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羊神社


12年に一度の未年に賑わう神社



羊神社参道入り口

読み方ひつじ-じんじゃ
所在地名古屋市北区辻町 5-26  地図
創建年不明(伝・奈良時代)
旧社格・等級等村社・八等級・式内社
祭神火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
アクセス地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約10分。
駐車場 なし
その他例祭 10月18日
オススメ度**

 神社名に羊が入っていることから12年に一度、未年に大賑わいになる。特に初詣に参拝者の行列ができるのは風物詩のようになっている。前回の未年は2015年だったから、名古屋近辺の方ならニュースで見たという人も多かったのではないだろうか。お守りなどがいつもの年の10倍以上売れるのだとか。
 羊の字が入る神社は全国でも2社しかない。もうひとつは群馬県安中市にある羊神社(咲前神社内/web)で、そちらも羊太夫こと藤原宗勝ゆかりの神社だ。



 多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)とも呼ばれた藤原宗勝は、飛鳥時代から奈良時代にかけて上野国(群馬県)多胡郡で郡司をしていたとされる半ば伝説上の人物だ。
 羊太夫宗勝は脇に羽の生えた家来とともに名馬・権田栗毛に乗って上野国から奈良の都まで毎日通ったとされる。
 武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市)の羊山(つじやま)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅の塊を発見して朝廷に献上した功績で多胡郡の郡司を任命され、藤原不比等から藤原性までいただいた。
 この和銅発見により年号が慶雲から和銅に改められた。
 羊太夫があるとき、昼寝をしていた家臣の羽を抜いてしまったところ、家臣は早く走れなくなってしまい都に日参することができなくなった。急に都に来なくなったことを不審に思われ、謀反の疑いありと攻め滅ぼされてしまったのだとか。
 羊太夫は新羅系の渡来人だったという説がある。銅を発見できたのも進んだ知識と技術があったからだと考えれば納得がいく。家臣というのは従っていた豪族か何かで、何らかの理由でその協力が得られなくなり、朝廷と敵対して滅ぼされたということはあり得る話だ。



 そんな群馬あたりの人物と名古屋の羊神社がどう結びつくかといえば、藤原宗勝が上野国と奈良の都を往復する際、このあたりに休息をする屋敷があって、村人たちを守るためにカグツチを祀る神社を建てたのが始まりとされている。羊太夫と呼ばれた藤原宗勝にちなんで羊神社と呼ばれるようになったのだと。
 羊太夫の呼び名の由来とされる話はいくつかある。未の年、未の日、未の刻に生まれたからだとか、 未の刻(午後二時-四時)に会議を終えて奈良を出ると申の刻(午後四時-六時)には群馬に帰り着いていたからだとか。
 群馬県高崎市吉井町には多胡碑(8世紀後半のものとされる)という石碑が残っており、和銅4年(711年)、近隣3郡から300戸を切り取って与えるから多胡郡を作って「羊」が支配するようにという命が刻まれている。
 これが藤原宗勝の功績をいっているのだという説と、そうではないという説がある。
 群馬県の羊神社は、江戸時代前期の延宝年間(1673年-1681年)に創建された新しい神社で、多胡羊太夫こと藤原宗勝と天児屋根命(アメノコヤネ)が祀られている。



 以上のお話を踏まえた上で、実際の羊神社創建について考えてみる。
 羊はまず、動物の羊のことではない。古代、日本において羊はあまり馴染みがない。一般の日本人が羊のことを知るのは明治時代以降のことで、羊が神の使いとされた例は知らない。
 だとすれば、羊太夫が何らかの形で神社創建に関わった可能性がひとつ考えられる。そういう人物が実在していなかったとしても、伝説が現在まで伝わっている以上、何か関わりがあったのではないか。
 群馬と奈良を結ぶ直線上に、名古屋市北区はあるといえばある。古代の道は基本的に真っ直ぐで、地形に合わせて曲がりくねったりしていなかった。住民の利便性などおかまいなしで、とにかく最短距離を結ぶことが優先された。
 飛鳥時代、奈良時代になると中央集権が進み、都と地方を結ぶ道が整備された。地形的に見ると羊神社があるあたりは、群馬から山々を越えて、庄内川、矢田川と大きな川を渡った先にある。奈良まではまだしばらくある。このへんでひと息入れようと考えるのは頷ける。帰り道でもそうだ。
 日参というのはもちろん本当ではないけれど、たびたび往復するのであれば途中の数ヶ所に泊まる場所も必要だ。そこの住民と馴染みになることもあっただろう。
 ただ、何故祀る神をカグツチにしたのかという点が疑問として残る。



