瀬戸の優勝神社
読み方 | いなり-じんじゃ(かみしなのちょう) |
所在地 | 瀬戸市上品野町 地図 |
創建年 | 不明(1625年?) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十三等級 |
祭神 | 豊受姫命(トヨウケヒメ) |
アクセス | 名鉄バス「中町」より徒歩約3分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月15日直前の日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | *** |
ブログ記事 |
はい優勝
稲荷社だし、特に何の期待も抱いていなかった。
この日は10社ほどまとめて回る予定で、その中にあるひとつの神社という認識でしかなかった。
旧信濃街道(363号線)沿いの入り口に稲荷社らしからぬ堂々とした鳥居が建っているのを見たときは少し意外に思った。
え? これって稲荷社なの? と。
鳥居をくぐってしばらく進んだ先に広場があり、垣に囲まれた何かの石碑が建っている。
神社は更に上にあるようで上り階段が見えるのだけど、その前にバリケードが立てられていて侵入者を拒んでいるようだった。
もしかして廃社なのか? と思う。
それでもバリケードを跨いで無理矢理登っていくと、思いがけずしっかりした建物が見えて驚いた。
わっ、すげえ、ちゃんとした神社じゃん、と。
雑木林に囲まれた石段を抜けた先に見えたのは拝殿の後ろ姿で、どうやら裏手から入ってしまったようだった。
裏口入社はよくないということで、境内を通っていったん鳥居から出て、もう一度礼をして入り直した。
その入り口鳥居は、石造の明神鳥居に木製の稚児柱が付けられた両部鳥居だった。
これは密教の影響を受けた神仏習合の名残だ。
ここはホントに稲荷社なのか? と疑問が強まる。
お馴染みの朱塗りの連立鳥居もないし、狛犬の代わりに狐がいるものの、全体的な雰囲気が全然稲荷社らしくない。
祭神が豊受姫命(トヨウケ)とくればなおさらだ。どう考えてもここは普通の稲荷社じゃない。
二ノ鳥居をくぐったあたりからこの場所のただならぬ雰囲気を感じ始める。
ここって、メチャメチャいい神社じゃないの?
何がどういいのかは分からないし上手く説明もできない。
なんだか知らないけど、この空間が良すぎる。
あまりの良さに笑いがこみ上げてきてこらえるのが大変だった。
ひとりで神社を参拝して境内でニヤついている奴なんて、客観的に見て怪しすぎる。
誰にも見られていないと知りながらも、汗を拭くミニタオルで口元を押さえながら笑いをかみ殺した。
どこの神社も賽銭は10円と決めていて、このときも当然そのつもりでポケットに10円玉を入れてあったのだけど、いやいや、ここは10円の神社じゃないでしょうと、財布から100円玉を取り出して賽銭箱にそっと入れた。
名古屋神社ガイドには800社ほど神社を載せていて、オススメ度を*の数で示している。
***が最高で、これまでに4社だった。
熱田神宮、若宮八幡社(栄)、星宮社、片山神社がそうで、前の2社は名古屋としてのオススメということで、個人的なお気に入りでいうと星宮社と片山神社ということになる。
松姤社とか、諏訪神社(諏訪山)とか、白龍神社(名駅南)などの好きな神社や良い神社はたくさんあって、オススメ60社として紹介しているのだけど、突き抜けたものしか***は付けないと決めていた。
そして、ついに5番目、実質的には3番目に加わったのが、ここ瀬戸市上品野の稲荷神社だ。
このときは瀬戸市の神社巡りの半分くらいだったのだけど、参拝している最中にそれは自分の中で決定事項となった。
はい優勝です、と。
独断と偏見で選ぶ瀬戸市の優勝神社は上品野の稲荷神社で決まり。瀬戸市の神社を回り終わった今もそれは変わらない。
私だけ?
