美濃は三野か
読み方 | はちおうじ-じんじゃ(みののいけちょう) |
所在地 | 瀬戸市美濃池町127 地図 |
創建年 | (伝)応永年間(1394-1427年) |
旧社格・等級等 | 旧村社・十四等級 |
祭神 | 多紀理毘売命(タギリヒメ) 天穂日命(アメノホヒ) 市杵島比売命(イチキシマヒメ) 天津彦根命(アマツヒコネ) 活津彦根命(イクツヒコネ) 多岐都比売命(タギツヒメ) 天之忍穂耳命(アメノオシホミミ) 熊野久須毘命(クマノクスヒ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約55分 愛知環状鉄道「瀬戸口駅」から徒歩約23分 名鉄バス「神川」から徒歩約7分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月15日の直前の日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
瀬戸は尾張氏の土地
瀬戸市の神社の特徴として、尾張氏の祖神を祀る神社や八王子系の神社が多いというのがある。
八剣や八幡も尾張氏系なのだけど、八王子だけでも4社あり、瀬戸を代表する神社の一つ、深川神社もかつては八王子と呼ばれていた。延喜式内社とされる大目神社もそうだ。
尾張氏の本家筋も瀬戸の開拓を行っているのだけど、後裔や関係氏族も開拓に加わっていたことを示している。
八王子というと、天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(うけひ)で生まれた五男三女神を指すのが通説となっている。
しかし、現実的に考えてそんなはずはなく、ざっくり言うと、これは”八”の子のことをいっている。
いつも書くように、尾張は”五”で三河は”三”、高天原はそれをあわせた”八”の世界(国)ということだ。
誓約は『古事記』、『日本書紀』ではあらかじめ決め事をしておいて占うみたいな書かれ方になっているけど、実際のところは養子縁組のことだ。
この養子縁組はなかなか複雑で、いくつかの一族が入り交じっているのだけど、少なくとも8人まとめてどうこうということではない。
だから、八王子社で八人の王子を祀るというのは必ずしも正しくなくて、八王子神社の起源も同じではない。
美濃池とは何か
この八王子神社があるのは美濃池町(みののいけ-ちょう)で、江戸時代までは美濃池村と呼ばれていた。
”美濃”なので美濃地方と関係がありそうと思うだろうけど、たぶんそうじゃない。
津田正生は『尾張国地名考』でこう書いている。
「美濃池村」 ミノのいけ
地名詳ならず疑らくは美濃の別(わけ)の傳聲てみののいけとよふにもあらん歟
【考證】古事記垂仁の巻に大中津彦命は尾張の国の三野別等が上祖なりとあれば猶訂すべし。
地名の由来は分からず、美濃から別れたのかもしれないと推測しつつ三野別と関係があるのではないかといっている。
ここで三野別の祖の大中津彦命を出してきているところはいい線を突いている。
大中津彦は記紀その他によると、応神天皇の皇子で、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ)という。
母親は高城入姫命(タカキイリヒメ)で、その母の金田屋野姫命(カナタヤヒメ)は尾張氏の建稲種(タケイナダネ)の子なので、尾張氏系の皇子ということになる。
同時に額田の皇子でもある。
この額田は三河の額田のことで(岡崎市や幸田町あたり)で、額田大中彦皇子という名前からして、額田の大中の彦、つまり額田の中(本家)の跡取りを意味している。
なので、”三野別”は”三”の”別”、つまり三の分家ということだ。
ここでいう”三”は三河の三というよりも”三宮”の”三”の可能性が高い。
一宮、二宮、三宮は尾張にもあり三河にもある。
尾張の三宮は熱田神社(熱田神宮)だし、三河の三宮は猿投神社だ。
美濃池はおそらく、三野池から転じたもので、美濃国は関係ない。
”池”が何を指しているのかは分からないけど、水たまりの”池”のことではなさそうだ。
美濃之池村は尾張側なので尾張の三宮の”別”なのだろうけど、瀬戸という土地は尾張と三河が出会う場所(海上の森は会所の森)なので、三河側も関係してそうだし、猿投山の少し北にある三国山(みくにやま)は尾張と三河と美濃の境なので、美濃も関係している可能性がある。
ちなみに、美濃国の三宮は伊奈波神社(いなばじんじゃ)で、五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)を主祭神としている。
五十瓊敷入彦は第11代垂仁天皇の皇子で、第12代景行天皇の兄に当たるとされる。
景行天皇といえば猿投山にゆかりがあって、猿投山で祀る猿投神社の祭神は景行天皇の子の大碓命(オオウス)だ。
瀬戸市の隣の長久手市には景行天皇を祀る景行天皇社がある。
一宮、二宮、三宮を別の言い方をすれば、一木、二木、三木になる。
これが四木、五木まであった。というか、今でもその一族は自分たちが何木か伝わっているのではないかと思う。
