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神明社(北熊村)

ただの神明じゃない

読み方しんめい-しゃ(きたくま)
所在地長久手市神門前420-1 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十三等級
祭神国常立尊(クニノトコタチ)
素戔嗚尊(スサノオ)
アクセスリニモ「公園西駅」から徒歩約25分
駐車場あり(鳥居前広場)
webサイト
例祭・その他例祭 10月10日前後の日曜日
特殊神事 おまんと(警固祭)
神紋
オススメ度
ブログ記事熊張の神明社
北熊の神明社で長久手神社巡りは完結

普通の神明ではない

 神明社を称しているけど、ここは普通の神明社ではない。
 江戸時代に入ってから村の守り神や農耕の神として天照大神(アマテラス)を祀った神明社とはまったく性質が異なっている。
 祭神を国常立尊(クニノトコタチ)としているところは、中世に流行した神宮外宮発祥の伊勢神道の影響を受けたものが多いのだけど、ここはそれとも違う。
 本社は神明社古墳群と呼ばれる古墳のうちの4号憤の上に鎮座している。
 この古墳群と神社が無関係のはずがなく、起源を辿れば少なくとも古墳時代まで遡る。
 実際はもっとずっと古い可能性もある。

長久手の古墳や遺跡について

 神社について詳しく見ていく前に、長久手地区の古墳や遺跡について少しまとめておくことにしたい。

 長久手市には3つの古墳群が知られており、一つは大草南部から北熊北部にかけての熊張古墳群、一つは岩作丘陵北の高根山古墳群、もう一つは三ケ峯丘陵北の香流川上流南部古墳群と呼ばれている。
 高根山古墳群は高根山と石作神社東の色金山にあるもので、香流川上流南部古墳群は原山、寺田などに点在した古墳で現在までに消滅して残っていない。
 熊張古墳群は北部大草にあるものを助六古墳群(3基)、南部北熊にあるものを神明社古墳群(4基)とする。
 昭和44年(1969年)の道路工事の際に神明社の南で円墳や遺跡が見つかったことがきっかけで知られるようになり(『郷土ながくて』)、昭和55年(1980年)から昭和56年にかけて助六第1号古墳と神明社第2号古墳で発掘調査が行われた(長久手市郷土史研究会)。
 その後、助六第1号古墳は埋め戻され、神明社第2古墳は玄室を剥き出しにした状態で保存されることになった。
 いずれも直系10メートルほどの小型の円墳で、横穴式石室を持つことから古墳時代後期(7世紀か)のものと考えられている。

 しかし、これでへぇ、そうなんだで納得しては何も知らないままで終わってしまう。
 これらの古墳群はダミーとはいわないけど目くらましで、本当に大事なものは表沙汰になっていない。
 神明社がある土地を”神門前”という。現在は”じんもんまえ”と読ませているのだけど、かつては”とりいまえ”といっていた。
 神明社があることからそんな地名になったんだろうとぼんやり思っている人もいるだろうけど、”神”が付く地名というのはそんなに単純なものではない。
 文字通りであれば”神の門”の前ということになる。では、神の門とは何を指し、どこにある(あった)かということだ。
 これまでに何度も書いているように、高天原の中心は”雲”で、周辺には八の”雲”があった。この雲から出ると””出雲になるのだけど、”雲”は”黒”や”熊”に変化した。
 今も残る黒石といった地名もその名残だし、熊野社ももともとは”雲の社”だった。
 長久手の前熊、北熊も当然そうで、前熊、北熊の位置関係からして南に”熊”の本拠があったと考えられる。
 北熊の神明社は北熊村のほぼ中央に位置していて、北は大草村と接し、南はグリーンロードを越えてモリコロパークの北半分が村域だった。
 このことからして、熊は現在のモリコロパーク、かつての青少年公園にあっただろうと思う。公園にして封印したということだ。
 大事な古墳はモリコロパーク内にあるはずで、たぶんここが古代の聖地(神地)だったと思う。
 神門前という地名も、この熊の入り口の前と考えればそのままの名前ということになる。
 青少年公園が愛知万博の会場となり、ジブリパークができたというのも何らかの因果関係がある。たまたま会場として都合が良かったとかそんなことではない。
 上の方で決まっていることというのは、本当に嫌らしいくらい秘密が共有されていて、その一端でも知るとがっかりする。一般市民には全然知らされていないんだなと。
 宗延寺(地図)の東の山林から縄文土器が見つかっていることからしても、古墳時代よりもずっと古い時代からこのあたりには人が暮らしていた。
 別に隠す必要はないと思うのだけど、隠すということはそれだけ大事に守らないといけないことだったのだろう。
 出土した遺物から陶工や刀鍛冶がいたとも考えられている。

北熊の神明社について

 以上のような歴史を踏まえた上で、あらためて北熊の神明社について分かっていることを書き出してみる。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は明かではない。
明治5年7月28日村社に列格す。
大正2年1月6日字観音堂鎮座ノ津島社を合祀した。

