ここにあるのはただの恋物語などではない ![]() | |
| 読み方 | ひかみあねご-じんじゃ |
| 所在地 | 名古屋市緑区大高町火上山1-3 地図 |
| 創建年 | 伝・195年 |
| 旧社格・等級等 | 旧郷社・式内社・熱田神宮境外摂社 |
| 祭神 | 宮簀媛命(ミヤズヒメ) |
| アクセス | JR東海道本線「大高駅」から徒歩約35分 |
| 駐車場 | あり |
| webサイト | 熱田神宮webサイト内 |
| 祭礼・その他 | 例祭 10月第1日曜日 |
| 神紋 | |
| webサイト | 熱田神宮公式サイト内 |
| オススメ度 | ** |
| ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 氷上姉子神社は元宮が8で本社が2 氷上姉子神社を一年ぶりに再訪する | |
熱田神宮(公式サイト)の元宮とされることもある古社。
乎止与(オトヨ)とその息子の建稲種、妹の宮簀媛(ミヤズヒメ)が暮らしていた館の跡に、宮簀媛を祀ったのが始まりというのが一般的な認識となっている。特に大きな謎もなく、創建のいきさつもはっきりしている神社だと思っている人も多いかもしれない。
しかし、いろいろ調べたり、いろんな人がいろんなことを書いているのを読んでいくうちに、本当にそうだろうかという疑問がわいてきた。この物語は実はもっと複雑なものなのではないかと。
まず分からないのは、日本武尊(ヤマトタケル)と宮簀媛の出会いと別れまでどれくらいの年月が過ぎたのか、という点だ。
具体的にいうと、宮簀媛は何歳のときに日本武尊と出会い、何歳のときに再会して、何歳のときに別れたのか。そして、何歳のときに熱田に草薙剣を祀る社を建て、何歳のときに死んだのか。
日本武尊が伊吹山の神に負けて(体調を崩しただけとも)大和へ戻る途中、伊勢の能褒野(のぼの)で死んだのが30歳と『日本書紀』はいう。
現実に起こった出来事と物語をごっちゃにしてはいけないのは承知しているのだけど、物語の設定として宮簀媛の年齢問題というのは重要な点なので、ある程度はっきりさせておく必要がある。10代前半と10代後半とでは微妙に意味が違うし、10代と20代とでは更に大きな違いがある。
現在、大高と呼ばれる土地は、当時、火高火上(ほだかひかみ)と呼ばれ、館があった場所は火上山(ひかみやま)の上だった(現在の元宮がある場所/地図)。
問題は、この館が乎止与のものだったのか、建稲種のものだったのか、宮簀媛のものだったのか、という点だ。
日本武尊が東征のため最初に尾張を訪れたときの当主が乎止与だったのか建稲種だったのかで話は違ってくる。それは、そのときの宮簀媛の年齢にも関係してくることだ。
父親の家に息子と娘が一緒に暮らすというのは不自然ではないだろうけど、そのときの建稲種の年齢によっては不自然になる。
建稲種は日本武尊東征に副将軍として従って戦いを終えたのち、尾張に戻る途中の駿河の海に落ちて死んだと熱田の縁起は伝える。その建稲種には玉姫(丹羽氏の祖・大荒田命(オオアラタ)の娘)という妃がいて、二人の間には尻綱根命(シリツナネ)をはじめとして二男四女がいたことになっているから、尾張を出立した時点でけっこうな年齢だ。少なくとも20代前半の青年ではない。8人家族の長男が、その年まで父親の館で一緒に暮らしていたとするのは違和感がある。
建稲種の本拠地は知多の師崎や羽豆だったという話があり、日本武尊東征のときは海から行ったともいうから、大高から南の海辺に進出して独立していた可能性は考えられる。
火上山の館に乎止与や眞敷刀俾の影はなく、当主が建稲種でないとしたら、独身の宮簀媛が独りで暮らしていたということだろうか(もちろんお付きはたくさんいただろうけど)。当時においてそれが自然なことだったのか不自然なことだったのかは分からない。
日本武尊の東征は数ヶ月とかの話ではなく、数年に渡ったものだっただろうから、その間に宮簀媛も年を取る。
乎止与は初代尾張国造とされている。国造(くにのみやつこ)というのは地方長官のような役職で、いうまでもなくそれは中央から与えられるものだ。日本武尊が尾張国にやってきて、乎止与もしくは建稲種が館に招いて歓待したということは、尾張氏が大和の支配下に入ったことを暗示している。日本武尊は天皇の皇子だ。その意味は小さくない。
