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八幡神社(片草町)

片草集落とはどんな里なのか

読み方はちまん-じんじゃ(かたくさちょう)
所在地瀬戸市片草町403 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十四等級
祭神応神天皇(ホムタワケ)
アクセス名鉄バス「片草町民会館」より徒歩約3分
駐車場なし(鳥居前にスペース)
webサイト
例祭・その他例祭 10月16日に近い日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

隠れ里のような片草集落

 上品野を越え、白岩を過ぎて更に奥、つづら折りの道を登っていくとちょっとした集落が現れる。
 隠れ里のようなその集落を片草(かたくさ)と呼んでいる。
 もう少し行けば県境で、その向こうは岐阜県土岐市だ。
 まさか自転車で岐阜県の手前まで行くことになるとは思わなかった(一般人が自転車で行くところではないです)。

 この集落好きだなと思った。
 風景もいいし、空気感が体に馴染む。
 景色としては違うけど、子供の頃よく行った祖父母が暮らした三重県の勢和村を思い出した。

 白岩(しらいわ)では白岩の地名由来が気になったように(八王子神社(白岩町))、ここ片草(かたくさ)も地名がすごく気になる。
 なので、まずは片草について少し考えてみることにしたい。

片草の由来について考える

 片草の地名について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で以下のように書いている。

片草村 かたくさ 久清音
村名いまだ考へず 白岩片草も舊品野の一郷なるべし

 片草の由来については思いつかないといっている。
 けっこう強引ともいえる自説を披露する津田正生をもってしても片草については思いつかなかったようだ。
 白岩と片草は品野と一帯の地というのも初めから決めつけるわけにはいかない。
 たとえば自分たちの集落に人が増えて分家するとか子供の代でよその土地に移るとなった場合、常識的に考えて平地方向への移動を考えるのではないかと思う。
 瀬戸でいうと、東が山で西が平地、川は東から西へ流れているので下流方向の西へ向かうのが自然だ。
 品野に限定しても、上品野からより山深い奥地の東に支村を作るかというと疑問に感じる。
 あえて森林を切り開いて狭い平地に田畑を作って住むとすれば、隠居のような格好が考えられるけど、それもどうなんだろうと思う。
 奥地へいけばいくほど発展性は限定される。
 白岩や片草では遺跡らしい遺跡は知られていないものの、それはこのあたりで大がかりな工事などが行われていないだけで、掘り返してみれば何か見つかるのではないか。
 実際に足を運んでみれば分かるのだけど、好き好んでここに住むかなという場所に集落はある。
 中世あたりに品野から一族郎党がこのあたりに移ってきて集落を作ったというのはちょっと考えにくく、そうなると縄文の古い時代に住みついた人たちの子孫が今の集落を作っている可能性が高いと思うけどどうだろう。
 もしそうだとすると、品野から分かれて白岩、片草という地名(集落)ができたのではなく、もともと独立した古い地名ということになる。

『瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 2020』はこういっている。

この地は昔から山深く、一方は田畑、一方は山になったところが多かった。この山には草が生い茂っていたところから名付けられたものといわれている

 一方が山で草が生い茂っている場所など、日本中至る所にあって、それが地名として定着する確率はものすごく低いと言わざるを得ない。
 ネットで検索しても片草という地名は数ヶ所しか出てこない。
 こういう後世の人間が理屈で考えた地名由来というのはだいたい違っていると思っていい。
 片山が片方が山だからというももちろん違う。

 記録としては、定光寺の祠堂帳(しどうちょう)に「片草」とあり、「信雄分限帳」に「かたくさ」とあるようなので(未確認)、戦国時代には片草=かたくさという地名があったことになる。
 個人的には”かたくさ”という音が先で片草の字は後だと考えている。
 なので、片草という字面や意味にこだわりすぎると本質を見失う。
 とはいえ、この字を当てていることがまったく無意味ではないだろうから、まずは片と草について考えてみよう。

「片」を辞書で引くと、「かた。かたほう。「片月」  きれ。きれはし。かけら。「片雲」「破片」  わずか。すこし。「片言」「片鱗(ヘンリン) 「木」の字の右半分からできたもので、かたほうの意を表す。」といったようなことが書かれている。
「かた」という音でいうと、形、型、肩、潟といった字が思い浮かぶ。

