この子誰の子?
応神天皇は誰の子か? ある程度歴史を知っている人なら、仲哀天皇と神功皇后の子でしょと答えるだろう。 もう少し詳しい人なら、それってあの話だよね、という反応になるかもしれない。 応神天皇の生物学的な父親は武内宿禰かもしれないといったら、あなたはどう反応するだろうか。 まんざらあり得ない話ではない。 『古事記』や『日本書紀』を読むとそれらしいことを匂わせる記述がある。 その傍証となるのが一部ではよく知られる住吉大社(web)の縁起書『住吉大社神代記』の記述だ。そこにはこんなことが書かれている。 仲哀天皇が崩御した夜、氣長足姫尊(神功皇后)と住吉大神が密事(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)を行ったと。 どうして住吉大神が武内宿禰になるのかというのは順を追って説明しなければならない。
仲哀天皇と神功皇后と武内宿禰
仲哀天皇の死の経緯については仲哀天皇の項に書いたのでそちらを読んでいただくとして、概要はこうだ。 まず『古事記』を読むと、熊曽国(くまそのくに)を討伐しようとしていたとき息長帯比売命(神功皇后)が神懸かって熊曽国ではなく新羅国(しらきのくに)を討てという託宣が下る。 それを聞いた帯中日子天皇(仲哀天皇)は高いところに登って西を見るも海しかないので信じなかった。 その結果、神の怒りを買って急死してしまう。 このときその場にいて神の言葉を聞いて伝える役をしていたのが建内宿禰(武内宿禰)だった。 帯中日子天皇の死を隠したまま再び神降ろしが行われたときにも建内宿禰が沙庭(さには)を務めた。 そのとき息長帯比売命に神懸かったのが住吉大神(底筒男・中筒男・上筒男)ということが後で判明する。 『日本書紀』では、足仲彦天皇が神託を信じず亡くなってしまった後、氣長足姫尊が神主となり、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を審神者(さにわ)とし、武内宿禰は命じられて琴を弾いている。 神降ろしをするときに琴を弾くのは天皇の役割なので、武内宿禰がその代役をしたということだ。 このとき氣長足姫尊のおなかには子供がいて、神はその腹の子が天下を得るだろうと言ったという。 だったらおなかの子は足仲彦天皇の子に違いないということになるのだけど、生まれたのがそれから1年3ヶ月後となると、あれ? となる。 『日本書紀』によると、新羅国を討てという神託が下ったのが足仲彦天皇即位8年の9月で、崩御が即位9年の2月。氣長足姫尊が新羅討伐を決行したのが即位9年10月で、新羅から戻って誉田天皇を生んだのが即位9年12月といっている。 こんなものは年数のことだけなので辻褄を合わせることなどたやすかったはずなのにあえて不自然にしたということは何らかの意図があったということだ。 『古事記』がいうように、神降ろしの場にいたのは、仲哀天皇と神功皇后と武内宿禰の3人で、神功皇后のお腹の子の父親が仲哀天皇でないとすると残ったのが武内宿禰しかいない。住吉大神を交わって妊娠できるはずもなく、武内宿禰が住吉大神に成りかわったということではなかったか。 そういう名目で神事を行うということはよくあることだ。
仲哀天皇の即位についても不自然な点がある。 先代の成務天皇(若帯日子天皇/稚足彦天皇)から見て仲哀天皇(帯中日子天皇/足仲彦天皇)は甥に当たる。 成務天皇は日本武尊(ヤマトタケル)の弟で、仲哀天皇は弟の子供ということだ。 『日本書紀』は稚足彦天皇(成務天皇)即位48年に足仲彦尊(仲哀天皇)を皇太子に立て、即位60年に107歳で崩御したと書いている。 皇太子になったときが31歳といっているので、足仲彦尊が即位したのは43歳か44歳ということだ。 即位後に氣長足姫尊を皇后に立てて、即位8年(51歳か52歳)のときに氣長足姫尊が妊娠中だったというのはなくないけど違和感はある。 足仲彦尊が即位したのは稚足彦天皇に男子がいなかったからだと『日本書紀』は書いているけど、『古事記』には穂積臣(ホズミノオミ)らの祖の建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)の娘の弟財郎女(オトタカラノイラツメ)を娶って和訶奴気王(ワカヌケ)が生まれたとある。 この和訶奴気王の存在について『日本書紀』は何も語らず、男子はいなかったといっている。これは何を意味しているのだろう。 『古事記』も、それ以上和訶奴気王のことを何も書いていない。和訶奴気王の母がどこの一族だったのかもちょっと気になるところだ。 『古事記』は稚足彦天皇は95歳で亡くなったとする。 足仲彦尊には即位前に娶った大中姫(オオナカヒメ)との間に麛坂皇子(カゴサカノミコ)と忍熊皇子(オシクマノミコ)がいたのだけど、それは後述としたい。
とにかく出だしからして怪しさ満点の譽田天皇なのだけど、まずは『古事記』、『日本書紀』を順番に見ていくことにしよう。
『古事記』がいう応神天皇の皇妃と子
