
上手く説明できない
読み方 | おんたけ-じんじゃ(もろわむら) |
所在地 | 愛知郡東郷町大字諸輪字後山60-28 地図 |
創建年 | 1855年(?) |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 大巳貴命(オオナムチ) 少彦名命(スクナヒコナ) |
アクセス | 東郷町巡回バス「上市」より徒歩約5分 |
駐車場 | スペースあり(道が細いので注意) |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | 山丸三に心紋 |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 東郷町の諸輪御嶽神社を初訪問したのは3月はじめ |
ここはきっと聖地
白鳥神社の北西約300メートルの後山と呼ばれる丘の上に鎮座している。
後山(うしろやま)という地名はかつて諸輪大明神と称した白鳥神社の後ろの山ということで名づけられたのではないかと思う。
集落の前(東)を前川が流れている。
諸輪大明神(白鳥神社)があるのは上市(かみいち)で、その南には中市、下市があり、このあたりが”市”と呼ばれていたことには何か重要な意味がある気がする。
上市では7世紀の上市古墳が見つかっており、それ以外にも古代から中世にかけての窯跡が知られている。
下市の南で境川、前川、砂後川が合流し、諸輪村集落の中を名古屋城下と三河の重要拠点である挙母村(ころもむら)をつなぐ挙母街道が通っていた。
市から後山一帯は聖地とされた場所だろう。それも相当古い時代まで遡るはずだ。
そこに御嶽社が祀られていることはたまたまではないし、重要な意味がある。
御嶽教が御嶽信仰の始まりではない
この神社に関する情報は多くない。
『東郷町誌 第一巻』は以下のように書いている。
御岳神社 諸輪字後山六九
境内地 三反二十歩外に山林六反二十八歩
祭神 大己貴命 少彦名命
明治二十八年認可。
安政元年心願講の勧請による祠で、明治十三年に行者堂を移増築し、明治二十一年護摩堂を建立。
明治四十五年に石段建設更に昭和八年参拝堂を新築。
昭和二十八年宗教法人白鳥神社末社の列に加える。祭事
三月十八日、八月十八日両日に施行。一般参拝者多数あり。
まず引っ掛かったのが、”御岳”神社としている点だ。
御嶽神社がある場所の地名は後山で、その北西に御岳があり、”みたけ”と読ませている。御岳公園などもある。
この御岳地名は御嶽神社から来ているのだろうけど、御嶽神社は”みたけ”ではなく”おんたけ”だと思う。
『東郷町誌 第二巻』も”諸輪御岳神社”としているので、正式名は御岳神社なのかもしれない。
ただ、地図上ではマピオンもグーグルも”御嶽神社”になっており、神社にある幟も御嶽神社とある。
もうひとつ引っ掛かったというか重要な点は、安政元年に心願講が勧請したといっていることだ。
安政元年は江戸時代末の1854年だ。
心願講は名古屋高針で結社された御嶽教の講社のひとつで、1830年(文政13年)に古伯(倉知茂兵衛)が作ったとされる。
そのあたりの詳しいことは御嶽神社(高針)に書いた。
では、諸輪の御嶽信仰が始まったのは江戸時代末からなのかといえば決してそんなことはない。もっとずっと古くからあっただろうし、諸輪大明神との関係も深いに違いない。
現在に至る御嶽信仰は江戸時代後期以降の御嶽教のイメージで塗り固められてしまっていて、もともとの実体が分かりづらくなっている。
ただ、この状況というのは、本来の御嶽信仰を隠すために意図的になされたものなのかもしれない。
御嶽の嶽は高い山を表す言葉で、御嶽は英語でいえばザ・マウンテンのようなものだ。特定の山のことではないし、木曽御嶽山が起源でもない。
それは、天香久山や日向国などにもいえることで、どこかに限定してしまうと本質を見失うことになる。
1854年に御嶽教の心願講の人間がこの場所に祠を祀ったのが事実だとしても、それが諸輪における御嶽信仰の始まりではないということだ。
諸輪大明神(白鳥神社)との位置関係を考えると、もともと諸輪大明神は御嶽神社がある場所に祀られていたのかもしれない。
あるいは、後山全域が神域とされていたのではないだろうか。
