
春日+八劔=春日
読み方 | かすが-しゃ(へたむら) |
所在地 | 愛知郡東郷町大字春木字西前6067 地図 |
創建年 | 延暦年間(782-806年) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十三等級 |
祭神 | 武甕槌命(タケミカヅチ) 斎主命(イワイヌシ/經津主神?) 天児屋根命(アメノコヤネ) 姫大神(ヒメオオカミ) 忍穂耳尊(オシホミミ) 天照大御神(アマテラス) 素盞鳴尊(スサノオ) |
アクセス | 名鉄バス「祐福寺」より徒歩約6分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 10月3日 |
神紋 | 下り藤紋 |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 愛知県東郷町にある春木の春日社は元部田村の氏神 |
延暦年間はあり得るか?
境内にある石碑に刻まれた由緒書にはこんなことが書かれている。
当神社は平安時代初期延暦年間「約一二六〇年前」の鎮座と伝えらる。
宝永三年十二月二十一日春日大明神八剣大明神の二社を合祀し春日社として奉寄せり
天保十二年十二月二十五日本殿を再建せり
安政三年九月書日社殿を再建造営さリ
延暦年間は782から806年で、平安時代初期、もしくは奈良時代末期に創建されたという話が伝わっているようだ。
しかし、本当だろうか。
奈良の春日大社(公式サイト)は768年(神護景雲2年)に、藤原永手が香島(鹿島)から武甕槌命(タケミカヅチ)、香取から経津主命(フツヌシ)、枚岡神社から天児屋根命(アメノコヤネ)と比売神(ヒメガミ)を呼んできて平城京に祀ったのが始まりと伝わっている。
それ以前に平城京遷都の際に藤原不比等が氏神の香島神を御蓋山(みかさやま)に祀ったのが始まりという話もあるのだけど、創祀自体は更に遡るようだ。
いずれにしても、初期の春日神は藤原氏の私的な神という性格が強かっただろうから、部田村の春日社が実際、延暦年に祀られたというのであれば、藤原氏との関係を考えないといけないことになる。
ただ、ここで藤原氏が出てくるのはかなり唐突で、ちょっと違和感がある。
とはいえ、東郷町には3社も春日社があるわけだから、これはない話ではない。藤原ではなくても、春日神を奉じる一族がいたということだ。
ちなみに、名古屋は春日社があまりないのだけど、一番古いと考えられる中区大須の春日神社は、平安時代中期の948年創建とされる。あるいはそれ以前という話もあるので、尾張に古い春日社がある可能性は否定できない。
部田村の由来は?
春日社があるのは江戸時代の部田村だったところだ。
部田村について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』でこう書いている。
部田村 へた
此村に祐福寺といふ淨土宗西山派の寺あり嘉曆元年賢良上人開基といふ御黑印高四十石
裕福寺については富士浅間神社(祐福寺村)で書いたのでここでは繰り返さないけど、時代によって部田村領だったり傍示本村領だったりして、村の境界は定まらなかったようだ。
部田村の”部田(へた)”の由来については何も書いていない。
『地名語源辞典』には、「部田は「辺田」からへんかしたものといわれている。田の端や端の土地をいい、地形からこう呼ぶようになったと思われます」とあるけど、個人的にはこういう地形由来は信じていない。
こういう発想は現近代人、早くても中世以降の人間のもので、古代においてはこういった名づけ方はしない。地名というのは本来、その地区の意味だったり性格を表すもので、そこにいた人たちと不可分のものだ。地形的な特徴などではない。
ただ、辺田から転じたというのはあり得るかもしれない。この場合の”田”は田畑の田ではなく、もっと別の意味だ。
田はもともと、丸(○)に十で、”てん=天”を表す文字で、そこから来ているとすれば、天の周辺といった意味とも考えられる。
部田村はここの他にも、千葉県や滋賀県にもあったようだから、それぞれ由来は違っても、何か共通するものがあるような気がする。
部田村と寺社のこと
江戸時代の部田村について、尾張の地誌を古い順に見ていくことにする。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
家数 三拾六軒
人数 三百四人
馬 拾三疋浄土宗 寺内年貢地 祐福寺末寺 東光寺
社弐ヶ所 内 春日山神 社内六反歩 前々除 村中支配
大師堂 一宇 地内壱反三畝歩 前々除 村中 支配
駿河海道、当村之内百弐拾間、道作リ人足出ス。
御上洛・朝鮮人来朝之時、人馬出ス。
御茶壺、御通之時、人馬出ス。