日本武尊が乎止与の娘を見初めて妃にしたという話を、単純な恋物語と捉えていいとは思えない。物語として美化された裏にはもっと政治的な別の側面があったに違いない。
『古事記』、『日本書紀』、『熱田神宮縁起』では、日本武尊と宮簀媛の物語にそれぞれいくつかの違いがある。
『古事記』では、「尾張國造の祖、美夜受比賣の家に入り」、「婚ひせむと思ほししかども、また還り上らむ時に婚ひせむと」思って東に向かい、荒ぶる神や従わない人々を征服して、再び尾張に戻ってみたら、宮簀媛は生理中でがっかりしつつ、二人は歌を詠み交わし、宮簀媛が大丈夫というのでそのまま交わり、草薙剣を宮簀媛の元に置いて伊吹山の神を退治しに向かったとしている。
日本武尊が入った家は乎止与でも建稲種のものでもなく宮簀媛のもので、宮簀媛を尾張国造といっている。
行くときに立ち寄った際は二人は交わらず、帰ってきてから結ばれ、記述上では一夜妻的なニュアンスになっている。しかもそれが生理中だったというのだ。何故、わざわざそんなことを書く必要があったのか。
『日本書紀』では、行きに尾張に寄ったという記述はなく、東征の帰りに尾張を訪れて宮簀媛と結婚して、しばらく留まったとしている。生理中云々という話も出てこない。
その後、近江の五十葺山(伊吹山)で荒ぶる神が暴れているという話を聞いた日本武尊は、草薙剣を置いたまま歩いて向かい、神にやられて、いったん尾張に戻ってきたとしている。しかし、宮簀媛のところには寄らず、伊勢に向かって命を落としたとする。
尾張に戻ってきていながら宮簀媛に会わなかったとしているのは何をいいたかったのだろう。
『尾張国熱田太神宮縁記』では、行き道で建稲種の館に立ち寄って、宮簀媛を見初めて二人は交わり、東征を終えて戻ってきてしばらく滞在したとしている。
その後、草薙剣を置いて大和に戻る途中、伊吹山で病気になって能褒野で死んだのだとする。
草薙剣を祀る社を火上山の地に建てて、のちに熱田社を創建して草薙剣を移した云々という氷上姉子神社の縁起も、この縁起書が元ネタのようだ。ただ、書かれたのは鎌倉時代初期ということで、後世の創作や脚色が加えられている可能性がある。
登場人物たちの年齢問題とともにもう一つ重要な点が他の妃と子供のことだ。
何故、宮簀媛と日本武尊の間には子供がいないのか? 実際にいなかったんだから仕方がないといえばそれまでなのだけど、物語上としても子供がいなかったという点は無視できないのではないか。
『古事記』は、宮簀媛が生理中だったということをどうしてわざわざ書いたのか。生理中に交わったから子供がいないのだということをいいたかったのか、もっと別のことを暗にいっているのか。
古代において、女性の月経をどういうものと考えていたのかということがある。穢れ(ケガレ)と見ていたという考え方もあるだろうけど、月経の間は神と交わっている期間だから人は交わってはいけないという考え方もあったようだ。
日本武尊はタブーを犯したから神通力を失って伊吹山で命を落とすことになったのだと『古事記』はいいたかったのかもしれない。
だとすると、宮簀媛というのは単なる乎止与の娘で、恋する乙女といった存在ではないということになるのではないか。あえていい切ってしまうと、宮簀媛は巫女だったのだろう。
古代において、男性が政治を担当して、その対となる女性が祭祀を司るというのが定番スタイルだった。その法則に当てはめると、尾張の政治を担当していたのが建稲種で、祭祀担当が宮簀媛だったのだろう。二人は兄と妹かもしれないし違うかもしれない。
そこに日本武尊が割り込む格好で入ってきた。問題が起きないはずがない。
更に草薙剣が絡んでくる。何故、日本武尊は草薙剣を置いていったのか。草薙剣は元を辿れば、須佐之男(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して手に入れたもので、天照大神(アマテラス)に献上され、瓊瓊杵尊(ニニギ)が降臨したときに授けられ、伊勢の神宮で倭姫(ヤマトヒメ)が祀り、東征に向かう日本武尊に渡されたものだ。日本武尊も一時的に借りただけで、正当な所有者とはいえない。なにしろ天皇即位に関わってくる三種の神器の一つなのだ。通常であれば天皇でもない皇子が軽々しく持ち出せるものではない。