「草」については、「植物のうち、地上部が柔軟で、木質の部分が発達しないもの」といった定義が一般的だ。
 草は植物以外にもいろいろな意味や使われ方をする。
 民草(たみくさ)という言葉あるように人民のことだったり、「あおひとぐさ(青人草)」といったりする。
 草薙剣は敵のだまし討ちにあって火で囲まれたときに草をなぎ払って難を逃れたので草薙剣と呼ばれるようになったというけど、この草は民のことを暗示しているかもしれない。つまり、敵を皆殺しにしたということだ。
 一般人に紛れたスパイのことを草と呼ぶこともある。
 語り草や言い草のような使われ方をしたり、質草という言葉あるように物という意味もある。
 道草を食うといえば、馬が草を食べてばかりで進まないことから来ているとされるけど、馬が道草を食うというのは何か象徴めいている。

『延喜式』神名帳(927年)の尾張国には山田郡と春日部郡に片山神社が載っており、東区には片山八幡神社もある。
 長久手には大草(おおくさ)という地名があり、大草には八幡と熊野が祀られていた。
 瀬戸市と豊田市の堺には八草(やくさ)もある。
 これらの草はいずれも”くさ”と濁らない。
 このあたりの関連も頭に入れておいた方がいいかもしれない。

 最後に音について検討してみる。
 もともと「かたくさ」の音が先だったとすると、「カタクサ」とは何を意味するかだ。
 言霊的な解釈にカタカムナを持ってくるのは唐突すぎると思うかも知れないけど、思考実験の一つとして試みると、カは力(ちから)、タは分かれる、クは引き寄る、サは遮(さえぎ)りといった意味となり、続けると力が分かれて引き寄せられて遮られるといった解釈ができる。
 なんとなく分かるようで分からない。
 あるいは、サを作用するという捉え方も可能だ。それなら、力が分かれて引き寄って作用するとなる。

 村名(郷名)というのは要するに集落のことで、必ずしも土地の特徴ではない。自分たちが呼ぶ場合と、外の人間が呼ぶパターンがある。
 どちらにしても、ここは「カタクサの人間」という言い方ができる。
 別の音から変化した可能性もあって、その場合は推測はほぼ無理なのだけど、たとえば万葉仮名で「加太久佐」という字を当てて考えるとまた違った面が見えてくるかもしれない。
 片草で八幡を祀るというのももちろん無関係なはずはなく、引き続き片草を意識しつつ八幡神社について見ていくことにする。

どうして八幡だったのか

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は明かではないが、社蔵の棟札に元禄7年(1694)8月社殿改修のことあり、『尾張志』片草村八幡社とある。
明治5年5月村社に列す。

 ここから分かるのは、創建年は不明で、江戸時代前期の1694年(元禄7年)に社殿を改修したということくらいだ。
 瀬戸ペディアやネットからもこれ以上の情報は拾えなかった。

 続いて江戸時代の地誌から片草村と八幡の手掛かりを探ってみる。
 最初は『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

片草村

家数 拾弐軒
人数 七拾人
馬 六疋

社弐ヶ所 内 八幡 山之神 中品野村祢宜 頼母持分
 社内三反三畝歩 前々除

 片草村の民家は12軒で村人は70人とあるから、白岩村の7軒42人と比べて規模は大きかったことが分かる。
 それでも小村には違いない。
 馬6疋(白岩村は3疋)というのは規模のわりに多い。農作業にも使っていただろうけど、名古屋と信州方面を結ぶ荷物の馬継をしていたのかもしれない。

 神社は2社で、八幡の他に山之神もあったようだ。
 これは現存していないので、どこかで廃社になったか、八幡に合祀されたのだろう。
 いずれにも前々除(まえまえよけ)なので1608年の備前検地以前からあったということだ。
 どこまで遡れるかはまったく分からない。
「中品野村祢宜 頼母持分」は白岩村の八王子と同じだ。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。

