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ハラエドノオオカミ《祓戸大神》

ハラエドノオオカミ《祓戸大神》

『古事記』表記 なし(速秋津比売神のみ)
『日本書紀』表記 なし
別名 瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売
祭神名 祓戸大神・他
系譜 不明
属性 祓の神
後裔 不明
祀られている神社(全国) 佐久奈度神社(滋賀県大津市)、日比谷神社(東京都港区)、浦嶋神社(京都府与謝郡)、など
祀られている神社(名古屋) 水野社(中村区)、大井神社(速秋津姫命のみ)(北区)

祝詞に出てくる祓の神

 神道における祓(はらえ)を司る神とされ、神事の際に読まれる祝詞(のりと)の中に祓戸大神として出てくる。
『古事記』、『日本書紀』には祓戸大神や祓戸神としては登場しない。
 祓戸の”戸”は”所”または”殿”のこととされ、祓を行う場所に祀られる神と考えられている。
 祓詞(はらえことば)は多少の違いはあるものの、基本的には以下のようなものだ。 

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等諸乃禍事罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎聞食世登恐美恐美母白須」

 書き下すとこうなる。

「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸の禍事・罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと、恐み恐み白す」

 イザナギ(伊邪那岐大神)がイザナミ(伊邪那美大神)を追いかけて黄泉国へ行って戻ってきたときに禊(みそぎ)と祓をして、そのとき成ったのが祓戸大神ということだ。等(たち)といっているので、それらの神々の総称というのが一般的な解釈となっている。
 もろもろの禍事(まがこと)や罪(つみ)穢(けがれ)があれば祓い、清めてくださいと願っている。
 なので、禍事そのものの禍津日神やそれを直す直毘神、綿津見神の住吉三神や天照・月読・須佐之男の三貴神は
祓戸大神には含まれない。

 

祓戸四神のこととも

 罪や穢れを祓い清めるという役割でいうと、『延喜式』(927年)に収録されている六月晦大祓(みなづきの つごもりのおほはらへ)の祝詞に出てくる瀬織津比売(セオリツヒメ)・速開都比売(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドヌシ)・速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)の四神の方が合っているともいえる。
 少し長いけど大祓の祝詞を以下に載せておく。一回読んですべて理解するのは難しいというか無理だけど雰囲気だけでも味わってみてほしい。

高天原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美の命以ちて八百万の神等を神集に集賜ひ神議に議賜て
我が皇孫之尊は豊葦原の水穂の国を安国と平けく所知食と事依し奉き
如此依し奉し国中に荒振神達をば神問しに問し賜ひ神掃に掃賜ひて
語問し磐根樹の立草の垣葉をも語止て天磐座放ち天の八重雲を伊頭の千別に千別て天降依し奉き
如此依さし奉し四方の国中と大倭日高見之国を安国と定奉て
下津磐根に宮柱太敷立て高天原に千木高知て皇御孫之命の美頭の御舎仕奉て
天之御蔭日之御蔭と隠坐て安国と平けく所知食む国中に成出む
天の益人等が過犯けむ雑々の罪事は
天津罪と畦放溝埋樋放頻蒔串刺生剥逆剥屎戸ここだくの罪を天津罪と法別て
国津罪と生膚断死膚断白人胡久美己が母犯罪己が子犯罪母と子と犯罪子と母と犯罪畜犯罪
昆虫の災高津神の災高津鳥の災畜仆し蟲物為罪ここだくの罪出でむ
如此出ば天津宮事を以て大中臣天津金木を本打切末打断て千座の置座に置足はして天津菅曾を本苅断末苅切て八針に取辟て
天津祝詞の太祝詞事を宣れ
如此乃良ば天津神は天磐門を押披て天之八重雲を伊頭の千別に千別て所聞食む
国津神は高山乃末短山之末に登坐して高山の伊穂理短山の伊穂理を撥別て所聞食む
如此所聞食てば皇御孫之命の朝廷を始て天下四方国には罪と云ふ罪は不在と
科戸之風の天之八重雲を吹放事之如く朝之御霧夕之御霧を朝風夕風の吹掃事之如く
大津辺に居る大船を舳解放艫解放て大海原に押放事之如く
彼方之繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打掃事之如く遺る罪は不在と祓賜ひ清賜事を
高山之末短山之末より佐久那太理に落多支都速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云神大海原に持出なむ
如此持出往ば荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す速開都比咩と云神持かか呑てむ
如此かか呑ては気吹戸に坐す気吹主と云神根国底之国に気吹放てむ
如此気吹放ては根国底之国に坐す速佐須良比咩と云神持さすらひ失てむ
如此失てば今日より始て罪と云ふ罪は不在と高天原に耳振立聞物と馬牽立て
今年の六月の晦日の夕日之降の大祓に祓給ひ清給ふ事を諸聞食せと宣る
四国の卜部等 大川道に持退出て祓却と宣る