『古事記』は品陀和気命(ホムダワケ)は軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)で天下を治めたといっている。奈良県橿原市(かしはらし)あたりとするのが通説なのだけど、いつも書くようにこれは設定上そうしているだけだ。 品陀真若王(ホムダノマワカ)の娘の高木之入日売命(タカキノイリヒメ)、中日売命(ナカツヒメ)、弟日売命(オトヒメ)を娶り、このうち中日売命の子の大雀命(オオサザキ)が即位(仁徳天皇)したので、中日売命が皇后ということになっている。 しかし、一度に三姉妹を丸ごと娶るというのもちょっと違和感がある。それだけ品陀真若王の一族が重視されたということだろうか。 品陀真若王については、五百木之入日子命(イオキノイリヒコ)と尾張連(オワリノムラジ)の祖の建伊那陀宿禰(タケイナダ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)の間の子供とわざわざ系譜を書いているくらいなので、そこに一つポイントがあったのだろう。 皇妃たちの子としては、高木之入日売との間に額田大中日子命(ヌカタノオオナカツヒコ)、大山守命(オオヤマモリ)、伊奢之真若命(イザノマワカ)、大原郎女(オオハラノイラツメ)、高目郎女(コムクノイラツメ)がいて、中日売命との間に木之荒田郎女(キノアラタノイラツメ)、大雀命(オオサザキ)、根鳥命(ネトリ)が、弟日売命との間に安倍郎女(アベノイラツメ)、阿貝知能三腹郎女(アハヂノミハラノイラツメ)、木之菟野郎女(キノウノノイラツメ)、三野郎女(ミノノイラツメ)がいたとする。 三姉妹の他に、丸邇氏(ワニ)の比布礼能意富美(ヒフレノオフミ)の娘の宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)との間に宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)、女鳥王(メトリノミコ)がいて、矢河枝比売(ヤカハエヒメ)の妹の袁那弁郎女(ヲナベノイラツメ)との間に遅之若郎女(ウジノワキイラツメ)が、咋俣長日子王(クヒマタナガヒコ)の娘の息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)との間に若沼毛二俣王(ワカヌケフタマタ)が、桜井の田部連(タベノムラジ)の祖の島垂根(シマタリネ)の娘の糸井比売(イトイヒメ)との間に速総別命(ハヤブサワケ)が、日向の泉長比売(イヅミノナガヒメ)との間に大羽江命(オオハエ)、小羽江王(オハエノミコ)、幡日之若郎女(ハタヒノワキイラツメ)が、迦具漏比売(カグロヒメ)との間に川原田郎女(カハラダノイラツメ)、玉郎女(タマノイラツメ)、忍坂大中比売(オサカノオオナカツヒメ)、登富志郎女(トホシノイラツメ)、迦多遅王(カタヂノミコ)が、葛城の野伊呂売(ノノイロメ)との間に伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)がいたという。 このうちの何人かは後々物語に絡んでくることになる。
仁徳天皇の項で書いたように、結果的に大雀命が即位することになるのだけど、本来の皇太子は大雀命ではなかった。 品陀和気命のお気に入りは宮主矢河枝比売の子の宇遅能和紀郎子で、宇遅能和紀郎子を後継者に指名したと記紀ともに書いている。 その前フリとして大山守命と大雀命にこんな問いかけをする。おまえたちは年長と年少とどちらの子がかわいいかと。 大山守命は年上と答え、大雀命は年下と答え、品陀和気命が気に入ったのは大雀命の方だった。それは守遅能和紀郎子に天下を治めさせたいと思っていたからだと『古事記』はいう。 大山守命には山と海を治めよといい、大雀命は国を治めよと命じ、宇遅能和紀郎子には天津日継(あまつひつぎ)に指名した。 大雀命は天皇の命に違(たが)わなかったとも書いている。 しかし、品陀和気命亡き後、この三者が帝位を争い、大山守命は宇遅能和紀郎子に殺され、宇遅能和紀郎子も死に(『日本書紀』は自死と書く)、結果として大雀命が即位することになる。
応神天皇の事績は薄い
この後、品陀和気命の事績についての記事になる。 淡海国に行幸に出かけて宇遅野(うじの)から葛野(かどの)を眺めて国見をしたとか、木幡村(こはたのむら)で丸邇(わに)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘の宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)に出会って歌を歌ったといったものだ。 この宮主矢河枝比売との間に生まれたのが宇遅能和紀郎子(ウジノワキノイラツコ)だ。 他には日向国の諸県君(モロガタノキミ)の娘の髪長比売(カミナガヒメ)が美しいと聞いて迎え入れようとしたら大雀命が欲しいといったので譲ったとか、あまり重要とも思えないような話が続く。 一つ特徴的なのは歌が多いということだ。 それと、新羅やら百済やらの記事が増えていく。これを朝鮮半島のことと思い込むとミスリードされてしまう。実際は百済とか新羅とかいった国名を出して別のことを伝えているのだけど、そのへんはなかなか難しいものがある。 朝鮮半島を現代のような外国とする認識も誤りだ。渡来も外国から渡って来た人のことではない。 後半で語られる天之日矛(アメノヒホコ)も新羅の王子といっているけどそんなわけがない。”天”を冠していて”日”と”矛”といっているのだ。天の一族の重要人物に違いない。