いやあ、すごい神社だったなぁという思いを抱いて帰宅した後、この神社について調べてみると何も出てこなくて驚いた。
あれ? なんで? と思う。
私が調べた限り、誰ひとりこの神社について賞賛していないし、そもそも情報自体がほとんど出てこない。
江戸時代前期の1625年(寛永2年)創建なんて話もあり、そんな馬鹿なことはないだろうと腹も立った。
情報が隠されているとかそういう感じではなく、誰もこの神社を重視している様子が見られないのだ。
どういうことなんだろうと、少し考え込んでしまった。
自分の感覚が間違っているのだろうか?
いや、しかしなのだ。
これまで神社を900社くらい巡ってきた私の感覚がこの神社はすごくいいと私に告げていた。
それは思ったとか感じたとかではなく、もっと確信めいたものだった。
この稲荷社の関係者や集落の人がそんなたいしたものではないですよといっても私だけはこの神社はすごくいい神社ですと断言する。私がここまで強く言うのはあまりないことだ。
星宮社や片山神社は行ったことがある人なら何か感じるものがあるところで、少なくない人が褒めたりあれこれ言ったりしている。しかし、上品野の稲荷神社に関しては誰も褒めないどころかほとんど言及さえしていない。
私がこのページを作ることで賛同者が現れてくれるといいのだけど。
まずは情報を集めて出してみる
私の感覚だけを書いても仕方がないので、まずはこの稲荷神社について集めた情報を提示したい。
考察はそれからだ。
まず、『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
社伝によれば寛永2年(1625)酉12月24日創建という。明治5年7月、村社に列格する。同22年10月、社殿を造営する。
同40年10月26日、供進指定社となる。
1625年創建という社伝があるようで、12月24日という日付まで伝わっているということは記録か棟札がある(あった)ということなのだろう。
けど、これは信じない。
可能性としては再建とか修造とかではないだろうか。
供進指定社は神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)の略で、例祭に地方公共団体から神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の供進を受ける神社ということだ。
どういう基準で選ばれたのかは分からないのだけど、普通の村社よりも一段格上の神社という見方ができる。
1625年創建が正しくないのは『寛文村々覚書』(1670年頃)を見ると分かる。
上品野村
社式ヶ所 内 稲荷 山之神
社内六畝弐拾八歩 前々除
上品野村には稲荷と山之神の2社あって、どちらも前々除(まえまえよけ)といっている。
これは1608年に行われた備前検地のときすでに除地(よけち)となっていたということで、すでにそのときには神社があったことを意味する。
続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみよう。
稲荷山神覚書ニ社内六畝二十八歩前々除
中品野村祠官菊田助太夫書上ニ、稲荷社内八畝歩、山神社内一畝十五歩御除地、此社勧請ノ年紀ハ不知、宝永二年再営アリ
ここでも手掛かりは少ないのだけど、勧請時期に関しては不明で、宝永2年に再営と書いている。
宝永2年は江戸時代中期の1705年に当たる。
修造ではなく”再営”という言い回しに少し引っかかりを感じるのと、上品野村には祢宜がいなかったのか、中品野村の菊田助太夫が管理していたらしい。
菊田助太夫は中品野村の八劔神社の社人だった人物(家)だ。
だとすると、上品野の稲荷社も熱田の尾張氏との関係を考えるべきかもしれない。
現在は分からないのだけど、『愛知縣神社名鑑』では宮司は菊田米三となっているので、明治以降も菊田家が代々神社を引き継いできたようだ。
