川原神社は旧県社にふさわしい立派な大社だ。だからといって、『延喜式神名帳』(927年)にある愛智郡川原神社はこの神社に違いないと決めつけるのは早い。 よく分からないというかはっきりしない神社だ。多くの人が式内社の川原神社だろうと言い、真っ向から反対しているのは『尾張国神社考』の津田正生くらいなのだけど、でもどこか皆さん釈然としない気持ちを抱えているような気がしないでもない。 津田正生も川名村の神明社は神名帳の川原神社ではないと言いつつ、その根拠を示すこともせず、別の神社を挙げるわけでもなく、いつもと違って歯切れが悪い。上中村天神という祠が寺の中にあって云々というあまり関係があるとも思えない話を持ち出してきていて、よく分からない。 『特選神名牒』(『延喜式』神名帳の注釈書)では、川名村の神明社を式内社のそれだろうとしつつ、鳴海駅八幡社を川原神社とする説に触れて、そこにある元文四年(1739年)の釣燈籠や寛政七年(1795年)の棟札などに河原神社とあるというけど、弘治天正(1570年代)の古い記録には八幡宮とあるからその説は採らないとしている。 『尾張名所図会』(1844年)では、川名の神明社が式内社の川原神社と言い切って、伊勢國度会郡川原神社と同神なるべし、としている。 『尾張志』(1844年)では、昔東北の方に大河があって、その河原にあったから川原という名前が付き、川名は『延喜式』の「鎮火祭祝詞」に出てくる川菜が転じたもので、川原神社は古くは埴山媛命を祀っていたというから、川名で埴山媛命が祭神というなら神明社が川原神社でいいのではないかというようなことを書いている。 『愛知縣神社名鑑』は、上古は東北方に連なる川原の地に鎮座したが故に川原神社となったとしている。
要点をまとめるとこうなる。 上古、つまり645年の大化の改新以前に現在地の東北に大河が流れていて、その河原にあったから川原神社という名前が付けられた。 ただしそれは、式内・川原神社のことを言っているのであって、必ずしも現・川原神社のこととは限らない。 大河の河原が現在地なのか、別の場所に創建されたものが現在地に遷座したのかは不明。 かつての川原神社は埴山姫神(ハニヤマヒメ)を祀っていたといい、伊勢國度会郡川原神社と同じ祭神だともいう。 ここでいう度会郡の川原神社は、伊勢市にあり、伊勢の神宮(内宮/web)の摂社のひとつとされている。ヤマトヒメ(倭姫)が定めた神社で、宮川の守護神とされる。現在の祭神はツクヨミ(月読尊御魂)としている。 現・川原神社は、江戸時代まで神明社と称していた。 川原神社は現在、土の神である埴山姫神(ハニヤマヒメ)、水の神である罔象女神(ミツハノメ)、太陽の神である日神(ヒノカミ)を祀っている。日神はアマテラス(天照大神)のことのようでもあり、そうしたくないようなところもあるのかもしれない。 かつてあったとされる大河は今はもうない。江戸時代にはすでになかった。 現・川原神社は、旧飯田街道沿いにある。 鳴海八幡宮を川原神社とする説があり、津田正生は現・川原神社と式内・川原神社は別と言っている。
以上を踏まえつつ、個人的な感触を言えば、現・川原神社は式内・川原神社だろうとは思いつつ、疑念が残るといったところだろうか。 大社だし、他に有力な候補となる神社はないし、ここで決まりでいいんじゃないかなという消極的な肯定といったところだ。 ひとつ気になるのは、神社の歴史にビッグネームが登場しないことだ。 1602年に松平忠吉(家康の四男で清須城主)が神領二十石を寄進したという他、尾張徳川藩2代藩主の光友が豊作祈願をしたというくらいしかエピソードがない。信長、秀吉、家康といった大物がスルーしていることに引っかかりを感じる。 中世、御器所(ごきそ)から川名にかけては佐久間氏が城を築いて支配していた土地で、その佐久間氏の名前すら出てこないのはどういうことか。
河原にあったのに土の神である埴山媛命(ハニヤマヒメ)を祀った理由もよく分からない。 『古事記』では波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)となっている他、埴山媛、埴安神とも表記される。 ハニヤマヒメには一対となる男神の埴安彦神(ハニヤスヒコ)がいる。対の場合は、ハニヤス神と呼ばれる。 火の神カグツチ(火之迦具土神)を産んで陰部に火傷をして苦しむイザナミ(伊邪那美命)の漏らした尿から生まれたのがミツハノメ(罔象女神)で、大便から生まれたのがハニヤマヒメ(埴山媛)とされる(穀物の神・和久産巣日神(ワクムスビ)もそのとき生まれている)。 