イチキシマヒメは一木のシマの姫という意味だし、ニギハヤヒは二木のハヤヒだ。ニニギは二+二+木で、作られた名前というか存在だそうだ。
天皇家に近い忌部の阿波忌部の三木家はそのまま三木を名乗っている。
名古屋には難読地名の御器所(ごきそ)というところがあるのだけど、あれは”五木所”という意味なので、五木の者がいた土地ということだ。
五木(いつき)さんも、もともとは五木の者たちかもしれない。
五十瓊敷入彦も五と十が入っているので何か関係がありそうだ。
伊勢が五十(いそ)から来ているのは、神宮を流れる五十鈴川(いすずがわ)の名前から分かる。
これ以上話を広げると収拾がつかなくなるので、このへんにしておく。
美濃で少し付け加えておくと、美濃国も古くは三野と表記していた。
見つかった7世紀の木簡はすべて”三野”で、8世紀の木簡に”御野”となっているものもある。
『古事記』には”三野”と”美濃”が両方出てくるので、三野が美濃に転じていったという順番だろうと思う。
713年に出された諸国郡郷名著好字令(しょこくぐんごうめいちょこうじれい/好字二字令とも)を受けて、美濃の表記に統一されたと考えられる。
つまり、美濃国も、もともとは”三の国”だったということだ。
応永年間創建はあり得るのか
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
社伝によれば、応永年間(1394-427)の創建で松原下総守の臣稲垣主膳の崇敬あつかったと、社蔵の棟札に寛永18年(1641)12月8日、寛政3年(1791)、享和3年(1803)、文政3年(1820)、文久3年(1863)、社殿の改修を行う。
明治5年、村社に列格、同26年熱田神宮の末社を譲り受け村人棒で担い、一日がかりて運び社殿を再建したという。
大正13年拝殿を改築、昭和34年9月、伊勢湾台風により倒木社殿をこわす。同35年大風あり、拝殿倒壊、同37年4月、本殿改築、同49年3月、社務所を造営、境内整備を行う。
応永年間に創建したという伝承があるようだけど、これはちょっとどうなんだろう。
あるとすれば、その時期に近くの本地村や菱野村から分村して美濃池村ができて、村の氏神として祀ったのが始まりというようなことだろうけど、美濃池村がそんなに新しい村なのかどうか。
集落があるのは北から流れてきた水無瀬川と井林川が矢田川に注ぎ込む手前で、こんな水の便がいい場所が室町時代まで手つかずでいたとは思えない。
集落ができればそこには必ず祀る社もできるから、美濃池の集落誕生が室町時代より遡るのであれば、八王子もその頃に創建されたと考えるのが自然だ。
上の話で面白いのは、熱田神宮の末社を譲ってもらって、それを村人たちが担いで村まで運んだというエピソードだ。
他ではちょっと聞いたことがない。
熱田神宮からここまでは直線距離で17キロ以上離れている。普通に歩いても5時間半はかかるのに、社を担いで何時間かけて運んだのだろう。
今の本社がそのときの社だとすると、けっこう大きい。棒に吊っても4人やそこらでは運べない気がする。
社をもらえるくらいだから、熱田社や尾張氏と関係が深いのだろう。
江戸時代の書に見る美濃池村
江戸時代の書で美濃池村がどうなっているか見てみよう。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
美濃之池村 春日井郡 山田庄
家数 五軒
人数 弐拾六人
馬 弐疋社弐ヶ所 内 八王子 山神
熱田祢宜 長岡円太夫持分
社内壱町六歩 前々除
表記は”美濃之池村”になっている。
これが『尾張徇行記』(1822年)では”美濃野池村”に、『尾張志』(1844年)では”美濃池村”になっていて、だんだん”の”が省略されていったようだ。
ただ、読み方はずっと変わらず、現在の町名の”美濃池町”も、”みの-の-いけ-ちょう”と”の”が入っている。
それにしても家数5軒はいかにも少ない。
村人が26人なので、一軒当たり5人家族で、それは多くも少なくもない。
東の菱野村とは水無瀬川を挟んで隣あっているのだけど、菱野村からの独立組なのか、もともと別の集落として独立してあったのか。
菱野村は矢田川の南側が中心で、北側は後からできたのかもしれない。
いずれにしても、美濃池村がいつどうやって誕生したのかは気になるところだ。
神社は八王子と山神の2社で、熱田の祢宜の持分となっている。
江戸時代から熱田社や尾張氏が関わっていたことが分かる。
山神がどこにあったのかは調べがつかなかった。
明治になって八王子神社に移されたか合祀されたかしたのだろう。
『尾張徇行記』は美濃野池村についてこう書いている。
美濃野池村
薬師堂 庄屋書上ニ境内二畝二十歩年貢地、草創ノ由来ハ不知
八王子 山神覚書ニ社内一町六歩前々熱田祢宜長岡円太夫持分
今円太夫書上ニ、八王子社内八段三畝二歩年貢地、此社勧請ノ由来ハ不知、慶長十六辛亥年長岡次郎右衛門保家再建ス、山神社内十九歩年貢地此村落ハ、山口川ト瀬戸川トノ落合アリ、小村ニテ一村立ノ所ナリ、竹木モナク貧村也、農業ヲ以テ専ラ生産トス
『寛文村々覚書』の頃は八王子も山神も前々除だったのに、江戸時代後期には八王子も山神も年貢地になってしまっている。何があったんだろう。