『尾張志』(1844年)には、おやっ? ということが書かれている。
稻荷社 天神ノ社 山神ノ社 三社ともに上品野村にあり
稲荷と山神の他に天神もあったようだ。
途中で増えたのか、他には載らなかっただけなのかは分からない。
今の上品野にはこれに当たる神社はない。稲荷社に合祀されただろうか。
この天神の存在は意外と大きい気がしていて、今の稲荷社とも関わりがあるように思う。
遺跡から見えてくる上品野
上品野町地区では少なくとも3つの縄文遺跡が知られている。
上品野遺跡(地図)、上品野蟹川遺跡(地図)、上品野西金地遺跡(地図)がそれで、この中でも特に重要なのが上品野遺跡だ。
この遺跡から約3万年前の後期旧石器時代の石器が出土している。
名古屋市内でも竪三蔵通遺跡、旧紫川遺跡、見晴台遺跡などから旧石器時代の遺物が見つかっているものの(名古屋遺跡マップの旧石器時代を参照)、3万年前は愛知県内でも最古とされている。
上品野遺跡の位置のことをいうと、大間川が運んだ土砂によってできた沖積地と丘陵地の間あたりになる。
集落跡こそ見つかっていないものの、3万年前からこのあたりに人が暮らしていたと考えてよさそうだ。
上品野蟹川遺跡や上品野西金地遺跡も363号線や475号線、鉄塔建設、品野台小学校建設などの工事でたまたま発見されたもので、遺跡を発掘する前提できちんと調査をすれば相当広い範囲に旧石器時代から縄文時代の痕跡が見つかるはずだ。
いっそのこと、このあたりを縄文の里として観光地化してしまった方がいいんじゃないかと思うほど、品野地区は縄文の痕跡が色濃いエリアだ。
弥生から古墳、奈良、平安、戦国まで様々な遺跡や遺物が見つかっていることから、この地区では継続的に人が生活していたのは間違いない。
そんな土地に江戸時代前期まで神社がなかったわけがないのは、ちょっと考えれば分かることだ。稲荷神社の創建が1625年などというのはまったくのたわごとでしかない。
上品野のカミマツリ
江戸時代の書から分かることをあらためて整理するとこうなる。
旧上品野村にあった神社は稲荷、山神の2社で、天神も入れたら3社だった。
天神のことはまったく分からないけど、稲荷と山神は1608年にはすでにあり、『寛文村々覚書』が作られた1670年頃には稲荷という社名になっていた。
もともと稲荷だった可能性は低いから、どこから稲荷になったのだろうと思う。
社人は中品野村の八劔の社人の菊田助太夫だった。
こんなところか。
旧石器時代から江戸時代までの間がすっかり抜け落ちてしまっているのであとは推測するしかないのだけど、遺跡の中にちょっとしたヒントのようなものはある。
上品野遺跡で奈良時代末から平安時代初期の馬形代(うまかたしろ)が見つかっていることだ。
これは文字通り馬の形を模した木製人形のようなもので、祭祀や呪術に使われたと考えられている。
一緒に斎串(いぐし)も見つかっていることから、遅くとも平安時代までにはこの地区でカミマツリが行われるようになっていたことを示している。
これらは律令制下の役所で発見されることが多いことから、私的な祭祀ではなく神祇官などが関わる公的な祭祀だったと考えられる。
このカミマツリと上品野稲荷を結びつけることはそれほど荒唐無稽とは思わないけどどうだろう。
式内社の可能性をいったら笑われるだろうか
私はこの稲荷社は『延喜式』神名帳(927年)に載る式内社かそれに準じるくらいの格式がある神社の可能性があると考えている。
瀬戸市内に現存する神社の中で延喜式内社の論社とされているのは瀬戸村の深川神社、赤津の大目神社、元上水野の金神社、山口の八幡神社の4社だ。
それぞれ絶対確実とはいえないものの、エリアで考えるとわりと納得がいく。
それでいくと、品野地区に延喜式内社とされる神社が一社もないことがかえって不自然に思える。
縄文草創期よりも更に古い旧石器時代の遺物が見つかっているにもかかわらずだ。