それが始まったのがいつかということを推測するのは難しいけど、諸輪の集落が誕生した前後の可能性が高い。
古墳や古窯があることからしても、古墳時代より後というのは考えにくく、最大限遡れば縄文時代だろう。
これは根拠もなく空想でいっているわけではなく、そういう話を聞いていて、それは一部の人間が共有しているものだ。
諸輪と丹羽氏との関係
東郷町(公式サイト)のサイトの中で、岩崎城歴史記念館(webサイト)学芸員の内貴健太氏が書いている文章が興味深いので引用させていただく(読みやすいように改行)。
諸輪中木戸西にある丹羽塚、そこには「丹羽福誠之墓」と刻まれた石碑が建っています。昭和41年(1966)の土地改良まで南木戸西には「丹羽山」と呼ばれる小高い山があり、山頂に塚がありました。
諸輪御嶽神社の御嶽教の先達が語り継いできた話によれば、塚に眠るのは「丹羽福誠」だといい、明治40
年(1907)、地元の有志が伝承のとおり、丹羽家の遺跡として福誠の碑を建立しました。
以来、「丹羽さんのお祭り」として塚の前で相撲などが奉納されたそうです。
丹羽山の整地に伴い、石碑は現在地へ移されましたが、御嶽神社では今でも丹羽祭が行われています。
しかし、この福誠という人物は丹羽家の系図には存在せず、生きた時代も判明していません。
現在、神社には「福明霊神」と「明誠霊神」の碑があり、福明霊神の碑には丹羽家の家紋(丹羽扇)が
刻まれています。
御嶽信仰との関係は依然分かりませんが、これらの碑が気になるところです。
また一説には、丹羽塚は長久手(岩崎城)の戦いに敗れた武士が葬られた塚とも伝わります。
諸輪では丹羽一族の残党狩りが行われ、和合一帯も放火されるなど、この時の伝承も多く残ることから、言い伝えに信憑性がないわけではありません。
東郷美化センター南辺りにあったと言われる「隠狭間」と呼ばれた地は、和合が放火され、逃げてきた人々が谷に隠れたことに由来します。
ネットで検索したら、小牧長久手の戦いを研究されている方のようだ。
興味深いと感じたのは、諸輪と丹羽氏との関係だ。
戦国時代の日進、東郷町の地区は尾張と三河の境界だったこともあり、尾張側と三河側の争いの最前線のようになっていた。
丹羽氏が治めていた時代があり、織田方と松平(徳川)方との間で翻弄された。
白鳥神社のところでも書いたように、諸輪城も丹羽氏が城主だった時代がある。
諸輪御嶽神社の霊神碑に丹羽家の家紋があるということは、御嶽神社にも丹羽氏が関わっていたことを示している。
諸輪村の隣の和合村の氏神だった春日社(和合村)は『延喜式』神名帳(927年)に載る山田郡和爾良神社(わにらじんじゃ)という話がある。
和爾良神社と和爾氏との関係については春日社のところで書いたので繰り返さないけど、この和爾氏が後の丹羽氏らしいのだ。
ワニをひっくり返すとニワになる。
ニワといえば二輪(二和)で、諸輪とも和合ともつながる。
輪は丸で、和爾は丸とも表記した。
つまり何が言いたいかというと、日進から東郷町北部を治めていたのは和爾氏だったのではないかということだ。
和爾氏は一般的には大和の氏族というイメージが強いけど、もともとは尾張の一族と聞いている。
日進も東郷も非常に古い歴史があるのに、ほとんど表に出ていない。それがないからではなく、出されていないからだ。もっといえば隠されている。隠すということはそれだけ重要ということだ。
表に出ている古墳や遺跡のすべてがダミーとまではいわないけど、出しても差し支えないものだけが表沙汰になっていて、そちらに目を向けさせている。
諸輪の大明神というのは隠された存在といえるかもしれない。それだけ重要な存在ということだろう。
これ以上は書けない感じ
諸輪御嶽神社に関しては、どう頑張っても上手く書ける気がしない。
もったいぶっているわけではなく、私自身よく分かっていないだけだ。
現地を二度訪れているけど、個人的な感覚では特別何かを感じることはなかった。雰囲気はあるけど、御嶽ワールドの濃度としては薄い。岩崎の御嶽社や長久手の御嶽社とは空気感がまったく違う。
もう少し時間が経って機が熟したら何か書けるかもしれないので、私もそのときを待つことにしたい。
作成日 2025.8.3