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熊野社(大草村)

八幡より熊野が先かも

読み方くまの-しゃ(おおくさ)
所在地長久手市杁ノ洞2332 
創建年不明
旧社格・等級等旧指定村社 十二等級
祭神伊弉冉命(イザナミ)
応神天皇(オウジン)
アクセスNバス「ライスセンター」から徒歩約5分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月10日
神紋
オススメ度**
ブログ記事長久手熊野社と大草城跡
なんだか好きな長久手大草の熊野社

大草熊野社の個人的感想

 かなり見つけにくいところにあって、初めて訪れたときはだいぶ探したのだけど、自転車で行った二度目の今回も少し迷った。
 地図で確認する際は、手前にある永見寺を目標にするのがよさそうだ。
 その少し南に大草中集会所(地図)がある(神社の駐車場はないので、参拝の短い間ならここに駐めさせてもらってもいいかもしれない)。

 細い道を入っていって正面に永見寺を見つつ左に目を向けると「村社 熊野社」の社号標と石灯籠がある。鳥居はないものの、ここが実質的な入り口になる。
 そこを進むと足下がふわふわして、なんだこりゃと思う。参道が天然の芝生になっている神社など、ここくらいしか知らない。けっこう気持ちいい。
 その先にかなり古びた明神鳥居と、金輪際水が出る様子がない手水舎がある。
 荒れてるなぁと、思う。
 初めて訪れたのが2016年で、あれから8年経って荒れっぷりが進行していた。
 ここまで荒れてるとむしろすがすがしいほどで、もはや荒れ具合が味わいにまで昇華している(褒めてるつもり)。
 拝殿の前に立ってしばしそこの空気感を味わって思ったのが、この神社好きだわー、という感覚だった。
 誰にでもオススメできるようなところではないけど、個人的にはかなり好きで、長久手の神社の中で一番好きといっていい。
 誰も来る心配がなくて空間を独り占めできて居心地がいい。
 神社が出している波動みたいなものがあって、それが合うとか合わないとかがある。

大草村の寺社の歴史

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

 創建は明かではない。『尾張志』に神明ノ社、熊野ノ社熊むら(ママ)にあり、と。
 明治5年7月18日、村社に列格し、昭和11年12月4日、指定社となる。

『愛知縣神社名鑑』

 ”熊むら”って何だ? と思って『尾張志』を見ると、全然違っていた。

 八幡 熊野 相殿社 山ノ神ノ社 並(ミナ)大草村にあり

『尾張志』

『尾張志』が編纂された江戸時代後期(1844年)は八幡と熊野が相殿になっていたようだ。
 もう少し時代を遡ってみよう。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の大草村はこうなっている。

家数 拾九軒
人数 百弐拾七人
馬 拾壱疋

社 弐ヶ所 社内壱反八畝廿四歩 前々除

 八幡 壱社 熱田祢宜 左門太夫持分
 山之神 壱社 当村 三光坊持分

『寛文村々覚書』

 あれ? と思うのは、熊野がなくて八幡だけになっていることだ。
 八幡も山神も”前々除”(まえまえよけ)なので1608年の備前検地以前からあったということなのだけど、どういう事情だったのか「熱田祢宜 左門太夫持分」になっている。
 どうして熱田の祠官が大草村の八幡を管理していたのだろう。やはり大草村も尾張氏が開拓した土地だったということか。
 だとすると、この八幡もかなり古い神社で、もともとは別の神を祀っていたかもしれない。
『尾張徇行記』(1822年)はこんなことを書いている。

 社二ヶ所 覚書ニ、八幡・山神社内一反八畝廿四歩前々除、此山神ハ前ニ所謂三光院ノツカサトレル山神也

 祠官大原左門太夫書上ニ、社内東西十五間南北廿間御除地、神田四畝村除ナリ、鎮座ノ年暦ハ不知

『尾張徇行記』

 ”祠官大原左門太夫”というのが熱田の祢宜で八幡の社人だったのだろうけど、鎮座の年は不明としている。
 ここでも”熊野”は出てこない。
 どういうことだろうともやもやしながら『長久手町史』を読むと、そのあたりの経緯の一端を知ることができる。