上にも書いたように奈良時代にはすでにカミマツリが行われていた痕跡もある。
上品野に限定せずとも品野地区に少なくとも一社は延喜式内社があったのではないかという推測はあながち突飛なものではないだろう。
可能性がありそうなところとしては、落合町の神明社、中品野町の八劔神社、鳥原町の八幡神社と、上品野の稲荷神社といったあたりだろうか。
個人的な感覚でいうと、上品野の稲荷に一番古社臭さみたいなものを感じた。私としては上品野稲荷を断然推したい。
では具体的に『延喜式』神名帳に載るどの神社に可能性があるかということだ。
上品野は江戸時代は春日井郡に属していたのだけど、中世に山田郡が消滅するまでは山田郡だったとされる。
なので、山田郡の中から探さないといけない。
疑い出すとすべてが怪しく思えてくるのだけど、はっきりしないところを挙げると、川嶋神社、小口神社(小口は山口の間違いという説には賛同しない)、和爾良神社あたりが候補になるだろうか。
しかし、これらの社名と上品野の神社を直接結びつける何かがあるかといえば何もない。
『延喜式』神名帳は記載順に法則性が見られず(何かあるのかもしれないけど)、並びから場所を推測することはできない。
ならば、『尾張国内神名帳』はどうだろう。
これまでも何度か『尾張国内神名帳』の並び順と位置関係については考察してきた。
結果として結論めいたものは導き出せていないものの、なんとなく記載順と位置関係が合っているように思えるところがある。
いくつか伝わっている写本の中でも古いとされる「熱田座主如法院蔵本」で山田郡を見ると以下の並びになっている。
従三位上
羊天神
坂庭天神
澁河天神
大檐天神
金天神
尾張戸天神
深河天神
大井天神
大目天神
石作天神
桁幡天神
尾張田天神
大江天神
和田天神
片山天神
河嶋天神
和示天神
小口天神
三位
川原天神
夜檐天神
伊奴天神
牟久杜天神
山口天神
實々天神
羊天神は北区の羊神社、坂庭天神は不明ながら守山区のどこかとして、澁河天神は尾張旭印場の澁川神社とすると、山田郡の西から始まってぐるりと時計回りするように並んでいるのが見えてくる。
ただ、もしそうだとすると、大檐天神が西区の大乃伎神社とするのは不自然で、金天神を上水野の金神社とするのもどうかということになって分からなくなるのだけど、尾張戸天神は東谷山の尾張戸神社ではなく守山区小幡のどこかという可能性を感じつつ、深河天神が瀬戸村の深川神社、大目天神が赤津の大目神社、石作天神が長久手岩作の石作神社となり、深川天神と大目天神に挟まされた大井天神がぽっかり浮かび上がってくる。
大井天神は北区如意の大井神社のこととされているのだけど、並び順の法則性に照らし合わせると不自然な位置関係になる。
深川天神と大目天神の間のどこかとすると、それはもう品野しか考えられないのではないか。
あるいは、更に奥の上半田川、下半田川という可能性もあるか。
大井天神の社名と品野が結び付くかどうかでいえば今のところ手掛かりは得ていないのだけど、品野地区に延喜式内社があってもおかしくないという考えは捨てないでおく。
そういう視点であらためて上品野稲荷を見直すと、新史料とか新証言といったものが出てくるかもしれない。それに期待したい。
祭神について
この稲荷社が普通の稲荷社ではないと思う理由のひとつに祭神のことがある。
最初の方でも書いたように、ここでは豊受姫命(トヨウケ)を祀っている。
豊受といえば伊勢の神宮(公式サイト)外宮の祭神(豊受大御神)としてよく知られる存在ではあるのだけど、豊受を祭神とする神社は意外に少なく、豊受を単独で祀るところはごく稀だ。
名古屋では中川区野田の三狐神社と中村区則武の椿神明社がそうなのだけど、あちらは伊勢の神宮の荘園があった関係なので流れが全然違う。
更に珍しいのは稲荷社でありながら豊受を祀っている点だ。これは全国的に見てもかなり少ないのではないかと思う。