日本武尊亡き後、何故天皇は草薙剣を尾張氏の元にとどめ置いたまま取り返そうとしなかったのか。のちに盗難事件が起こって天皇家に戻り、再び熱田に返されることになるのだけど、そのあたりについては八剣宮のところで書いた。
話を戻すと、日本武尊には宮簀媛の他にも多くの妃がいて、その間に何人も子供がいる(という設定になっている)。
両道入姫(フタジノイリヒメ)との間にはのちに仲哀天皇となる皇子がいたし、東征の途中で出会った弟橘比売(オトタチバナヒメ)との間にも若建王(ワカタケル)がいた。その他、数人の妃との間にも子供がいたことになっている。
その中で、宮簀媛にだけ子供がいないとした理由は何だったのか。
日本武尊の物語は複数人を総合して生み出された架空の人物像という説はもっともなのだけど、東征の物語だけをとってみれば、そこにはある種のリアリティや一貫性といったものがある。元になった筋書きがあったはずだ。
妃の一人の弟橘比売は、荒れる海を前に進めなくなった日本武尊のために自ら海に入って海神の怒りを鎮めたとされている。弟橘比売は日本武尊を救えたのに、宮簀媛はどうして救えなかったのか。
この物語の意図するところはどこにあったのか。
氷上姉子神社の”姉子”は、宮簀媛のことだとされる。姉子は一般的に、夫のいない少女のことという。姉子が宮簀媛のこととする根拠としてこんな歌がある。
「年魚市潟(あゆちがた) 火上姉子は 我れ来むと 床去るらむや あはれ姉子を」
『尾張国熱田大神宮縁起』にあるもので、日本武尊が東征の帰り道に、甲斐国の坂折宮で宮簀媛を想って歌ったとされるものだ。
『尾張国地名考』の中で津田正生(つだまさなり)はこの歌をはっきり偽作といっている。「古調に似て古調ならず」と。
私もこの説に賛同する。はっきりいって格調がなさ過ぎる。もっといえば下手すぎる。
成海神社の縁起にまつわる歌で日本武尊が歌ったとされる、
「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛」
(鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に 渡らへむかも)
と比べても格調の違いは明らかだ。「奈留美良乎」の歌も日本武尊が歌ったものとは限らないとしても、「年魚市潟」の歌はいけない。表現が直接的すぎる上に、どこか他人事めいている。これは当人ではなく第三者が歌った可能性が高い。
姉子が夫のいない少女の意味だとすればそれはおかしなことだし、そもそも愛おしい人を姉子呼ばわりもしないだろう。
「姉子の歌」が偽作だとすれば、姉子=宮簀媛という前提は崩れたも同然だ。姉子は巫女のことだとする説を私も信じる。
日本武尊が置いていった草薙剣を祀るために火高の火上山に宮簀媛が建てた社が熱田神宮の始まりで(113年)、宮簀媛が亡くなった後、宮簀媛を祀る社を建てたのが氷上姉子神社の始まり(195年)というストーリーをどこまで信じればいいだろう。
宮簀媛は年老いてきていつまでも草薙剣を自分が祀っていられないということで、占いをしたら剣を祀る場所は熱田がいいと出たのでそこで祀るようになったというのが熱田神宮創建の話として信じられている。
熱田神宮で祀られる熱田大神の正体とは何かという話を始めると長くなるのでここではしない。
氷上姉子神社で祀られているのは宮簀媛かどうかといえば、宮簀媛”も”祀られているとは思う。
ただ、宮簀媛を祀る神社として氷上姉子神社が創建されたという説には疑いを抱く。
火上山の上には館があって(宮簀媛のものとは限らない)、宮簀媛がそこにいたとしたら何かを祀っていたのだろう。それが草薙剣だったのか、別の神だったのかは分からない。宮簀媛が巫女だったとすれば、祀っていた側がいつしか祀られる側になったというパターンはけっこうあることなので、それが後に氷上姉子神社になったというのはあり得ることだ。
もし、氷上姉子神社が宮簀媛を祀る神社として創建されたというのなら、その創建者は誰か、ということになる。
宮簀媛には子供がいない。乎止与もとっくいないし建稲種も死んでいる。建稲種の息子・尻綱根(シリツナネ)は犬山の針綱神社(公式サイト)で祀られ、その子供の尾綱根(オツナネ)は天白区平針の針名神社の祭神となっている。火高の地から尾張氏は去ったのだろうか。熱田へ本拠を移し、そこから各地に散らばっていったのか。火高の里には宮簀媛だけが残ったということだろうか。