 ここでは高天原の神を神漏岐神漏美(カムロキカムロミ)として、八百万の神たちを集めて皇孫(瓊瓊杵尊)が豊葦原水穂国(地上)を平安に治めるにはどうしたらいいかを相談させるところから始めている。
 天にも地にも罪はあるとして、それは祓い清めなければならないとする。
 そこで四神がそれぞれの役割を担うことになる。
 まず早い流れの瀬にいる瀬織津比咩が罪穢れを大海原に持ち出し、速開都比咩がそれを呑み込み、気吹主が根国底之国(ねのくにそこのくに)に吹き出し、根国底之国にいる速佐須良比咩が打ち消す(持失)といっている。

 六月晦大祓とあるように、これは6月の終わりに行われていた大祓(おおはらえ)の儀の際に詠まれていた祝詞だ。
 12月の終わりにも同じように大祓の儀があって、それぞれ夏越の祓(なごしのはらえ)、年越の祓(としこしのはらえ)ともいった。
 大祓の起源は定かではないものの、大化の改新(645年)以前から行われていたはずで、大宝律令(701年)で正式な宮中行事として定められた。
 古くより祭祀を担当したのが中臣氏(なかとみ)と忌部氏(いんべ)だったのだけど、この頃までには中臣が重要な役職を独占するようになり、大祓の祝詞も読んだため、大祓祓は中臣祓とも呼ばれた。
 中臣と忌部の争いはこの後も長らく続くことになり、『古語拾遺』(807年)を書いた斎部広成もその延長線上にいる(『古語拾遺』については後述)。

 

祝詞の起源は古い

 祝詞の起源についてもはっきりしたことは分かっていないものの、それこそ太古の時代から原形はあっただろうと思う。
 祀りの際に何かを唱えていたとしたらそれが祝詞の起源といえる。
 明文化されたのがいつかについても不明ながら、どこかの時点では何らかの形で記されていたはずだ。
 祝詞の字は当て字でノリトの”ノリ”は宣(の)るを意味すると考えられている。
 ”ト”は宣を行うということだろう。
『日本書紀』には「諄辞」とあり、『古事記』には詔戸言(のりとごと)という言葉が出てくる。
 この”ゴト”という言葉が付くということは、ノリトという言葉が一般化してノリ(宣)を行うという意味でのノリトゴトという言葉が使われるようになったのではないかと思う。今風にいうと、イベント事みたいな感じだろうか(ちょっと違うかも)。
 ついでに書くと、祝詞には奏上体(そうじょうたい)と宣命体(せんみょうたい)があって、簡単にいうと、奏上体というのは神様に向かって唱える祝詞で、宣命体は下の者のたちに向けて読む祝詞をいう。大祓詞などは後者の宣命体に当たる。
 祝詞の最後が白(まお)すが奏上体、宣るで終わるのが宣命体なので区別がつく。

 

なんとなく伊勢の神宮に関係がありそう

 祓戸四神と呼ばれる瀬織津比売、速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売のうち、速秋津比売神だけは『古事記』に出てくる。
 伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みに続いて行った神生みの最初の10柱の神の最後に生まれたのが速秋津比売神となっている。
 最初に大事忍男神(オオコトオシオ)が生まれ、9番目が水戸神の速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)で、10番目が妹の速秋津比売神と『古事記』はいう。
 この速秋津日子神と速秋津比売神は河と海に分(因)けて沫那芸神(アワナギ)と沫那美神(アワナミ)、頬那芸神(ツラナギ)と頬那美神(ツラナミ)、天之水分神(アメノミクマリ)と国之水分神(クノミクマリ)、天之久比箸母智神(アメノクヒザモチ)と国之久比箸母智神(クノクヒザモチ)を生んだともいっている。
 これでいうと海が速秋津日子神で、河が速秋津比売神ということになるのだろうけど、一対の神を四組生んでいるということは、速秋津日子神と速秋津比売神は男女の夫婦神のようなものと考えるべきなのか。
 しかし、神社の祭神などでも一対で祀られている例は私の知る限りなく、速秋津日子神の影は薄い。

『日本書紀』は第五段一書第六の中で、海神の少童命(ワタツミ)、山神の山祇(ヤマツミ)に続いて水門神の速秋津日命(ハヤアキツヒ)が生まれたと書いている。
 ヒコでもヒメでもないのだけど、これを速秋津比売神と考えることは可能かもしれない。