豊受は天照大神の食事を担当する御饌都神(みけつかみ)とされ、それが三狐(みけつ)となり、狐イコール稲荷になった流れはなくはない。
祭神が豊受とされのが明治以降であればその可能性は考えられる。
ただ、それにしても稲荷社の祭神を豊受にする例は少なすぎることからすると、可能性は低い。だとすれば古い時代から豊受が意識されていたとも考えられる。
では豊受の正体とは何かということだ。
豊受について書くと長くなるのでここではやめておく。神様事典のトヨウケビメに詳しく書いたのでよかったらそちらをお読みください。
伊勢と丹後の関係もあるのだけど、尾張と三河が関わった複雑なことになっているので紐解くのは簡単ではない。
ここでは上品野稲荷で豊受を祀っているということを意識しておくだけにする。
ネット情報で出所が不明なのだけど、稲荷明神、秋葉権現、大物主神、保食神、山神、氏神などを合祀したというものがあった。
江戸時代の書にはまったく出てこない話なのでどこまで信じていいのか判断がつかない。
これが本当であれば、これらの神も一緒に祭神に連なっているはずだけどそうはなってはいない。
大物主が入っているのが引っ掛かるけど、一番気になるのは氏神の存在だ。
当然氏神はどこかで祀っていただろうけど、どこで飲み込まれてしまったのか。あるいは、氏神と豊受は関係があるのか。
ひとつ言えるのは、繰り返しになるけど、どう考えても普通の稲荷社ではないということだ。
上品野の寺院について
神社方面から探ることに行き詰まったので、視点を変えて寺院に手掛かりを求めることにしよう。
上品野には祥雲寺と菩提寺の2つの寺と観音堂と庚申堂があった。
江戸時代の地誌はそれぞれ以下のように書いている。
禅宗 赤津村雲興寺寺末寺 瑞応山祥雲寺
寺内壱反五畝歩 佛前檢検除
外ニ寺林弐町 前々除天台宗 古根村龍泉寺末寺 寂場山菩提寺
寺内六献歩 備前検除観音堂一宇
地内七町五反歩 前々除 右菩提寺持分『寛文村々覚書』
菩提寺、府志日、在上品野村、号寂場山、天台宗、属吉根村龍泉寺、天平中菩薩行基始建蘭若、自刻千手大悲尊像、安之堂中
覚書ニ寺内六畝歩備前検除
観音堂地内七町五段歩前々除
当寺書上ニ境内山林東西 二町半南北三町備前検除、観音堂敷地六畝歩前々除、 此堂ハ漸々ニ破壊セシニヨリ、今ハタタミ堂ニナリ、本尊ハ当寺ニ安置ス、此寺草創ノ由来ハ不知祥雲寺、府忠曰、在上品野村、号瑞応山、属白坂雲興寺
覚書ニ寺内一段五畝歩備前検除、外ニ寺林二町前々除
当寺書上ニ、境内田畑一段五畝歩山二町四歩備前検除、此寺ハ当村城主桜井内膳正源信定天文年中創建ス、貞享三年主僧流翁代再建ス、此寺ニ内膳正位牌及家老長江形部長江民部位牌ヲ安置ス庚申堂、修験妙高院書上ニ境内二畝歩前々除、草創年紀ハ不知
『尾張徇行記』
菩提寺
上品野村にあり寂場山と号し吉根村龍泉寺の末寺也
天平年中行基菩薩創建しみづから千手観音の像を作りて安置せし由いひ傳へたり祥雲寺
上品野村にあり瑞應山と号し雲興寺の末寺なり天文年中當所の城主櫻井內膳正信定の建立なるよし寺傳にいへり
信定は徳川左京亮信忠君の弟三河國櫻井井ノ郷に住居ありし故櫻井を家号とし又松平をも稱せらるその頃當國山田郡のうちをも領知せられし故さも有へき事也
則其位牌又其家老長江刑部長江民部といへるが位牌もあり『尾張志』
まず菩提寺から見ていくと、山号を寂場山といい、龍泉寺(公式サイト)の末寺で天台宗の寺ということが分かる。
位置関係としては稲荷社から見て650メートルほど北西(地図)にある。
これだけ離れていると稲荷社とは直接の関係はなさそうだけど、龍泉寺は熱田社(熱田神宮)と関係が深い寺院ということは意識しておいていいかもしれない。
上品野に限らず、瀬戸の寺は龍泉寺と雲興寺の末寺が多い。
ここでもまた行基の名前が出てくる。これだけ出てくるともう疑わずに受け入れるしかない気持ちになる。