埴山の「埴」は埴輪(はにわ)で知られるように赤土の粘土のことという説があり、ハニヤマヒメは陶器の神ともされる。糞から生まれたということで穀物を育てる肥料の神でもある。 もし、川原神社の本来の祭神がハニヤマヒメだったとするならば、川の守り神ではなく祭祀に使う土器を作る一族の神を祀るために建てた可能性も考えられる。 少し西の御器所は熱田社(熱田神宮/web)の神領で、神事に使う土器を焼いて献上していたのが地名の由来とされる。それはもしかすると、川名あたりの河原で採取した土を使っていて、そこにハニヤマヒメを祀る社を建てたのが川原神社だったのかもしれない。 河原にあったから川の守り神もしてもらおうということでミツハノメを後から合祀したのだろうか。 『尾張志』がいうように川名の地名が川菜から来ているのだとすると、少し話が違ってくる。 『延喜式』の鎮火祭祝詞に「この心悪しき子の心荒びるは、水、匏、埴山姫、川菜をもちて鎮めまつれ」とある。 悪しき子というのはイザナミに大やけどを負わせて死なせてしまった火の神カグツチのことで、それを鎮めるために水の神であるミツハノメと、匏(ひさご=ひょうたんやひしゃくのこと)と川菜と土の神であるハニヤマヒメを用いよという意味だ。川菜は水藻のこととされる。 現在でも火伏せの神事というのは各地にあって、この祝詞に準ずる形で行われているという。 川原神社がこの神事に深い関わりがあるとするならば、ハニヤマヒメとミツハノメを祀るのは自然なことで、川菜を採ったのがかつての大河からだったということも考えられる。 日神がアマテラスのことなのか、単なる太陽信仰なのかはなんとも言えない。江戸時代に神明社だったということは、いつしか主祭神が日神もしくはアマテラスになっていたことを示している。ただ、それは後付けのように思える。
川原神社は、「川名の弁天様」と呼ばれることが多い。境内の弁天池の中に川名弁天社がある。 弁天様は、音楽、芸術の神とされ、その御利益目当てに弁天社だけを訪れる人も多いようだ。 江戸時代までは弁才天が祀られていて、明治の神仏分離令で弁才天は近くの太平寺に移された。現在は弁才天と同一視された市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祀っている。 弁天池は亀の池として昔からよく知られていて、『尾張名所図会』の中でも弁天池と弁天社が描かれている。 現在と同じ位置に弁天池があり、小さな子供と親が池を囲んで、手に持っているのはタモか何かだろうか。池の中にいる亀を捕ろうとしているところかもしれない。 境内では町民が立ち話をしていて、桶に何かを入れて担いでいる人は行商人なのか運搬人なのか。 解説文に、「境内に藤多く、春夏の交は新樹のみどりに打懸りて、鬱々たる森林緑紫をまじふる、實(げ)に壮観の一勝地なり」とある。初夏、新緑の中に藤の花が咲いて美しい風景だったのだろう。 現在の川原神社も、巨木のクスノキやアラカシなどがあり、鎮守の杜と呼ぶにふさわしい景観となっている。
明治5年(1872年)に郷社に列格しているということは、江戸時代からすでにこのあたりの中心神社だったということだ。 昭和14年(1937年)に県社に昇格した。 昭和20年(1945年)の空襲で社殿を焼失。 昭和27年(1952年)に再建した本殿は平成4年(1992年)の火事で焼けてしまった。現在の本殿は平成10年(1998年)に建て直したものだ。 毎月3と8のつく日に朝市が開かれてにぎわうそうだ。 結婚式場としても使われている。
謎の多い神社というのではなく、なんとなくはっきりしない神社という印象がぬぐえない。 式内の川原神社かどうかは別にしても、河原にあったから川原神社とされたとして、祀っている神が土の神と水の神と日の神というのとが上手く結びつかない。欲張りすぎてかえって本質がぼやけてしまっている。そもそも、誰が何を願ってどんな神を祀ったのかという最初のところが見えないので、どういう神社なのか判断がつかない。 度会郡の川原神社と祭神が同じというのはどこから出てきた話なのか。だとすれば、月の神ツクヨミはどこへ行ってしまったのか。 個人的には好きな神社のひとつだし、いい神社だとは思うのだけど、川原神社ってどんな神社ですかと人に訊ねられたとき、どう答えていいか分からない。
作成日 2017.3.15(最終更新日 2019.3.15)
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