690年に氷上姉子神社は火上山から山を下りた東の現在地に移されたとされる。
690年というのは、持統天皇が即位した年だ。この意味は小さくない。持統天皇といえば、皇室の神を天照大神と定めて伊勢の神宮(公式サイト)を整え、それまでの神道を作り替えた天皇だ。『日本書紀』も、持統天皇と時の権力者であった藤原不比等の意向が色濃く反映しているといわれる。
天武天皇の発案で681年に編さんが開始されるのも、完成を見ることなく天武天皇は686年にに没している。その後を受け継いだ持統天皇が大きく内容を書きかえさせたともいう。
もしかすると、氷上姉子神社の遷座についても持統天皇による何らかの働きかけがあったのかもしれない。なにしろ日本武尊とその妃にまつわる神社だ。持統天皇にとって都合の悪いことがあれば、遷座とともに祭神を代えるなどということもあり得ない話ではない。
持統天皇は熱田の草薙剣を氷上姉子神社に移す計画を立てていたという話があり、亡くなる年(702年)に行った三河行幸の帰りに尾張に立ち寄って熱田社と氷上姉子神社に寄進したという伝承がある。それらは表立って語られることのないもので、何かを暗示している。
奇妙なことに、氷上姉子神社の祭神は両道入姫(フタジノイリヒメ)という説がある。日本武尊の妃で仲哀天皇を生んだというあの女性だ。どこをどう回って両道入姫の名前が出てきたのかは分からないのだけど、異説があるということは必ずしも氷上姉子神社の祭神が宮簀媛とは限らないということだ。
姉子が宮簀媛のこととされたのは平安時代以降という話もある。
現在の社名である氷上姉子神社の氷上は、火の字を嫌って中世以降に氷にしたというのが一般的にいわれる説だ。
ただ、平安時代の『尾張国内神名帳』には「氷上姉子天神」とあるから、平安時代には氷上の表記があったことがはっきりしている。『延喜式』(927年)では火上を「ホノカミ」と読ませている。
火上と氷上の混在は平安期に起きたことで、それ以前は”日上”だったのではないかという話もある。そうであれば信仰対象は太陽神ということになるかもしれない。宮簀媛が巫女だったとしたら、その方がしっくりくる。
火高の”ホダカ”は、海人族で”穂高”の神を信仰する安曇族も連想される。安曇族は尾張氏の同族ともいう。当時、火高のすぐ目の前は年魚市潟と呼ばれる海だった。
もともとこの地を支配していたのはよそから来た海人族で、彼らが祖神を祀る神社だったものが、のちに尾張氏の支配下に入ることになり、日本武尊と宮簀媛の物語が後付けされた、ということだったということも考えられるだろうか。
そうなるとまったく夢のない話になってしまうのだけど、一つの根拠として、近くからは4世紀末に築造されたとされる兜山古墳(東海市名和町)や齋山稲荷古墳、名和古墳群(6世紀)といった小型の古墳しか見つかっていないということがある。火高の地を尾張氏の本拠とするには痕跡が少なすぎる気がする。
現在、本殿がある場所の横には名四国道と何本もの高速道路が走っていて、境内はうるさいったらない。途切れることなくごうごうと車の走行音が聞こえてくる。
『尾張名所図会』(1844年)がいうところの
「社地広大にして、千載の古木枝をたれ、深碧を畳みて、日影を漏さず。青蘇厚く地を封じ、ものさびたるさま、さながら神徳のほども推しはかられて、いと尊くぞ覚ゆる」という頃の面影はない。
氷上姉子神社の本当の姿を知りたければ元宮へ行かなければならない。山道を5分ほど登った先に宮簀媛たちが暮らしていた屋敷があったとされる場所がある。
この空間に満ちているエネルギーは尋常なものではない。パワースポットなどという言葉が安っぽく思えるほど、この空気はただごとではない。あれを宮簀媛一人の残像思念といって片づけていいとは思えない。もっと大きな底知れない力が満ちている。
私がこの記事で呈した疑念などはほんの取るに足らない小さなもので、物語の本質はもっと複雑で深いに違いない。実際に何があったのかは分からないし、詮索するものではないのかもしれない。
ただ一つ私の中にある確かなことは、元宮の場所がすごいということだ。哀しみでもなく、喜びでもなく、厳粛というのもちょっと違う。あの場所を形容する言葉を私は持たない。
氷上姉子神社を訪れた際は、忘れずに元宮も立ち寄って欲しいと思う。
作成日 2017.5.10(最終更新日 2026.3.30)