天平年中は729-749年で、奈良時代前期から中期に当たる。
岩屋堂のところでも行基自ら薬師仏を彫ったという話だったけど、ここでは千手観音像を彫ったといっている(昭和4年(1929年)の火災で焼失)。
行基を開基としながらも、寺内は備前検除になっているのは少し引っ掛かる。これは1608年の備前検地のときに除地になったということで、それ以前は除地ではなかったことを意味する。古刹なら前々除になっているのが普通で、観音堂も前々除なのに、どうして菩提寺はそうでなかったのだろう。
瀬戸ペディアやネット情報を頼りに補足すると、創建時は華厳宗だったようで、境内で平安時代以降の祭祀遺跡跡が見つかっているという。
戦国時代後期の永禄年間(1558-1570年)に養海上人が再興したという話だから、室町時代にはかなり廃れていたのかもしれない。それで備前検除になったと考えれば辻褄が合う。
創建については平安時代中期に東照上人が開基したという伝承もあるようだけど、養老年中(717-724年)説や、養海上人は天平勝宝時代の人といった説もあり、はっきりしないところも多い。
ただ、品野を代表する寺だったことは間違いなさそうで、上品野遺跡から古代祭祀の跡が見つかっていることからしても、上品野一帯がある種の霊場や祭祀場だった可能性は高い。
その中に稲荷社もあるということだ。
瑞応山祥雲寺は赤津村の雲興寺の末寺なので曹洞宗の寺だ。
稲荷神社から見て300メートルほど東北に位置している。
稲荷社と祥雲寺の関係は分からないのだけど、祥雲寺はかなり広い寺だった。
境内地が1反5畝歩というから450坪(900畳)あって、寺林を2町持っていたというから相当なものだ。2町は2ヘクタールで6,000坪だから上手くイメージできないくらい広い。
『尾張徇行記』が書いている「此寺ハ当村城主桜井内膳正源信定天文年中創建ス、貞享三年主僧流翁代再建ス、此寺ニ内膳正位牌及家老長江形部長江民部位牌ヲ安置ス」については少し説明が必要だ。
天文年中は戦国時代の1532年から1555年で、寺伝によると1541年創建という。
”当村城主桜井内膳正源信定”は品野城主の櫻井内膳正源信定のことで、松平信定のことだろう。
『尾張志』に「信定は徳川左京亮信忠君の弟三河國櫻井井ノ郷に住居ありし故櫻井を家号とし又松平をも稱せらるその頃當國山田郡のうちをも領知せられし故さも有へき事也」とあるように、松平信忠の弟に当たる人物だ。
松平信忠は家康の曾祖父で、詳しく説明しようとするとややこしいので、後ほど城跡のところであらためて書くことにしたい。
要するに、戦国時代後期の1541年に品野城主の櫻井信定(松平信定)が創建して、その後荒廃していたものを江戸時代前期の貞享3年(1686年)に再建したということだ。
”主僧流翁代”は、どこで切ればいいのか分からない。”流翁”が名前なのか、”代”まで入るのか。
公式サイトによると、1749年に雲興寺28代大興栢春大和尚によって伽藍が建立されたとのことだ。
観音堂と庚申堂はいずれも前々除なので江戸時代以前からあったと考えていいだろう。
どこにあったのかまでは調べがつかなかった。
古城跡のこと
上品野地区には品野場と桑下城の2つの城があったことが知られている。
説明するとややこしいのでまずは『寛文村々覚書』と『尾張徇行記』を引用する。
桑下古城跡壱ヶ所
東西三拾間南北四拾間 先年松平内膳家老、永井民部居城之由、今は柴山『寛文村々覚書』
品野城二、府志古城条日、在上品野村、或作科野、其一在村東南山、東西二十間南北八間余、
松平内膳正家重居此、若有随筆日、享禄二年 清康君出兵尾州大戦勝之、取品野城賜松平家重、又家忠日記曰、永禄元年三月 松平監物家次守品野城、織田信長使兵囲之、四面構塞、七日夜家次出兵劫塞大敗、斬主将数人、尾州軍鮮囲退散、其後城亦敗矣、
其一在村西北、隔河拠山、東西三十間南北四十二間、号桑下城、伝日、永井民部少輔居此、