家数が36軒で村人が304人なので、村の規模としては大きくない。
そのわりに馬が13疋(頭)と多いのは、道を作ったり、殿様や朝鮮からの訪問者などを出迎える役割を担っていたからのようだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると分かるのだけど、現在の県道56号線(名古屋岡崎線)は、かつての駿河街道に当たる。
駿河に隠居した家康が名古屋城と駿府を行き来するために作らせた道だ。
部田村や祐福寺村はこの通り道に当たるということで、宿場のような役割も兼ねていたのだろう。
この時代の神社は、春日と山神の2社になっている。
前々除(まえまえよけ)なので2社とも江戸時代以前からあったのは確かだ。
社人はいなくて村で管理していたらしい。
東光寺は今も春日社の南に現存している。
祐福寺の末寺ながら年貢地になっているので古い時代の創建ではなさそうだ。
大師堂は前々除なので古い。
『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しい。
東光寺 府志日、号医王山、浮土宗属祐福寺村祐福寺
覚書寺内年買地
当寺書上ニ、境内四畝二十歩御除地、此寺草創ハ天正十四丙戌ノ年ニテ、開山ハ本山祐福寺十五世朝空清光和尚也春日大明神祠、八剣大明神祠境内東西六十間南北四十間御除地、神田五畝村除、摂社秋葉権現祠山神祠東西二十五間南北十三間御除地、是ハ庄屋書上ナリ
覚書ニハ春日天神社内六反前々除、村中支配トアリ、此社府志ニモノレリ太子堂覚書ニ地内一反三畝前々除、村中支配トアリ庄屋書上ニハ村控聖徳太子堂此森一敵十歩トアリ、府志ニモアリ
村控社宮司境內十歩、庚申堂境内五歩、多賀大明神祠境内十二歩、是庄屋書上ナリ
東光寺の創建(開山)を天正14年といっている。
これは1584年なので江戸時代より前で、小牧長久手の戦いがあった年だ。
太閤検地が行われたのが1582年で、その後ということで年貢地になっただろうか。
春日社における重要な変化として、春日大明神と八剣大明神が同地にあったことだ。
この点については後述としたい。
覚書に”春日天神”とあるけど、山神の間違いではないだろうか。それとも、出版された『寛文村々覚書』の誤植だったりするのか。
これ以外に、社宮司と庚申堂と多賀大明神があったことが分かる。
これらは江戸時代になってから祀られたものだろうか。
『尾張志』(1844年)も見ておく。
春日ノ社 八剱ノ社 二社同地也末社に秋葉の社金毘羅の社あり
多賀ノ社 社宮司ノ社 山ノ神ノ社五社ともに部田むらにあり
内容は『尾張徇行記』とほとんど変わらない。
春日と八剱が同地にあると書いている。
ただ、細かいことをいえば、境内社は秋葉と金毘羅になっている。『尾張徇行記』がいう山神と金毘羅は別と思うけどどうだろう。
いつどうして八剱は祀られたのか
春日社の場所に八剱が祀られた経緯について、尾張の地誌は何も語っていない。
『愛知縣神社名鑑』も何も書いていない。
『東郷町誌 第一巻』は春日社について以下のように書いている。
勧請奉斎年暦は詳かではないが、天正以前の鎮座と伝え、天保十一年再建の棟札あり。
元祿丑十二月吉日及び享保三戌九月吉日の刻ある石燈籠あり。共に部田村寄進と刻されている。
天正元年は1573年なので、それ以前の創建はその通りだろうけど、社伝がいう延暦年間の創建ということには触れていない。
八剱社についてはわずかにこう書く。
往古春日、八劍二社を寄せるに何時の時代か、春日社として合祀したものであろう。
往古というのは非常に古い時代ということなのだけど、春日社と八剱社の合祀年代は断定的にいっていない。
神社の由緒では「宝永三年十二月二十一日春日大明神八剣大明神の二社を合祀し春日社として奉寄せり」といっているので、何らかの記録があったのだろう。
宝永3年は江戸時代中期の1706年だ。
八剱がいつ祀られたのかは分からないのだけど、wikiに興味深い記述がある。
宮司は名古屋市瑞穂区の津賀田神社の宮司が兼任しており、普段は氏子が神社を管理している。
おそらく代替わりしているだろうけど、これは野々山正彦宮司のことだろうと思う。
『愛知縣神社名鑑』を見ると、津賀田神社の他、瑞穂区の多くの神社を兼務しており、それだけでなく熱田の景清社もそうで、更に東郷町のこの春日社まで兼務していた。
ということは、部田村の八剱は熱田の八剣宮の社人が関わっている可能性が考えられる。
津賀田神社は墓田や塚田とも表記されたことからも分かるように古墳に祀られた神社で、被葬者は尾張氏の関係者と聞いている。
そこの宮司が市外の東郷町(部田村)まで兼務していたということは、関係が深いのは確かだ。代替わりした今でも続いているのだろう。
それにしても、いつ八剱が祀られたかについてはこれ以上調べがつかなかった。
