取り扱い不明な神
ハニヤスについてはどう扱っていいのかよく分からない。正直持て余している。 ハニヤスとハニヤマは同じなのか違うのか。 ヒコとヒメのペアなのかヒメだけなのか。 モデルとなる人物がいたのかどうかも定かではない。 物語上の概念的な存在でしかないのか、あるいは役職名や総称のようなものなのか。
『古事記』、『日本書紀』から得られる手がかりは少ない。 系譜のところで名前が出てくるだけで具体的な事績に関する記事はない。 にもかかわらず『延喜式』収録の祝詞に出てきたり、神社の祭神となっていることからすると、古代から中世にかけてある一定の存在感を持っていたことがうかがえる。 wikiの記事が充実しているので詳しくはそちらをお読みくださいといって逃げたいところなのだけど、それでは意味がないので、なんとか私なりの視点で追いかけてみることにする。
『古事記』だけがヒコとヒメ
『古事記』はカグツチのことを火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオ)とし、別名として火之炫毘古神(ヒノカガヒコ)、火之迦具土神(ヒノカグツチ)の名を挙げる。 伊邪那美神(イザナミ)が、火の神の火之夜芸速男神を生んだとき、「美蕃登炙病臥」となってしまう。 一般的な解釈としては、女陰を火傷して病になって伏せってしまったということだ。 この”ホト”というのは別の意味も掛かっているのだけど、説明するとややこしくなるのでここでは省略してしまう。 多具理(たぐり)から金山毘古神(カナヤマヒコ)、次に金山毘売神(カナヤマヒメ)が、屎(くそ)から波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコ)、 次に波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメ)が、尿(ゆまり)から弥都波能売神(ミツハノメ)、次に和久産巣日神(ワクムスヒ)が成り、ついには神避ってしまったと『古事記』はいう。 多具理は吐瀉物、屎は大便、尿は小便と解釈されるのだけど、実際にそんなことがあるはずもなく、これは象徴的な言い回しだ。 ここで注意しておくべきなのは、波邇夜須毘古神と次に波邇夜須毘売神が成ったとしている点だ。 ここでいう”次”をどう解釈するかは難しいところで、兄と妹なのか、男女で一対の神とすべきなのか。 毘古と毘売だから男女には違いないのだろうけど、弥都波能売神、次に和久産巣日神と、こちらは一対の関係になっていないことからすると、波邇夜須毘古神と次に波邇夜須毘売神をペアと決めつけるのはよくない。 ただ、いずれにしてもハニヤスは男神と女神の二人(二神)いたというのが『古事記』が伝える伝承ということをここで確認しておく。 あと、もう一つ頭に入れておきたいのは、波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神を生んだのは伊邪那美神だということだ。 伊邪那岐神と伊邪那美神が共同で生んだとはせず、伊邪那美神が単独で生んだ格好になっている。 つまり、もし波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神が実在の人物であればイザナミ系の人物だったことになる。
『日本書紀』にはハニヤマとハニヤスが出てくる