 カグツチは『古事記』では火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と表記され、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される火の神だ。
 神産みでイザナギとイザナミとの間に最後に生まれた子で、火の神であったがゆえにイザナミが出産するときに陰部に火傷を生って、それがもとでイザナミは死んでしまう。怒ったイザナギによってカグツチは十拳剣(天之尾羽張/あめのおはばり)で首を切り落とされてしまった。そこから大勢の神が生まれることになる。
 カグツチの出生地されるのが三重県熊野市で、その伝承地に産田神社(うぶたじんじゃ / web)がある。
 カグツチが火の神、鍛冶の神として祀られるようになるのは700年代からで、古い神社としては静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社(709年 / web)、京都市の愛宕神社(701-704年 / web)、大分県別府市の火男火売神社(771年 / web)、京都市の野宮神社(809年 / web)などがある。
 その後の神仏習合で、愛宕権現や秋葉権現などとして火の神の性格を強めていく。



 羊神社が『延喜式』神名帳(927年)にある羊神社のことと仮定すると、奈良時代あたりに火の神カグツチを祀る神社として創建されたと考えていいだろうか。もしかすると、大きな火事などがあって、二度とそういうことが起こらないようにという願いからカグツチを祀るようになったのかもしれない。あるいは羊太夫が先で、カグツチは後付けだっただろうか。
 辻村は、火辻村だったのを火の字を嫌って辻村にしたとされる。熱田の火上姉子神社が火事になったので氷上姉子神社とし、火高を大高に改めたというのと似ている。
 では火辻を羊と表記したのではないかというと、羊神社の方が先なのでそれはない。
『尾張志』(1844年)は「辻村にあって今神明社と称しているのは延喜式の羊神社のことで、村の名を辻というのは羊を省いたものである」と書いている。
 小林春夫『愛知の式内社とその周辺』ではまったく違う話が紹介されている。
 昔、悪さをする狐(キツネ)がいて、この狐を退治しようと祭祀をしたところ、未(羊)の方角(南南西)の御幣(白いひらひらの紙/紙垂を木に結んだ祭祀の道具)が舞い上がって後を追いかけた。それがこの神社の神だったということで、そこから羊神社の名前がついたというものだ。
 また、もともとの名前は海神社で、宗像三女神を祀っていたともいう。これはかなり突飛な説というか、意外性のある話だ。海人族が海の神を祀ったというのであれば、距離的にも綿神社との関係が深いと考えられる。
 更に別の説では、新羅系渡来人の羊氏が祖神を祀ったのが始まりというのがある。
 羊神社のすぐ北を流れているのが矢田川で、東にいったところに矢田村があり、矢田川沿いを東に進むと小幡村、その東には天子田という地名がある。これらの地名は羊氏に関係する可能性がある。
 羊氏が祖神を祀ったのが始まりとすると、創祀は奈良時代よりもさかのぼる可能性が出てくる。その祖神はおそらくカグツチではなかっただろう。
 津田正生は『尾張神名帳集訂考』の中で、『延喜式』神名帳の羊神社は、瀬古村の天神だと言っている。これは今の高牟神社(瀬古)のことを指しているのだろう。
 その根拠として、「瀬古と辻村とは矢田川を一條隔たれと、もとは一圓の地脉(ちみゃく)なり、延喜式に羊字を下したるは誤なるべし」「瀬古村に高見(たかみ)の名残あるを思へば火辻の由(ゆえよし)なるべし。日置(ひおき)、火辻は同語なるべし」と書く。
 かなり大胆な推測で、正しいのか間違っているのか私には判断がつかない。
 個人的には羊氏の関係神社という可能性が高いと思うけど、羊太夫の話の方が面白くて好きだ。



 江戸時代はアマテラスも祀っていたことで神明社とも呼ばれていた。
 1613年と1838年に再建された記録が残る。
 第二次大戦の空襲で神社も氏子の地域もほとんど被害がなかったのは火伏せの神カグツチを祀る羊神社のおかげと語り継がれる。
 社殿は江戸時代後期に改築されたものが残っている。
 1月15日の左義長で厄年の夫婦がぜんざいを振る舞う特殊神事があったそうだけど、今もそれは続いているのだろうか。




作成日 2017.3.1(最終更新日 2019.1.15)


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