 それにしても、大祓の中で出てくる瀬織津比売、速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売はどこから来たのかというのが問題となる。
 瀬織津比売に関しては隠された神だとか違う神の別名だとかいろいろいわれていてある意味裏人気の女神なのだけど、速開都比売、速佐須良比売、気吹戸主についてはどこから引っ張ってきた神なのかよく分からない。
 瀬織津比売は『中臣祓訓解』や神道五部書の『倭姫命世記』、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』などに
伊勢神宮内宮別宮の荒祭宮の祭神とある。
『倭姫命世紀』は内宮の滝沢宮並宮で瀬織津比売を、外宮の多賀宮で気吹戸主は祀るとも書いている(現在は祭神が変わっている)。
 以上から、中世において祓戸四神は伊勢の神宮にゆかりの深い神と考えられていたようだけど、最初からそうだったとは限らない。
 速佐須良比売は須佐之男命の娘の須勢理毘売(スセリヒメ)のことという説があったり、伊吹戸主は『倭姫命世記』や『中臣祓訓解』に神直日神・大直日神と同神とある。
 それにしてもこれらの神たちの出自や関係性についてはまったく不明としかいえない。
 何故、三でも五でもなく四神だったのか。
 伊吹戸主を男神とすると、女神三に男神一はなんとなくバランスが悪い。いっそのこと女神四の方がしっくりする。
 このあたりは最後にもう一度考えることにする。

 

斎部広成がどうしても書き残しておきたかったこと

『古語拾遺』は上にも書いたように神祇氏族の忌部氏の斎部広成(いんべのひろなり)が807年(大同2年)に書いたものだ。
 当時、中臣氏に圧倒されていた状況の中で危機感を抱いていたであろう斎部広成は、これだけは書いておかないといけないといった内容になっている。
 かつては中臣氏への対抗心から朝廷に訴えるためとも考えられていたのだけど、現在は平城天皇が律令の「式」を編纂させる際に参考文献のような形で提出させたものと考えられている。
 ちょっと面白いのは、伊勢の神宮の奉幣使を中臣が独占するのはおかしいと忌部が訴えてそれが認められたのだけど、その根拠となったのが『日本書紀』で、『日本書紀』の中で中臣の祖の天児屋命(アメノコヤネ)と忌部の祖の太玉命(フトダマ)がともに祝詞を読んでいたとあるということだった。
 平安時代初期において、『日本書紀』に書かれていることは神話時代のものであっても事実と同じ重みがあったということだ。
 斎部広成は『古語拾遺』の中で、天照大神(アマテラス)が天石窟に籠もったとき出てきてもらうために祝詞を読んだのは太玉命だと書いている(太玉命以廣厚稱詞啓日)。
 これは斎部広成が主張しているだけではなくて『日本書紀』にも一書曰くとして同様の伝承が収録されている。
 第七段一書第三に、忌部首(イミベノオビト)の遠い祖の太玉命が廣く厚く祝詞を読み(而廣厚稱辭祈啓矣)、
それを聞いた日神(天照大神)はこれまでこれほど麗しく美しい言葉を聞いたことがないと言って磐戸を細く開いて外を窺ったと書いている。
 これは忌部氏の伝承を採用したものかもしれないのだけど、それでも一書に入れたということは何らかの根拠があったということだろう。
 一方の中臣氏には中臣氏の伝承があって、第七段一書第二に、中臣連の祖の天児屋命が神祝(かみほぎ)を述べたとある。
 斎部広成によると、天照大神の岩戸開きを主導したのはすべて太玉命とその子たちというのだけど、さすがにそこまで丸ごと信じるのは難しい。
 ただ、ある時点までは太玉命と天児屋命は同等もしくは太玉命の方が上位だったということはいえそうだ。
 中臣が力を持ち始めるのは、乙巳の変(645年)での中臣鎌足以降だろうから。

 国家祭祀についても太玉命の後裔が司ったと斎部広成はいう。
 太玉命の孫の天富命(アメノトミ)が氏族たちを率いて大幣(おおみてぐら)を作り、天児屋命の孫の天種子命(アメノタネコ)に命じて天罪・国罪(あまつつみ・くにつつみ)を解除(はら)わせたという。
 そして、鳥見山(とりみやま)で祝詞を読んで天皇や神々を祀ったのも天富命だといっている。
 これを読む限り、忌部氏こそが祭祀の主で、中臣氏はその補佐だったということだ。それはまったくあり得ないことだとは思わない。

