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御嶽社(岩崎)

尾張御嶽信仰の聖地

読み方おんたけ-しゃ(いわさき)
所在地日進市岩崎町竹ノ山138 地図
創建年1860年(?)
旧社格・等級等旧無格社・十三等級
祭神国常立命(クニノトコタチ)
大己貴命(オオナムチ)
少彦名命(スクナヒコナ)
アクセス名鉄バス「弁天池」停留所より徒歩約15分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 4月18日(要確認)
神紋山に丸三紋
オススメ度
ブログ記事岩崎御嶽山に行ってみる
日進御岳山の御嶽社を訪ねる ~その1 本院編
日進御岳山の御嶽社を訪ねる ~その2 奥の院編
日進御岳山の御嶽社を訪ねる ~その3 弘徳天満宮と三笠山神社編
日進御岳山の御嶽社を訪ねる ~その4 その他編

濃密な御嶽ワールド

 岩崎の御岳山は2014年2月に一度訪れたことがある。
 そのときの目的は御嶽社ではなく、コンクリ仏師の浅野祥雲のコンクリ像を見ることだった。
 しかし、ネット記事を読む限り、なかなかに恐ろしげなところでひとりでは行けず、当時のカメラ仲間と連れ立っての訪問となった。
 そのときのことはブログ(現身日和)の記事にした。

 岩崎御嶽山に行ってみる

 今回は名古屋神社ガイドの日進市編の取材が目的だったので、最初から御嶽社を目指した。
 正直、あまり気乗りがしなかったのだけど、行かないわけにはいかなかった。

 相変わらずの御嶽ワールド全開ではあったものの、前回感じたような暗さはなく、意外に明るい印象だった。

岩崎村の竹の山は嶽の山?

 御嶽社の本宮があるのは御岳山で、”みたけさん”ではなく”おんたけさん”と読む。
 ただ、近くに”みたけ台団地”などがあることからすると、”みたけ”とも呼ばれている(いた)のかもしれない。
 標高131メートルなので、街中とはいえそれほど高い山ではない。
 地元では岩崎御嶽山などと呼ばれることが多い。
 分からないのが御嶽社がある御岳山と、その北の御嶽神社があるところの関係性だ。
 御岳山は標高131メートルで、御嶽神社があるところは133メートルなので、別の山なのかもしれない。
 御嶽神社のある方を竹ノ山と呼ぶような情報もあるのだけど、御岳山の住所が竹ノ山なのでややこしい。
 この問題はこの後出てくるので、そこであらためて検討したい。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で岩崎村についてこんなふうに書いている。

岩崎村(いはさき) 佐清音 春日井郡に同名あり

 支村二 岩藤 北新田

【近藤利昌日】木郷より岩崎迄四ヶ村はもと一鄕なりとぞ

【山中路紀日】此村のうしろに竹の山とて近邊に比類なき岩山あり其山の尾崎にある村なれば岩崎と名付成べし

【正生考】たけの山は俗語にて嶽の山なるべし

【利日日】竹の山の下に六坊池といふ大池あり又竹の山より荒砥石産る是は地頭渡邊氏より採るを禁む

 ここでは”竹の山”といっているのだけど、これは今の御岳山のことを指すのか、その北の竹ノ山のことなのか、あるいは両方を合わせた呼び名なのだろうか。
 岩山の崎にあるから岩崎と名づけられたというのは当たっていないだろうけど、たけ(竹)の山は俗語で、本来は嶽の山が正しいと津田正生は主張している。
 御岳山と御嶽社の関係が微妙で、御嶽社の社伝では創建を1860年(万延元年)といっており、これが本当であれば『尾張国地名考』が完成した1816年(文化13年)当時はまだ御岳山(竹の山)に御嶽社は祀られていなかったことになる。
 しかし、それはそれで不自然というか納得がいかない感じもする。御嶽信仰とは無関係に竹(嶽)の山という名前が付けられただろうか。
 このあたりは後でもう一度考えてみないといけない。

