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神明社(三本木)

ここは特別な場所ではないか

読み方しんめい-しゃ(さんぼんぎ)
所在地日進市三本木町廻間129 地図
創建年不明(神明社としては大正14年)
旧社格・等級等旧無格社・十四等級
祭神天照大御神(アマテラス)
豊受大神(トヨウケ)
大山津見命(オオヤマツミ)
市杵島姫神(イチキシマヒメ)
アクセス名鉄バス/日進バス「三本木区民会館」より徒歩約4分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他10月第2日曜日(旧10月10日)
神紋五七桐紋
オススメ度**
ブログ記事日進市三本木の神明社に感じた特別感

特別な感じ

 あー、なんだろう、ここ。いいな、好きだな、と思う。
 ごく稀に、ここはいい神社に違いないという確信めいたものを感じることがあって、この神社もそうだった。
 社伝を知ると、そんなわけないだろうと言いたくなる。
 実際そうなのかもしれないけど、それだけではない気がする。

 この空間がそうなのか、この神社そのものがそうなのかは判断がつかないのだけど、ここには何か特別なものがある。
 必ずしも歴史的な古さではないのかもしれない。
 いや、でも何か、秘められた古い歴史があって、重要な場所に思える。
 こういうぼんやりした感覚に根拠があるわけではないのだけど、自分としては引っかかりを無視することができない。
 それはある種のメッセージであり、訴えのようにも感じられる。
 私が掘り出さないで誰が掘り出すというのかという思いもある。

三本木の由来は?

 東京六本木の地名の由来は六本の大樹があったからということはよく語られるしその通り信じている人も少なくないだろうけど、ちょっと考えればそんなわけがないのはすぐに分かる。木なんてあるところには何本もあるし、ないところにはない。何か目印になるような木があったとしても、それがそのまま地名として定着した例は少ないはずだ。
 日進の三本木も同じようなことが言われている。
『日進町誌』は『日進村誌』に「字廻間八十二番地(常夜灯の東)地内に差口三尺余りの松の大木が(三本?) あったからである」と書かれていると紹介してる。
 しかし、木が何本かあったから何本木という地名がつくのであれば、日本国中何本木地名だらけになってしまう。
 実際、五本木や七本木といった地名はあるものの、それが本当に木の本数に由来するかといえばそうではないだろう。
 木(き)というのは城(き)にも通じる言葉であり、神様のことを柱と数えたり、木は神の依り代という思想があるように、特別な意味を持っている。神社にご神木はつきものだし、高木神もいる。
 地域を表すいい方として、一木、二木、三木という呼び方がある。神社の一宮、二宮、三宮に近いといえば近い。
 そういうことでいうと、日進の三本木は三木と関係があるのかもしれない。
 阿波忌部の後裔が三木家を名乗っているのはよく知られている。
 三本木は日進の東端というだけでなく尾張国の東端でもあって、すぐ東は三河国の豊田だ。三河の”三”とも関わりがあるだろうか。
 現在の三本木は”さんぼんぎ”と読ませているけど、古くは”さんぼぎ”とも呼んだそうだ。
 この読み方は日進に限ったものではなくて各地にもある。
 ”さんぼ”の”き”からは”参謀”の”城”を連想する。

 津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。

米之木(こめのき)村 支村一 三本木(サンホンき)

正字小梅の木の約る也支村の名は俗語にして正字なり
【近藤利昌日】山口村より三本木までの山連列を三ヶ嶺(サカみね)といふその滴水束は堺川へ落西北は矢田川へおち西南は天白川へ落る也

 支村(三本木)の名は俗語であり正字であるといっているのだけど、どういう意味かよく分からない。

 三本木の東に三ヶ峯(さがみね)上池と三ヶ峯下池があり、三ヶ峯上池付近に天白川の水源がある。
 つまり、三本木は天白川の源流域ということだ。天白川は尾張南部の重要河川だから、その源は必然的に最重要地点ということになる。
 三本木周辺から古代の遺跡は見つかっていないものの(鎌倉時代の窯跡が1基知られている)、だからといって古くからこの地に人がいなかったとは限らない。
 もし私が天白川流域の首長という立場だったとしたら、その源流の三本木地区を放置するようなことは絶対にしない。水源を取られることは命取りになりかねないからだ。
 たとえ自分が住まなくても、誰か代理の者を置く。それが”参謀”というのは、ちょっと推理が飛躍しすぎているだろうか。