 それによると、元禄9年(1696)に永見寺にあった祖神、土地神、水神、伽藍神、熊野権現を合祀して永見寺の鎮守神としたのが熊野社の始まりだという。
 隣接する永見寺はやはり深く関わっていたわけだ。
 ただ、分からないのは、この鎮守神を祀ったのが永見寺の内だったのか、八幡だったのかだ。
 このときに八幡と熊野の相殿になったのだろうか。
 明治元年の神仏分離令を受けて熊野社として独立し、明治10年に八幡社と山之神を合祀して村社・熊野社となったというのだけど、どうして古くからあった八幡ではなく後付けの熊野にしたのだろうという疑問を持つ。

 昭和16年の『大草村誌』は違うことを書いている。
 そこでは、古くから八幡社といっていたのを明治10年に「願済で熊野社と改称せり」といっている。
 山神を合祀したのはそれより前の明治8年ともいっていて、このあたりは証言が食い違っている。
 明治元年の神仏分離令で熊野社として独立したのと、明治10年で村人か神社が願い出て熊野社に改めたのとでは話がずいぶん違ってくる。
 もともとの八幡とはどういう性格の神社だったのか。

 永見寺は『寛文村々覚書』に「禅宗 白坂雲興寺末寺 水福山永見寺 寺内一反に拾歩 備前検除」とあり、『尾張徇行記』は「府志曰、在大草村、号水福山、曹洞宗属白坂雲興寺、旧為臨済宗、寛文7丁未年為曹洞宗 当村書上ニ境内一反廿歩御除地、寺外田畠二十歩村除、延宝年中僧分甫開基也」と書いている。
 ”備前検除”ということは1608年の備前検地のときに除地になったということでそれほど古くはないかと思いきや、元を辿るとかなり古いようだ。

 もともと平安時代前期の貞観年間(859-876年)に権道寺(ごんどうじ)という寺があり、それが焼けてしまった。
 時は流れて室町時代前期の1341年(興国2年)、禅僧の碩応道暉という人物が地蔵堂を建立して復活させたものの、後継者がいなくなり廃寺に。
 更に歳月が流れて戦国時代、長久手合戦で戦に敗れて落ち武者になった豊臣方の武将がこの地に住み着き、再び地堂を建てるとともに湧水庵を建立した。
 それが後に永見寺になったという経緯のようだ。
 当初は瀬戸市の雲興寺の末寺で臨済宗だったのを、寛文7年(1667年)に曹洞宗に改宗している。

 山神を管理していた三光院は永享10年(1437年)創建と伝わっている。
 京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派の大本山、三宝院(醍醐寺)の末寺で、檀家を持たない密教寺院となっている。このあたりでは珍しい。
 平安時代前期の貞観年間にすでに寺があったことからしも、大草の歴史はけっこう古い。
 大草発祥は熊野社や永見寺がある少し南の稲脇という話もあるから、このあたりが古くから大草の中心地だったと考えてよさそうだ。

大草村の変遷

 大草村は長久手市の東北部で、杁ノ洞を中心に、西は立花、東は福井あたりまでが村域だった。
 西は岩作村、南西は前熊村、南東は北熊村と接していた。
 明治11年に北熊村と合併して熊張村西区になり、明治22年に前熊村を併合して上郷村大字大草に、明治39年に岩作村、長久手村と合併して長久手村大字熊張となった。
 大草の地名は(たぶん)消えてしまったものの、大草交差点や大草北停留所などに名残を残している。
 地元では今も大草といえばあのへんという感覚が残っているのだと思う。