応神紀をあらためて読んでみると、その内容が非常に薄いことに気づく。記事の半分は皇子たちの争いや天之日矛のことで占められている。 秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒオトコ)と春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミオトコ)の兄弟喧嘩の話も詳しく語られるのだけど、どうしてこの記事をここに入れたのか、その意図がよく分からない。 最後は子孫たちについてまとめて、甲午の年の9月9日に130歳で崩御したという。 御陵は川内(かわち)の恵賀(えが)の裳伏崗(もふしのおか)と書いている。
『日本書紀』だけが書いたこと
『日本書紀』は氣長足姫尊(神功皇后)紀を独立させているところに『古事記』との大きな違いがある。 氣長足姫尊が新羅討伐から戻って誉田別尊を産んだ後、足仲彦天皇が即位前に娶った大中姫との間に生まれた麛坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こして戦いになる。 そのあたりについては神功皇后の項にある程度詳しく書いたのだけど、この記事はあくまでも神功皇后と応神天皇側から見た視点で書かれていることに注意しなければならない. 麛坂皇子と忍熊皇子からすれば、自分たちこそ正当な後継者で、氣長足姫尊が武内宿禰たちと組んでクーデーターを起こしたという認識だったかもしれない。 勝てば官軍負ければ賊軍で、歴史は勝者によって語られる。
氣長足姫尊紀で見逃せないのが武内宿禰が太子(誉田別尊)を連れて角鹿(つぬが)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)のところへ行ったという記事だ。 ここではそれしか書いていないのだけど、品陀和気命紀の中で、そのとき笥飯大神と名を替えた(名相易)という伝承を伝えている。 もともと太子は來紗別神(イザサワケ)で、大神が誉田別尊だったといっている。 名を替えるというのはただ事ではないことで、しかも子の大雀命までもが名を替えているとなると何か裏があると疑わざるを得ない。 そのどちらにも武内宿禰が絡んでいるのだからなおさらだ。 大雀命はもともと武内宿禰の子の名で、本来の名は木菟(ツク)だった。 このあたりの入れ替わり疑惑については仁徳天皇の項に書いたのでここでは繰り返さない。
気になるのは角鹿の笥飯大神の正体だ。 『古事記』もこのエピソードを書いていて、『古事記』は伊奢沙和気大神(イザサワケ)、『日本書紀』は來紗別神としている。 一般的には敦賀の氣比神宮(web)で祀られる伊奢沙別命とするのだけど、そもそも伊奢沙別命(伊奢沙和気大神)が何者かがよく分からない。 どうして武内宿禰は太子時代の品陀和気命を連れて角鹿の笥飯大神(伊奢沙和気大神)のところへ行ったのか? 『日本書紀』はその理由や目的を明らかにしていないのだけど、『古事記』は禊(みそ)ぎをするためといっている。 禊ぎというのは穢(けが)れを払うためだけど、太子にどんな穢れがあったというのか。 即位13年といっているので太子は13歳か14歳くらいだ。父の足仲彦天皇の穢れとするには時間が経ちすぎている。 角鹿というのは物語上の設定なので、必ずしも高志国(越国)を意味しない。 笥飯大神のケヒが何を意味しているのかは不明ながら、非常に重要な存在だったということはいえそうだ。 太子、もしくは武内宿禰を含めて穢れを祓う必要があって、それをできるのが笥飯大神だったとするならば、それはある種のお墨付きを得るということだっただろうか。名を替えるということは、名を継いだとも考えられる。あるいは、名を奪ったか。
笥飯大神は天日槍(天之日矛)という説がある。 『日本書紀』が天日槍について詳しく書いたことからしても、それはあり得ることだ。 だとすれば、天日槍はやはり新羅王子などではなく、天一族の中心的な人物だったということになる。 角鹿より戻った太子を氣長足姫尊は祝酒をもって出迎え、喜びの歌を歌っている。 この酒は自分が醸した酒ではない、常世にいる周玖那彌伽未(少彦名神)が歌って踊って醸した酒だといっている。 当然ながらこれは宴会で酒を飲んで騒いでいるのではなく一種の神事に違いなく、わざわざ少彦名神の名を出してきていることからしても、これで名実ともに我々が天下を治める存在だということをアピールしているかのようだ。 足仲彦天皇の突然死とそれを隠した氣長足姫尊と武内宿禰は、足仲彦天皇の皇子たちとの争いに勝ち、笥飯大神に認めてもらってようやく天下を取れたということだっただろうか。
神功皇后ははどうして太子に譲位しなかったのか?