片草村

八幡 山ノ神覚書ニ社内三段三畝十歩前々除、中品野村祢宜頼母持分
中品野村社人菊田助太夫書上ニ八幡社内二段五畝歩前々除
末社 社宮子、神明、此本社勧請ノ年紀ハ不知、再建ハ寛文十二年ニアリ
山神社内二畝二十八歩前々除

庚申堂境内十五歩、山神社内三畝十歩共二ニ前々除、薬師堂境內十一步年貢地、コレハ庄屋書上ナリ、何レモ草創年紀ハ不知

「中品野村社人菊田助太夫」は中品野の八劔社の社人で、上品野から白岩、片草あたりまで管理していたようだ。
 ここでは寛文12年(1672年)に再建したといっている。
『愛知縣神社名鑑』には元禄7年(1694年)に改修とあるのだけど、20年くらいで改修が必要だったかどうか。水害か何かで被害に遭ったのかもしれない。
 庚申堂と薬師堂があったことも知れる。
 現在まで「享保十一年丙午三月吉日」の銘がある石造薬師如来坐像と「元禄十七申四月廿四日」と銘のある石造地蔵菩薩立像が伝わっており、瀬戸市の文化財に指定されている。
 享保十一年は1726年、元禄十七年は1704年なので、江戸時代中期にこういった石仏を造ったということだ。
 これらの他にも石像があったのではないかと思うけど、薬師堂や庚申堂と関わるものかもしれない。

 片草村についてはこんなふうに書いている(『尾張徇行記』)。

此村落ハ、田畝洞々ヘイリコミ四方山ニテ囲メリ、農屋ハ山腰ニ随ヒ一曲輪ニツツキ建ナラヒ細民ハカリ也、
農業ヲ以テ専ラ生産トシ、又農隙ニハ薪ヲ採テ名古屋へ売出セリ、此村ハ東ニ三国嶺ソバタチ幽僻ノ地ナリ

 四方を山に混まれ、東に三国山を見る「幽僻ノ地」といっている。
 幽僻(ゆうへき)は人里離れた僻地といった意味だ。

『尾張志』(1844年)はどうか。

八幡社 片草村にあり末社に神明社三狐神社あり

 特別な情報ではないのだけど、末社に神明社と三狐神社があるというのが少し気になった。
 三狐神というとミシャクジ(サグジ)なのだけど、古い信仰なのか、近世の民間信仰なのか、ちょっと判断がつかない。狐(キツネ)といっても、稲荷信仰とは少し違う。

 結局、いつ誰がここに八幡を祀ったかについては不明としか言いようがない。

片草城について

 八幡神社の西隣(向かって左手)に、かつて片草城があった。
 ネットから得た情報をまとめるとこうだ。
 品野城(上品野の稲荷神社があるところ)の城主・坂井秀忠が松平清康に攻められて切腹し、坂井一族の生き残りの坂井十郎が片草に隠れ住んで築城したのが片草城だという。
 それが1529年頃で、坂井秀忠は信長の父の信秀の家臣、松平清康は家康の祖父に当たる人物だ。
 歳月が流れて信長の時代。
 1560年に信長は落合城、桑下城とともに品野城を落として品野一帯を治めたとされる。
 その後、信長の家臣の赤座新兵衛が城主となり、白岩から半田川までを領有したという。

 話としては矛盾がないのだけど、何か裏というかもっと複雑な事情があったような気がする。
 上品野から片草まで逃げてきたというのは坂井一族の心理として理解できる。
 当然、その頃はすでに片草に集落があったということだ。何もない山奥に隠れても、そこでは暮らしていけない。
 隠れるだけではなく城(館城だろうけど)まで建てたとなると、それだけの身分だったということだし、里人の協力も得られたということだ。
 もしここに松平側の人間がいれば密告されて一発で終わりだ。
 つまり片草は織田方(寄り)の集落だったということが言えると思う。
 中品野から上品野、白岩、片草の神社の社人だった菊田家は八劔社の社人だったからも分かるように、熱田の尾張氏の近しい家だったと推測できる。
 織田家と尾張氏を直接結びつける史料があるのかどうかは知らないけど、尾張を支配するということは当然尾張氏とも良好な関係だったということで、坂井一族もそちらのゆかりの家だったかもしれない。
 織田家がいつから木瓜紋を家紋としたのかは分からないけど、木瓜紋は牛頭天王を祀る津島社や祇園社(八坂神社)の神紋だから、関係がないはずがない。
 牛頭は文字通り牛の頭(カシラ)であり、五のカシラでもある。
 これはそのまま尾張を意味しており、この紋を使えたということは尾張氏も認めていたということだ。
 八幡社の神紋は三つ巴が多いのだけど、神社によっては独自の神紋を持っているところもある。
 片草の八幡の神紋が何か分かると手掛かりになりそうだけど、神社境内にはそれを示すものは見当たらなかった。
 そもそもこの神社は最初から八幡だったのか? という疑問がずっとある。
 中世に八幡とされた別の神社から始まっている可能性は充分にある。
 片草城と八幡の位置関係は、片草城から見て東北の鬼門に八幡が鎮座する格好となっており、築城の場所を決めるときは八幡の位置を意識しただろう。