江戸時代の三本木

 江戸時代の三本木は米野木村の支邑(村)という位置づけだったので、尾張の地誌に独立した項がなく、詳細を知ることができない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)には三本木についての記述はなく、『尾張徇行記』(1822年)の米野木村の項にこんなことが書かれている。

此村ハ藤枝村ヨリツツキ伊奈街道筋ニアリ、小百姓ハカリニテ貧村ナリ、四瀬戸ニ分ル、西ウラ組中組町組河原組ト云、一村ツツキ也、此村農事ヲ専ラ渡世トス、又街道ノ傍ニ小原ト云所アリ、是中組ノ中ヨリ引移民戸少シアリ、本郷ヨリ十町ホトヘタテリ、又支邑三本木新田ハ、本郷ヨリ二十町ホト隔街道筋ニアリ、民戸余程アリ、三本木ヨリ三州御境目マテ十二三町ホトアリ、御境ヲヒロクテト云

 三本木を三本木新田としており、米野木村の本郷から1キロちょっと(十町)離れた伊奈街道(後の飯田街道)沿いに民家が並んでいると書いている。
 そこから1.3キロほど東は三河との境で、”ヒロクテ”というともいっている。
 広久手の地名は今も残っていて、三河側が豊田市田籾町広久手になっている。

『日進町誌』によると、三本木新田を開拓したのは渡辺半蔵で、寛文7年のことという。
 しかし、寛文7年は1667年なので、初代の渡辺半蔵守綱のことではない。渡辺半蔵守綱は1542年(天文11年)生まれで、1620年(元和6年)に死没している。
 ということは、渡辺家の当主は代々半蔵の名を継いだということだろうか。
 当時の入植者は11人(軒)で、米野木から5人、三河の吉良横手村(西尾市)から4人、三河の一木村(ひとつぎ/刈谷市)から1人、三河の澁川村(豊田市)から1人だったという。
 渡辺半蔵守綱は徳川家臣で、尾張藩の付家老を務めた人物だ。徳川十六神将の一人とも称された。
 もともと三河国寺部城主だったので、寺部から日進地区へ移ってきた人間も多い。
 北新田の八幡も、寺部の八幡から勧請したものとされる。

最初から山神だったのか?

 三本木の神明社について『愛知縣神社名鑑』は以下のように書いている。

元は山神社と称したが、米野木の神明社を明治12年許可をうけ合祀し、同40年7月1日宗像社を合併する。
大正14年11月27日山神社を神明社と改称した。

 もともと山神だったところへ明治12年に米野木の神明社を合祀したといっている。
 これは本当なのだろうけど、ちょっと珍しいパターンだ。
 明治40年に宗像社を合祀し、大正14年になって山神社を神明社に改称したという経緯のようだ。

 江戸時代の地誌から米野木村の神社を拾うと以下のような顔ぶれになっている。

『寛文村々覚書』

社 四ヶ所 内 神明 権現 山之神弐社
 当村長大夫昌林寺持分

『尾張徇行記』

社四ヶ所 覚書ニ神明・権現・山神二社、当村長太夫昌林寺持分トアリ
祠官山田長太夫書上ニ、氏神神明祠・御鍛神祠・境内一町八反外ニ田七畝共ニ前々除
山神二社、境内一ツハ東西三十四間南北廿二間、一ツハ東西二十四間南北三十二間、共ニ前々除
春日明神祠境内二反五畝十八歩、三狐子祠境内一畝、八幡祠境内十八歩、イツレモ村除