 江戸時代の大草村について『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

 此村ハ香流川ト山口川トノ間ニアリ、民戸ハ北山ノ麓ニタチナラヘリ、小百姓ハカリナレトモ村立大体ヨシ、西島北島二瀬戸ニワカル、農事ノ外余業ナシ、此間ハ田畝平衍ノ地ナリ

『尾張徇行記』

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北側の丘陵地の麓に民家が建ち並んで、集落の南を流れる香流川沿いのとの間の平地を水田にしていたのが分かる。
 小百姓ばかりだけど村立はよくて農業一本でやっていけているといっているので、村の人口と米の収穫量のバランスが取れていたのだろう。

 大草の地名由来については、津田正生(つだまさなり)が『尾張国地名考』の中でこんなふうに書いている。

大草村(おほくさ)

 正字なり隣村三河國に矢草村あり矢草は彌草の借字なり大草矢草ともに野草の蕃茂をいふ也

【因書】出雲国風土記云出雲國大草郷は須佐能男の尊の子靑幡佐草彦命の座ゆへに大草の郷といふとみゆ
【正生考】非なりこの神名に依てならば靑草村といはずしては叶はず或は靑草の郷といひしをいま訛りて大草と呼などはば可からん歟

『尾張国地名考』

 大いに草が生い茂っていたから大草といっているのだけど、個人的にはこの説には同調しない。
 草が生い茂っていたということでいえば長久手地区一帯がそうで、大草地区だけの特徴ではないから、それが地名になるとは考えにくい。
 素戔嗚尊(スサノオ)の子の靑幡佐草彦(アオハタサクヒコ)の青草から来ているというのも唐突すぎる。
 草はそこらに生えている草のことではないはずで、いずれにしてもこの説はたぶん正しくない。
 何か別の言葉から転じているとすれば、大熊の方があり得る。もしくは大雲かもしれない。
 ”雲”は”熊”になったり”黒”になったりしていて、大草村の南が北熊村と前熊村ということからしても、大熊から転じた可能性は考えていい。

 村絵図は寛政4年(1792年)のものと年代不詳のものが残されている。
 発展著しい長久手市にあって、このあたりは大きな変化がない。生活道路が通ったり、家が新しくなったりということはあるにしても、集落の場所とか田んぼとか川の流れといった部分でいうと江戸時代からの風景がそのまま続いているといっていい。
 猿投グリーンロードも、リニモも、このあたりには影響をほとんど及ぼしていない。
 寺社も、氏神(熊野社)、永見寺、三光院などがそのままの場所に現存している。
 やや大きな変化といえるのは、1970年代後半に田んぼに道を通して区画整理をしたくらいだ。
 その他、小さな変化でいうと、蛇行していた香流川の流路を一部付け替えている。
 集落の南と香流川との間は今も田んぼ風景が広がっている。

大草城について

 熊野社の左手(西)に「大草城趾」の石碑がある。
 かつて、ここに大草城があった。主郭部分は東西20間(36m)、南北25間(45m)ほどで(『郷土ながくて』)、全体は250メートルほどだったようだ。
 この城について調べると山田重忠(やまだしげただ)の名前が出てくる。山田重忠好きの私としては何っ? と反応してしまう。
 山田重忠が承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇方に付いて敗れた後、北条方によって山田重忠の所領などがすべて没収されたときに、この大草城も焼かれて廃城になったというのだ。
 しかし、この話、本当だろうか? にわかには信じられない。

 山田重忠は名古屋の神社を調べていてもちょくちょく名前が出てきて、そのときどきで書いてきた。
 北区の山田天満宮あたりに屋敷があったという話があり、守山区の熊野社(大永寺)や北区の天神社(中切)、東区の六所社(矢田)のところでも名前が出てくるし、南区の星崎城の城主だったなんて話もあって、どこまで本当なのかよく分からない。
 その上、長久手の大草城まで山田重忠の領地だったとすると、ちょっと広すぎないかと思う。
 長久手はかつての山田郡で、山田郡全体を山田重忠や一族が領していたといえばそうだったかもしれないけど、山田重忠は地元の英雄として名前が通っていたから、実際には関わっていない城や寺社に名前を使われたということがあったんじゃないだろうか。
 承久の乱の後、一族は瀬戸市の水野に拠点を移したとされているので、ここ長久手の大草にその一部が移り住んだとしてもおかしくはないし、その子孫がこの地に館城を建てて、それが後に大草城となったということは考えられる。