『愛知縣神社名鑑』


 情報が薄すぎてこれでは何も分からない。
 分かるのは大正2年(1913年)に観音堂にあった津嶋社を合祀したことくらいだ。
 江戸期の書を見ても、あまり詳しいことは分からない。

北熊村

家数 弐拾七軒
人数 百七拾八人
馬 拾九疋

高田宗 山口村本泉寺末寺 宗円坊 寺内年貢地

社 弐ヶ所
内 神明 山神 当村祢宜 久太夫持分
社内壱町壱反弐畝六歩 松林共ニ 前々除

大日堂壱宇 前々除

薬師堂壱宇 前々除

『寛文村々覚書』

『寛文村々覚書』がまとめられた江戸時代前期(1670年頃)時点で、北熊の神社は神明と山神だけで、いずれも前々除となっているので1608年の備前検地以前からあったということだ。
「高田宗 山口村本泉寺末寺 宗円坊」というのは後の宗延寺のことで、境内は年貢地になっているので、江戸時代以降の創建かもしれない。
 ただ、『尾張志』では「宗延寺 北熊村にありて東申山と云山口村本泉寺の末也 創建年月詳ならず境内ニ庚申堂あり」とあり、創建年は詳らかではないということはわりと古いとも考えられる。
 山口村本泉寺というのは、瀬戸市に現存する教春山本泉寺(真宗高田派)のことで、山田重忠のひ孫にあたる山田重泰・親氏兄弟が1283年(弘安6年)に建てたとされている。
 山田の荘を領していた山田重忠の一族は1221年の承久の乱で朝廷方について戦って敗れ、領地は没収されて一族は追放になった。
 その後、重泰の代になって許され、尾張国菱野の地頭に任じられて、その時代に本泉寺を創建したという流れがある。
 熊野社(大草村)のところでも書いたけど、大草城は山田重忠一族の城で、承久の乱の後に焼かれて廃城になったという話があり、長久手も山田重忠の一族が関わっている可能性が高い。
 北熊の宗円坊(宗延寺)がその本泉寺の末寺というのも何か関係があるに違いない。
 山田重忠は源氏の一族なのだけど、尾張氏の妻を娶っていたという話もあり、尾張氏の一族でもあった。
 長久手一帯の土地はかなり古い時代に尾張氏が開拓したところなので、このへんともつながってくる。

『尾張徇行記』(1822年)を見るともう少し詳しい情報を得ることができる。

祠官近藤久太夫書上ニ、神明祠境内松山一町一反前々除、社領下田五畝前々除、当社往古ヨリ鎮座ニシテ年暦ハ不詳

摂社 八王子・八幡・白山・児御前

山神祠境内松山三畝前々除、境内ニ昔時大懸祠アリ今ハナシ
三狐神祠境内松山一反四畝前々除、今ハ祠ナシ
薬師堂境内松山廿五歩、大日堂境内松山四畝、観音同境内四畝、イツレモ前々除

『尾張徇行記』

 注目すべきは「当社往古ヨリ鎮座ニシテ年暦ハ不詳」という言い回しだ。
 ”往古”(おうこ)というのは大昔という意味で、江戸時代の人から見た大昔というのは少なくとも中世より以前ということだっただろう。
 この神社は大昔からここにあっていつ建てられたのかなんて分かるはずがないというニュアンスだ。
 神明社の摂社に、八王子、八幡、白山、児御前があったことが分かる。
 その他、山神の境内にかつて大縣(おおあがた)祠があったけど今(江戸時代後期)はすでにないことや、三狐神祠は境内地だけあって祠はないことなども知ることができる。

『尾張志』(1844年)は同じようなことを簡潔に書いている。

神明ノ社 末社に八王子社八幡社白山社児御御前社等あり 村の氏神也

山ノ神ノ社 氏神より亥の方にあり
シヤグジノ社廢址 氏神より戌の方にあり

以上北熊村にあり

『尾張志』

 神明社の摂社は同じ顔ぶれで、村の”氏神”といっている。
『尾張徇行記』がいう”三狐神祠”を、ここでは”シヤグジノ社”としている。
 社宮司などとも表記するミシャクジ信仰なのだろうけど、起源は古いかもしれない。

補足情報

『長久手町史』(昭和56年)からはもう少し細かい情報を拾うことができる。
 神明社の旧住所は字神門前(とりいまえ)421番地で、斎宮祠は字助六752番地、山神は字助六763番地にあった。
「神明社由緒書控帳」には、神明社の境外末社として山ノ神、大県神社、斎宮祠社、御鍬社、秋葉社、洲原社、伯父神社、蛭子社があると書かれている。
 その他、モリコロパーク西南端の丘陵に秋葉社があって、ここを秋葉山と呼んでいた。
 伯父神社というのは他の史料にはないもので、字榎ノ下にあって三岡家の先祖が祀った社だという。
 北熊には3、4組の秋葉講と3組の大峯講があり、それぞれの講は遠州(静岡)の秋葉寺と大峯山に毎年代表者を送っていたんだそうだ。
 前熊の秋葉社にある大峰山の行者堂は、ひょっとすると北熊の大峰講関係のものなのかもしれない。