永井者曽属松平家重及其子家次、後為織田家臣永井民部少輔、府志人物条日、上品野村人、仕于信長
『尾張徇行記』
『寛文村々覚書』は桑下城のみ載せて、品野城については何も書いていない。
『尾張徇行記』はどちらにも触れていて、『尾張志』は品野城について長々書いているけど、長すぎるので省略する。
ネットから得た情報もあわせて簡単に説明すると、まず品野城の方が古い。
山田重忠の家臣の大金重高が秋葉山に築城したことに始まるという。
秋葉山というのは稲荷神社の裏山で、城はこのあたり(地図)にあったとされる。
秋葉山という名前からすると秋葉権現が祀られていたと考えるのが自然だけど、そういう情報は得られていない。
その代わりでもないのだろうけど、城跡に稲荷が祀られているという。麓の稲荷神社の奥社なのかどうかも分からない。
以前は道がつながっていたようだけど、475号線によって分断されて正規のルートでは行けなくなってしまったという。強引に山道を行くことも可能らしいのだけど、かなり厳しそうなので行けていない。
山田重忠についてはこのサイトでもブログでも何度も取り上げている。個人的に思い入れのある人物でもあり、尾張地方に多くの足跡を残した人でもある。
山田重忠の本拠がどこだったのかは定かではないものの、瀬戸とゆかりがあったことは間違いなさそうだ。
ひ孫の泰親・氏親が瀬戸菱野の地頭に任じられたというだけでなく、承久の乱(1221年)で上皇側について戦って敗れた後に生き延びて菱野あたりで暮らしたという伝承もある(本泉寺にそれを示す位牌も伝わっている)。
品野城の築城が1214年(建保2年)というのであれば、重忠は鎌倉幕府の御家人で山田荘の地頭だった時代だ。
大金重高は水野の一色山城(地図)から移ったというのだけど、どういう事情があったのか。前年1213年の和田合戦(和田義盛が執権北条義時を倒そうとして失敗)と関係があるのかどうか。
その後、城主が代わったりいろいろあって戦国時代は松平清康(家康の祖父)が攻め落として松平家のものとなり、織田信長がこの城を落とそうとして返り討ちにあったりしつつ、最終的には信長によって桑下城や落合城ととも落城した。
桶狭間の戦いの前哨戦だったとも、桶狭間の後に今川が放棄したともされる。
どうしてこんな場所で争いが起きたかというと、美濃方面へ抜ける数少ない主要路沿いだったためだ。
もうひとつの城の桑下城は里の街道近くにあり、そちらで普段過ごしていざ戦となれば山城の品野城で迎え撃つという態勢を取っていたのだろうと思う。
桑下城があったのはこのあたり(地図)だった。
1467年に始まり1477年まで続いた応仁の乱で東軍の細川方で戦って敗れた長江利景が尾張国の落合城に逃れ、その後に桑下城を築城して移ったとされる。
『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』がいう永井民部少輔はこの長江利景のことを指している。
こんな尾張の地にも応仁の乱の影響はあって、その延長戦として山名方の今村城主松原廣長との間で戦が起こったりもした。
最終的には品野城と同じく信長によって落とされることになる。
江戸時代以降の上品野村
江戸時代後期の上品野村について『尾張徇行記』は以下のように書いている。
此村落ハ、信州岩村街道通リニアリ、街道両側ニ農家建ナラヘリ、竹木ハナシ、今地島本郷ハ町通リニアリ、又街道ヨリ右ニ桑下左ニ中村ト云処アリ、総体小百姓ハカリニテキタナキ村ナリ、戸口多クシテ佃力足リ他村へ掟田地ハナシ、農業ヲ以テ専ラ生産トス、其内ニハ商買ヲ兼ル者モアリ、此村へハ濃州明知領曽木村岩村領水上村細野村猿爪村御領大川村アタリヨリ、白炭鍛冶屋炭ヲ著出オキ、印場村大森村辺ノ者買ニ来リテ、 ソレヲ名古屋へ著送レリ、当村ニテモ馬持タル者ハ駄賃付ヲシテ渡世ノ助トセリ