古代まで遡るのか、中世あたりなのか。
その後の春日社
再び神社由緒を引用するとこうある。
天保十二年十二月二十五日本殿を再建せり
安政三年九月春日社殿を再建造営さリ
天保12年(1841年)に本殿を再建といっているのだけど、『東郷町誌 第一巻』は天保11年再建の棟札があると書いていて、どちらが正しいのか判断できない。
安政3年は1856年で、この時期は大きな地震が続いたから、その影響もあったかもしれない。
幕末のこの頃は安政5年には安政の大獄があったりで、全然”安政”などではなかった。
『愛知縣神社名鑑』は春日社について以下のように書いている。
創立は明らかでない。明治五年七月二十八日村社に列格した。
近所に鎮座の山神社二社、多賀社、社宮司社を合祀境内に祭る。同四十年十月二十六日、供進指定社となる。
昭和四十七年三月造営竣工す。
明治5年に村社となり、村にあった山神2社、多賀社、社宮司社をまとめて合祀してしまったようだ。
昭和47年の社殿造営は、境内地にあった”まむし池”を売った資金で行われた(『東郷町誌 第二巻』)。
今昔マップで確認すると、神社北東にある池がそれだろうか。
4つあったため池のうち、長池だけが今も残っている。
気になったのは八剱社の祭神の行方だ。見当たらないしどこも言及していない。
現在の祭神は武甕槌命(タケミカヅチ)、斎主命(イワイヌシ/經津主神?)、天児屋根命(アメノコヤネ)、姫大神(ヒメオオカミ)、忍穂耳尊(オシホミミ)、天照大御神(アマテラス)、素盞鳴尊(スサノオ)で、前半4神は春日社として、後半の3神はどこから来ているのか、ちょっと分かりづらい。
山神、多賀社、社宮司社のどれにも当てはまらない気がするけどどうなのか。
部田村の八剱社はもともと何の神を祀っていたのだろう。日本武尊(ヤマトタケル)ではなかったのか。素戔嗚尊だったのだろうか。
この中では忍穂耳尊が異質で、どこから紛れ込んだのか。
もし八剱社の本来の祭神が忍穂耳尊だったとすれば、熱田の八剣宮とは切り離して考えるべきかもしれない。
ただ、そうなるとテーマが大きくなりすぎるので、ここではこれ以上踏みこまないことにする。
部田村の変遷について
あらためて今昔マップの明治中頃(1888-1898年)から部田村の変遷を辿ってみる。
春日社は集落の中央北に隣接している。
樹林らしいマークが描かれているから、鎮守の杜のようになっていただろう。
上に書いたように、集落の北を東西に駿河街道が通っている。
道沿いにある卍マークはかつての太子堂(大師堂)、今の大子寺だ。
集落の東を流れるのが尾張と三河を隔てる境川で、その川沿いを農地としていた。
『尾張徇行記』は部田村についてこんなふうに書いている。
此村ハ駿河街道ノ南ニアリ、一村立ノ所ニテ小百姓ハカリ也、戸口多キ故佃力足レリ、夫故他村ノ田地ヲ承佃スル也、農業一事ヲ以テ生産トス、当村ニハ山ナシ、鳴海山ノ内平山ヲ控トシ下草ヲ刈採薪トス
小百姓ばかりながら労働力は足りていて農地が不足するので他の村に田畑を借りていたようだ。
山はないといっているので、西の丘陵地は隣の沓掛村の村域ということか。
1920年(大正9年)はまだ変化が見られない。
ずっと時代は飛んで1968-1973年(昭和43-48年)に至っても、あまり大きな変化がないのに驚く。
東の田んぼが区画整理されて、道路が整備されたくらいだ。
民家は多少増えているものの、このあたりの発展はずいぶん緩やかだったらしい。
1970年代以降も激変というほどの変化はない。
何も見えない感じ
ここまで見てきたけど、結局のところ、この神社の創建のいきさつや性格はよく分からないままだ。
見えないといえば何も見えない。
部田の集落がいつできたのかを推測することも難しい。
奈良時代末期から平安時代初期のどこかでこの神社が創建されたというのであれば、その頃に集落ができた可能性もあるだろうか。
だとすると、時代背景というか、理由というか、必然がよく分からない。
人は何故そこに住むと決めるのかといった根本的な疑問の前で立ち尽くしてしまう。
それはどういう人たちだったのか。
どうして春日神だったのか。
考えて分かることではないのだけど、何も思い浮かんでこない。
あるいは事実はもっと単純なものなのかもしれない。
現代の我々がどうしてそこに住もうと思ったのか訊ねられたら、たまたま縁があってみたいな答えになるように。
春日神を祀ったのは、先祖だからというだけのことかもしれない。
途中で熱田あたりからやってきた人間が八剱を祀ったのも何か理由はあったのだろうけど、それほど深い意味があったわけではなかったのかもしれないし。
私としては現状で示せる情報は示せたと思う。これ以上は私の役割から外れるので、ここまでとしたい。
作成日 2025.7.18