 続いて天平年中(729-749年)までの歴史を簡単に記し、最後に遺(も)れたるところとして11項目を挙げている。
『古語拾遺』は題名からも分かるように、古い歴史のこぼれ話を拾うことを目的としているので、この遺れたるところというのがこの書の肝となる。
 草薙剣を祀っている熱田社に対する扱いがよくないとか、忌部と中臣はもともと同等の祭祀氏族だったのに今(平安時代初期)は中臣が独占していて間違っているといった内容になっている。
 斎部広成はこのとき80歳を過ぎた高齢で、いわば忌部の長老のような存在だったのだろう。これだけは書かずに死ねるかという思いだったに違いない。
 このまま何も書き残さずに死ぬことになれば恨みを地下まで持っていくことになる。なのでこの書を皆さんで話し合ってもらって願わくば天皇もご覧になっていただければという言葉で締めくくっている。

 

祓戸大神は信仰対象か?

 祓戸大神や祓戸四神を主祭神として祀る独立神社は少ない。全国的に見ても主だったところは数社ではないかと思う。
 その中の代表的な神社でいうと、滋賀県大津市の佐久奈度神社(さくなどじんじゃ/web)が挙がる。
『延喜式』神名帳(927年)で近江國栗太郡 佐久奈度神社とあり、名神大社となっている。
 社伝によると、天智天皇の勅命で669年に中臣金(なかとみのかね)が祓戸神(瀬織津姫命・速秋津姫命・気吹戸主命・速佐須良姫命)を祀ったのが始まりという。
 このときの人たちが祓戸神をどういうふうに認識していたのかはよく分からないのだけど、『文徳天皇実録』(879年)の仁寿元年(851年)条に「散久難度神を明神に列す」とあり、『日本三代実録』(901年)の貞観元年(859年)条には従五位上の神階を賜ったとあるので、古くから散久難度神(佐久奈度神)を祀っていたのは間違いなさそうだ。
 ”さくなど”というのは滝などのように水が急激に流れる様を表す”さくなだり”という言葉から来ているとされ、『大祓詞』の中にも「佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たき)つ 早川の瀬に坐(ま)す 瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ」とあるので、当初は瀬織津比売を祀っていたのかもしれない。
 ただ、どうしてこの場所だったのかという疑問を抱く。
 佐久奈度神社は琵琶湖から流れ出る瀬田川沿いにあるのだけど、琵琶湖から南へ8キロほど下った場所になる。
 東から流れ来た信楽川(しがらきがわ)との合流地点なので、そこの水害を抑えるために祀ったというのはありそうだ。
 ただ、それならもう少し北の大戸川との合流地点でもよかったのではないか。
 中大兄皇子は667年に都を飛鳥から近江大津(地図)に移し、その翌年の668年に大津京で天皇(天智天皇)として即位した。669年の佐久奈度神社創建はそれと関係があるに違いないのだけど、大津京から見ても佐久奈度神社は南東約15キロと、ちょっと離れすぎているようにも思う。
 何故この場所に佐久奈度神を祀らせたのかはよく分からない。
 ちなみに、祀りを命じられた中臣金は藤原鎌足(中臣鎌足)の従兄弟に当たる人物で、天智天皇のもとで出世して、672年の壬申の乱では天智天皇皇子の大友皇子の側について殺された。

 鹿児島県霧島市の祓戸神社(web)は、かつて大隅国の國衙(こくが)があった場所に鎮座しており、守公神社や守君神社などとも呼ばれ、大隅国の総社だったとされる。
 東京都港区にある日比谷神社(ひびやじんじゃ/web)も豊受大神(稲荷神)とともに祓戸四神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀っている。
 ここはそれほど古い神社ではなさそうだけど、江戸城以前からあったかもしれない。
 和歌山県和歌山市の玉津島神社(玉津嶋神社/web)は鹽竈神社の祓所から神社に昇格したもので、そういう神社も少なくない。
 奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ/web)には祓戸神社と綱越神社(つなこしじんじゃ)の祓戸四神を祀る境内社が二社もある。
 奈良県奈良市の春日大社(web)、新潟県西蒲原郡の彌彦神社(web)、京都府京都市の地主神社(web)、京都府京都市の賀茂別雷神社(web)などにも祓戸神を祀る境内社がある。
 京都府与謝郡の宇良神社(浦嶋神社)は浦島太郎のモデルとされる浦嶋子を祀る神社(延喜式内社)なのだけど、ここでも祓戸大神が祀られている。