片草川ヲココニテ大川ト云、末ニテ水野川ト云、此川ノ北ニモ農屋アリ、寺屋敷中屋敷ト云ナリ
品野は古くは科野郷などと呼ばれていて、中世あたりに上・中・下と分かれたと考えられている。
遺跡の古さでいうと上品野なのだけど、古代の役所的な位置づけだったのは下品野だったようだ。
江戸時代は信州街道沿いということで、名古屋と信州をつなぐ馬継をやっていて、最初は下品野が主だったのが、だんだん上品野に移っていったということを下品野村の項で書いている。
江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)には家数三拾軒、村人弐百三拾壱人、馬三疋だったとあるけど、「戸口多クシテ佃力足リ他村へ掟田地ハナシ、農業ヲ以テ専ラ生産トス」とあるように、江戸時代を通じて民家や村人は増えていったと考えられる。
それにしても、「総体小百姓ハカリニテキタナキ村ナリ」というのはひどい言われようだ。
あと、明智や岩村あたりから品野まで炭などを売りに来たのを大森や印場の人間が買いにきて名古屋まで送るというから、昔の人の徒歩での移動距離はすごいとあらためて思う。土地勘のある人なら分かると思うけど、この距離は車でも遠い。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
地形や民家が集まっている場所は江戸時代から現在に至るまで大きくは変わっていないように見える。
信州街道(363号線)沿いに家が集まっていて、北と東と南は丘陵や山に囲まれている。
村の西で水野川と蟹川が合流して、その手前の平地に田んぼが広がっていたのも見て取れる。
稲荷社は集落の中の丘陵地の縁あたりに位置している。
神社の入り口近くに役場があったようで、少し西に警察署と郵便局という位置関係になっている。
1968年(昭和43年)以降の経緯を辿ってもあまり大きな変化はない。
目に付くことといえば上半田川方面と結ぶ道が整備されたくらいだろうか。
そんな中でも大きな変化は363号線の開通だけど、村はずれの丘陵地に通されたので上半田の集落(町)にはあまり影響はなかったのではないかと思う。
この先何か大きく変わることがありそうな感じはないけど、道路工事でもあればまたあらたな遺跡が見つかる可能性がある。そのへんはちょっと注意しておいた方がよさそうだ。
明治以降の村名(町名)変更を確認しておくと、明治22年(1889年)に上品野村、白岩村、片草村、上半田川村が合併して上品野村となり、明治39年(1906年)に 掛川村、下品野村を加えて品野村となった。
その後、昭和34年(1959年)に瀬戸市になり、現在に至っている(上品野町の成立は昭和39年)。
歴史からは分からない感覚の問題
以上見てきたように、上品野の稲荷神社は特に重要視されてこなかったようだし、歴史的に見ても特別な何かがあるようにも思えない。誰も褒めていないし。
それでも私のこの神社に対する絶対的ともいえる賞賛の念は揺らがない。少なくとも私にとってここはメチャメチャいい神社だ。
その確信がどこから来ているのかは私自身も分からないのだけど。
神社には独自の波長のようなものがあって、神社と人の間にも確実に相性は存在する。
皆が褒める有名神社へ行ってみたけど特に何も感じなかったというのは誰しも経験があるだろう。
逆に今回の私のように名もなき神社にぐっとくるものがあったという経験を持つ人もいると思う。
どこが自分にとって良い神社かを決めるのは自分だ。世間の評価ではないし、歴史でもない。
自分に合う神社が自分にとっては必要な神社で、そこを大事に思えばいい。
人生に一度しか行けない一期一会のところでも心にずっと残っている神社はある。
自分にとっての神社に巡り会えることはとても幸運なことだし幸せでもある。
この名古屋神社ガイドがそういった出会いの手助けになればいいと願っている。
作成日 2024.12.14