭神が牛頭天王から須佐之男になったのは明治の神仏分離令のときで、社名も須佐之男社や素盞男社に変えることになった。 どうして東区・千種区の一帯だけこれほど須佐之男社系(天王社)が集まっているのか、その理由はよく分からない。このあたりは武家屋敷といっても中級・下級武士が住むところだったので、狭い場所に家が密集していたというのもひとつの理由かもしれない。 祭神に軻具土神(カグツチ)も入っていることから、どこかで秋葉権現も合祀されたようだ。 徳川宗睦は尾張藩9代藩主で、中興の名君と称された殿様だった。農地改革や藩政改革を推し進め、60年以上にわたって尾張藩の藩政にたずさわることになり、多くの結果を残した反面、晩年の財政政策失敗が後の尾張藩の財政破綻を招いたという見方もある。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は安永三年(1774)六月、と伝える。古くは藪天王と俗称あり。明治6年据置公許となり、附近の人々の崇敬熱く社殿を復興し、明治11年村社に列格する。一説に『国内神名帳』の愛知郡従三位素盞雄明神はこの社かといわれる。大正12年2月16日供進社に指定された」
藪天王(やぶてんのう)というのは、当時このあたりが竹藪だったことからそう呼ばれるようになったとされる。江戸時代中期でも、まだこのあたりはそんな風景がよく残っていたのだろう。 今昔マップを見ると、明治中頃(1888-1898年)でさえ神社のある場所は街外れの空白地帯だったようだ。樹林のマークがある場所が神社があったところだろう この神社は西に入り口があり社殿が西を向いている。西向き社殿の神社は非常に珍しい。住宅事情でそうなったのか、もともとそうだったのか。 東隣は大和小学校で、南は細い道を挟んで大和公園になっている。大和公園ができたのはおそらく戦後の昭和30年代以降のはずで、今昔マップを見るとそれまでは住宅地になっている。東の大和小学校の敷地が境内だったようだ。 いずれにしても、境内地が縮小されたときに社殿を西向きに建て替えた可能性が高そうだ。
狭い境内には龍神社が半ば独立した格好で同居している。幟には藪天王龍神とあり、高靈龍神(たかおかみりゅうじん)と闇靈龍神(くらおかみりゅうじん)が祀られている。 高靈・闇靈といえば、吉野の丹生川上神社(web/web/web)を思い浮かべるのだけど、そこと関係があるかないかは分からない。このあたりが農地だった頃、雨乞いの神として祀ったのが始まりだろうか。もともとここにあったのか、他から移されたのかも分からない。
『愛知縣神社名鑑』がいう「一説に『国内神名帳』の愛知郡従三位素盞雄明神はこの社かといわれる」という一文も気になるところではあるのだけど、その可能性はほぼないだろう。縄文時代から平安、鎌倉、室町という時代背景を考えたとき、古い時代にこの場所にスサノオを祀る神社を建てる必然性が感じられない。近くから遺跡や古墳は見つかっていない。 ただ、『愛知縣神社名鑑』は式内の論社のことなどはほとんど触れていないのに、あえてこのことを書き加えたというのは何かしらの根拠みたいなものがあったということだろうか。 平安時代以前、愛知郡に素盞雄社があったことは『尾張國内神名帳』にあるから確かだろう。しかし、江戸時代にはすでに失われていてそれがどこにあったかも分からなくなっていた。 神仏習合時代は、牛頭天王がスサノオの本地(本来の姿)とされていたのだけど、庶民の意識の中で牛頭天王=スサノオという認識があったかどうか。 江戸時代になるとそれまで忘れ去られていた『古事記』や『日本書紀』がまた読まれるようになったので、学者の意識の中ではそれはあったと思う。神社の人間にもあっただろう。 出雲大社(web)は、江戸時代までは杵築大社(きつきたいしゃ)といって、13世紀から17世紀の間はスサノオを祭神としていた(オオクニヌシに戻されたのは江戸時代前期)。本来は大国主(オオクニヌシ)を祀っていたものが、中世以降神仏習合の影響もあって祭神がスサノオに変わっていた。 庶民レベルでもスサノオについての知識がまったくなかったことはないと思う。杵築大社(出雲大社)は全国的にも知られていただろうし、そこの祭神がスサノオだったというのなら知っていたと考える方が自然だ。 それでも、江戸時代までの人々の牛頭天王とスサノオに対する認識や思いがどうだったのかは想像のしようがない。 明治の神仏分離令で牛頭天王を祀る天王社がスサノオを祀る須佐之男社に変えられたとき、村人たちはどう思ったのだろう。すんなり納得できたのだろうか。
松軒の地名は、尾張藩の家老だった成瀬豊前守正景(まさかげ)から来ている。 成瀬正景が隠居した後この地に屋敷を構え、正軒(松軒)と号し、その屋敷が松軒屋敷と呼ばれたことが由来となっている。 相当広大な屋敷だったというけど、その後、跡地は名古屋新田となった。 大和小学校の北側には武士の屋敷が建ち並んでいたというから、この神社はそれらの人たちの守り神の役割も果たしていたのだろう。 それからわずか250年ほどしか経っていないのが今だ。江戸時代260年間の変化とその後を比べると、いかに変化が大きかったかが分かる。 周囲の風景は一変して、竹藪など跡形もなく消えてしまった。住宅地の中に神社だけが残った。
作成日 2017.1.30(最終更新日 2019.2.16)
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