 名古屋では中村区の水野社が祓戸大神を祀る唯一の神社となっている。
 この神社は古くから若宮(若宮八幡社)の末社だったという話がある。若宮は天武天皇時代(673年-686年)創建とも伝わる古い神社で、後に名古屋城が築城されたとき三の丸に当たる場所にあったため、城外に移された。元地でいうと、若宮から見て水野社は2.5キロほど西南ということになる。
 まったく根拠もなくこんな話が出てくるとも思えないから、若宮の西の祓所として建てられたのが始まりかもしれない。だとすると創建(創祀)は飛鳥時代までさかのぼる可能性もある。
 北区の大井神社では速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)が祭神に名を連ねている。

 以上見てきたように、祓戸神信仰はかなり限定的といういい方ができると思う。
 庶民レベルでの信仰は見られないし、全国的な広がりもない。
 祓の儀式に呼び出す神だから社で祀るものではないという認識だっただろうか。
 それでも祓の儀は神事につきものなわけで、それを司る神ならばもっと一般化されてもよかった気がする。

 

穢と祓と禊

 穢(けがれ)の概念は時代とともに変化してきたのだけど、穢は汚れとは違う。不浄な状態というのは正常な状態ではないという意味でも穢という言葉を使った。
 たとえば死や病気は穢だし、出産や女性も穢とされた。
 女性が山に入ってはいけないとか、相撲の土俵に上がってはいけないといったことはその一例だ。
 それは単純に良いとか悪いとか正しいとか間違いといったものではない。
 ケガレに気枯れという字を当てて説明されることもある。
 気が枯れた状態が穢で、穢を直すためには祓を行う必要がある。
 祓言葉を唱えて祓うとか、祓の儀式を行うといったことだ。神職が神事のときに白いひらひらの紙(紙垂)がついた棒(大幣(おおぬさ))を振るのは現代の祓儀式の簡略版だ。
 ハレとケでいうと、日常がケで晴れ舞台や晴れの日という言葉があるように非日常をハレとして、ハレの儀式を行うことで気を満たすという考え方も日本古来のものだ。
 気晴らしとか気が晴れるといった言葉もここから来ている。

 禊(みそぎ)は祓とは少し違う概念で、自ら罪や穢を取り除くことをいう。祓の一種といういい方はできるだろうか。
 現代でも禊はわりと使う言葉で、最近は流行らないけど失敗をしたら丸坊主にしたりするのもある種の禊だし、滝に打たれるのも禊の一種といえる。
 イザナギが水に入って禊を行ったと記紀にあるように、水浴することで行うことが多かった。
 神社の参拝前に手水舎で手を洗うのも禊に相当する。

 祓は古代から現代に至るまで行われてきた重要な行為で、それを司るとされる祓戸神もまた重要な存在に違いない。そのわりに神社で祀られる例が少ないのがちょっと解せない。祓戸四神にしても、あまりメジャーな神とはいえない。
 一家に一神くらいの感じで祓戸神が祀られていてもおかしくないと思うのだけど、そうはならなかった要因は何なのだろう。
 個人的に気になっているのが祓戸四神とされる瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神・速佐順良姫神にモデルがいたかどうかだ。
 実在した人が元になっているのか、それとも観念上の存在でしかないのか。
 頭文字を取ると、瀬、気、速で、なんとなく意味ありげだし実在を思わせる。
 ただ、この四神の関連性がよく分からない。何故、女神3で男神が1なのか。四女神の方がしっくりくる気がする。あるいは気吹戸主神も女神なのか。
 いずれにしても祓を行うことができる人間は限られたはずで、誰でも祓ができたとは思えない。
 現代でいえば神職が祓を行うから祓になるわけで、私が祝詞を読んで大幣を振り回しても祓にはならない。
 資格なり身分なりが必要なはずで、それを象徴するのが四神だとしたら、それは特別な存在だったということだ。

 

見えてこない祓戸神の実像

 結論として祓戸神の正体はよく分からないということになる。
 祓戸大神が祓戸四神のことを指しているのかさえも定かではない。四神以外の親玉みたいのがいたのか、祓を担当する神々の総体が祓戸大神なのか。
 上にも書いたように祓の儀式は形を変えて現代も続いている。それは日本人の中に深く根付いている。
 キリスト教徒が教会に入るときに水に指をつけて十字を切る行為は、—たぶん多くの人は信じないだろうけど—日本人が行っていた禊祓を真似たものだと思う。形だけは真似ても精神までは伝わらなかったようだ。
 日本人の中にある穢や祓の概念を言葉で説明するのは難しい。なんとなく理解しているといったぼんやりしたものでもある。
 穢は悪いことのプラスではなく普通の状態のマイナスと考えた方が合っていると思う。祓はそれを元に戻すためのものだ。リセットするという言葉が一番しっくりくるかもしれない。
 嫌なことは水に流して忘れようというのも日本人ならではの発想だろう。

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