村絵図に見る北熊村

 北熊村の村絵図は寛政4年(1792年)と天保12年(1841年)のものが残っている。
 寛政4年の絵図を見ると、集落の中央に”観音”、その北に”宗延寺”があり、集落の東に”才宮司”、”薬師”、”山神”が書かれている。
 神明の表記はないものの、鳥居と社もある。
 天保12年の絵図も大きな変化は見られない。
 気になったのは、神明の鳥居と社が朱色に塗られていることだ。絵図だけのことなのか、実際にそうだったのか。
 熱田神社(熱田神宮)も中世は全体が朱塗りだったようだから、中世以降の神社は江戸時代も朱塗りだったところが今より多かったのだと思う。

 気になったといえば、『長久手町史 史料編』が「慶長12年より尾張藩主徳川氏の領分になった」といっていることだ。
 慶長12年は1607年で、まだ名古屋城はない時期だ(名古屋城築城は1610年から)。
 実はこの1607年というのはわりと大きな意味を持っている。
 名古屋城ができるまでの尾張の首府は清洲にあり、家康四男の松平忠吉が清洲藩主だったのだけど、その忠吉が1607年に28歳で病死してしまう。
 忠吉に嫡男がいなかったため、後を継いだのは家康九男の義直だった。この義直は遅くできた子ということもあって家康の元で大事に育てられたという。
 名古屋城は大坂方への備えのためとされているのだけど、義直のためというのもいくらかはあったのではないかと思う。
 1607年に北熊を尾張藩の直轄にしたというのも、このへんの事情と連動していたかもしれない。
 それが北熊村だけだったのか、周辺の大草や岩作などもそうだったのか。もし北熊村だけだったとしたら、ここを特別視していたとも考えられる。
『尾張徇行記』は北熊村について「此村ハ竹木茂リ村中小川アリ常ニ道トス、三瀬戸ニワカル、北島中島東島ト云、小百姓ハカリニテ農事ヲ専トシ、小商ナトスルモノナシ、村中田畝ノミニテ耕耘シ、外村ニテハ承佃セス」と書いており、柴を拾って売ったり草履を作ったりといった副業をしなくても農業一本でやっていけたようだから、単に良い土地を直轄地(蔵入地)にしただけなのか。

 北熊村は明治11年(1878年)に大草村と合併して熊張村東区になり、明治22年(1889年)に前熊村を併合して上郷村大字北熊に、明治39年(1897年)に岩作村と長久手村と合併して長久手村大字熊張となった。
 こういった経緯から今も”熊張”の地名が残っている。

北熊村の変遷

 今昔マップで明治中頃(1888-1898年)以降の北熊村の変遷を辿ってみる。
 集落があったのは今の早稲田、観音堂、杁ヶ根あたりで、基本的にこれが現在まで続いている。
 集落の西から南、香流川右岸沿いの平地を水田にしているのも今と変わらない。
 神明社があるのは集落からだいぶ離れた南東で、東に広がる丘陵地の裾野に位置している。ここは上に書いたように神明社古墳群がある場所に当たる。
 集落の東から南にかけての丘陵地に民家はほとんどなかったのではないかと思う。
 後のグリーンロードの南は、モリコロパークの北側半分くらいまでが北熊村で、南半分は岩作村の村域だった。どうしてこんなふうに分けたのかはよく分からない。
 1968-1973年でもあまり変わっておらず、1976-1980年の地図にはグリーンロードが書かれている(1972年に開通)。
 この頃までに田んぼ地区は区画整理された。
 グリーンロードが通ったことで北熊は北と南に分かれてしまったものの、北エリアはさほど影響を受けていない。
 2005年に青少年公園が愛知万博の会場となり、その後モリコロパークとなったことも北部地区にはさほど大きな変化をもたらさなかった。
 2017年に神明社の目の前にIKEAができてもそうだった。もっと激変すると思ったら意外にしなかった。
 それでも、昭和時代から住んでいる人にしたらこのあたりもずいぶん変わったなという印象なのだと思う。

何か匂う

 長久手の歴史に興味がある人はたぶん、石作神社がある岩作や景行天皇社のある旧長久手村あたりに注目して重要視していると思う。
 けど、私は北熊、前熊、大草の東エリアの方に何か感じるものがある。
 怪しいというか、隠しているというか、何か匂う。
 年代だけいっても、東の方が古い気がする。
 長久手で一番古い神社は北熊の神明かもしれないなどといったら笑われるだろうか。
 大草の熊野社もけっこう怪しい。
 長久手は歴史がないわけではなく隠されている。隠し事が多ければ多いほど、隠す意思が強ければ強いほど、重要度が高いということだ。
 今後、愛知の歴史が明らかになっていく過程で長久手の歴史も表に出てくるかもしれない。
 長久手、尾張旭、日進、東郷あたりは要注意、要注目といっておきます。


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