岩崎には古くから人がいたはず

 御岳山はかつての岩崎村の北部に位置している。
 御岳山の北は広く丘陵地で、現在こそ宅地開発されて家や店が建ち並んでいるものの、それは昭和の戦後のことで、それ以前は手つかずの土地だった。
 北の丘陵地を越えていくと長湫村や岩作村があった。
 岩崎村の集落は御岳山の南、現在の神明や市場に民家が集まっていた。
 集落の南を流れる天白川との間の沖積地を農地としていたようだ。
 そのあたりの地理や地形は今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると確認できる。

 岩崎村の詳しいことについては岩崎の神明神社のところで書くことにして、ここでは御岳山(竹の山)に関することに絞りたい。

 その前にまず、岩崎にいつ頃から人がいたかについてだけど、表向き日進市内では弥生時代以前の遺跡が見つかっていないことから、古墳時代以降というのが通説となっている。
 しかし、尾張南部の重要河川である天白川沿いに人がいなかったはずがなく、弥生時代を遡らないということはあり得ない。縄文時代にも人はいただろうし、もっと遡って旧石器時代にもいたかもしれない。
 古墳についても、現存するのは白山宮の中にある白山第1号墳(直径14mの円墳・7世紀)と岩崎城公園内に復元保存されてる岩崎城古墳だけということになっているけど、そんなわけがない。
 消滅した竹の山古墳群以外にも相当数の古墳があったはずだ。
 知られていないことが存在しないことの証明になるわけではなく、あるはずのものがないことになっているということは隠されているということで、隠されているということはそれだけ重要度が高いことを意味する。重要ではないことを隠すのは無意味だ。
 弥生時代や縄文時代にこのあたりに人がいたか暮らしていたかしたら、当然ながら御岳山は特別視されていただろう。131メートルの低山とはいえ、御岳山はこのあたりで突出している。
 信仰対象になっていたか、聖地とされていたとしてもおかしくない。
 古代において神は山にいるとされ、山は神そのものだっただろう。
 1860年に御岳山に御嶽神を祀ったというのが事実であったとしても、それよりもずっと古くから御岳山は何らかの形で信仰されていたに違いない。
 竹(嶽)の山という呼び名もそれを示している。

尾張の地誌の竹の山

『尾張徇行記』(1822年)は御岳山(竹の山)について『張州府志』(1752年)を引用してこう書いている。

竹野山 府志日、在岩崎西北、山形円似覆鍋、古岩羅立、山色蒼黒、山腹平坦処在城墟、古昔丹羽氏拠此云、事見古蹟下、示築石堰石坡等、時必令有司鍳石於当山、運輸之諸村也、山石尤佳

 鍋を伏せたような形をしており、黒色をした岩山で、山から岩を掘り出していたらしい。
『日進町誌』によると、大正時代までは岩が剥き出しのはげ山で、昭和になって榛木(はんのき)などを植樹して今のような雑木林の景観になったそうだ。
 山腹に平坦なところがあって丹羽氏が城を構えていたともいっているけど、これは南の岩崎城とは別のもので、あまり知られていない。

『尾張名所図会』(1844年)は観光案内の要素もあって一般向けなので分かりやすい。

竹野山(たけのやま)

岩崎村西南にあり。此あたりの高山にして、樹木繁茂し、岩石つらなり聳(そび)えて、奇観いふばかりもなく、登臨の眺望もまた甚よし。

岩崎瀧 竹野山の西南、六坊山のふもとにあり。高さ六丈餘。夏日霖雨(かじつりんう)の節は、飛流十倍して、實に人の耳目を驚かす。

 岩崎村の西南というのは間違いだと思うのだけど、岩石がそびえる奇観で登ると見晴らしが素晴らしいといわれると行ってみたくなる。
 樹木繁茂といっているから、完全なはげ山ではなかったようだ。
 もう一つ面白いのは、岩崎瀧のことだ。
 これは地元でもあまり知られてない瀧で、私も行ったことがないのだけど、菊水の瀧として今もある。
「岩嵜瀧」と題した絵も載っており、豪快に水が流れ落ちている。
 現状はここまでの水量はないようだけど、それでも町中に消えずに残っているのはたいしたものだ。
 御岳山に登る途中にある不動の滝はほとんど枯れてしまっている。
 御岳山南西の六坊山という山は現在ほとんど意識されていないと思うけど、六坊という地名は残っている。
『尾張国地名考』にある六坊池は今の弁天池のことだ。