『日本書紀』の神生みは第五段に書かれているのだけど、本文にはハニヤスについての記述はなく、一書の中で出てくる。 一書第二は、伊弉冉尊(イザナミ)が火神の軻遇突智(カグツチ)を生んで焦げて死んでしまう間際に土神の埴山姫(ハニヤマヒメ)と水神の罔象女(ミツハノメ)が生まれたといっている。 そして、軻遇突智は埴山姫を娶って稚産靈(ワクムスビ)が生まれ、この稚産靈の体から蚕や桑、五穀が生まれたとする。 これはかなり変わった独自の伝承で、これに類する話は他のどこにも書かれていない。 ハニヤスとハニヤマを同一と考えていいのかという問題はとりあえず置いておいて、ハニヤマは女神として単独で生まれ、カグツチと婚姻してワクムスビが生まれたというのは、なかなか考えさせる内容だ。 同じ母から生まれた兄と妹が婚姻したということであり、生まれてすぐにカグツチは伊弉諾尊(イザナギ)に斬られていないということにもなる。 これが本当だとすると、『古事記』がいう波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神は夫婦神ではないということになる。 いや、そもそもハニヤスとハニヤマは別の存在ではないのかという疑問を抱く。 あるいは、波邇夜須毘古神が父で、波邇夜須毘売神はその子ということもあり得るのか。
一書第三は伊弉冉尊が火産靈(ホムスビ)を生んで死ぬとき水神の罔象女と土神の埴山姫が生まれたと、ここでも埴山姫は単独の女神とされている。 生まれた順番の違いが少し気になるところではあるのだけど、その次に天吉葛(アマノヨサヅラ)が生まれたというのは独自の伝承だ。 天吉葛は阿摩能與佐圖羅(アマノヨサヅラ)または與曾豆羅 (ヨソヅラ)というという注が入っているので、吉葛(ヨサヅラ)という名前ということが分かる。 天を冠しているということは天の一族に関係が深いのだろうけど、天吉葛については何者かよく分からない。 京都丹後一宮の籠神社(このじんじゃ/web)は古くは匏宮(よさのみや)と称しており、吉佐宮などとも表記していて、この”ヨサ”と関係があるかもしれない。 そもそも軻遇突智は尾張氏の本家筋の人間なので、丹後や海部氏とゆかりが深いのは当然といえば当然か。
一書第四は、伊弉冉尊が火神の軻遇突智を生んで苦しんでいるとき(悶熱懊悩)、吐いたものから金山彦が生まれ、小便から罔象女が成り、大便から埴山媛が化成したといっている。 顔ぶれは同じながら吐瀉物、大便、小便と、直接的な言い回しになっている。
一書第六はまた全然違っていて、伊弉諾尊と伊弉冉尊が共に大八洲国を生んだ後、霧に包まれていたのを伊弉諾尊が息で吹き消したときに風神の級長戸邊命(シナトベまたは級長津彦命)が生まれ、飢えているときに倉稻魂命(ウカノミタマ)が生まれたとし、続いて海神の少童命(ワタツミ)、山神の山祇(ヤマツミ)、水門神の速秋津日命(ハヤアキツヒ)、木神の句句廼馳(ククノチ)、土神の埴安神が生まれたと書いている。 ニュアンスとしては、伊弉諾尊が単独で生んだように受け取れる。 その土神が埴山姫ではなく埴安神となれば、ハニヤマとハニヤスはやはり別なのではないかと思える。 ハニ-ヤス(ハニ-ヤ-ス)と、ハニ-ヤマ(ハニ-ヤ-マ)を同じとするのはちょっと無理がある気がする。
これら『古事記』、『日本書紀』の記事を受けて『先代旧事本紀』が出した答えが面白い。
両方を立てておかしなことに
『先代旧事本紀』は「陰陽本紀」の中で『日本書紀』と『古事記』の合わせ技をやっている。 伊奘諾尊と伊弉冉尊が国生みを終えた後、最初に生まれた神を大事忍男神(オオコトオシオ)とする『古事記』の伝承を取り入れつつ途中から『日本書紀』の一書が伝える伝承につなげている。 伊奘諾尊が朝霧を吹き消したときに級長津彦命が生まれたというのは『日本書紀』の一書第六から採っている。 ちょっとした違いとしては『日本書紀』は級長津彦命を級長戸辺命の別名とするのに対して『先代旧事本紀』は 最初に級長津彦命が生まれて次に級長戸辺神が生まれたとしている。 この流れの中で土神の埴山姫神、または埴安姫神が生まれたといっている。 これも『日本書紀』一書第六からなのだけど、埴安姫を埴山姫の別名として同一視している。 