『尾張志』

神明ノ社 境内に鍬ノ神ノ社あり是を村の氏神とす
春日ノ社 八幡ノ社 直會(ナホラヒ)といふ地にあり 山ノ神ノ社三所 社宮司ノ社

以上ともに米の木村にあり

『寛文村々覚書』と『尾張徇行記』は山神を2社とし、『尾張志』は3社としている。
 これらのうちの1社が三本木神明の前身の山神なのかというと、判断が難しい。
 前々除(まえまえよけ)になっているということは1608年の備前検地のときはすでに除地だったということで、創建は江戸時代以前に遡る。
 三本木新田の開拓が寛文7年(1667年)というのであれば、神社の創建はそれ以降ということになり、これらの山神は違うということになる。
 ただ、新田開拓以前に、この地に山神があった可能性もある。三本木の新田村がそれを氏神としたのかもしれない。
 むしろその方がしっくりくる。新田村の氏神として山神というのは逆にしっくりこない。

 明治になって米野木村の神明を合祀した経緯については『日進町誌』で知ることができる。

明治十二年、この地方に虎列刺(コレラ)病が流行したので、住民一同が協議の上、氏神である米野木の神明社の分霊を山神社境内に員外社として奉祀したもので、比較的新しい神社である(明治十二年八月十六日願出、同年九月二十五日許可)。
大正十四員外社神明社へ山神社を合併して、神社名を神明社と改称し(大正十四年十月二日願出、同年十一月二十七日許可)、三本木地区の氏神とした。

 コレラの流行は江戸時代に何度があって、一番大きな被害を出したのが幕末の安政5年(1858年)だった。
 長崎から始まった流行は東海道を東へ進み、江戸だけで3万人の死者が出たといわれる。
 明治12年のコレラも大変だったようで、各地で数千人規模の死者が出た。
 これを受けて三本木でもなんとかしなくてはということになって、米野木の神明から勧請してきたのだろう。
 最初は員外社という扱いで、大正14年に山神社を神明社に合祀して神明社と改名したという流れだったらしい。

 合祀社と境内社について少し補足しておく。
『日進町誌』はこんなことを書いている。

明治十三年十月に、旧領主渡辺家の祖、半蔵守綱の霊を勧請して、境内社守綱社として奉祀し、同四十年七月四日には、三ヶ峯池に祀られていた無格社宗像社(辯財天社、祭神市杵島姫神)を山神社に合祀した。

明治四十年に合祀された宗像社(辨財天社)は、宝永五年正月二十八日に領主渡辺定綱によって、勧請されたものである。
宝永四年十月四日の地震によって、三ヶ峯池の堤が決潰し、三本木新田を含む米野木村は大変な被害を受けた。
しかし、このとき、岩崎村の野田打池(弁天池)の堤は一点の災いもなかった。
それは野田打池の中島に弁財天が祀られている加護によるものだとして、三ヶ峯池の辺りにも辯才天社を建立し、修造料として田百五十歩が寄附された。

 これはなかなか興味深く、面白い話だ。
 上に書かれている通り、現在の弁天池は野田打池と呼ばれており、辯才天が祀られていたので弁天池となったようなのだけど、今は残っていない。岩崎村の神明社に合祀されたかもしれない。
 野田打池の辯才天にあやかって三ヶ峯池でも辯才天を祀ったというのは心情として理解できる。

 寺についても書いておくと、三本木には深溪山長松寺(地図)という寺があった(現存)。
 長松寺があるのが大根という地名というのも意味ありげだ。
 ”根”地名は重要な場所で、大いなる根となれば、何か根本的な土地という意味合いに思える。
『日進町誌』はこの長松寺についてこう書いている。

寛永四年、遠江国浜名郡白須賀村蔵法寺慧存が、寺内に一宇を建てて長松庵と号したが、明和三年五月山崩れにあって廃寺となっていたものをここに移したものであるという。
江戸時代の世代は不詳であるが、次の位牌がある。