今昔マップで確認

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で片草集落のことを確認してみる。
 かつての信州街道、今の363号線は昔も今もほとんど変わっていない。
 平行するように片草川が流れている。
 民家は片草川南岸の丘陵地の縁あたりに集まっている。水害を避けるためか、田畑を作るための平地を少しでも確保するためか。
 その他にも少し民家が散在している。
 八幡があるのは集落から見て街道と川を越えた向こう側の山裾だ。
 神社へ行くには川を渡って山の上に登っていかないといけないから日常的に参るには不便だっただろうに、どうしてここだったのだろうと思う。
 社を祀る場所を無造作に決めるはずがないから、ここである必然があったのだろうけど、もう一つよく分からない。

 地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛んでしまうのだけど、その後の変遷を辿ってもほとんど変わらない。わずかに民家が増えていく程度だ。
 しかし、2024年現在の片草町の住人は31世帯59人というから、江戸時代前期の70人(12軒)よりも減ってしまっている。

やはり気になる八幡であること

 片草を越えてそのまま363号線を進むと岐阜県土岐市鶴里町に入る。
 江戸時代は柿野村と呼ばれた場所で、今昔マップには柿野雨澤とある。
 この柿野村に白鳥神社(地図)が祀られている。
 地図で見つけて気になったので片草へ行ったら足を伸ばして行ってみようと考えていたのだけど、片草への道のりが険しすぎて断念したのが惜しまれる。
 名前からも分かるように日本武尊(倭建尊)を祀っており、『美濃国内神名帳』に載る垣野明神はこの神社のこととされる。
 柿野の南の国境に三国山があり、三国山の南の猿投神社に日本武尊こと小碓命の兄(双子とも)の大碓命が祀られている。
 柿野の白鳥神社はこの猿投神社と同時に祀られたという伝承があるそうだ。
 なんでこんな話をしたかというと、柿野の白鳥神社と片草の八幡神社が何らかの関係があるのではないかと思ったからだ。
 普通に考えると特に関係はなさそうだ。八幡と白鳥だし、応神天皇と日本武尊は対の関係とは思えない(系図上では祖父と孫)。
 ただ、三国山の三国は、尾張と三河と美濃の3つの国の堺ということから名づけられたもので、尾張の出入り口に当たる片草と美濃の出入り口の柿野に何らかの関係性があると考えるのは自然だと思うけどどうだろう。
 白鳥神社の刻印は白鳥と草薙剣となっており、ツルキ(剣)はモロハ(両刃)で、刀はカタナ(片名)だ。
 何か見えそうで見えない。

 そもそも、どうしてこの集落で八幡神を祀ったのかということもずっと引っ掛かっている。
 創建(創祀)が中世以前に遡るとしたら、鎌倉以降に流行った八幡神ではない。
 もっとこの里の人たちに関係ある神を祀ったはずだ。
 それは氏神といえるような一族の祖だったかもしれない。
 場所柄からしても、里の性格からしても、武神としての八幡神を祀るために建てたとは思えない。

 もう一回行って確かめてこいと言われても謹んで辞退したい。
 初回は知らなかったから行けたけど、あの険しさを知ってしまったら二度目はない。
 あの里の風景を記憶にとどめつつ、片草、白岩の地名については今後も意識しておくことにする。

作成日 2024.12.22

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