岩崎城について

 御岳山の700メートルほど南に、岩崎城址公園があり、模擬天守の岩崎城歴史記念館(岩崎城サイト)が建っている。
 小牧長久手の戦い(1584年)の舞台にもなった城で、現在も遺構がけっこう残っている。
『寛文村々覚書』はこう書いている。

古城跡 東西八拾五間南北百間 先年、丹羽勘助居城之由、今ハ松山之内。

岩崎かけ鐙、百年計已前、丹羽勘助殿居城之節、源五郎と申、鐙打有之由、其子孫、今程、岩村二有之、鐙仕由。

『尾張徇行記』は『張州府志』を引用する。

岩崎城 府志日、丹羽勘助居之、東西八十五間南北百間、丹羽若狭守源氏清始築此城、五代相伝至勘助氏次、時天正十二年織田信雄与羽柴秀吉構兵於尾州東照神君援信雄、陣小牧山、池田勝入謀襲三州、四月九日引兵到岩崎、氏次弟次郎三郎者留主此城、放銃拒之、勝入攻而抜之

『尾張志』と『尾張名所図会』はそれぞれ長久手の戦いについて詳しく書いているのだけど、長くなるので築城と城主関連のところだけ『尾張志』から抜き出すことにする。

當城は丹羽若狭守氏清天文七年あらたに築て本郷の城より移りて此處に住りかくて其子右近太夫氏職其子右近太夫氏勝其子勘助氏次にて四代天正十二年まて四十七年住へりしなり然るに同年三月氏次德川公の供奉して小牧の陣営におもむく時其弟當郡傍爾本村の領主丹羽次郎三郎氏重及姉壻長久手の領主加藤太郎右衛門忠景等に家士を授て當城を守らしむ四月九日池田勝入森武藏守大軍をひきゐて此城を攻む氏重年十六弱冠なりといへども池田森が猛勢に對して義を守り勇を震ひて士卒從類等まて悉並戰死す(後略)

「加藤太郎右衛門忠景は天街の大さし物さし白糸の鎧着て月毛の馬にのり大身館を提てよせ手十四人討とり」とあり、この鎧が『寛文村々覚書』がいう”岩崎かけ鐙”のことだろうか。
 岩崎城歴史記念館に伝わっているかもしれない。

 岩崎城の歴史についてネットや他の資料を参考にもう少し補足しておく。
 築城年について『張州府志』や『尾張志』などは天文7年としている。
 これは1538年なのだけど、別の話もある。
 築城者として名が挙がる丹羽若狭守氏清は1485年(文明17年)生まれとされるので、1538年は53歳ということになる。
 戦国時代としては高齢だけどなくはない年だ。
 そうではなく、岩崎城はそれ以前からすでにあったという話もある。
 1529年(享禄2年)に、三河国岡崎城主の松平清康(家康の祖父)が、織田信秀(信長の父)の家臣の荒川頼宗の守る岩崎城を攻め落としたという話があり(『日進町誌』)、それが事実なら1538年より以前にすでに岩崎城はあったことになる。
 松平清康は1535年(天文4年)に尾張を攻略するため兵1万を率いて岩崎城に陣を敷いたというから、やはりその時点ですでに岩崎城はあったということだ。
 松平清康は岩崎城を出立した翌日、守山城へ入ったところで家臣に誤って殺されている。いわゆる守山(森山)崩れと呼ばれる事件だ(白山神社(市場)で少し書いた)。
 丹羽氏清が築城したとされる1538年はその3年後で、それまで丹羽氏清は本郷城の3代目城主だった。
 その後、丹羽氏4代に渡って岩崎城を治めることになるのだけど、丹羽氏次は1600年の関ヶ原の戦いで徳川方について武勲をあげ、江戸時代に三河国伊保(豊田市)に1万石の大名として移ることになり、岩崎城は廃城となったと伝わる。
 つまり、岩崎城の築城が1538年(天文7年)というのは誤りで、築城者も丹羽氏ではないかもしれないということだ。