折衷案というか、やや強引にも感じられる。 というのも、伊弉冉尊が火産霊迦具突智(火焼男命神/火々焼炭神)を生んで焼けて死ぬ前にもう一度埴安が出てきてしまっているのだ。 ここでは大便から埴安彦と埴安姫が成ったと書いている。 この部分は『古事記』を採用しているのだけど、違う場面で埴安姫が二度生まれるのはおかしい。 最初に生まれた埴安姫(埴山姫)と後から生まれた埴安姫は別という可能性もあるのか。 そもそも土神と大便(屎)神が同じというのも変な話で、大便から土を連想することはできなくもないけど飛躍が過ぎる。耕作する土地に大便を肥料として使ったから土の神であり農業の神でもあるというのもかなり強引なこじつけだ。 あと、男神の埴安彦とは何者かという問題もある。
疑問点を整理してみる
ちょっと混乱してきたので、一度ここで整理してみたい。 まずハニヤスは一体何人いるのか? ということがある。 ハニヤスとハニヤマは同じなのか別なのか? ヒコとヒメの関係はどうなのか? 記紀その他が事績について何も書いていないので推測しようにも手がかりがなくて行き詰まる。 ハニヤスまたはハニヤマの後裔や系譜についての情報もない。 『新撰姓氏録』(815年)にもハニヤス/ハニヤマ関係氏族は見当たらない。 では、ハニヤス、ハニヤマという名前から推測できることは何だろうということだ。
ハニは埴輪のハニに通じるとすれば粘土を神格化したのではないかという考えがある。 埴はきめ細かい赤土で、埴輪や陶器などの材料に使われた。 ただ、実用的というだけで埴が選ばれたとも思えず、埴は特別な意味を持った土だったのではないかと思う。 しかし、埴から埴安/埴山という名が付けられたのではなく逆なのかもしれない。 埴安/埴山という存在(人物)から特定の土を埴と呼ぶようになったとも考えられる。 たとえるなら商品名が類似品の総称として定着するようなものだ(ホッチキスやシャチハタのように)。 『古事記』では波邇という字を当てているから、埴安イコール粘土の埴と決めつけるのはよくない。 問題はハニに続く”ヤス”と”ヤマ”だ。
『日本書紀』は一書の第二、第三、第四で伊弉冉尊が単独で埴山姫(埴山媛)のみを生んだとし、第六では伊弉諾尊から埴安神が生まれたとする。 第六の伝承が混乱の要因なのだけど、『古事記』がいう波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神が混乱に拍車を掛ける。 順番でいうと、埴安神が先で、埴山姫が後ということになるのだけど、ここで一つ気づくのは、埴安(波邇夜須)は”神”であり、埴山は”姫”だということだ。 埴山姫に神はついていない。
山と安という字の意味から考えると間違った方向へ行ってしまうから山と安はいったん忘れて、ヤマ、ヤスで考えないといけない。 おそらく、ヤ-マ、ヤ-スだろうけど、それが何を意味するのかは思いつかなかった。 少なくとも”マ”と”ス”が同一だとは考えいにくく、どこかで伝承の混乱というか混在が起きてしまったのではないだろうか。 現代でも名前が一文字違えば他人なわけで、それは古代でも同じだっただろう。 ただ、語感が似ている言葉(字)に関しては同一または共通という可能性はある。 たとえば、土師氏(ハジウジ)という古代一族がいたけど、この”ハジ”は”ハニ”と同源かもしれない。 『日本書紀』が伝えるところによると、垂仁天皇の皇后だった日葉酢媛命(ヒバスヒメ)が亡くなった時に、それまで行っていた殉死(じゅんし)をやめるとしたのだけど、野見宿禰(ノミノスクネ)が埴輪を代わりにすることを提案してそれを喜んだ垂仁天皇が野見宿禰に土師(ハジ)の姓(かばね)を与えたという。 これは伝承というかお話ではあるのだけど、何らかの事実を反映しているように思える。 野見宿禰は天穂日命(アメノホヒ)の後裔と伝わる伝説上の人物で、天穂日命といえば出雲国造の祖であり、出雲は尾張から出ている(雲から出たから出雲)ことを考えるとハニヤマ(ハニヤス)も遠く尾張に起源を持つといえそうだ。 日葉酢媛命は丹波国(たには)から呼ばれたともされ、丹波(丹後)といえば海部氏の土地だ。