當山四世懐舊山老和尚禅師/萬延元年申六月廿二日

『村誌』に「明治四十年に至り林光尼が発願主となって維持財産を得て堂宇を再興する。
明治四十二年、庵号を寺号に改称の認可を得たるものなり」と記すが、位牌には「當寺初住寂山光宗尼和尚」とある。
再興以降の世代は次のとおりで、昭和三十六年以降は無住となっている。

 遠江国の浜名郡といえば、静岡の浜名湖があるあたりだ。どういう経緯でそこから尾張の三本木に移したのかは分からない。
 昭和36年以降は無住と書いているけど今もそうなのだろうか。

今昔マップで見る三本木の変遷

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、『尾張徇行記』がいう「支邑三本木新田ハ、本郷ヨリ二十町ホト隔街道筋ニアリ、民戸余程アリ、三本木ヨリ三州御境目マテ十二三町ホトアリ、御境ヲヒロクテト云」という説明に納得がいく。
 集落は伊奈街道沿いにあって、道と平行して流れる天白川周辺を農地にしていたことが見て取れる。
 西には米野木柿木の集落があり、伊奈街道を東へ行くと三河国の田籾の集落がある。これは伊保村の一部だろう。
 三本木は三河方面から来る人たちの玄関口ということだ。
『日進町誌』は江戸時代の三本木村について、寛政、文化の頃(1790年代から1800年代はじめ)には街道沿いに80戸あまりの家が建ち並び、馬問屋、丁場、酒屋、商家もあって繁華な宿場のようだったといっている。
 明治以降は交通事情が変わって農村に戻ってしまったようだ。
 今昔マップの大正9年(1920年)を見ると、発展しているどころか逆に寂しくなったような印象も受ける。

 時代は大きく飛んで1968-1973年(昭和43-48年)
 区画整理はされたものの、劇的な変化というのはない。
 神明社の北西の丘陵地を開いて日進ニュータウンができたくらいだ。
 米野木村と三本木村の間に東名高速道路が通ったものの、三本木地区にはあまり影響がなかっただろう。
 その後の大きな変化としては、三本木集落の北東部にいくつも学校ができたことだ。
 名古屋商業大学をはじめ、中部第一高校、日進高校、国際高校がある。
 近くには鉄道駅もないし、どうしてここが選ばれたのかは分からない。通うのはけっこう大変そうだけど、どうなんだろう。
 こうやって公共の建物を建てるのは遺跡隠しを思わせるのだけど、それは勘ぐりすぎというものか。

何者かの影

 江戸時代に新田開発されるまで三本木地区は手つかずの未開の地だったというのはあり得ないと私は思っている。
 最大の理由は、ここが天白川の源流域だからだ。
 庄内川の水源は恵那の夕立山で、そこまで遠いと勢力圏にするのは難しいかもしれないけど、たとえば矢田川は瀬戸の海上の森を水源とする海上川と猿投山を水源とする赤津川を源としており、尾張の首長は確実にそれらの水源を押さえていたはずだ。
 水というのは現代の我々が考えるよりもずっと重要で、生活用水や農業用水というだけでなく水路としての価値も高かった。
 人や物を運ぶのに川は必要不可欠で、権力者は確実に川や水の利権を握っていただろう。
 そういう意味でいうと、三本木地区の歴史は遅くとも弥生時代、もしくは縄文時代まで遡るのではないか。
 ここに住まなくても、管理はしていただろう。
 非常に古い時代の祠や社もあったはずで、それが後の山神や神明につながっていたとしてもおかしくはない。
 川は山から発すると考えれば、その山神を祀ったのは自然なことといえる。

 三本木神明社の神紋は五七桐紋だ。
 これが何を表しているのか。
 尾張氏の古い神紋は五三桐らしいのだけど、後の時代に五七桐紋に変わっている。
 内部の事情なのか、外的な要因なのかは分からない。ただ、まったくの無関係ではないようで、三本木の神明(山神)も尾張氏が関わっているように思う。
 あと、場所を考えると三河の影響も受けているはずで、そのあたりは表からは見えない複雑な事情もあったかもしれない。
 三本木や三ヶ峯など、”三”がひとつキーワードとなりそうだ。

作成日 2025.6.20


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