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富士宮神社/御笠三社(下半田川町)

富士の山神なのか?

読み方ふじのみや-じんじゃ/みかさ-さんしゃ(しもはだがわちょう)
所在地瀬戸市下半田川町 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神不明
アクセスせとコミュニティバス/東鉄バス「妻之神」より徒歩約10分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他
神紋
オススメ度
ブログ記事

何もかも不明

 マピオンには御笠三社(地図)とあり、グーグルマップには富士宮神社(地図)とある。
 どっちが正しいのだろうと思いつつ現地に赴いてみると、何も書いていないので分からない。
 入り口にか細い木製の神明(風)鳥居が建っており、中には注連縄の掛かったプレパブ小屋のようなお堂があるも、額はない。
 境内には「御嶽山三社大権現」と彫られた石碑と霊神碑がある。
 ん? ここは御嶽なのか?

 結局このときは何も分からないまま参拝して神社をあとにすることになった。




少ない手掛かりから考える

 まず普通にネット検索するも、この神社に関するページが1件もヒットしない。
 道ばたの祠ならともかく、曲がりなりにも鳥居を持つ規模の神社だ。まったくネット情報がないのもどうなんだろうと思う。それとも、私が見つけられないだけなのか。

 江戸時代の尾張の地誌に富士や御笠に相当する神社は見当たらず、『愛知縣神社名鑑』にわずかな手掛かりを見いだした。
 下半田川町の八劔社の項にこうある。

大正6年9月27日、字休場妻神社と、字神屋前の愛宕社・秋葉社又字冨士の山神社の三社を合祀した。

 この中の”字富士の山神社”が富士宮神社(御笠三社)のことではないだろうか。
 そうだとすると、この山を富士と呼んでいたのか。
 しかし、大正6年に八劔社に合祀されたなら残っていないはずなので、それも違うのか。
 考えられるとすれば、合祀とは名目上のことで富士の山神はそのまま残したか、あるいはいったん合祀したものを昭和になって復活させたかだ。

 御笠三社の三社が何を意味するのかも分からない。
 一緒に合祀した山神・愛宕・秋葉のことなのか、境内にある”御嶽山三社大権現”に関係があるのであれば、御嶽神の国常立尊(クニノトコタチ)・大己貴命(オオナムチ)・少彦名命(スクナヒコナ)や、造化三神の天之御中主神(アメノミナカヌシ)・高御産巣日神(タカミムスヒ)・神産巣日神(カミムスヒ)を祀った可能性もなくはない。

 ウィキペディアの下半田川町のページ(web)に以下の文章が載っている(『角川日本地名大辞典』編纂委員会)。
「北境は松ケ根・石塔ケ根と続く標高約200mの尾根線で、岩ケ根・伊勢山・神明山と続く山嶺が南境となる」
 これでいうと富士山という名前の山はないようなので、字冨士は限定的な地名かもしれない。
 地名が先か、富士宮の神社が先かは判断がつかない。

江戸時代の下半田川村の神社について

 江戸時代の下半田川村については八劔社のところで書いたので詳しいことはそちらを見ていただくとして、神社関連に絞って抜き出すと以下の情報が得られる。

『寛文村々覚書』(1670年頃)

「社弐ヶ所 内 大明神神明白山 山之神
 社内三反に畝四歩 前々除 村中支配」

『尾張徇行記』(1822年)

「社二区覚書ニ大明神、神明、白山、山神、社内三段二畝四歩前々除、村中支配
庄屋書上ニ氏神神明、大明神、白山三社境内東西三十五間南北二十五間雑木林村除、
山神社内八間四方村除、勧請年暦ハ不知、再建ハ元禄十二己卯年アリ

神明社内東西十間南北十二間、斎ノ神社内東西五間南北四間、愛宕秋葉一社境内四間四方共ニ村除、
是ハ庄屋書上也」

『尾張志』(1844年)

「八劔社 幸神ノ社 神明ノ社 神明社白山社二社 六社共に下半田川村にあり」

 上の方で書いたように、”富士”、”御笠”、”三社”といった言葉は出てこない。
 可能性があるとすれば、『愛知縣神社名鑑』がいう「大正6年9月27日、字休場妻神社と、字神屋前の愛宕社・秋葉社又字冨士の山神社の三社を合祀した」という中の”富士の山神社”だ。
 これが地誌にある”山之神”のことを指しているのかどうかは分からない。

 気になっているのは神明の存在感が薄れているというか、ほとんど消えている点だ。
 大明神・神明・白山の三社合同社の他にも神明があったようなのだけど、八劔社の中で天照皇御神(アマテラス)が祭神に加わっている以外に神明の気配というか痕跡がない。
 wikiの下半田川町の項の「北境は松ケ根・石塔ケ根と続く標高約200mの尾根線で、岩ケ根・伊勢山・神明山と続く山嶺が南境となる」というのを読むと、伊勢山と神明山があることからしても、この土地は本来、伊勢の影響力が強かったのではないかと思う。
 ”根”地名というのは尾張において大事な土地で、その”根”地名が多いことは尾張氏の影響力もあったことを意味している。
 富士の山神と伊勢山、神明山あたりの関係性が見えてこないのがもどかしい。

富士なのか御笠なのか

 最初に書いたように、マピオンには御笠三社とあり、グーグルマップには富士宮神社とあることも混乱の要因となっている。
 マップファンは鳥居マークだけで表記がなく、yahooマップや地理院地図にも表記がない。
 その他、いつもNAVIは御笠三社となっている。

 富士宮なら富士山や浅間山関連の可能性が高いけど、御笠はどうなんだろう。
 ”みかさ”というなら、奈良の御蓋山(みかさやま/春日山)を連想させるから、春日系とも考えられるだろうか。
 あるいは、”笠”の三社ということであれば、また意味も違ってくる。
 ”笠”の字は”竹”と”立”からできている。
 竹は尾張(松は三河)なので、もともとは尾張の三柱(三社)を祀る神社だったかもしれない。
 境内にある「御嶽山三社大権現」は江戸時代に御嶽教の人間が建てたものだろうけど、もともとの御嶽信仰は非常に古いもので、そちらの信仰の方が先だった可能性もなくはない。

場所について

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)には鳥居マークがないので詳しいことは読み取れないのだけど、現代の地図を見ると神社の位置関係が分かる。
 集落を見下ろす位置にある八劔社と、集落の出入り口に祀られた斎神(妻神)を結んだラインのちょうど中間あたりに富士宮神社が祀られている。
 この場所や位置関係はたまたまとは思えない。意図を持ってここに配置したはずだ。
 その理由を推測することは難しいのだけど、なんとなく東側を警戒しているような感じを受ける。
 西の集落の出入り口には秋葉・愛宕が祀られていただけだったと思う。
 もしくは、東の山を聖域と捉えていただろうか。

 この下半田川が独立性の強い集落だったということが何かヒントになる気がする。
 どういう人たちがいつここに住みついたのか。
 時代の移り変わりの中で人も入れ替わり、勢力も変わっていっただろうけど、変わらない一本の線のようなものがずっとつながっているのではないだろうか。
 彼らは神社に何を願い、何を祈ったのか。
 そして、何を期待したのか。
 そんなことに思いを馳せてみる。

作成日 2025.1.9

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