それは大きな疑問の一つだ。 ある程度の年齢にならないと天皇になれなかったということがあったにしても、『日本書紀』では氣長足姫尊は死ぬまで摂政を続けている。 亡くなったのが即位69年で100歳だったというから、このとき息子の足仲彦は70歳くらいになっている。 『古事記』は新羅国から戻ったあと、倭で足仲彦天皇(仲哀天皇)の皇子の香坂王と忍熊王の反乱を鎮め、角鹿から戻った御子(太子)を祝いの酒で出迎えたところで終わっている。 息長帯日売命が摂政をしたという話もなく、死についても語られていない。 皇子(品陀和気命)の立太子についての言及がないのが少し引っかかるところなのだけど、この後すぐに品陀和気命の記事が始まる。
『日本書紀』が氣長足姫尊摂政時代のことを長々と詳しく書いた意図は何だったのか。 天皇以外で独立して書いているのは氣長足姫尊だけだ。 天皇として即位していたと考える方が自然なのだけど、そうはいっていない。 しかし、70年近くも天皇不在ということがあっただろうかと考えるとそれはないような気がする。 氣長足姫尊が摂政を行うに至った経緯についてもあまり正当とはいえないし、足仲彦天皇(仲哀天皇)には他の皇子もいた。 キーパーソンなのにそういう扱いになっていない譽屋別皇子(ホムヤワケ)という存在がある。
『日本書紀』は大中姫の次に來熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖の大酒主(オオサカヌシ)の娘の弟媛(オトヒメ)を娶って譽屋別皇子が生まれたといっている。 それに対して『古事記』は品夜和気命(ホムヤワケ)を皇后の息長帯比売命との間の子としている。それが本当だとすると品陀和気命(応神天皇)の兄ということで、正当な天皇になり得る立場だったといえる。 『古事記』と『日本書紀』に違いがある場合はたいてい『日本書紀』に作為があるものだけど、『古事記』がいうように品夜和気命を皇后の息長帯比売命の子とするといろいろ問題が出てくる。 息長帯比売命が神懸かったときにおなかにいたのは弟の品陀和気命になるわけだけど、そのとき品夜和気命はどこで何をしていたのか。 まだ幼かったとはいえ、まったく出てこないのもどうかと思う。新羅征伐に行ったのか行かなかったのか。香坂王と忍熊王の反乱のときはどうしていたのか。 幼くして亡くなった可能性はあるにしても、『日本書紀』が氣長足姫尊の子とせず弟媛の子としたのは何かまずいことがあったとも考える。
『新撰姓氏録』(815年)には仲哀天皇皇子誉屋別命の後として間人宿祢、間人造、蘇宜部首、磯部臣が載っている。だとすると、早世したわけではなく、争いにも巻き込まれずに生き延びたのだろうか。 『新撰姓氏録』でいえば、仲哀天皇皇子忍稚命の後として布勢公も載っているので、記紀が書かなかった皇子もいたということだ。
ついでに『新撰姓氏録』に載る誉屋別命の後裔を見ておくと、稚渟毛二俣王(ワカヌケフタマタ)を祖とする一族がけっこう幅をきかせていたことが分かる。 八色の姓の最高位だった真人(まひと)が多いことからして有力な集団だったと考えられる。 現在の天皇、皇室はこの稚渟毛二俣王の流れを汲むとされている。 他には大山守王の後と、応神天皇三世孫の阿古乃王の後が載っている。 『日本書紀』が誉屋別命の男子を11人としているわりには少ない印象だ。
何にしても品陀和気命(譽田天皇)の即位にはいろいろと問題があったように思える。
記紀以外に手がかりはない
『古語拾遺』は纏向日代朝(景行天皇)の後の成務天皇と仲哀天皇を飛ばして磐余稚櫻朝について少し書いている。 磐余(いわれ)の稚櫻(わかざくら)は神功皇后のことで、斎部広成(いんべのひろなり)の中では神功皇后は即位した天皇という意識だっただろうか。 内容は住吉大神が現れて新羅を征伐して三韓が朝貢したというものだ。 応神天皇については輕嶋豊明朝(かるしまのとよあきら)として渡来の人たちについて簡単に書いている。 次の仁徳天皇を飛ばして履中天皇を後磐余稚櫻朝(のちのいわれのわかざくら)としていることに何らかの意図を感じる。 ここでも三韓関連のことをいっているので、斎部広成の興味はそのあたりにあったようだ。