勧請の由来は分からないとし、慶長16年(1611年)に再建したといっている。
この時代の村民が何人だったかは書いていないものの小村というから、変わらず小さな村だったのだろう。
「竹木モナク貧村也」と、ちょっと気の毒な書かれ方をしている。
『尾張志』は「八王子社 美濃池村にあり」と書いており、山神には触れていない。
わざわざ書くほどもないと思ったのか、このときまでにすでに合祀されていたのか。
少し補足
『愛知縣神社名鑑』が書いている「松原下総守の臣稲垣主膳の崇敬あつかった」という部分について少し補足しておく。
松原下総守は今村城主の松原広長(下総守)のことで、『瀬戸古城史談』(戸田修二 1966年)によると、松原広長の父の松原吉之丞はもともと三河の今村(今の安城市)にいて、その後、越戸城(今の豊田市)を経て、瀬戸に移って今村城を築城したという。
広長の代になると勢力を拡大して本地村や赤津村まで治めるようになったものの、1482年(文明14年)の槙山合戦(おおまきやまかっせん)で品野の桑下城主永井民部(長江とも)に敗れ、そのとき今村城も廃城となったとされる。
今村城があったのは共栄通5丁目の八王子神社(地図)があるあたりだ。
『張州府志』は、松原広長が応仁・文明年間(1462-87年)の今村城主であり、文明5年(1473年)に八王子の神祠を建てたと書いている(この八王子は今村の八王子のことで、美濃池村の八王子のことではない)。
松原広長が美濃池村の八王子も建てたかというと、その可能性は低そうだ。
この松原広長の家臣だった稲垣主繕広茂が天正年間(1573-1592年)にこの地に土着して八王子社を崇敬したとSetopediaは書いているのだけど、これは間違っている。
松原広長は1482年に戦死しているのに、その100年後に重臣がどうこうというのはあり得ない。
稲垣主繕広茂なる人物がどんな人間だったのかは情報が得られなかった。
今昔マップで辿る美濃池
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、”美濃之池”と、江戸時代前期の『寛文村々覚書』と同じ表記になっている。この頃までにはまだ完全には定まっていなかったということだろうか。
明治13年(1880年)に春日井郡が東西に分割されて、東春日井郡美濃池村となった。
明治22年(1889年)には、美濃池村・稲葉村・三郷村・今村が合併して八白村大字美濃ノ池となる。
明治39年(1906年)に八白村が印場村・新居村と合併して旭村となり、大正14年(1925年)に旭村は瀬戸町に編入され、瀬戸町は昭和4年(1929年)に瀬戸市となり、昭和18年(1943年)に瀬戸市美濃池町となって現在に至っている。
集落があったのは八王子神社がある水無瀬川の西ではなく、水無瀬川の東だった。
今の神川町(かみかわちょう)のエリアだ。
神川町の由来は、美濃池村の字名の”神明縄”と”川田”から一文字ずつ採ったというのだけど、本当かどうかは分からない。
神社や神と何か関係があって神川と呼ばれたのが地名になった可能性もある。
江戸時代中期の寛政5年(1793年)の村絵図でも美濃池村の民家はこの場所に集中している。
江戸時代前期は5軒だったのが(『寛文村々覚書』)、このときは17軒になっている。
今昔マップの明治中頃は30軒以上書かれている。
東隣の菱野北山との境がよく分からないのだけど、ほとんど一体化しているように見える。
八王神社は集落から外れた西の田んぼの中という位置関係だ。
周りを木で囲まれた鎮守社の風景が思い浮かぶ。
水無瀬川に架かる橋は、今の県道22号線の南にある小さな橋がそれに相当する。
それにしても、これだけ川の合流地点があると、かなり水害に遭いそうだけどどうだったのだろう。
大正9年(1920年)の地図ではほとんど変化が見られない。
途中の地図がないので変遷は不明ながら、1968-1972年(昭和43-47年)の地図ではかなり様変わりしている。
田んぼは区画整理され、現在に続く町並みはこの頃までにはほぼできあがっている。
西を走る国道363号線や、神社の北を通る県道22号線はまだない。
これらの道ができるのは昭和50年代に入ってからだ。
その後、民家も少しずつ増えていった様子が見て取れる。
境内の様子について
現在の八王子神社は、住宅街の中にひっそり埋もれるように建っている。
ついでに寄るような場所ではないので、意思を持って向かわないと行けない神社だ。
幹線道路から外れた細い生活道路沿いにあって、奥行きはけっこうある。
社殿は尾張造の面影を少し残している。
拝殿は白塗りのコンクリート造で、これは伊勢湾台風で倒れた後に建て直したものだろう。
ミニ尾張造風の本社と近代的な拝殿との組み合わせがチグハグではあるのだけど、これは仕方ない。
全般的にあまり強い印象を残す神社ではないかなと思った。
ただ、美濃池の人たちが選んだのが熱田社でも八劔社でもなく八王子だったというところに誇りや矜持みたいなものを感じる。
思うよりも古い歴史を秘めているかもしれない。
作成日 2024.8.3