御嶽社創建

『愛知縣神社名鑑』は御岳山の御嶽社についてこう書いている。

社伝によれば万延元年(1860)庚申八月信州御嶽神社より分祀をうけ創立すという。
明治5年据置公許となる。
平成3年大造営と境内整備事業を行う。

 木曽の御嶽山は飛鳥時代末の702年に役小角が開き、江戸時代後期に覚明(かくめい)と普寛(ふかん)によって一般に開かれて信仰が広まったというのが通説として語られる(1784年に覚明が黒沢口を、1794年に普寛が王滝口を開いた)。
 それも間違いではないのだろうけどすべてではない。御嶽山に対する信仰はもっとずっと古くからあって、その歴史は複雑な経緯を辿った。
 岩崎御嶽社は1860年(万延元年)に夢のお告げを受けた明心と明寛の2人が、木曾から御嶽大神を勧請して創建したのが始まりというのが社伝らしいのだけど、これもちょっと信じがたい。
 そういう事実があったとしても、それが岩崎御岳山信仰の始まりということではない。

 ネットで拾った情報の中で興味を引いたのは、大應寺(だいおうじ)が山を寄進したという話だ。
 大應寺(地図)は岩崎御嶽社から見て800メートルほど南西にある寺で、大應寺から見ると御岳山は鬼門の方角にある。
 大應寺については稲荷社(岩崎)のところで詳しく書く予定だけど、『尾張徇行記』は『張州府志』を引用して次のように書いている。

大応寺 府志曰、在岩崎村、号松高山、浄土宗属府下西蓮寺、正保二乙酉年移誓願寺廃跡創建之、以厳誉上人為開山

 正保2年は江戸時代前期の1645年で、廃寺になった誓願寺の跡地に創建したといっている。
 そんな大應寺が御岳山を所有していたかといえばちょっと信じがたく、御嶽社の始まりが大應寺の寄進からというのはどうかと思う。
 ただ、そういう話があるとすれば、何らかの関わりがあったのかもしれない。

竹の山の意味

 木曽御嶽山の名前の由来については、王御嶽(おんみたけ)と呼ばれていたものが王嶽(おうたけ)となり、御嶽に転じたというのが通説として語られる。
 しかし、それよりも”たけ”の音が重要で先なのではないかと思う。
 津田正生は竹の山は嶽の山の俗称といっているけど、むしろ御嶽より前が竹山だったのではないか。
 竹(たけ)の意味はいろいろあって簡単には説明できないものの、竹の一族の竹であり、竹の国の山ということで竹の山と呼ばれたのかもしれない。
 尾張氏が何らかの形で関わっているのは確かで、そうなるとこの山の信仰は古代に遡り、早くから聖地とされていただろうと思う。
 江戸時代末に御嶽社が祀られたとしても、それは長い歴史の中の一つの出来事にすぎず、そこが始まりではない。
 御岳山と竹ノ山の関係は最後まで分からず、モヤモヤが残った。

 御岳山御嶽社の創始者とされる明心と明寛は心願講の実質的な講祖とされているので、御岳山も心願講の色合いが強い。
 ただ、尾張のみならず全国の御嶽講社の寄り合い所帯でもあり、そのすべてを把握するのは関係者でも困難という。
 御嶽教にまつわる御嶽講については長久手市の御嶽神社(岩作村)のところでわりと詳しく書いたので、興味のある方はそちらをお読みください。

現地を訪れて

 初めて岩崎御岳山を訪れた人はこの場所をどう感じるのだろう。
 怖いと思うか、面白いと感じるか、居心地がいいという人もいるだろうか。
 御嶽信仰を多少なりとも知っていれば霊神碑は見慣れているかもしれないけど、それが3,000基以上林立している光景はさすがにちょっと異様だ。
 木曽御嶽山は2万基以上というからスケールが違うとはいえ、岩崎御岳山はリトル御嶽ワールドと呼ぶべきもので、更にここにはコンクリ仏師、浅野祥雲作のコンクリ像(すべてではない)が点在していて、一種独特の景観を形作っている。
 だからこそ、足を運んで自分の目と感覚で確かめてみる価値があるといういい方ができるかもしれない。