羽生も埴語源
少し脱線するけど、羽生についても少し書いておく。 フィギュアスケートの羽生結弦選手や将棋の羽生善治九段で知られる羽生は埴生由来の可能性が高い。 埴生と書いて「はにう」と読み、それが羽生に変化していったといわれる。 現在は「はにゅう」と読む場合と「はぶ」と読ませる場合があるけど、どちらも語源としては共通している。 埴が生まれる土地だったり、埴から生まれる土器などのことで、上にも書いたように埴安・埴山から発しているのではないかと思う。
火伏の神としての性格付け
『延喜式』(927年)に載っている鎮火祭(ほしづめのまつり)の祝詞(のりと)の中で埴山姫が出てくる。 伊佐奈美乃命(イザナミ)が火神の火結神(ホムスビ)を生んで御保止(みほと)を焼かれて死んでしまうとき、心悪しき神を生み置いてきてしまったことが気がかりで水神・匏・川菜・埴山姫の四種の物を生み、この四神をもって心悪しき神を鎮め奉るようにと言い置いたといった内容だ。 匏は「ひさご」でひょうたんのこととされ、川菜は水苔のこととされる。 水神が匏で、埴山姫が川菜をもって鎮めろといっている。 どうして火結神が悪神とされ、何故それを鎮めるのが匏と川菜だったのかはよく分からない。 水神はともかく、ここで埴山姫が選ばれているのも不思議だ。土で火を消せということか。 いずれにしてもこれは象徴的にそう表現しているだけで、実際は水神・匏・川菜・埴山姫はそれぞれ人もしくは勢力を暗示しているのだろう。 火結神が迦具土(カグツチ)のこととすると、『日本書紀』の一書第二の伝承とは相容れない。 『日本書紀』では軻遇突智は埴山姫を娶って稚産靈が生まれといっている。 婚姻も一種の鎮めと考えれば、広い意味では矛盾しないのかもしれないけど。
上の話でいうと、名古屋市昭和区の川原神社がそのあたりに関係していそうだ。 『延喜式』神名帳の愛智郡 川原神社の論社とされ、日神、埴山姫神、罔象女神を祀るこの神社があるのは川名と呼ばれるところで、川名は川奈から来ているという話がある。かつてここは川名村と呼ばれていた。 古くは近くに大河が流れていたとされ、そこで採れた水苔を使って鎮火の祀りを行っていたことが神社の起源とするならば、埴山姫神と罔象女神を祀るのは自然なことだ。 中世は神明社と呼ばれていたので日神は後付けだろうと思う。
埴安と埴山はやはり別
ここまで見てきて、埴山姫の姿がぼんやり浮かんできたように思うけどどうだろう。 埴山姫は概念だけの存在ではなく人だろうけど個人名ではない。”ハニ”に関係する巫女のような存在とすれば当たらずといえども遠からずといったところだろうか。 ハニヤスは神が付くことからも、埴山姫とは別と考えたい。 もう少し広い意味での”ハニ”の神ということかもしれない。 ハニヤスヒコに関してはあまり実在感がないような気がする。
信仰対象としての埴安・埴山
神ならざる者が神となり、神は時代が進むにつれて拡大解釈されていった。 埴山、埴安でいえば屎の神、土神、粘土の神、埴輪の神、陶器の神といった具合だ。 土は作物を育てるものであり、大地そのものと考えれば埴安・埴山は地の神といういい方もできる。
『古事記』、『日本書紀』以前に埴安・埴山信仰があったかどうかは分からない。 ただ、『延喜式』神名帳(927年)に載る古社が埴安・埴山神を祀るとしていることからすると、起源はけっこう古いのかもしれない。 近世以降に埴山・埴安神を祭神としたところもあるようだけど、何の根拠もなく埴山・埴安神を持ち出してくるとも思えず、言い伝えなり記録なりがあって、埴山・埴安神を祀るとしたのだろう。