 もし山田重忠の時代に大草城がすでにあったというのであれば、それは平安時代末から鎌倉時代初期のものということになる。
 それが本当かどうかはともかく、城跡のようなものあったのは確かなようで、それを大改築して戦国仕様に造り直したのは森長可(もりながよし)だったという話がある。
 天正7年(1579年)に美濃の兼山城主だった森長可が織田信長にこの地を与えられていることがその根拠とされている。
 しかし、伝承では大草城の城主は福岡新助だったとされているので、森長可が自ら改築したということではなかったかもしれない。
 福岡新助について詳しいことは伝わっていないのだけど、この地の郷士だったようだ。
 冨士社(長久手村)のところで書いたように、牧長義・長清父子はそれぞれ織田信秀・信長父子の妹を妻にしており、冨士社や景行天皇社にも牧家は深く関わっているので、大草城も関係している可能性がある。福岡家も分家だったりするかもしれない。

 1584年の長久手合戦で大草城は大いに役立つことになる。
 仏ケ根の戦いで秀吉方の池田勝入(恒興)と森長可が戦死してしまい、池田・森隊の残党が大草城に逃げ込み籠城状態となった。その数は千人ほどだったという。
 そこへ家康方が攻め込んできたものの、城の守りが固く落とせずにいるところに秀吉が大軍でこちらに向かっているという報せが伝わり、徳川方は小幡城へと引き返していった。
 長久手合戦の後すぐに廃城にはならず、元禄年間(1688-1704年)に城主一族が他の村へ移っていった後に廃城になったという(『郷土ながくて』)。

大草城と神社の関係は?

 大草城と熊野社の位置関係からしてまったくの無関係のはずがない。
 可能性は二つ考えられる。
 一つは山田重忠時代に城の守りとして祀った可能性。もう一つは天正時代に祀った可能性だ。
 もともと八幡だったのがその理由だ。
 山田重忠は源氏の武将なので八幡を祀ることにはまったく違和感がないし、戦国時代は広く戦の神として八幡を祀った。
 しかし、別の可能性もある。
 本来は熊野社、もしくは別の神を祀っていたのを中世に八幡に変えた可能性だ。
『長久手町史』がいう「元禄9年(1696)に永見寺にあった祖神、土地神、水神、伽藍神、熊野権現を合祀して永見寺の鎮守神とされたのが熊野社の始まり」という話を実はあまり信じていない。
 熊野社はもっとずっと古くからあったと思うからだ。
 前熊、北熊という村名からして、ここが”熊”だったのは間違いない。いつも書くように”雲”から転じて”熊”になっているので、もともとは”雲の社”といっていたかもしれない。
 大草集落がいつできたかということでもあるのだけど、集落の神は必ずあって、弥生時代だったり古墳時代だったりしてもそれはあった。
 中世や近世に初めて熊野を祀ったということを信じられないというのはそういうことだ。
 社を持たない形だったとしても、何らかのカミマツリは行われていた。

 長久手の歴史は一般に思われているよりもずっと古い。
 弥生時代に一宮の浅井から岩作に人が移ってきたという話があるけど、それより古い縄文時代には人が暮らしていたのではないかと個人的には考えている。
 神社は時代の流れの中で変わっていくもので、創建当時からそのまま変わらない神社はごく少ない。
 長久手で古いとされる神社は縄文、弥生まで起源を遡るのではないか。
 大草の熊野社がそのうちの一つだったとしても私は驚かない。


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