 メインの御嶽社があるところは比較的セーフティーゾーンで、一般人でもここは大丈夫だと思う。
 普通の神社と同じとはいわないけど、それに近い。
 階段の途中にある堂には八海山大頭神王、不動明王、十二大権現が祀られ、その先には開祖とされる明心、明寛を祀る開祖殿がある。

 本殿に当たる建物の前に香炉があり、その上には羽を広げた金色の鳥の像がある。
 一見すると鳳凰なのだけど、金鵄(きんし)らしい。
 金鵄といえば神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)を導いたあの霊鳥だ。
 岩崎御岳山に金鵄がいるというのは意味深な感じがする。

 本殿向かって左手に下りていく道があり、穴の中に不動尊を祀る岩崎穴不動がある。
 素掘の防空壕みたいな穴なのだけど、ここに防空壕を掘るとも思えず、何かの信仰にまつわるものかもしれない。
 かつて不治の病に冒された人がこの穴に住んでいて、御嶽教の先達たちが世話をしたことからお助け穴不動と呼ばれるようになったという話もある。

 御嶽社から見て370メートルほど北西に御嶽神社(地図)がある。
 これは御嶽社の奥宮に当たるもので、御岳山とは別の山なのかどうか分からないのだけど、三角点は133メートルになっている。
 御嶽社からここへ行くルートがややこしくて、道に迷った。
 途中、山の上なのに高級別荘地のような町並みが現れ、ちょっとびっくりする。
 どんな人たちが住んでいるのか、ちょっとよく分からない。
 奥宮がまた、かなりな異空間ぶりで、ここはあまり行かない方がいいような気もする。

 御嶽社(本宮)を正面に右手に続く道があり、そこを10分ほど歩いたところに中の院がある。行ってみたのだけど見つけられなかった。
 けっこう歩いて行きすぎたかと思って引き返したらなかったので、私が思うより遠いところにあるようだ。
 舗装路が途切れて土の道になり、そこからまだしばらく歩かないといけない。

 それら以外にも神社があるので行ってみた。
 御嶽社の少し手前に弘徳天満宮(地図)がある。
 マピオンには載っておらず、グーグルマップには表記がある。
 入り口に大きめの社号標が建っているので分かりやすい。

 名前からして天神、菅原道真を祀る社なのだろうけど、創建のいきさつや御嶽社との関係については調べがつかなかった。
 メインの社の他に小さめの社があり、小ぶりの牛像もいる。
 霊神碑も建っているから、御嶽社とまったく無関係の独立社ではなさそうだ。

 弘徳天満宮からもう少し歩いた先に駐車場へ通じる細い道があり、そこを入っていった右手に三笠山神社(地図)がある。
 こちらは社もなく、霊神碑と石仏があるだけなので御嶽社の関係社だと思う。
 木曽御嶽山の王滝口七合目に三笠山(2,258メートル)があるから、その関連だろう。
 ここも創建のいきさつや由来など、詳しいことは不明だ。


続きは神明社(岩崎)で

 岩崎村や寺のことなどは神明社(岩崎)のところで書くことにしたい。
 竹ノ山周辺の変遷などについてもそちらに回す。

 竹の山(嶽の山)がいつ頃から聖地とされ信仰の対象とされたは分からない。
 ただ、このあたりに人がいた頃からこの山が特別視されたであろうことは容易に想像できる。
 周りは未開の丘陵地で、ここだけが黒い岩肌を剥き出しにした岩山という光景は特別だっただろう。
 この山の山頂か麓かでカミマツリは行われただろうし、古くから何らかの社もあったのではないかと思う。
 江戸時代後期に初めて御嶽社が祀られて信仰の対象となったということはあり得ない。
 御嶽教色に染められていなければもっと違う風景だったはずだけど、ここが御嶽教の聖地になったのも必然なのだろう。

作成日 2025.5.12(最終更新日 2025.5.27)


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