埴山・埴安神を祀る神社の傾向はちょっとよく分からない。全国に点在していて、ここが本拠地といえるようなところはない。 ただ、埴山姫を祀っているところと埴安神を祀っているところがあって、それを同じルーツと考えると違うような気がする。
埴山姫神を祀るところとしては、福島県耶麻郡の磐椅神社(いわはしじんじゃ/web)、群馬県高崎市の榛名神社(はるなじんじゃ/web)、徳島県美馬市の波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)、滋賀県高島市の波爾布神社(はにふじんじゃ)、新潟県新潟市の蒲原神社(かんばらじんじゃ/web)などがあり、これらはいずれも『延喜式』神名帳に載る式内社だ。 京都府京都市の愛宕神社(あたごじんじゃ/web)も祭神の中の一柱として埴山姫神が祀られている。
埴安神系としては、埴安神の他、埴安姫神という祭神名で祀っているところも少なくない。どちらかというと埴安の方が多数派だ。 以下の神社もほとんどが延喜式内社となっている。 新潟県佐渡市の越敷神社(おしきじんじゃ)、新潟県南蒲原郡の土生田神社(はにうだじんじゃ/web)、島根県大田市の迩幣姫神社(にべひめじんじゃ)、愛知県豊田市の灰寶神社(はいほじんじゃ)、徳島県三好市の馬岡新田神社(うまおかにったじんじゃ)、奈良県橿原市の畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ/web)、静岡県島田市の大井神社(おおいじんじゃ/web)、兵庫県美方郡の多他神社(ただじんじゃ)、三重県松阪市の宇留布津神社(うるふつじんじゃ)、茨城県北相馬郡の蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)などがこれに当たる。
”姫”とはせず、埴安神として祀っているのが愛知県蒲郡市の形原神社(かたのはらじんじゃ/web)、兵庫県豊岡市の手谷神社(てだにじんじゃ)、新潟県三条市の伊久礼神社(いくれじんじゃ)、三重県多気郡の鳥墓神社(とつかじんじゃ)、長野県長野市の小内神社(おうちじんじゃ)などだ。
姫と彦を一対で祀っているとこは意外に少なく、京都府京都市の賀茂波爾神社(かもはにじんじゃ)などしかない。 福井県三方上中郡の波古神社(はこじんじゃ)のように波邇夜須毘古命(埴安彦)のみを祀る珍しいところもある。
以上から見えてくる傾向としては、埴安・埴山姫神を祀る神社は古く、信仰そのものが古いように感じられる。 中世以降はそれがだいぶ廃れてしまったのではないだろうか。 結果、埴安・埴山神の本来の姿が伝わらずに薄れていってしまったように思う。 土の神というのであれば、水の神と同じくらい重視されてもよさそうなのにそんなふうではない。 農耕に携わる人たちが揃って埴安・埴山神を祀った様子はない。 陶器の神といえば埴安・埴山神かといえば、そこまで浸透していない。 他の土の神に、埿土煮尊(ウイジニ)・沙土煮尊(スイジニ)がいるけど、これは泥と砂を象徴しているので粘土の埴とはまた別だ。
見えない実体
結論としては、埴安・埴山神はよく分からない神ということになる。 特定の氏族が祖として祀っていればもう少し輪郭が見えただろうにそれもない。 それでも、物語上の観念だけの存在とはしたくない思いもある。 埴安・埴山神の元になった人物がいたのではないか。 もしいたとしたら、イザナミに近い人であり、カグツチの関係者だろうから、尾張にゆかりのある人物ということになると思うのだけどどうだろう。
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