『先代旧事本紀』は『古事記』と『日本書紀』を参照して簡潔にまとめたような内容で、特にこれといったことは書かれていない。 誉屋別皇子については『日本書紀』に準じて弟媛の子としている。 気長足姫命(神功皇后)で「天皇本紀」を終わらせ、誉田皇太子尊(応神天皇)から「神皇本紀」を始めていることからすると、誉田皇太子尊から新時代が始まったという認識だっただろうか。 誉田皇太子尊の事績についての言及はほとんどなく、詳しい系譜を載せつつ、大山守命と大鷦鷯尊、菟道稚郎子のことだけ少し書いている。
応神天皇は八幡神というけれど
応神天皇は宇佐神宮(web)をはじめとする全国の八幡社の祭神として祀られていることはよく知られている。 八幡社の総本宮は宇佐神宮だとか、宇佐神宮の元宮は他にあるといった話もあるのだけど、個人的にはそのあたりにあまり興味がない。 どういう経緯で八幡神と応神天皇が習合したについても他に譲りたい。 そこを深掘りするととりとめがなくなるし、八幡社の歴史も千数百年を重ねているので今更違うだとかどうだとかいってもあまり意味がない気がする。 ただ、ここまで見てきたように、応神天皇は決して一般の信仰対象になるような存在ではなかった。少なくとも記紀はそんな扱いをしていない。 仁徳天皇のところでもちらっと書いたけど、八幡神(やはたのかみ)は古い根源神で、もちろん応神天皇などではない。 応神天皇もしくは後裔一族が八幡神の名を借りて利用したということはあったかもしれない。 中世以降の八幡信仰についても、書くとなるとすごく長くなって大変なのでここではやめておく。 一つだけ書いておくと、八幡神は天白神だということだ。これは分かる人にしか分からない。
神に相応しい?
漢風諡号についても仁徳天皇の項に少し書いた。 諡(おくりな)というのはその人(天皇)の事績や人柄にちなんで付けられた戒名のようなものではない。ある種の祈りや鎮魂といった意味で贈られたものだ。 応神というのは文字通りの意味であれば神に応じることだ。 別の意味でいえば、神にふさわしいということでもある。 これは皮肉めいていて、逆説的にいえば神にふさわしくないから神にふさわしいという諡を贈ったとも取れる。 神がつけられた天皇は、神武、崇神、応神しかいない。神功皇后を入れて4人だ。 神というのは天の神様ということではない。 タカミムスヒ、カミムスヒのカミであり、カムロキ、カムロミのカムとも関係している。 ホムタワケでいうと、ホムタは秦(ハタ)で、ワケは文字通り分けるとか分かれるという意味だ。 秦氏を中国からの渡来人などと考えているとあさっての方向にいってしまう。 ハタはヤハタのハタでもある。八幡、八田、羽田といった地名や苗字もそこから発している。 ハタのワケなのにハタ本家を名乗ったのかもしれない。
応神天皇自身が何をしたということではなく、悪いわけでもないけど、立ち位置というか血統的な部分で問題があった。 足仲彦(仲哀天皇)以降、おかしくなってしまった血統を男大迹王/袁本杼命(ヲホド/継体天皇)のところでやや強引に元に戻している。 応神天皇ってどんな天皇でしょう? という問いに明確に答えられる人は少ないだろう。 八幡神とされている以外に個性らしい個性はない。 軍神などといった性格はまったく持ち合わせていない。 もしかすると戦の神、八幡神として祀られていることをあの世で居心地悪く思っているかもしれない。
今の天皇家は八幡神や八幡社を皇室の守護神として大事にしていますか? その態度こそが応神天皇の答えだ。
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